PROFILE
人物プロフィール
『おしん』で演じた厳しい父親から、「電線音頭」を踊るベンジャミン伊東まで、まったく違う顔を見せてきた伊東四朗さん。
1937年6月15日に東京で生まれ、軽演劇、コント、テレビ、映画、舞台と長く活動してきました。
ただ、若い頃から芸能界を目指していたわけではなく、高校卒業後は会社員になるつもりで就職試験を受け、ことごとく不合格になっています。
その後は早稲田大学や東京大学などの生協で働きながら劇場へ通い、客席で顔を覚えられたことから喜劇の世界へ入っていきました。
2026年10月1日には、90歳を迎える2027年6月15日を区切りとして芸能活動を退く意向を自ら発表しています。
今回は、そんな伊東四朗さんの生い立ちや家族、若い頃の学生生活、就職試験に落ちたあとの大学生協勤務、芸能界へ入ったきっかけ、喜劇役者から映像俳優へ仕事を広げるまでをご紹介します。
伊東四朗の生い立ち|東京・下谷から掛川への疎開
伊東四朗さんが生まれたのは1937年、当時の東京府東京市下谷区竹町、現在の東京都台東区台東です。
幼い頃には戦争を経験し、東京を離れて母親の実家がある静岡県掛川へ疎開しました。
5人きょうだいの4番目|洋服の仕立て仕事をする家庭に生まれる
伊東さんは5人きょうだいの4番目として生まれました。
本人の回想によると、実家は「洋服屋」といっても店を構えて販売する形ではなく、洋服の仕立てを請け負う仕事をしていたそうです。
家があったのは、下谷区竹町の人ひとりが通れるほどの細い路地の奥でした。
父親は仕立ての仕事をする一方で、歌舞伎を好み、幼い伊東さんを新橋演舞場などへ連れて行くこともありました。
一番上の兄とは13歳離れており、年長のきょうだいたちから芝居や音楽に触れる機会もありました。
東京大空襲の記憶と静岡・掛川での疎開生活
戦争が激しくなると、一家は母親の実家があった静岡県掛川へ疎開しました。
伊東さんの記憶には、爆弾が落ちてくる音や焼夷弾が炸裂する音が残っているといいます。
5人きょうだいの家族が戦争を生き延びるなか、長兄は中国へ出征していました。
その長兄が復員して掛川の疎開先へ現れたとき、幼い伊東さんは思わず「兵隊さんだ」と口にしたそうです。
掛川での生活は約7年に及び、中学3年生の頃に東京へ戻りました。
中学3年で東京へ戻り、都立市ヶ谷商業高校へ
東京へ戻ったあと、伊東さんは東京都立市ヶ谷商業高等学校へ進学しました。
この頃も、将来は俳優や喜劇役者になると決めていたわけではありません。
高校を卒業した1956年には一般企業への就職を希望し、会社員として働く道を選ぼうとしていました。
ただ、ここで何社もの就職試験を受けながら採用されないという出来事が続きます。
本人は後年、この就職活動の失敗を何度も芸能生活の出発点として振り返っています。
伊東四朗の家族|三味線好きの父・歌好きの母と長兄
伊東家では、職業として芸能に携わっていたわけではない家族の生活の中に、芝居や音楽がありました。
特に父親、母親、13歳年上の長兄との思い出は、伊東さん自身のインタビューにもたびたび登場しています。
父の三味線と母の鼻歌に囲まれた幼少期
父親は三味線を弾き、蓄音機で義太夫などを聴く人でした。
母親も家でよく鼻歌を歌い、姉はクラシック音楽を好んでいたそうです。
「親父が三味線をつま弾く人で、お袋も家では一日中鼻歌を歌ってました」
出典:サライ.jp「【インタビュー】伊東四朗さん(喜劇役者)『舞台が自分のホームグラウンドと思ってます』」(2018年5月14日)
伊東さん自身も2〜3歳の頃、母親に背負われながら歌を口ずさみ、周囲の人が声の主を探したという思い出を明かしています。
父親には幼い頃から歌舞伎へ連れて行ってもらい、年の離れた長兄からは舞台へ連れて行ってもらうこともありました。
家庭の中で歌舞伎、三味線、義太夫、クラシック、鼻歌とさまざまな音に触れていた少年時代でした。
復員した13歳年上の長兄が劇団を結成|12歳で初舞台
終戦後、戦地から戻った長兄は掛川で療養したのち、アマチュア劇団を立ち上げました。
その劇団で子どもの役が必要になり、弟の伊東さんも舞台へ引っ張り出されます。
本人公式サイトの年表では、1949年、12歳のときに浮浪児役で初舞台を踏んだと記録されています。
長兄の劇団には映画館の館主も参加していたため、伊東さんは映画を無料で見せてもらう機会にも恵まれました。
アボット&コステロ、ローレル&ハーディ、ハロルド・ロイド、チャールズ・チャップリンなど、海外の喜劇映画を少年時代から数多く見ています。
12歳で経験したのは長兄が主宰するアマチュア劇団での初舞台です。職業として喜劇の世界へ入ったのは、それから約9年後の1958年でした。
妻と3人の息子|次男・伊東孝明も俳優に
伊東さんは1966年、29歳のときに結婚しました。
妻との間には3人の息子がおり、次男の伊東孝明さんは父と同じ俳優の道へ進んでいます。
「男の子、3人ですから。あたしも手伝いましたよ」
出典:女性自身「伊東四朗が明かす父の顔『おしめも替え、風呂にも入れました』」(2021年3月1日)
仕事から帰ったときに子どもたちがすでに寝ていると、がっかりしたこともあったそうです。
孝明さんも、父は家では寡黙だった一方、参観日や運動会には参加していたと振り返っています。
検索では「伊東四朗 娘」という言葉も見られますが、本人への取材で確認できる子どもは男の子3人です。
高校卒業後は就職試験に全滅|「東大」との本当の関係
伊東四朗さんの若い頃を調べると、「東大」という言葉が一緒に検索されています。
しかし、伊東さんが東京大学へ進学して卒業したわけではありません。
伊東四朗さんは東大出身ではなく、高校卒業後に東大や早大などの生協で働いていました。
大学進学ではなく就職を目指した高校卒業後
1956年に都立市ヶ谷商業高校を卒業した伊東さんは、大学進学ではなく就職を希望しました。
ところが筆記試験を通過しても面接で落とされ、友人のつてで紹介してもらった会社でも採用されなかったと本人は振り返っています。
俳優になるために就職を断ったのではなく、会社員になろうとしても採用されない状況が先にありました。
就職先が決まらないなか、大学生協で働くことになります。
後年、2026年に引退の意向を公表した際にも、伊東さんは高校卒業時の就職試験にすべて落ちたことから芸能生活を振り返りました。
東大・早大の生協で働きながら劇場通い
本人公式サイトの年表には、早稲田大学や東京大学などの生協で書籍部、食品部、食堂の仕事を掛け持ちしていたとあります。
働いて得た給料は、大好きだった芝居を見ることにも使っていました。
歌舞伎座に加え、軽演劇が盛んだった浅草、新宿、池袋などの劇場へ繰り返し足を運びます。
ストリップ劇場へも通っていましたが、目当ては踊りだけではなく、幕間に上演されるコントや芝居でした。
特に新宿フランス座へ何度も通い、客席の似たような場所で観劇していたことで、やがて舞台上の役者からも顔を覚えられるようになります。
客席で顔を覚えられ、石井均から楽屋へ呼ばれる
新宿フランス座で伊東さんの存在に気づいたのが、喜劇役者の石井均さんでした。
テレビ朝日のインタビューでも、何度も同じような席で観劇しているうち、石井さんから声をかけられて楽屋へ呼ばれるようになった経緯が紹介されています。
石井さんはやがてフランス座を離れ、八田圭介さんや水谷史郎さんらと新しい一座「笑う仲間」を旗揚げすることになります。
そこには後に「てんぷくトリオ」を組む戸塚睦夫さんもいました。
舞台へ応募したわけでも、スカウトを待っていたわけでもなく、劇場へ通い続けた客席から芸能界への入口が生まれました。
2021年の「水道橋博士の異常な対談」では、伊東さん本人がフランス座との縁や芸能の世界へ入った頃を振り返っています。
21歳でプロの舞台へ|「笑う仲間」からてんぷくトリオまで
石井均さんとの出会いがあった1958年、伊東さんは21歳でした。
まだ芸能界で成功できる保証はなく、生協では正社員になる話も持ち上がっていました。
生協の正社員か劇団研究生か|伊東四朗が舞台を選ぶ
石井均さんの一座で舞台へ出る機会を得たのとほぼ同じ時期、生協から正社員として働かないかと誘われました。
劇団へ入れば、アルバイトを続けるよりも収入が下がる状況だったと伊東さんは明かしています。
しかも、この時点で舞台経験が豊富だったわけではありません。
それでも一度舞台へ立った感覚が忘れられず、正社員ではなく「笑う仲間」の研究生になる道を選びました。
1958年、21歳で職業として喜劇の舞台に立つ生活が始まります。
最初の役はセリフなし|石井均一座で喜劇の現場へ
プロとして最初にもらった役は、華々しいものではありませんでした。
公衆便所から出てきて、ズボンのジッパーを上げながら去っていくという役で、セリフは一言もありませんでした。
「笑う仲間」が解散したあとは石井均一座へ移り、新宿の松竹文化演芸場などで舞台経験を重ねます。
当時の軽演劇では演目の入れ替わりが早く、十分な稽古期間がないまま初日を迎えることも珍しくなかったそうです。
脚本が最後まで完成しないときには、出演者たちで役や展開を考えながら舞台を作ることもありました。
決められた役を演じるだけではない軽演劇の現場で、伊東さんは喜劇役者として仕事を覚えていきました。
三波伸介・戸塚睦夫と「ぐうたらトリオ」から「てんぷくトリオ」へ
1961年に石井均一座が解散すると、伊東さんは三波伸介さん、戸塚睦夫さんと「ぐうたらトリオ」を結成しました。
劇場だけで生活できたわけではなく、新宿フランス座に出演しながら地方巡業やキャバレーの仕事もこなしています。
1962年には3人で念願だった日劇の舞台にも立ちましたが、このときは看板にトリオの名前すら載らなかったと公式年表に残っています。
翌1963年、日劇から再び出演の話が来た際に「ぐうたら」という名前の変更を求められました。
そこで、三波さんが以前組んでいた「脱線トリオ」よりさらにひどい状態なら「転覆」だという発想から、「てんぷくトリオ」へ改名しました。
伊東さんが24歳から26歳頃の出来事です。
喜劇役者として始まり、映像俳優へ仕事が広がる
てんぷくトリオとして舞台やテレビへ出るようになっても、伊東さんの仕事はコントだけに収まりませんでした。
歌や踊り、楽器、司会、ドラマと求められるものが増え、1970年代から1980年代にかけて一人で担う仕事の幅も広がっていきます。
『九ちゃん!』で歌・踊り・楽器も叩き込まれる
大きな変化の一つが、1965年に始まった日本テレビ系『九ちゃん!』への出演です。
坂本九さんの番組で、てんぷくトリオは歌や踊りだけでなく、楽器にも取り組むことになりました。
それまで軽演劇を中心に活動してきた3人に対し、番組では幅の広い芸が求められます。
伊東さん自身も後年、この番組で世間に知られるようになり、芸の幅が広がったと振り返っています。
1969年にはNHK大河ドラマ『天と地と』にも出演し、コント以外の演技仕事も少しずつ増えていきました。
戸塚睦夫の死後に一本立ち|小松政夫とのコンビと電線音頭
1973年5月12日、てんぷくトリオの戸塚睦夫さんが42歳で亡くなりました。
伊東さんはその後、一人のタレント・喜劇役者としての活動を増やしていきます。
1975年に始まったTBS系『笑って!笑って!!60分』では小松政夫さんとのコンビが生まれました。
続く1976年、NET系『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』で誕生したのが「ベンジャミン伊東」です。
電線軍団の団長役を頼まれ、サーカスの団長のような独特の衣装も伊東さん自身が考えました。
名前の「ベンジャミン」は、凧を使った実験で知られるベンジャミン・フランクリンから取ったと本人が説明しています。
そして1977年には、「電線音頭」が大きなブームとなりました。
こたつの上で踊る強烈な姿は広く知られ、小松さんと伊東さんを代表する喜劇の一つになります。
『ムー』から『おしん』へ|喜劇とは違う役にも広がった演技
電線音頭が流行した1977年、伊東さんはTBS系ドラマ『ムー』にも出演しています。
同じ時期には、第一次世界大戦時の板東俘虜収容所を題材にしたドラマで警察官を演じるなど、バラエティとは雰囲気の異なる役も任されました。
本人は、電線音頭を踊っている自分を真面目なドラマに起用してよいのかと制作側へ確認したこともあったそうです。
1981年にはNHK銀河テレビ小説『まわりみち』で主演し、ギャラクシー賞にもつながりました。
そして1983年、NHK連続テレビ小説『おしん』で主人公おしんの父・作造を演じます。
電線音頭のベンジャミン伊東とは大きく異なる、貧しさの中で娘へ厳しく接する父親役でした。
「おしんの父親を演じているときは、自分の父が参考になりました」
出典:公研「喜劇を演じることはとても怖いんです【伊東四朗】」(『公研』2020年4月号)
伊東さんによると、実父は寡黙で言葉が厳しく、作造と似ている部分があったそうです。
喜劇役者をやめて俳優になったのではなく、喜劇を続けながらドラマや映画で演じる役の幅が広がっていきました。
『おしん』以後も映画、テレビドラマ、舞台で数多くの役を演じる一方、自らの舞台では喜劇にこだわり続けています。
伊東さんは喜劇では、ふざける役だけでなく真面目な巡査や大家などさまざまな人物を演じる必要があると語っています。本人は、その経験が違うタイプの役を演じることへの抵抗を小さくしたと振り返っています。
90歳を節目に芸能活動を引退すると発表|2026年の決断
2026年10月1日、伊東四朗さんは自身の芸能活動について大きな決断を公表しました。
90歳を迎える2027年6月15日を区切りとして、芸能活動から退く意向を発表したのです。
これはまだ実施されていない将来の出来事ではありますが、伊東さん自身が引退の意思を正式に表明したことは、芸能生活を振り返るうえで残る固定事実です。
高校卒業時の就職全滅から始まった芸能人生を自ら振り返る
引退の意向を伝えるコメントで、伊東さんが最初に振り返ったのは、華やかな代表作でも受賞歴でもありませんでした。
高校を卒業した1956年、希望を持って受けた就職試験にすべて落ちたことでした。
そこから大学生協で働き、芝居を見るため劇場へ通い、客席で石井均さんに顔を覚えられ、21歳で「笑う仲間」へ加わりました。
「突然ですが、卒寿をもちまして引退をさせていただきます。」
出典:文化放送「喜劇役者・伊東四朗さんが2027年6月の90歳誕生日をもって芸能活動を引退、30年にわたる『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』も来年6月12日(土)の放送をもって終了」(2026年10月1日)
本人は引退を決めた理由として、目や耳、記憶、腰、膝など身体の衰えを挙げ、ドラマ撮影でスタッフや共演者へ負担をかけたくないという思いも記しています。
会社員になろうとして就職試験を受けた青年が、劇場の客席から喜劇の舞台へ入り、てんぷくトリオ、電線音頭、そして『おしん』をはじめとする数多くの作品へ活動の場を広げました。
2026年の引退表明で、その長い芸能生活を語る最初の一歩として本人が再び取り上げたのは、69年以上前の「就職試験に落ちた」という出来事でした。















