三浦誠己の生い立ち|和歌山の少年時代と芸人時代、俳優になったきっかけ

三浦誠己の人物イラストを左に配し、和歌山の少年時代や芸人時代を経て俳優になった経緯を見出しで示したビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
みうらまさき
カテゴリー
男性俳優
出身地
和歌山県
生年月日
1975年11月16日
芸能活動開始
1996年
俳優デビュー
1996年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

映画『アウトレイジ』や『火花』など、数多くの映像作品に出演してきた俳優の三浦誠己さんですが、キャリアの出発点は俳優ではありませんでした。

1996年にお笑い芸人としてデビューし、コンビ解散後はピン芸人として活動していた元芸人です。

所属事務所のプロフィールでは2003年から俳優へ転身したとされていますが、本人の話を追っていくと、芸人を辞めた時点では俳優になるつもりさえありませんでした。

故郷へ戻ることまで考えていた27歳のころ、一本の映画と関西弁の方言指導が、それまで想定していなかった仕事へつながっていきます。

今回は、そんな三浦誠己さんの生い立ちや家族、学生時代、芸人時代、芸能界を離れようとした27歳、俳優として仕事を続けるまでの道のりをご紹介します。

三浦誠己の生い立ち|和歌山で育った子ども時代

三浦誠己さんは、1975年11月16日に和歌山県で生まれました

所属事務所ディケイドの公式プロフィールでも出身地は和歌山県とされ、本人もインタビューで子どものころや地元で過ごした学生時代について振り返っています。

小学生のころからひょうきんで、中学まではサッカーに夢中

子どものころから静かに机へ向かうタイプというより、体を動かすことのほうが好きだったそうです。

小学校のころからひょうきんなやつではありましたね。

出典:WEBザテレビジョン「三浦誠己『ドラマに出てる自分、「似合わんなぁ」と』【シブメンFILE#03 三浦誠己】」(2018年6月14日)

同じインタビューでは、頭を使うことより体を使うことが好きで、中学生まではサッカーばかりしていたとも話しています。

所属事務所のプロフィールにもサッカーは特技として掲載されており、少年時代から長く親しんでいたスポーツだったことが分かります。

一方、小学校や中学校の具体的な学校名については、本人や所属事務所など信頼性の高い公開資料から確定できる情報は限られています。

高校時代からお笑いの道を目指し始める

中学までサッカーを続けた三浦誠己さんは、高校生になるころから将来について違う方向を考えるようになりました。

WEBザテレビジョンのインタビューでは、高校時代からお笑いの道を目指すようになったと振り返っています。

当時はまだ俳優を目指していたわけではなく、映画出演を仕事にしようとも考えていませんでした。

高校を出た後に大学へ進学する道ではなく、吉本興業のお笑い養成所へ進む選択が、芸能界に足を踏み入れる最初の一歩になります。

三浦誠己の家族|実家で過ごした学生時代と家庭の記憶

三浦誠己さんは結婚後の家族について話す機会がある一方、和歌山で育ったころの父親や母親、兄弟姉妹については多くを公表していません。

ただし、学生時代の実家について、後年になって思い出した具体的な一場面があります。

学生時代は実家のリビングで毎朝「朝ドラ」を見ていた

NHK連続テレビ小説『ブギウギ』への出演が発表された際、三浦誠己さんは学生時代の朝を思い出したとコメントしました。

学生時代に毎朝「朝ドラ」を楽しんでいた

出典:ORICON NEWS「『ブギウギ』生瀬勝久が喜劇王タナケン役、スズ子の演技の師匠に【第9弾キャスト発表・コメント一覧】」(2023年11月13日)

そのとき頭に浮かんだのは、かつての実家のリビングの風景だったそうです。

後に自分が朝ドラへ出演することになったとき、芸能界を目指す前に暮らしていた和歌山の家の朝が記憶として戻ってきました。

父親・母親・兄弟姉妹について公表されていること

三浦誠己さんの父親や母親については、氏名や職業などを本人が詳しく公表した信頼性の高い資料は見当たりません。

兄弟姉妹の有無や人数についても、検索上の推測だけで家族構成を確定できる情報はありません。

そのため、実家で毎朝「朝ドラ」を見ていたという本人自身の記憶までは確認できますが、当時誰と同居していたのかを推測で補うことはできません。

生育家族については、父母の氏名・職業や兄弟姉妹の構成を断定できる本人発信が少ないため、公表されている範囲だけで整理しています。

妻・笹峯愛との結婚と2人の子ども

三浦誠己さんの妻は、女優として活動し、脚本や演出も手がける笹峯愛さんです。

2人は2012年公開の映画『彼女について知ることのすべて』で共演し、その後結婚しました。

笹峯愛さん自身への2023年のインタビューでは、夫婦に2人の子どもがいることも明かされています。

三浦誠己さんへの2022年の取材も妻と2人の子どもがいる場で行われ、家族の記念日に以前から通っている店を訪れていることを話していました。

第一子は長男で、その後に長女が生まれていますが、Who’s Rootsで重要になるのは、結婚後の家族よりも三浦誠己さん自身がどのように芸能界へ進んだかという部分です。

教師志望から芸人へ|18歳でNSC大阪校に入るまで

高校時代からお笑いを目指した三浦誠己さんですが、子どものころから芸人だけを目指していたわけではありません。

15〜16歳ごろに考えていた仕事は、芸能界とはまったく違うものでした。

15〜16歳で芸人の言葉にひかれた

1990年前後、10代半ばだった三浦誠己さんは、世の中が変化していくなかで自分がどんな大人になるのかを考えていたそうです。

そのころ関心を持ったのが、立川談志さん、上岡龍太郎さん、ビートたけしさん、松本人志さんらが発する言葉でした。

社会や人間について独自の角度から話す芸人たちの姿を見て、お笑いという仕事に魅力を感じるようになります。

実は最初、教師になりたかったんです。

出典:マイナビニュース「三浦誠己、千原ジュニア慕う“鬼軍曹”の過去 – お笑い芸人から俳優への転身秘話『本質と才能と情熱』」(2017年9月28日)

教師なら教室や学校にいる人へ言葉を届けられますが、もっと大勢へ伝える方法として芸人という仕事を考えるようになったと説明しています。

大学ではなく吉本の養成所を選んだ理由

進路を決める際には、和歌山出身の三浦誠己さんにとって吉本興業が身近な存在だったことも影響しました。

本人は勉強が好きではなく、大学へ行きたくなかったことも理由の一つだったと率直に振り返っています。

18歳だった1994年、NSC大阪校13期へ入学しました。

同じ13期にはブラックマヨネーズや次長課長のメンバーらがおり、後に芸能界で長く活動する顔ぶれと同じ時期にお笑いを学び始めています。

NSCで答えた最終目標は「映画監督」

NSCへ入ったころ、周囲が冠番組や漫才の賞を目標として挙げるなか、三浦誠己さんは少し違う答えを出していました。

最終目標を聞かれたときに答えたのは、「映画監督」でした。

当時の三浦誠己さんは、芸人なら俳優、歌手、映画監督、執筆など幅広い表現へ進めると考え、エンターテインメントの根にある仕事としてお笑いを選んでいたと後に説明しています。

俳優を目指してNSCへ入ったわけではありませんが、養成所時代から最終目標として「映画監督」という言葉を挙げていました。

2018年には映画『泣き虫しょったんの奇跡』の企画で、三浦誠己さん自身が「夢」について語る短い映像も東京テアトル公式チャンネルから公開されています。

三浦誠己の芸人時代|トライアンフ結成からピン芸人へ

NSCへ入った三浦誠己さんは、そこから約10年間をお笑いの世界で過ごします。

ただし、その約10年の途中ですでに映画へ出演しており、芸人と俳優の経歴は単純に前後で二分できません。

1996年にトライアンフでデビュー、翌年に解散

所属事務所ディケイドの公式プロフィールでは、1996年にお笑い芸人としてデビューしたとされています。

当時はお笑いコンビ「トライアンフ」として活動していました。

マイナビニュースのプロフィールでは、1996年にトライアンフを結成し、翌年にコンビを解散した経歴が記されています。

コンビで長く活動を続ける道には進まず、解散後は活動場所を東京へ移すことになります。

芸人デビューの年に『岸和田少年愚連隊』で映画現場を経験

トライアンフで芸人としてデビューした1996年、三浦誠己さんにはもう一つ後の経歴につながる仕事がありました。

井筒和幸監督の映画『岸和田少年愚連隊』への出演です。

これは所属事務所の出演歴でも最初に掲載されている映画で、2026年の本人インタビューでも「最初の出演映画」として振り返っています。

演じたのは不良の一人で、本人の感覚ではほとんどエキストラに近く、初めての映画現場で状況もよく分からないまま参加していたそうです。

それでも完成した映画のスクリーンに自分が映っていることには、素直な喜びを感じたと話しています。

『岸和田少年愚連隊』は映画初出演ですが、ここで芸人を辞めたり、俳優へ転身したわけではありません。

単身上京し、ピン芸人としてコントを続ける

トライアンフ解散後、三浦誠己さんは東京へ移り、ピン芸人として活動を続けました。

自分で短いコントのネタを考え、舞台へ立つ日々を送っていたと後年のインタビューで振り返っています。

芸人として大きく売れた時期ではなく、仕事の数が多いわけでもありませんでした。

一方で、芸人として所属した吉本興業で築いた人間関係は、その後に俳優へ仕事を変えてからも残っていきます。

千原ジュニアら先輩と過ごす一方、後輩に追い抜かれていった

芸人時代の三浦誠己さんが特に親しくしていた先輩の一人が、千原ジュニアさんです。

後のインタビューでは、かつては毎日のように一緒に過ごし、毎晩のように食事へ連れて行ってもらっていたと振り返っています。

ただ、その一方で同期や後輩が次々と自分を追い越して売れていく状況も目にしていました。

芸人になったばかりのころにはあった勢いと、自分が実際に続けている仕事との間に、少しずつ差が生まれていきます。

27歳で芸人を辞め、故郷へ戻るつもりだった

三浦誠己さんの経歴が大きく変わるのは、27歳だった2002年の終わりごろです。

ここで重要なのは、芸人を辞める決断と俳優を目指す決断は同じではなかったことです。

「情熱」がなくなったと感じて10年の芸人人生を終える

三浦誠己さんは17〜18歳ごろからお笑いの道へ入り、27歳までおよそ10年間を芸人として過ごしました。

辞めた最大の理由として本人が繰り返し挙げているのは、単純に「才能がない」と判断したことだけではありません。

努力を続けるための「情熱」を失っていたことでした。

若いころのようにがむしゃらにネタを考える力が薄れ、実際に舞台へ立つのも月に1〜2回ほどという時期があったと話しています。

同期や後輩が売れていくのを見ながら、自分が何をしたいのか分からなくなり、2002年末に芸人としてのキャリアを終えることを決めました。

先輩の運転手をしながら芸能界を離れる準備をしていた

芸人を辞めると決めた後も、三浦誠己さんは世話になった先輩への恩返しとして、飲みに出たときなどに車の運転を引き受けていました。

この時点で考えていた次の人生は、俳優ではありません。

芸能関係の仕事からは足を洗って、故郷で暮らしていこうと思っていました

出典:映画チャンネル「『演技が上手いと言われたくない』27歳でお笑い芸人から役者へ転身。俳優・三浦誠己、役者人生を振り返る独占インタビュー」(2026年1月27日)

芸能界に残って別の職種へ移るのではなく、和歌山へ戻り、普通の仕事をして暮らすことまで考えていました。

ところが、芸人を辞める前に受けていた映画の仕事が、そこから予想していなかった方向へ広がっていきます。

『IKKA:一和』を見たプロデューサーからオーディションへ

芸人時代の終盤、三浦誠己さんは川合晃監督の映画『IKKA:一和』へ出演していました。

『IKKA:一和』は第11回PFFスカラシップ作品で、PFFの作品情報では2002年製作、2003年に劇場公開されています。

芸能界を離れるつもりだった時期にもこの作品の舞台挨拶などが残っていたため、肩書として一時的に「俳優」を名乗ることになりました。

さらに『IKKA:一和』を見たプロデューサーから、行定勲監督の映画『きょうのできごと』につながる話が届きます

俳優を志望して自分から次の映画を探したのではなく、芸人時代に出演していた一本が、辞めようとしていた時期に次の仕事を連れてきました。

『きょうのできごと』で方言指導からメインキャストへ

所属事務所ディケイドは、三浦誠己さんの経歴を「2003年より俳優に転身」と紹介しています。

ただし本人が語っている当時の感覚は、最初から俳優として生きていくと決めた「転身」とは少し違っています。

関西弁の指導役として受けたオーディション

『きょうのできごと』は関西の大学生たちを描く作品だったため、制作側は関西弁の細かなニュアンスを扱える人を必要としていました。

そこで吉本興業へ方言指導用のテープを作る依頼が入り、和歌山出身で関西圏の言葉を話せる三浦誠己さんが引き受けます。

脚本を読んで作品を面白いと感じると、日常的な関西弁を自然に扱うには関西圏で生活してきた人間が必要だと、監督やプロデューサーへ細かな言い回しを説明しました。

最初から出演者として中心に入ったのではなく、関西弁を正しく作品へ入れる役割から現場との接点が生まれています。

行定勲監督から西山役を任される

三浦誠己さんは何度も方言指導のテープを録りながら、自分自身もこの作品へ出演したいという気持ちを持つようになりました。

その過程で行定勲監督が三浦誠己さんにさまざまな役を試させ、最終的にメインキャストの一人である西山役を任せます。

方言指導として関わり始めた映画で、そのままメインキャストに選ばれました

2004年に公開された『きょうのできごと』は、芸人を辞めた後の三浦誠己さんが俳優の仕事を続ける大きなきっかけになります。

それでも最初は俳優を続けるつもりではなかった

映画のメインキャストを任されたからといって、この時点で「俳優として生きる」と気持ちが切り替わったわけではありません。

いや、俳優はやりたくなかったです。

出典:INTRO「三浦誠己(俳優)インタビュー:映画『木屋町DARUMA』について【5/5】/10月3日(土)公開」(2015年10月4日)

本人は『きょうのできごと』を撮り終えても、この映画の舞台挨拶まで務めたら芸能界を去ろうと考えていました。

しかし公開を待っている間に別のオーディションが入り、その仕事が終わるころにはまた次の仕事が入るという状態が続きます。

初期のころは撮影へ入るたびに「これが最後」という気持ちで臨んでいたと、後年のインタビューで話しています。

所属事務所の経歴では2003年から「俳優へ転身」ですが、本人が俳優で食べていく決心をしたのは2005年にディケイドへ入ったころだと振り返っています。

千原ジュニアの助言を受け、2005年にディケイドへ

映画の仕事が続くようになっても、三浦誠己さんはすぐに吉本興業との関係を終えたわけではありません。

芸人時代から長く付き合いのあった千原ジュニアさんの言葉が、俳優として事務所を移るきっかけになります。

吉本に約1年半残りながら俳優の仕事を続けた

芸人を辞めて俳優の仕事が入り始めた後も、三浦誠己さんは吉本興業に所属したままでした。

本人によると、吉本側も事情を理解し、俳優部門のような形で約1年半籍を置いていたそうです。

その間は俳優の仕事だけで生活が安定していたわけではなく、映画へ出ながらアルバイトをする時期もありました。

芸人を辞めたものの、俳優一本へ完全に切り替わったとも言い切れない期間が続いていたことになります。

「よしもと辞めたほうがええ」と背中を押された

そんな状態を見ていた千原ジュニアさんから、所属についてひと言伝えられます。

よしもと辞めたほうがええ

出典:マイナビニュース「三浦誠己、千原ジュニア慕う“鬼軍曹”の過去 – お笑い芸人から俳優への転身秘話『本質と才能と情熱』」(2017年9月28日)

三浦誠己さんは最初、この助言を聞いても意味がよく分からなかったそうです。

千原ジュニアさんが考えていたのは、一度お笑いの看板を外し、別の俳優事務所でもう一度看板を立て直すことでした。

芸人時代に毎日のように一緒に過ごした先輩から、新しい場所でやり直す選択肢を示されました。

出演資料と手紙を送り、俳優事務所で再出発

吉本を離れた後の所属先について、三浦誠己さんは知り合いのプロデューサーへ相談しました。

その候補の一つだった俳優事務所ディケイドへ、それまで自分が出演した作品の資料をまとめ、手紙を添えて送りました

資料を受け取ったディケイドの佐伯真吾社長と約2時間話し、所属することになります。

2005年にディケイドへ移籍し、三浦誠己さん自身もこのころに俳優で食べていく決心がついたと振り返っています。

芸人を辞めた2002年末から約2年のあいだ、映画の仕事が一つ終わる前に次の仕事が入り、その積み重ねの先でようやく俳優を職業として選びました。

芸人時代の経験が俳優の仕事に戻ってきた

ディケイドへ移った後は映画を中心に出演を重ね、『アウトレイジ』など幅広い作品に参加しました。

そのなかには、いったん辞めたお笑いの経験をそのまま役へ持ち込める作品もありました。

『火花』で売れない芸人役を演じる

2017年公開の映画『火花』では、桐谷健太さん演じる神谷とコンビ「あほんだら」を組む芸人・大林役を演じました。

監督は、芸人時代から三浦誠己さんを知る板尾創路さんです。

桐谷健太さんとは撮影前から代々木公園やカラオケボックスで漫才を練習し、実際にヨシモト∞ホールの舞台にも立って準備しました。

三浦誠己さん自身も、もうお笑いの舞台へ立つことはないと思っていたため、『火花』で再び漫才をできたことがうれしかったと振り返っています。

売れない芸人の気持ちを実際に知っていることが、大林という役で使える経験になりました

映画『火花』公式Xでは、桐谷健太さんと三浦誠己さんによる「あほんだら」のネタ「余命3ボケ」のフルバージョンも紹介されています。

芸人から離れて長い時間が経った後に、俳優としてかつての職業を演じる仕事が巡ってきました。

『アウトサイダー』で俳優を続ける自信を得る

『火花』と同じ2017年、三浦誠己さんには俳優を続けるうえでもう一つ記憶に残るオーディションがありました。

Netflix映画『アウトサイダー』のオーディションで、プロデューサーのアート・リンソンと話したときのことです。

演技だけではなく私生活についても質問され、三浦誠己さんは子どもが生まれたことや、俳優としてまだ売れていないと感じていることまで話しました。

オーディションを終えた後、アート・リンソンから役者を続けるよう強く言われ、実際に役も得ています。

三浦誠己さんは、この出来事が「俳優として一生やっていける」と思える大きな自信になったと後に振り返りました。

芸人を辞めた27歳のときには故郷へ戻るつもりだった三浦誠己さんは、一本ずつ続いた映画の仕事を経て2005年に俳優を職業として選び、その後はかつてのお笑い経験まで役の中で使うようになりました。

『アウトサイダー』のオーディションで得た言葉と役は、そんな俳優生活を続けてきた本人が、自分の仕事にあらためて自信を持った具体的な出来事として残っています。