梅沢富美男の生い立ち|8人兄弟の家族と若い頃、女形「下町の玉三郎」で知られるまで

梅沢富美男さんの生い立ちと若い頃の女形への歩みを、肖像と大衆演劇の扇・舞台モチーフで示したビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
うめざわとみお
カテゴリー
男性俳優
出身地
福島県
生年月日
1950年11月9日
芸能活動開始
1952年
俳優デビュー
1952年
デビューのきっかけ
子役

テレビでは歯に衣着せぬコメントでも知られる梅沢富美男さんですが、その原点は大衆演劇の旅一座にあります。

しかも、役者一家に生まれてそのまま順調に舞台人生を歩んだわけではありません。

1歳代で舞台に立ったあと、義務教育のため家族と離れ、福島で暮らした少年時代には教科書や給食費にも困る時期がありました。

中学では野球に熱中し、将来はプロ野球選手になりたいと考えていた時期もあります。

そこから15歳で思いがけず舞台へ戻り、三枚目役を経て、やがて「下町の玉三郎」と呼ばれる女形へと進んでいきました。

今回は、そんな梅沢富美男さんの生い立ちや家族、学生時代、15歳で役者へ戻ったきっかけ、若い頃に女形で知られるようになるまでをご紹介します。

梅沢富美男の生い立ち|旅役者一家に生まれ1歳代で初舞台

梅沢富美男さんは1950年11月9日、福島県福島市に生まれました。

生まれたときから、父と母は大衆演劇の一座とともに各地を巡っており、幼い富美男さんにとって舞台は特別な場所ではなく生活の一部でした。

福島市の祖母宅で8人兄弟の5男として誕生

富美男さんは8人兄弟の5男として、福島市にあった祖母の家で誕生しました。

父は大衆演劇の役者として一座を率いた梅沢清さん、母は竹沢龍千代さんで、兄弟たちも舞台と深く関わる家庭でした。

父・清さんの一座は各地を巡業していたため、富美男さんも幼いころから両親や座員たちと一緒に旅をする生活を送っています。

後にテレビで広く知られるようになった「梅沢富美男」は芸名で、学校などでは本名の池田富美男として生活していました。

おしめ姿で花道へ|一座の看板子役になった幼少期

富美男さんが舞台に立つようになったのは、まだ物心も十分についていない1歳代のことでした。

劇団史には、開演前に流れていた「伊那の勘太郎」に合わせ、おしめ姿のまま花道へ出て踊ったという幼少期のエピソードが残されています。

それを見た母・龍千代さんが翌日には旅姿をさせて舞台へ出したところ客席に喜ばれ、父・清さんも富美男さんを生かした演目を組むようになりました。

幼児だった富美男さんは、一座の子役として舞台に立つようになったのです。

初舞台の月齢には公式情報内でも表記差があります。公式プロフィールでは「1歳7か月」、劇団史では「1歳5か月」とされているため、この記事では確実に共通する「1歳代」としています。

幼いころには長いせりふも覚え、舞台でおひねりを受けるほど人気を集めていたと劇団史に記録されています。

しかし、子役として舞台に立ち続けた生活は、小学校へ上がる時期にいったん終わることになります。

梅沢富美男の家族|父・梅沢清と母・竹沢龍千代、兄・武生

梅沢富美男さんが役者になった背景を知るうえで、家族の存在は欠かせません。

父と母だけでなく、後に劇団を率いた兄・武生さんも、少年時代から女形になるまで何度も富美男さんの進路に関わっています。

父は大衆演劇の花形役者、母は娘歌舞伎出身

父・梅沢清さんは、若いころに旅回りの劇団へ入り、二枚目役者として頭角を現した人物です。

その後は自身の劇団を率い、梅沢家の大衆演劇の土台を作りました。

母・竹沢龍千代さんは娘歌舞伎出身で、踊りや舞台の所作を身につけていた女性でした。

「梅沢富美男 歌舞伎」とも検索されていますが、梅沢富美男さん本人の主な舞台は歌舞伎ではなく大衆演劇です。母・龍千代さんが娘歌舞伎出身で、その芸が後の女形にも関わっています。

富美男さんが20代になって女形へ挑戦した際には、この母から舞や仕草を教わることになります。

兄・武生が後に役者人生を何度も動かす存在に

兄の梅沢武生さんも幼いころから舞台に立ち、父から劇団を受け継いで二代目座長となりました。

子役時代には弟の富美男さんの方がせりふを早く覚え、武生さんが父から「分からないところは富美男に聞け」と言われることもあったといいます。

その兄は後に、生活が苦しくなった富美男さんを福島から引き取り、15歳では劇団へ戻るきっかけを作り、20代には女形を任せることになります。

少年期から女形への転機まで、武生さんは富美男さんの役者人生で何度も重要な場面に登場しました。

武生さんが亡くなった後の2023年には、富美男さんが兄の形見の着物を身につけた姿を自身の公式Xで公開しています。

義務教育のため両親と離れ福島の祖母宅へ

子役として一座で過ごしていた富美男さんですが、両親は子どもたちに義務教育を受けさせることを考えていました。

1957年、小学校へ入る時期になると一座を離れ、出生地でもある福島市の祖母宅へ預けられます。

入学したのは福島第二小学校でした。

一座の楽屋で大人たちに囲まれて育ったため、学校で習う前から簡単な読み書きや計算を覚えており、入学したころは授業を退屈に感じることもあったようです。

この時点の祖母宅は「舟場御殿」と呼ばれるほど大きな家で、生活にも余裕がありました。

ところが、大衆演劇を取り巻く環境が変わると、その暮らしも大きく変化していきます。

福島から前橋へ|貧しい少年時代と野球選手の夢

1950年代後半から映画やテレビが広がり、各地を巡る大衆演劇の興行は厳しさを増していきました。

梅沢劇団から祖母宅への仕送りも滞るようになり、富美男さんの学校生活にも影響が出始めます。

福島第二小学校|教科書や給食費にも困った時期

劇団史では、小学校3年生ごろになると教科書を買えず、給食費も払えない状態になっていたとされています。

富美男さん自身も後年、親からの仕送りが滞り、鉛筆やノート、教科書を用意できないことがあったと話しています。

学校での姓は、本名の「池田」でした。

「お昼の5分くらい前になると『池田』って声をかけて目配せしてくれた。」

出典:WANI BOOKS Newsクランチ!「クイズ番組・ドッキリNGの梅沢富美男が『プレバト!!』に出た理由」(2023年5月20日)

中学校の先生は給食を食べられない富美男さんへ声をかけ、給食の時間だけ教室の外へ出られるようにしてくれたそうです。

同じインタビューでは、富美男さん自身が「中学しか出ていない」とも話しています。

そのため、ネット上で見かける未確認の高校情報を経歴として加えるより、本人が語っている中学までの学歴を基準に見るのが自然です。

兄に引き取られて前橋へ|中学では野球部のレギュラー

1961年春、福島公演で祖母宅を訪れた武生さんは、弟の生活ぶりを目にします。

劇団史には、髪は伸び、服は傷み、靴も十分ではなかった富美男さんを見た武生さんが、自分が面倒を見ると両親へ申し出たことが記されています。

その後、富美男さんは姉たちとともに、劇団の本拠地があった群馬県前橋市へ移りました。

前橋では欲しかった野球道具を買ってもらい、中学では野球部へ入部します。

野球部ではレギュラーになり、このころ本気で考えていた将来は役者ではなくプロ野球選手でした。

舞台で天才子役と呼ばれた過去がありながら、中学生になった富美男さんの関心はすっかり野球へ向いていたのです。

そんな野球少年が、もう一度舞台へ戻るきっかけになったのは、中学卒業を控えたころの兄からの誘いでした。

15歳で役者へ戻る|突然の代役から「再デビュー」

梅沢富美男さんの場合、最初の舞台は1歳代なので、15歳を「初デビュー」とするのは正確ではありません。

公式の劇団史でも、この出来事は「15歳での再デビュー」と整理されています。

芸能活動の始まりは1歳代の子役時代、本格的に職業役者として歩き始めるのは15歳です。梅沢富美男さんでは、この2つを分けて考える必要があります。

ハンバーグを食べたくて兄のいる東京へ

前橋で暮らしていた中学2年生のころ、富美男さんは高崎市内のレストランで、隣の客に運ばれてきた見慣れない料理を目にしました。

後にそれがハンバーグステーキだと知り、「いつか食べてみたい」と思っていたそうです。

中学卒業が近づいたころ、東京にいた武生さんから遊びに来るよう声をかけられると、富美男さんは上野へ向かいました。

そこで兄に食べたいものを聞かれ、選んだのが憧れていたハンバーグでした。

食事を終えた富美男さんは、そのまま兄が率いる劇団の楽屋へ遊びに行きます。

この時点では、舞台へ復帰するつもりで出かけたわけではありませんでした。

訛りを笑われた舞台で「役者ってすごい」と感じる

楽屋で過ごしていたところ、出演するはずだった役者が急病になり、武生さんから突然代役を命じられます。

与えられたのは、笑いを取る三枚目の役でした。

教えられたせりふを舞台で口にすると、客席が一気に沸きました。

福島や群馬で暮らしたことで言葉に訛りが混ざり、それがお客さんにはおかしく聞こえたのですが、本人は自分の芝居で観客が沸いたと思ったのです。

「1人の人間が100人の人を感動させられる」

出典:テレ朝POST「梅沢富美男は『夢芝居』を歌いたくなかった?! 大ヒット曲の誕生秘話を明かす」(2017年4月9日)

客席の笑いを喝采だと思ったことが、15歳の富美男さんを再び役者の道へ向かわせました。

もう一度あの反応を味わいたくなり、翌日も、その次の日も舞台へ出ます。

結局、前橋へ戻ることはなく、そのまま武生さんの劇団で本格的な役者生活が始まりました。

三枚目で人気になる一方、役者として壁にぶつかる

再デビュー後の富美男さんは、三枚目役で客席を沸かせる役者になっていきました。

武生さんも弟の持ち味を生かし、流行を取り入れた笑いの場面を次々と舞台へ加えていきます。

ところが人気が定着すると、富美男さんが真面目な二枚目役を演じても、お客さんは登場しただけで笑うようになりました。

二枚目を演じれば「もっと面白いことをしろ」と声が飛び、結局は三枚目に徹するようになります。

男役だけでなく、おばあさんや田舎娘、動物の役までこなしながら数年が過ぎました。

舞台では受けているのに、自分がやりたい役の幅は広がらないという状態でした。

三枚目として人気が出たことが、逆に役者として最初の行き詰まりになったのです。

梅沢富美男の若い頃|石ノ森章太郎との出会いから女形へ

若い頃の梅沢富美男さんを大きく変えた人物の一人が、漫画家の石ノ森章太郎さんです。

舞台で伸び悩んでいた20代半ば、役者を辞めようと考えた富美男さんは、以前からかわいがってもらっていた石ノ森さんへその考えを伝えました。

役者を辞めようとした20代

富美男さんは15歳から約10年間舞台を続け、芝居にも自信を持つようになっていました。

一方で、小さな劇場で芝居を続けていても広く名前を知ってもらえないという思いを抱えるようになります。

24、25歳ごろには、まだ別の仕事へ移れる年齢だと考え、役者を辞めることまで決めて石ノ森さんへ相談しました。

「“壁”ですかね」

出典:TOKYO FM「梅沢富美男『「お前みたいな役者に“壁”はない」と…』役者を辞めることを引き止めた恩師・石ノ森章太郎の言葉とは?」(2023年1月16日)

辞めたい理由をそう表現した富美男さんに対し、石ノ森さんは、世間に広く知られていない段階で自分から「壁」を作るのは早いという趣旨の言葉を返しました。

その言葉を受け、富美男さんはもう一度役者を続けることを決めます。

そして、その約半年後に石ノ森さんが持ってきた一枚のレコードが、別の転機を連れてきました。

「矢切の渡し」で初めて本格的な女形に挑戦

石ノ森さんが持参したのは、ちあきなおみさんの「矢切の渡し」のレコードでした。

今度観に行くからこの曲を踊ってほしいと頼まれ、富美男さんはレコードを武生さんのところへ持っていきます。

曲は男女2人で踊る相舞踊だったため、武生さんは弟へ女役を担当するよう命じました。

それまで立役を中心にしていた富美男さんに、本格的な女形の経験はありませんでした。

本人は乗り気ではなかったものの、石ノ森さんと約束していたため挑戦することになります。

役者を辞めようとしていた20代半ばに、それまで避けていた女形を演じることになったのでした。

母から踊りを学び「下町の玉三郎」と呼ばれるスターへ

女形を演じることが決まると、富美男さんは女性の歩き方や立ち居振る舞いを見るようになりました。

銭湯から出てくる女性を観察していたところ、不審者と間違われて警察へ連れていかれ、武生さんに迎えに来てもらったこともあったと本人が明かしています。

さらに、娘歌舞伎出身の母・龍千代さんから舞や仕草を教わりました。

化粧だけで女性らしく見せるのではなく、歩き方、手の動き、姿勢まで身につけていきます。

富美男さん本人も、若い頃に女形を研究していたことと、母から所作を徹底的に教わったことを公式Xで振り返っています。

「矢切の渡し」を女形で踊った舞台では、いつもの観客にも富美男さんだと気づかれず、新しい役者が出てきたと思われたほど反応が変わったそうです。

その舞台をきっかけに取材も増え、当時人気を集めていた歌舞伎俳優・坂東玉三郎さんになぞらえて、「下町の玉三郎」と呼ばれるようになりました。

三枚目役では登場しただけで笑われていた役者が、同じ舞台で女形として別人と思われるほど姿を変えたことになります。

梅沢富美男さんの「若い頃」や「女形」を調べるとき、この20代半ばの出来事が大きな分岐点です。

舞台からテレビへ|1982年の転機と「夢芝居」

女形として大衆演劇の世界で名前を知られるようになった後、1982年には活動の場が舞台の外へ広がります。

この年にはテレビドラマへの初出演と、歌手としての代表曲となる「夢芝居」が重なりました。

『淋しいのはお前だけじゃない』でテレビ初登場

梅沢富美男さんが初めてテレビドラマへ出演した作品は、1982年にTBSで放送された『淋しいのはお前だけじゃない』です。

TBSの作品紹介でも、このドラマが富美男さんのテレビ初登場とされています。

演じたのは旅役者の竹沢市太郎で、全13話の作品に毎回客演しました。

ただし、これは俳優として初めて演技をした作品ではありません。

舞台俳優としては15歳から長い経験を積んでおり、1982年は「テレビ俳優としての初登場」と位置づけるのが正確です。

子役時代まで含めれば、演技歴はさらに前から始まっています。

「夢芝居」のヒットで舞台の外にも名前が広がる

同じ1982年、富美男さんは歌手として「夢芝居」を発表しました。

作詞・作曲を手がけたのは小椋佳さんで、楽曲はヒットし、梅沢富美男という名前が大衆演劇を知らない層にも広がっていきます。

1983年には「夢芝居」で第34回NHK紅白歌合戦にも出場しました。

女形で築いた舞台での知名度に、テレビドラマと「夢芝居」が加わったのが1982年前後でした。

「夢芝居」はその後も梅沢富美男さんを代表する一曲となり、2019年には日本武道館で「夢芝居 -New Version」を披露しています。

舞台とは違う場所で知られるようになってからも、「夢芝居」と女形は梅沢富美男さんの経歴を語るときに残る大きな仕事となりました。

2012年に梅沢富美男劇団の座長へ|兄から一座を引き継ぐ

全国へ名前が広がった後も、梅沢富美男さんの経歴の中心には大衆演劇の舞台がありました。

そして2012年、長く劇団を率いてきた兄・武生さんから一座を引き継ぎます。

父から兄、兄から富美男へ受け継がれた劇団

梅沢家の劇団は、父・清さんが築き、その後は兄・武生さんが二代目座長として支えてきました。

富美男さんにとって武生さんは、貧しかった少年時代に福島から前橋へ引き取り、15歳で再び舞台へ立たせ、女形を任せた兄でもあります。

その武生さんから2012年に劇団を引き継ぎ、梅沢富美男劇団の座長となりました。

脚本や演出、振付も手がけながら、自身が育った大衆演劇の一座を率いる立場へ移ったことになります。

1歳代で舞台に上がった一座を離れ、15歳で戻り、その劇団を自ら引き継いだのは2012年のことでした。