PROFILE
人物プロフィール
俳優・ナレーターとして長く親しまれた森本レオさんは、2026年9月4日に83歳で亡くなりました。
所属事務所は、死因について「原因不明の突然死」だったと発表しています。
俳優として数々のドラマや映画に出演し、『きかんしゃトーマス』をはじめとするナレーションでも知られた森本さんですが、若い頃は最初から俳優を目指していたわけではありません。
むしろ興味を持っていたのは、物語を書く仕事やコピーライターでした。
しかも演技との最初の接点は、浪人中に友人から誘われた500円の「通行人」のアルバイトでした。
そこからテレビの端役、日本大学芸術学部での学生生活、NHK名古屋のドラマ、東海ラジオの深夜放送を経て、東京で俳優の仕事を本格化させていきます。
今回は、そんな森本レオさんの生い立ちや家族、学生時代、500円のエキストラ経験から俳優になるまでをご紹介します。
森本レオの生い立ち|名古屋で育った病弱な少年時代
森本レオさんは1943年2月13日、愛知県名古屋市に生まれました。
本名は森本治行(もりもと・はるゆき)で、子どもの頃から本や映画などの物語に親しんでいました。
未熟児として生まれ「中学まで」と聞いた子ども時代
森本さんは後年のインタビューで、未熟児として生まれ、誕生直後は呼吸をしていなかったと明かしています。
母親は当時35歳で体も丈夫ではなく、出産そのものが母子ともに危険な状態だったそうです。
さらに小学校2〜3年生の頃、出生時に立ち会った医師が家を訪れ、両親と話している声を隣の部屋で耳にしました。
医師が「中学校まで上がれたら望外の幸せ」という趣旨の話をしているのを聞き、幼い森本さんにも自分の体について何か深刻なことが話されているのだと伝わりました。
何となく、自分は中学校までが賞味期限なんだなと、それは分かったんです。
出典:Sports Communications「森本レオ(俳優)<前編>『“危機感”が感受性を磨く!』」(2008年2月29日)
その場にいてはいけないような気がして外へ出ると、なぜか家の前の電柱に登り、途中で下りられなくなったと振り返っています。
そこで小学校の向こうに見えた夕焼けの景色が、子ども時代の記憶として残っていました。
高校時代までを名古屋で過ごす
体への不安を抱えて育った一方、森本さんは本と映画が好きな少年でもありました。
戦後まだ幼かった頃には本を読み続け、母親から文字ばかりではなく漫画や映画にも触れるよう勧められたことを、2022年のインタビューで話しています。
夜の映画館へ足を運ぶようになり、スクリーンの中の物語に強く引かれていきました。
その後は愛知県立松蔭高校へ進学し、高校卒業まで名古屋で過ごします。
ただし、この頃から俳優になることを一直線に目指していたわけではありません。
森本さんが先に憧れていたのは、演じる側よりも物語を作る側でした。
森本レオの家族|料理人の父と香川出身の母、一人っ子の家庭
森本さんの子ども時代を語るうえで、父親と母親の存在は欠かせません。
本人の回想には、家庭の中で聞いていた父と母のまったく異なる話し方や、父親の仕事から教わったことがたびたび登場します。
森本レオさんの生育家族:父親、母親、森本さんの3人家族で、森本さんは一人っ子として育ちました。
戦後に生活が変わり、父の存在を怖がった少年期
父親は板前で、戦前は大きな料亭で働いていました。
ところが戦後、その料亭をめぐる状況が大きく変わり、父親の生活も以前とは同じではなくなりました。
森本さん自身も1979年の映像で、当時の家庭について次のように話しています。
戦後で実家が没落しまして、大料亭だったんですが、いろいろあって。
出典:テレビ朝日「【速報】唯一無二の語り口で存在感 森本レオさん(83)死去」(2026年9月12日)
2008年のインタビューでは、戦後に父親が自暴自棄になり、酒を大量に飲むようになった時期があったことも明かしています。
家に火をつけようとしたこともあったといい、子どもの森本さんは家にいると父親の気配を常に意識していたそうです。
こうした話は本人が後年に具体的に振り返ったものであり、森本さんの少年時代には、家の中で緊張して過ごす時間もありました。
父の強い言葉と母の柔らかな話し方
父親は大阪の河内出身で、森本さんの記憶では強い調子の河内弁を話す人でした。
一方、母親は香川県出身で、話し方は父親とは対照的に柔らかかったといいます。
一つの家庭の中で、父の強い言葉と母の柔らかな言葉の両方を聞いて育ったことを、森本さんは後に役者としてありがたかったと振り返っています。
普段の自分には母親から受け取った言葉があり、芝居をすると父親の強い部分が出てくることもあったそうです。
父親から受け取ったものは、話し方だけではありませんでした。
板前だった父親は天ぷらを教える際、油の状態を見て「呼ばれた」瞬間に具材を入れていました。森本さんは後年、芝居やナレーションでも相手や場面に「呼ばれた」瞬間に声が出るという感覚を重ねています。
父親の仕事を継ぐ選択肢もありましたが、魚をさばく場面で気分を悪くしてしまうほど血が苦手で、板前になる道には進みませんでした。
森本レオの若い頃|高校・大学と500円のエキストラ
高校を卒業した森本さんは、映画に近い場所で学びたいと考え、日本大学芸術学部を受験しました。
しかし一度目の受験には失敗し、浪人生活に入ったところで、人生で初めてテレビの撮影現場へ足を踏み入れることになります。
愛知県立松蔭高校から日本大学芸術学部を目指す
子どもの頃から映画が好きだった森本さんですが、自分が俳優になることにはむしろ距離を感じていました。
映画そのものが好きだったからこそ、物語を書く側なら関われるかもしれないと考えていたそうです。
高校卒業後に選んだのが、映画や放送を学べる日本大学芸術学部放送学科でした。
一度不合格になったため、すぐ大学生になったわけではありません。
そして、その浪人期間に思いがけない誘いがありました。
浪人中に初めて入ったテレビの撮影現場
友人から持ちかけられたのは、テレビドラマで通行人を演じれば500円もらえるというアルバイトでした。
スタジオも見学できると聞いた森本さんは、その誘いに乗ります。
当時はコーヒーが80円ほどだったと本人が振り返っているため、500円は学生にとって小さくない金額でした。
実際に現場へ入ると、撮影の空気そのものには強くひかれ、名古屋で活動していた俳優たちとも交流するようになります。
やがてCBC制作のドラマで突然セリフを任され、「電器屋の小僧」を演じることになりました。
電気洗濯機を届けに来たことを告げ、返事をしてドアを閉めるという短い役でしたが、森本さんにとっては大仕事でした。
本番になると胃が痛くなるほど緊張し、わずか10秒ほどの場面が非常に長く感じられたと振り返っています。
撮影を終えた時点では、むしろ自分には俳優は無理だと思ったそうです。
ところが、その後もNHKのディレクターから人手が足りないと呼ばれ、小さな役を経験していきます。
大学に合格して東京へ移った後も、交通費を出すからと名古屋へ呼び戻され、一夏に複数の番組へ出演した時期がありました。
俳優ではなく脚本を書く側を目指した学生時代
大学へ進んでも、森本さんの第一志望がすぐ俳優に変わったわけではありません。
学生時代には演技の仕事を続ける時期があり、大学2年頃には名古屋にいる時間が増えたため、単位が足りなくなったこともありました。
そこでいったん演技から離れ、今度はコピーライターを目指して電通で勉強を始めます。
大学の卒業論文もシナリオで、もともと強かった脚本家への志向はこの頃も残っていました。
卒業時には東京でコピーライターになる話も進みかけていましたが、父親が危篤だという電報が届き、名古屋へ戻ります。
父親の容体が回復した後は名古屋でコピーライターとして働こうとしましたが、そこで提示された原稿料は本人の期待とは違うものでした。
そんな時、街で偶然NHKのディレクターと再会します。
俳優一本で就職先を探していたのではなく、別の仕事を目指していた最中に、再びドラマの話が舞い込んだのです。
森本レオの芸能界入り|『高校生時代』から『ミッドナイト東海』へ
コピーライターとして働く道を探していた森本さんに、NHKのディレクターが持ちかけたのがドラマ『高校生時代』でした。
ここから俳優としての意識が生まれますが、森本さんの芸能活動は演技だけに一直線で進んだわけではなく、翌年にはラジオの世界へ広がります。
1967年のNHKドラマで始まった俳優活動
1967年、森本さんはNHK名古屋制作の『高校生時代』に出演しました。
大学を卒業していた森本さんに用意されたのは、不良高校生の役でした。
浪人中から小さな演技仕事は経験していましたが、この『高校生時代』について本人ははっきりと位置づけを語っています。
だから、それが役者という意識の始まりなんです。でも原点は「電器屋の小僧」ですよ(笑)。
出典:Sports Communications「森本レオ(俳優)<中編>『学ぶことを楽しむ才能』」(2008年3月14日)
最初の演技経験は浪人中の「電器屋の小僧」、役者としての意識が生まれたのは1967年の『高校生時代』というのが、本人の整理です。
森本レオさんの「デビュー」の整理:浪人中にCBC制作ドラマで最初期の演技を経験し、1967年『高校生時代』で役者としての意識が始まりました。その後、1972年『地の果てまで』を本人は「本格デビュー」と位置づけ、1973年『花心中』で映画初出演を果たしています。
一つの作品だけを「すべての始まり」とせず、それぞれの段階を分けて見ると、森本さんが俳優になっていく過程が分かりやすくなります。
1968年から約4年半、ラジオDJとして活動
『高校生時代』の翌1968年、森本さんは東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』でDJを始めました。
初代パーソナリティーの一人として、約4年半にわたってマイクの前で話す仕事を続けます。
後にナレーションで広く知られる森本さんですが、俳優活動を本格化させる前から、声だけでリスナーへ言葉を届ける時間を積み重ねていました。
『ミッドナイト東海』から約半世紀後の2020年には、東海ラジオ開局60周年企画で「ミッドナイト東海復刻版」が放送され、天野鎮雄さん、岡本典子さん、森本レオさんが出演しました。
この時期は、俳優になるまでの「寄り道」ではなく、森本さんが芸能の世界で仕事を続けていた重要な一時期でした。
「レオ」という芸名の由来
森本レオという芸名は、本名の治行から取られた名前ではありません。
本人が語ってきた由来では、一人称の「オレ」がきっかけでした。
「森本オレ」という案を経て、「オレ」をひっくり返した「レオ」が芸名になったとされています。
1960年代後半から、この名前でラジオや俳優の仕事を重ねていきました。
森本レオが俳優になるまで|東京での再出発と初期作品
名古屋でドラマとラジオの仕事を経験した森本さんは、20代の終わりに東京へ生活の拠点を移しました。
ここから俳優の仕事が本格化しますが、本人の意識にはまだ「俳優一本で生き残る」という強いこだわりはなかったようです。
東京へ移り、俳優の仕事を本格化
森本さんは2008年のインタビューで、29歳で東京へ出たと振り返っています。
1943年生まれのため、時期としては1972年前後にあたります。
東京では高円寺に住み、その後長く同じ街で暮らしました。
ただ、上京したからといって急に「職業俳優」という意識へ切り替わったわけではありません。
2001年のインタビューでは、もともと脚本家志望であり、最初は役者をアルバイトのような感覚で始めたと話しています。
シナリオ一本を書くより、短期間の撮影でもらえる出演料の方が高かったこともあり、少しずつ演じる仕事の比重が大きくなりました。
脚本を書く側を目指した青年が、仕事を重ねるうちに俳優を本業にしていったという順番でした。
『地の果てまで』『花心中』へ
森本さん自身が「本格デビュー」として挙げていたのが、1972年のTBSドラマ『地の果てまで』です。
主演した近藤正臣さんの友人役を演じ、演出側から面白がられて起用されたと振り返っています。
台本どおりに話したり動いたりすることに窮屈さを感じ、自分なりにセリフや動きを変えてしまうこともあったそうです。
そして1973年には映画『花心中』へ出演し、映画でも俳優としての仕事が始まりました。
さらに1974年にはNHKの銀河テレビ小説『黄色い涙』で若い頃の森本さんが主演を務めるなど、テレビと映画の両方で出演を重ねていきます。
ここまで来ても、本人は俳優という職業にしがみつく感覚は薄く、仕事がなくなれば別のことをすればいいという距離感を持っていました。
それでも出演は途切れず、後には『王様のレストラン』『ロングバケーション』『ショムニ』など、幅広い作品に出演するようになります。
俳優からナレーションへ広がった「声」の仕事
俳優として活動する一方、森本さんを多くの人に印象づけたのが独特の柔らかな声でした。
本人はその声について「本当はあまりいい声じゃない」と考えていたことを、2001年のインタビューで明かしています。
一方で、自分の語り方を考えた時に思い出したのが、幼い頃に聞いた香川県出身の母親の子守歌でした。
母親が歌う子守歌は節がゆったりと伸びる四国風のメロディーで、ある日ナレーションをしながら、その響きが自分の中に残っていることに気づいたそうです。
いい声じゃなく、声という道具を使って、オフクロの文化を再現しているんだなって。
出典:日刊スポーツ「森本レオさん『本当はあまりいい声じゃないんです』『本業フーテン』明かした本音/インタビュー」(2026年9月11日)
父の強い言葉と母の柔らかな語りを聞いて育ち、後には母の子守歌を自分のナレーションの中に感じるようになったと、森本さん自身が話していました。
代表的な声の仕事の一つが、長くナレーションを務めた『きかんしゃトーマス』です。
モデルアニメ時代の森本さんの語りは、公式YouTube「きかんしゃトーマスチャンネル」で公開されているエピソードでも聞くことができます。
その後も『Qさま!!』をはじめ、テレビ番組やCM、ドキュメンタリーなどでナレーションを担当し、俳優とは別の仕事の柱として「声」を届け続けました。
演じる仕事だけを目指して始まったわけではなかった森本さんですが、俳優として演じることと、声だけで物語を届けることの両方を長く続けることになりました。
幼い頃に家庭で聞いていた父と母の異なる言葉や、母親の子守歌までが、本人の中では晩年まで「声」の記憶として残っていたようです。















