PROFILE
人物プロフィール
津川雅彦さんは、父も母も俳優、兄も俳優、祖父は「日本映画の父」と呼ばれた映画監督という家庭に生まれました。
5歳のころにはすでに映画へ出演しており、後の経歴だけを見ると、幼いころから俳優になる道が決まっていたようにも見えます。
ところが本人が少年時代に目指していたのは、俳優ではなく新聞記者でした。
周囲に役者が多かったからこそ、むしろ自分は役者になりたくないと考えた時期もあったと、後年になって本人自身が明かしています。
それでも16歳だった1956年、日活映画『狂った果実』への出演話が舞い込み、津川雅彦さんの進路は大きく変わりました。
その後は長い俳優生活を送り、映画監督としては「マキノ雅彦」の名も使用しました。
2018年8月4日、津川雅彦さんは心不全のため78歳で亡くなっています。
今回は、そんな津川雅彦さんの生い立ちや家族、学生時代、子役から『狂った果実』で本格的に俳優として歩み始め、悪役へ役幅を広げるまでの道のりをご紹介します。
津川雅彦の生い立ち|京都の映画一家で5歳から子役に
津川雅彦さんは1940年1月2日、京都で生まれました。
本名は加藤雅彦で、4人きょうだいの次男として育っています。
生まれた家庭は日本映画とのつながりが非常に深く、幼いころから撮影所や俳優という仕事が身近にある環境でした。
1940年に京都で生まれ、本名は加藤雅彦
父は俳優の沢村国太郎さん、母は女優のマキノ智子さんです。
兄の長門裕之さんも後に俳優となり、親族にも映画監督や俳優が何人もいました。
ただし、こうした家族構成だけで津川雅彦さんの進路が決まったわけではありません。
幼いころに映画へ出る機会はありましたが、自分から俳優を将来の職業として選ぶのは、もう少し後のことでした。
5歳で『狐の呉れた赤ん坊』に出演
最初期の映画出演は5歳のころで、1945年の大映映画『狐の呉れた赤ん坊』に出演しています。
その後も『獅子の座』『夜明け前』『山椒太夫』などに出演し、少年期までに複数の映画で演技を経験しました。
つまり津川雅彦さんの場合、演技そのものを始めた時期は、本格的に俳優として歩き始めた1956年よりかなり早かったことになります。
津川雅彦さんは5歳ですでに映画へ出演していますが、本人が進路として俳優を選び、本格的なキャリアが始まる大きな節目は16歳の『狂った果実』でした。
子役として現場を経験していた一方で、成長した津川雅彦さんの関心は、映画の外へ向かっていきます。
津川雅彦の家族|父・沢村国太郎、母・マキノ智子、兄・長門裕之
津川雅彦さんの生い立ちをたどるうえで、家族と映画を切り離すことはできません。
父母だけでなく祖父や叔父、叔母にも映画界で活動した人物がおり、その中でも祖父と兄の存在については、津川雅彦さん自身が後年に強い言葉を残しています。
祖父・牧野省三まで続く映画一家で育った
母・マキノ智子さんの父は、映画監督・映画製作者の牧野省三さんです。
父方には俳優の加東大介さんや沢村貞子さん、母方には映画監督のマキノ雅弘さんがおり、津川雅彦さんは文字どおり映画人の多い一族で育ちました。
祖父の牧野省三さんは津川雅彦さんが生まれる前に亡くなっているため、本人に直接の記憶はありません。
それでも祖父の存在は、後年まで津川雅彦さんの中に残っていました。
マキノは僕のルーツであり、役者人生の原動力
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「『力の差は歴然』津川雅彦が語る 俳優・長門裕之さんの存在」(2015年11月22日)
映画監督として活動するときに「マキノ雅彦」と名乗ったのも、この祖父につながる名前でした。
幼いころに囲まれていた映画の世界は、何十年後にも本人が「ルーツ」と呼ぶ存在として残っていたことが分かります。
母に可愛がられ、兄・長門裕之は「追いつけないライバル」に
母のマキノ智子さんは、4人の子どもの中でも津川雅彦さんを特にかわいがり、外へ遊びに行くときにもよく連れて行ったと伝えられています。
一方、兄の長門裕之さんは、家庭の中だけでなく俳優としても強く意識する存在でした。
長門裕之さんは津川雅彦さんより先に俳優として活躍し、日活のスターとして仕事を重ねていました。
津川雅彦さんは後年、兄について次のように語っています。
兄貴は絶対的に追いつけないライバル
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「『力の差は歴然』津川雅彦が語る 俳優・長門裕之さんの存在」(2015年11月22日)
本人の回想では、兄弟は長年競い合う関係で、単純に「仲の良い俳優兄弟」という間柄ではなかったようです。
兄の力を間近で見ていたからこそ、津川雅彦さんは後に「自分は俳優として何を持つのか」を考えることになります。
津川雅彦の学生時代|俳優ではなく新聞記者を目指した
映画人の家族に囲まれ、本人も子役として映画に出ていましたが、津川雅彦さんはそのまま俳優を目指したわけではありません。
むしろ10代になると、役者とは違う道へ進もうとしていました。
子役経験がありながら俳優を志望していなかった少年時代
2018年に出演したニッポン放送『須田慎一郎のニュースアウトサイダー』で、津川雅彦さんは子役になった当時を振り返っています。
役者の家に生まれたため、子役になることは自分の意思で選ぶというより、周囲の環境の中で自然に決まっていった感覚が強かったようです。
役者になってなるもんか!
出典:ニッポン放送「『役者になる気はなかった』津川雅彦さんの俳優人生と悪役に至るまで」(2018年4月4日)
本人は、撮影で使う照明の暑さや化粧、かつらなども含め、子どものころには役者という仕事をあまり好きではなかったと話しています。
映画一家に生まれたことが、逆に役者とは違う道を選びたいという気持ちにもつながっていたようです。
このインタビューでは、子役時代から兄との関係、その後に悪役へ仕事を広げていった時期まで、津川雅彦さん自身が俳優人生を振り返っています。
少年時代に津川雅彦さんが考えていた将来の仕事は、新聞記者でした。
すでに映画への出演経験がありながら、芸能界とは別の仕事を具体的な進路として考えていたのです。
1956年に東京へ移り、新聞記者を目指して進学
新聞記者を目指した津川雅彦さんは、両親を説得し、一家で東京へ移ることになりました。
1956年には早稲田大学高等学院へ入学しています。
この時点で津川雅彦さんが考えていた進路の中心に、俳優はありませんでした。
ところが、入学して間もない時期に日活から映画への出演話が持ち込まれます。
作品は、石原慎太郎さんの小説を中平康監督が映画化した『狂った果実』でした。
新聞記者になるために東京へ移った16歳の学生に、俳優としての本格的な出発点になる仕事が届いたことになります。
津川雅彦が俳優になるまで|16歳で『狂った果実』に出演
『狂った果実』への出演話が届いたとき、津川雅彦さんはすぐに俳優の道を選んだわけではありませんでした。
それまで新聞記者を目指して進学していたため、映画への出演には迷いもありました。
主演話を迷った津川雅彦を両親が後押し
テレビ東京の人物紹介では、日活から『狂った果実』の主演話を持ち込まれた津川雅彦さんが迷った末、両親に勧められて出演したことが紹介されています。
子役時代には家族の環境の中で映画に出ていた津川雅彦さんにとって、16歳で届いたこの話は意味が少し違いました。
自分は別の職業を目指していた時期に、改めて映画の世界へ戻る選択をしたからです。
幼いころから映画界を知っていたことと、自分の職業として俳優を選ぶことは、津川雅彦さんの中では同じではありませんでした。
その境目にあった作品が『狂った果実』です。
『狂った果実』で本格デビューし若手スターへ
日活映画『狂った果実』は、1956年7月12日に公開されました。
石原裕次郎さんが兄の滝島夏久、津川雅彦さんが弟の滝島春次を演じ、北原三枝さん演じる恵梨をめぐる兄弟の物語が描かれています。
16歳で出演した『狂った果実』が、津川雅彦さんの本格的な俳優キャリアの出発点になりました。
公開後、津川雅彦さんは若手スターとして急速に知られるようになります。
本人は後年、『狂った果実』でデビューするとブロマイドの売り上げが一気に伸び、兄の長門裕之さんとの競争も激しくなっていったと回想しています。
映画一家の弟としてではなく、「津川雅彦」という俳優自身が注目される時期に入ったのです。
ただ、16歳で一気に人気を得たあとも、その俳優人生が同じ勢いのまま続いたわけではありませんでした。
兄との比較と低迷を経て、悪役で俳優としての道を広げる
『狂った果実』で本格デビューした津川雅彦さんは、若いころには二枚目の俳優として人気を集めました。
一方で、先にスターになっていた兄との競争や移籍を経験し、30代には映画の仕事がほとんどなくなった時期もあったと本人が振り返っています。
スターになった後に訪れた低迷と兄・長門裕之への意識
『狂った果実』で人気が急上昇すると、兄・長門裕之さんとの関係にも変化が生まれました。
もともと兄を「追いつけないライバル」と見ていた津川雅彦さんでしたが、自身も人気俳優となったことで、今度は同じ世界で仕事を取り合う立場になります。
本人は、兄の俳優としての力を高く見ており、その差を意識する中で自分自身の存在意義を考え続けたと話しています。
若手スターとして得た人気だけでは、自分の俳優としての位置を決められなかったことになります。
さらに移籍後には人気が落ち込み、30代のころには映画の仕事が途絶えた時期もありました。
その時期に津川雅彦さんが進んだのが、それまでの二枚目像とは違う悪役でした。
『必殺仕掛人』などの悪役が新しい転機に
ニッポン放送のインタビューで津川雅彦さんは、仕事が減っていた時期にテレビ朝日のディレクターから悪役を勧められたと振り返っています。
その後、『仕掛け人』で敵役を演じる機会が重なりました。
それがとても好評で。悪役をやるようになったんです。
出典:ニッポン放送「『役者になる気はなかった』津川雅彦さんの俳優人生と悪役に至るまで」(2018年4月4日)
若いころの二枚目スターというイメージから離れ、悪役へ仕事の幅を広げたことが、俳優人生の新しい転機になりました。
5歳で映画へ出ながら役者とは別の仕事を望み、16歳で本格デビューし、人気が落ちた後には悪役という別の場所を見つけた津川雅彦さん。
『必殺仕掛人』などで得た新しい役どころは、その後も長く続く俳優人生の一つの軸になっていきました。
















