PROFILE
人物プロフィール
映画『パッチギ!LOVE&PEACE』をはじめ、映画やドラマ、舞台で長く活動した女優の中村ゆりさん。
2026年9月1日、直腸がんのため44歳で亡くなり、所属事務所のアルファエージェンシーが同年9月14日に公表しました。
女優としての姿から中村さんを知った人も多いですが、10代のころにはアイドルデュオ「YURIMARI」のYURIとして歌手活動をしていました。
しかも、YURIMARI解散後にそのまま女優へ転身したわけではなく、一度芸能界を離れ、一人でニューヨークへ渡ったり、ハンバーガーショップでアルバイトをしたりした時期があります。
14歳で芸能界を目指した理由にも、最初から「女優になりたい」という夢があったわけではありませんでした。
今回は、そんな中村ゆりさんの生い立ちや家族、学生時代、YURIMARI時代、芸能界を離れた若い頃、女優になるまでの道のりをご紹介します。
中村ゆりの生い立ち|大阪で育った子ども時代
中村ゆりさんは1982年3月15日、大阪府生まれです。
のちに10代で芸能界へ入りますが、幼いころから芸能活動をしていた子役ではありません。
本人が振り返る子ども時代は、華やかな芸能界とはかなり離れたものでした。
絵や塗り絵が好きだった少女時代
大阪で生まれ育った中村さんは、小さいころ、家で絵を描いたり塗り絵をしたりすることが好きな子どもだったと話しています。
人前へ出て歌ったり踊ったりすることを目指していたというより、自宅で静かに好きなことをして過ごす時間が身近だったようです。
後年は映画、ドラマ、舞台で多くの役を演じましたが、子どものころから女優志望だったわけでもありません。
むしろ本人は、自分は勉強が得意ではなかったと振り返っており、中学生になるころまでには将来について現実的に考えるようになっていました。
中村ゆりさんは子役出身ではなく、芸能界を意識し始めたのは中学生だった14歳ごろでした。
14歳で芸能界を意識するまで
中村さんが芸能界を具体的な仕事の選択肢として考え始めたのは、14歳のころでした。
街を歩いているときにスカウトされた経験があり、少しずつ「自分にも可能性があるのかもしれない」と考えるようになったといいます。
当時人気だったテレビ東京系のオーディション番組『ASAYAN』は、書類を送るだけではなく、会場へ行けば参加できる形式のオーディションもありました。
同級生の中にも気軽に受けに行く人がいたため、中村さんにとっても芸能界は突然手の届かない世界ではなく、試してみることのできる選択肢になっていきます。
ただし、芸能界を選んだ理由をたどると、その背景には家族との暮らしがありました。
中村ゆりの家族|母子家庭で育った母との暮らしと韓国ルーツ
中村ゆりさんは、本人へのインタビューで母子家庭で育ったことを明かしています。
父親と母親のルーツについても本人が語った記録があり、2007年の朝日新聞の取材では、父親が在日3世、母親が韓国生まれであることが紹介されました。
検索では「中村ゆり 韓国」「国籍」「本名」といった言葉も多く見られますが、家族のルーツと本人の国籍は分けて整理する必要があります。
母を経済的に助けたいと思った14歳
14歳だった中村さんが芸能界を意識した背景には、母親との生活がありました。
本人は2023年のテレ朝POSTのインタビューで、そのころの気持ちを短い言葉で振り返っています。
「経済的に母を助けてあげたいという気持ちが強かったです」
出典:テレ朝POST「中村ゆり、転機になった『パッチギ!』続編のヒロイン。オーディションで前作の感想を聞かれ『ムカつきましたね』」(2023年1月6日)
芸能界入りの出発点は、女優への憧れではなく、母親を経済的に助けたいという思いでした。
自分に何ができるのかを考えたとき、街でスカウトされた経験もあったことから、「芸能界ならチャレンジできるかもしれない」と考えたそうです。
中村さんは後年、自身のInstagramにも若いころの母親の写真を投稿しています。
YURIMARI解散後にニューヨークから帰国したときには、母親を東京へ呼び、一緒に暮らしていたことも本人が明かしています。
40代になってからのインタビューでも、社会人になったころを境に、母親との関係が「守ってもらう側」から「自分が守る側」へ変わっていったと振り返っていました。
14歳で芸能界へ挑戦した理由と、YURIMARI解散後に母親を東京へ呼んだ出来事の両方に、母との関係が登場します。
父は在日3世、母は韓国生まれと語った家族背景
中村さんの韓国ルーツについては、2007年5月20日付の朝日新聞「ひと」で本人が家族背景について語った内容が伝えられています。
そこでは、父親は在日3世、母親は韓国生まれと紹介されました。
本人は出身を隠すつもりはない一方で、それを特別に主張するつもりもないという趣旨の考えを話しており、その直後に出演したのが『パッチギ!LOVE&PEACE』でした。
また、2008年のスポーツニッポンは中村さんのプロフィール欄で本名を「中村友理」と記載しています。
父親が在日3世、母親が韓国生まれという家族背景は本人取材をもとに確認できますが、それだけで中村さん本人の国籍を断定することはできません。ネット上には別の本名・韓国名表記も見られますが、2008年のスポーツニッポンは本名を「中村友理」と記載しています。
兄弟についても兄がいるとする情報が広く流通していますが、現在確認できる本人インタビューや所属事務所のプロフィールだけでは、家族構成を細部まで確定できる材料は限られています。
一方で、母子家庭で育ったこと、母親を支えたい思いが芸能界入りにつながったこと、父母それぞれのルーツについては、本人の言葉や当時の報道から確認できます。
中村ゆりの学生時代|ASAYAN合格から中学卒業後の上京へ
中村ゆりさんの学生時代で大きな変化が起きたのは、中学生だった14歳のころです。
『ASAYAN』のオーディションへ参加し、審査を通過したことで、大阪で過ごしていた日常から芸能界へ進む道が開きました。
本人が詳しく語っているのは中学卒業後に上京したところまでで、ネット上にある具体的な中学校名や高校名については、本人や所属事務所による確かな資料が限られています。
母と初めて東京へ行き竹下通りでスカウト
『ASAYAN』の二次審査を通過したあと、中村さんは母親と初めて東京へ向かいました。
そのとき母娘で竹下通りを歩いていると、何度もスカウトの声をかけられたといいます。
中村さん本人だけでなく、そばにいた母親にとっても「もしかしたら可能性があるのかもしれない」と感じる出来事になりました。
そしてオーディションに合格すると、中学校を卒業したあとに大阪を離れ、東京へ移ることになります。
まだ10代半ばで親元を離れることには不安もありました。
それでも中村さんは、上京するからには簡単には大阪へ戻らないというほどの気持ちを持って東京での生活を始めています。
高校年代にあたる時期は芸能活動が忙しく、後年のインタビューでも、仕事のため学校へほとんど行けなかった時期があったことが紹介されています。
芸能活動と学校生活を両立できるような穏やかなスタートではなく、10代の生活そのものが大きく変わる上京でした。
16歳でYURIMARIとして歌手デビュー
上京後、中村さんは友人だった伊澤真理さんとアイドルデュオ「YURIMARI」を結成しました。
中村さんがYURI、伊澤さんがMARIとして活動し、1998年にYURIMARIとして歌手デビューしています。
活動期間中にはシングル6枚とアルバム1枚を発表しましたが、YURIMARIは翌1999年に解散しました。
当時は明るいキャラクターを求められる場面もありましたが、それは中村さん自身の感覚とは少し違っていたようです。
「キャラクターも作っていて苦しかったです」
出典:日刊スポーツ「中村ゆり 絶えないオファーにも『いつも通り』褒めてもらうのは“おまけ”」(2021年7月18日)
本人は、まだ子どもだったため、それが本当に自分のやりたいことなのかも分からず、与えられた仕事を乗り切るだけで精いっぱいだったと振り返っています。
一方で、当時一緒に仕事をしたスタッフへの感謝は後年まで変わらず、YURIMARI時代の人たちとの交流も続いていました。
中村さんは2018年、自身のInstagramでYURIMARI時代の写真を公開し、10代だったころを振り返っています。
歌手として芸能界へ入った中村さんでしたが、YURIMARIの解散を境に、いったん芸能活動そのものから離れます。
中村ゆりの若い頃|YURIMARI解散後に芸能界を離れた時期
1999年にYURIMARIが解散したあと、中村ゆりさんはすぐに女優として再出発したわけではありません。
日刊スポーツのインタビューでは、解散後の約3年間は芸能活動から離れ、アルバイトなどをして過ごしたと振り返っています。
10代のうちから芸能界で働いてきた中村さんにとって、初めて芸能界の外に身を置く時期でもありました。
一人でニューヨークへ渡り舞台と美術館を巡る
YURIMARIを解散したあと、中村さんがまず向かったのはアメリカのニューヨークでした。
一人で約2カ月間ニューヨークに滞在し、ブロードウェイやオフ・ブロードウェイの舞台、美術館などへ足を運んでいます。
この時点で明確に「女優になる」と決めていたわけではありませんでしたが、芸能活動を休んでいる間も映画や舞台を見ることは続けていました。
東京では、かつて新国立劇場の施設として使われていたベニサン・ピットで舞台を観たこともあり、その芸術的な世界に強く惹かれたといいます。
ニューヨークで舞台を観て、東京でも演劇に触れるうちに、俳優という仕事を見る目も少しずつ変わっていきました。
帰国後は母親を東京へ呼び、一緒に暮らし始めています。
その生活の中で、中村さんは芸能界とは違う仕事にも初めて挑戦しました。
18歳で始めたハンバーガーショップのアルバイト
中村さんは18歳ごろ、ハンバーガーショップやカフェでアルバイトをしていました。
それまで10代で芸能活動をしていたため、一般的なアルバイトを経験するのは初めてでした。
ところが、本人によると計算がかなり苦手で、レジでは何度も間違えてしまったそうです。
18歳だった中村さんが、16歳のアルバイト仲間からいつも注意されていたという、少し意外な時期でもありました。
そこで初めて、働いてお金を稼ぐことの大変さを実感したと振り返っています。
YURIMARI解散後は、ニューヨーク滞在、母との東京暮らし、アルバイト、映画や舞台鑑賞などを経験しながら約3年間芸能活動を離れていました。
アイドル時代は周囲から与えられた仕事をこなしてきましたが、休業中の中村さんには「次にやるときは、人に決められたものではなく、自分で決めたい」という思いが生まれていました。
ただ、次に何を選ぶのかまでは決まっていませんでした。
そんな時期に出会った一人の映画プロデューサーが、中村さんをオーディションへ誘います。
中村ゆりが女優になるまで|『偶然にも最悪な少年』との出会い
芸能界を離れていた中村ゆりさんが再び表現の世界へ戻るきっかけになったのは、歌でもアイドル活動でもなく映画でした。
知り合った女性映画プロデューサーから声をかけられ、2003年に映画のオーディションを受けます。
そこで出会った作品が、グ・スーヨン監督の『偶然にも最悪な少年』でした。
女性映画プロデューサーに誘われオーディションへ
中村さんは芸能活動を休んでいたころ、たまたま女性の映画プロデューサーと知り合いました。
お茶をするなど交流するうちに、「映画のオーディションに来てみないか」と誘われたそうです。
そこで受けたのが『偶然にも最悪な少年』のオーディションで、出演することになりました。
役の出番は1、2シーンほどで、最初から大きな役を与えられたわけではありません。
それでも、中村さんにとってはアイドルとはまったく違う方法で作品作りに参加する経験になりました。
「女優デビュー作」には資料による違いがあります。
マイナビニュースは2003年の『最も危険な刑事まつり「続 名探偵刑事」』を女優デビュー作と紹介しています。一方、所属事務所の映画歴は同年の『偶然にも最悪な少年』から掲載しており、中村さん本人も『偶然にも最悪な少年』との出会いを女優活動へ進んだ重要な出来事として振り返っています。
そのため、芸能界入りは1990年代のYURIMARI、演技活動の開始は2003年と分けて考えると、中村さんの経歴が分かりやすくなります。
初号試写で感じた充実感から演技の道へ
『偶然にも最悪な少年』への出演後、中村さんは完成した映画の初号試写を観に行きました。
そこで強く残ったのは、自分がスクリーンに映っていること以上に、一つの映画が多くの人の手によって完成し、その中に自分も参加できたという感覚でした。
本人は後年、そのときにこれまでの仕事とは違う充実感を覚えたと話しています。
一度芸能界を離れたあと、自分で受けた映画のオーディションをきっかけに、今度は演技へ本気で向き合うようになりました。
ただし、2003年に演技の仕事を始めた時点では、まだ女優として十分な経験があったわけではありません。
所属事務所の映画歴を見ると、2003年の『偶然にも最悪な少年』のあと、2004年の『JUDE/ユダ』などへ出演し、少しずつ映画の現場を重ねています。
日刊スポーツのインタビューでも、最初は自分に何ができるのか分からなかったものの、自分を面白がってくれる人との出会いから、「頑張ればできるかもしれない」という気持ちへ変わったことを明かしていました。
その「頑張ればできるかもしれない」が、やがて「頑張りたい」に変わっていきます。
そして2007年、自分から「受けたい」と申し出た映画のオーディションが、中村さんの女優人生を大きく動かしました。
『パッチギ!LOVE&PEACE』が転機|自分のルーツを演技へ
2007年に公開された井筒和幸監督の映画『パッチギ!LOVE&PEACE』は、中村ゆりさん自身が繰り返し「転機」として挙げている作品です。
所属事務所のプロフィールでも、中村さんは同作のヒロイン・キョンジャ役として記載され、2007年度全国映連賞女優賞と第3回おおさかシネマフェスティバル新人賞を受賞しています。
この役は、事務所から用意された仕事をただ受けたのではなく、中村さん自身がオーディションへ行きたいと申し出てつかんだ役でした。
中村さんは後年、自身のInstagramでも『パッチギ!LOVE&PEACE』撮影時の写真を公開しています。
自ら事務所へ頼んで受けたオーディション
中村さんは前作『パッチギ!』を観たとき、自分自身のアイデンティティーや家族のルーツに近いものを感じていました。
そのため続編のオーディションが行われると聞くと、自分から事務所へ「私も行きたい」と伝えたといいます。
オーディションでは前作の感想だけでなく、中村さん自身の生い立ちについても尋ねられました。
本人にとって、自分の育ってきた背景まで聞かれるオーディションは初めてでした。
それまで自分の中でマイナスと感じていた経験や背景も、俳優という仕事では一つの材料になり得ると感じた場面だったそうです。
オーディションは2200人を超える参加者がいたと当時のスポーツニッポンが報じており、中村さんはその中からヒロインのキョンジャ役に選ばれました。
「ターニングポイントと言ったら、確実に『パッチギ!』で役に選んでいただけたことですね」
出典:Real Sound「『ただ離婚してないだけ』の難役も『演じていて楽しい』 中村ゆりが語る女優の“ときめき”」(2021年7月21日)
芸能界へ入るきっかけになった14歳のころとは違い、今度は自分の意思で受けたい作品を選び、その役をつかんだことになります。
井筒和幸監督の現場で女優として鍛えられた日々
『パッチギ!LOVE&PEACE』へ出演したころ、中村さんにはまだ演技経験がそれほど多くありませんでした。
井筒和幸監督の現場では厳しく指導され、初日から怒られたことも後年のインタビューで振り返っています。
中村さんは毎日、撮影現場へ向かう電車の中で「今日はいい芝居ができますように」と願うほど必死だったそうです。
一方、撮影が進むにつれて井筒監督から任される部分も増え、「根性がついてきた」と声をかけられることもありました。
映画が公開されると、中村さんは全国映連賞女優賞とおおさかシネマフェスティバル新人賞を受賞しました。
翌2008年にはロバート・アラン・アッカーマン演出の『1945』で、初舞台にして主演にも抜てきされています。
その後は映画『そして父になる』『市子』『あまろっく』、ドラマ『今夜はコの字で』『天国と地獄〜サイコな2人〜』など、映画、ドラマ、舞台で演技を続けました。
2022年、女優活動を始めて約20年が経ったころ、中村さんは俳優という仕事についてこんな言葉を残しています。
「これまでの人生で経験した辛かったこともすべて活かせたのが俳優業」
出典:GOETHE「女優・中村ゆりインタビュー“トラウマやコンプレックス”すべてを活かせた俳優という仕事のマイ・ルール」(2022年11月28日)
14歳で母親を助けたいと芸能界へ入り、YURIMARI解散後はいったん離れ、2003年から演技の仕事を始めた中村さんが、その言葉を語ったのは40歳のときでした。














