PROFILE
人物プロフィール
佐々木希は、秋田で暮らしていた10代に地元でスカウトされ、モデルとして芸能界へ入り、その後に俳優の仕事へ進んだ。
華やかなモデル時代の印象が強い一方で、その前には兄たちと遊んだ子ども時代、新体操に打ち込んだ学生時代、家庭環境の変化、地元で働いていた時期がある。
最初から女優を目指して一直線に進んだわけではなく、秋田でのスカウト、モデル活動、初めての演技仕事が順番につながって現在のキャリアが始まったことが、佐々木希の経歴をたどるうえで大きなポイントになる。
今回は、そんな佐々木希の生い立ちや家族、学生時代、秋田でのスカウトからモデル、女優になるまでの道のりをご紹介します。
佐々木希の生い立ち|秋田で過ごした子ども時代
佐々木希は秋田県出身で、芸能界に入るまで地元で暮らしていた。
後年のインタビューやフォトエッセイでは、子どものころの性格や家族との過ごし方、新体操に夢中になった学生時代を自分の言葉で振り返っている。
活発さと手芸好き、兄たちと遊んだ幼少期
子どものころの佐々木希は、外で遊ぶ活発さと、手芸を好む一面の両方を持っていた。
活発なところもあり、でも手芸とかも大好きな
出典:TBS NEWS DIG「【独自インタビュー】佐々木希、激動の20年と試練を乗り越える力『モテない』過去から子供に伝えたいこと」(2026年10月1日)
家では兄たちと一緒に、鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいたという。
外遊びと手芸という一見違う過ごし方が同じ幼少期にあり、本人の記憶にはどちらも残っている。
「昔」「若い頃」と検索すると派手なエピソードばかりが目に入りやすいが、本人自身が振り返る子ども時代は、兄たちとの遊びや手芸といった家庭の中の具体的な場面から始まっている。
きょうだいの中では末っ子で、男きょうだいに囲まれて育った一方、手を動かして何かを作ることも好きだった。
幼少期の本人発言からは、「活発な子」という一面だけではなく、手芸のような静かな遊びも好きだったことが分かる。
新体操に夢中になった少女時代
学生時代に長く記憶に残っているものとして、佐々木希がたびたび挙げているのが新体操だ。
2025年のインタビューでは、練習そのものだけでなく、練習が終わったあとに友人と過ごした時間まで「青春」として思い出している。
みんなで練習した後に食べるおにぎりのおいしさとか、そういうものを思い出しました。
出典:ORICON NEWS「佐々木希、青春は“新体操”『すごく特別でした』 現在情熱を注ぐ俳優業についても語る」(2025年9月1日)
友人と練習し、終わったあとにおにぎりを食べながら話す時間まで含めて、競技に打ち込んだ日々は強い記憶として残った。
ただし、新体操の経験は楽しい思い出だけでは終わらない。中学生のころには、競技を続ける中で大きな挫折も経験することになる。
佐々木希の家族|父がつけた「希」の名前と母・2人の兄
佐々木希の生い立ちをたどると、父親、母親、2人の兄との家族の時間が何度も登場する。
2026年刊行のフォトエッセイ『Natural』では、それまで詳しく語られてこなかった家庭環境についても本人が振り返っている。
「希望を持って生きてほしい」と父が名づけた
「希」という名前は、父親が、希望を持って生きてほしいという願いを込めてつけた名前だと明かされている。
芸名ではなく、幼いころから呼ばれてきた名前そのものに父親の願いが込められていた。
華やかな芸能活動が始まるずっと前から、「希」という名前は家族の中で与えられたものだった。
母が家計を支えた時期と家族の暮らし
家庭には大きな変化があり、母親が一人で家計を支える時期が訪れた。
母一人で家計を支えることになり、経済面での余裕は一切なくなりました。
出典:講談社『佐々木希フォトエッセイ Natural』(2026年10月2日発売)
冬の寒さが厳しい秋田では石油ストーブのための灯油を削ることが難しく、電気代や食費を節約する母親の姿を見ていたという。
その暮らしの中で、佐々木希自身も家族の一員として自分にできることを考えるようになった。
秋田の冬は暖房費を避けにくい。本人の回想では、灯油代を削るよりも電気代や食費をどう抑えるかを考える生活だった。
母親がやりくりする姿を見ながら、自分も「支えられるだけの子ども」ではいられないと考え始めた時期でもあった。
大人になってからも、佐々木希と秋田の家族とのつながりは続いている。2021年には母親から秋田の山菜「みず」が届いたことをInstagramで紹介し、故郷の家族への思いを綴っている。
家庭環境についてはネット上にさまざまな説があるが、本人が明かしている範囲では、母親が家計を担うようになったことと、その姿を子どもだった佐々木希が間近で見ていたことが重要な事実として残っている。
2人の兄と育った3きょうだいの末っ子
佐々木希には2人の兄がいる。
幼少期には兄たちと外で遊び、成長後も地元・秋田へ帰れば家族と自然に時間を過ごしている。
2024年には本人の公式YouTubeで、秋田の実家へ帰省した様子を公開した。
動画では母親と普段に近い会話を交わし、兄家族との食事に向けて買い出しをする様子も登場する。幼少期の写真ではなくても、佐々木希が育った秋田と家族との関係を本人発信の映像で確かめられる素材になっている。
生育家族は、父・母・2人の兄と佐々木希の5人。結婚後の家族ではなく、秋田で育った時期を見ると、2人の兄に囲まれた末っ子としての時間が人物像につながっている。
佐々木希の学歴・学生時代|中学生の挫折から進路を考えるまで
佐々木希は「学歴」「高校」「昔」「若い頃」といった言葉でも多く検索されている。
一方、学校名や高校進学の有無については、本人や所属事務所の公開プロフィールで詳細に示されているわけではない。
確実にたどれる学生時代の中心は、中学生のころに打ち込んでいた新体操と、その中で経験した挫折だ。
新体操で体を痛め、大切な大会に出られなかった
新体操に熱中していた時期、佐々木希は体を壊して入院したことがある。
体を壊して入院したことがあり、目標にしていた大事な大会に出られなくなった
出典:ABCマガジン「佐々木希『なんであんなことで悩んでいたんだろう?』考え方がシンプルになった」
目標にしていた大会へ出られなかった経験は、中学生時代の大きな挫折になった。
2026年のフォトエッセイでも、中学生のころの「初めての挫折」が人生の一場面として扱われている。
それまで練習を続けてきた競技で、目標にしていた舞台へ立てなくなる。芸能界に入る前の人生で、思いどおりに進まない出来事を経験していたことになる。
のちに俳優として挫折を経験した人物を演じた際、自分の新体操時代と役の感情が重なったことを本人が語っているため、この経験は単なる学生時代の部活動歴にとどまらなかった。
学生生活を終え、地元で働き始めるまで
佐々木希の学歴については、ネット上で特定の学校名や高校に関する説が広く出回っている。
ただし、学校名や高校進学の有無までを確定できる本人・所属事務所の公開資料は限られているため、検索されている情報をそのまま経歴として扱うことはできない。
とくに「昔 ヤンキー」「若い頃 ヤンキー」といった言葉は検索されているものの、それだけで学生時代の実像を決める根拠にはならない。
本人の発言から確実に見えるのは、新体操に本気で取り組み、友人との練習後の時間を大切な青春として覚えていること、そして競技で挫折を経験したことだ。
「佐々木希 高校」「昔 ヤンキー」などの検索語があることと、その内容が事実であることは別です。学生時代について確実に確認できるのは、新体操に打ち込んだこと、体を痛めて大会を断念したこと、その後に秋田で働いていた時期があることです。
その後の佐々木希は秋田で働くようになり、2005年にはJR秋田駅前のファッションビルでショップ店員をしていた。
この時期は、後から見れば「デビュー直前」にあたるが、本人の生活の中心はまだ秋田にあった。東京の芸能事務所や撮影現場ではなく、地元で働く日常のすぐ隣に芸能界への入口が現れたことになる。
ここで起きた出来事が、本人の生活を大きく変えることになる。
秋田で働いていた10代|スカウトから芸能界入りへ
芸能界への入口は、東京で受けたオーディションではなく、地元・秋田で働いていた日常の中にあった。
ショップ店員として働いていたところを雑誌社にスカウトされたことが、佐々木希の芸能活動の出発点になった。
地元での仕事中に芸能界につながる声をかけられる
秋田経済新聞は、2005年にJR秋田駅前のファッションビルでショップ店員をしていた佐々木希が、雑誌社からスカウトされたと伝えている。
本人も後年、地元・秋田でのスカウトがデビューのきっかけだったと振り返っている。
当時の生活は、すでに芸能活動を始めていたわけではない。地元のファッションビルで接客の仕事をしていた一人の10代が、仕事中に雑誌の世界とつながった。
「デビュー前」を考えるとき、このショップ店員時代はモデルになった後の経歴より重要な境目になる。
芸能界へ入るために上京先を探していたわけではなく、地元で働いていた最中の声かけから道が開いた。
このスカウトのあと、雑誌のコンテストで結果を残し、モデルの仕事へ進んでいく。
「ギャルコン2005」と「プリンセスPINKY」でグランプリ
2005年、佐々木希は『週刊ヤングジャンプ』の「ギャルコン2005」グランプリを受賞した。
さらに2006年には、女性ファッション誌『PINKY』の「プリンセスPINKY」グランプリを受賞する。
2つの出来事は同じものではない。地元でのスカウトを入口に、2005年の『ヤングジャンプ』、2006年の『PINKY』と段階を踏み、モデルとしての活動が本格化していった。
『ヤングジャンプ』は青年漫画誌、『PINKY』は女性ファッション誌で、求められる見せ方も異なる。続けてグランプリを獲得したことで、佐々木希はファッションモデルとして東京で活動する足場を得ていった。
芸能界入りまでの流れ:秋田でショップ店員として働く → 雑誌社にスカウト → 2005年「ギャルコン2005」グランプリ → 2006年「プリンセスPINKY」グランプリ → モデル活動を本格化。
「秋田でスカウトされたこと」と「2つのコンテストで結果を出したこと」が、モデル佐々木希のスタートを形づくった。
上京してモデルへ|PINKY時代と新人時代
コンテスト受賞後、佐々木希は秋田を離れて東京へ移り、モデルとして生活を始める。
後年の本人の回想では、上京したのは18歳のころだった。
秋田を離れて東京で始まった芸能生活
上京したからといって、すぐに華やかな生活になったわけではない。
仕事も収入もまだ安定しておらず、事務所には門限や恋愛禁止などのルールがあった。
仕事もお金もなくて、毎日100円ショップの春雨を食べてました。
出典:日刊スポーツ「佐々希『彼と2泊3日』の写真集 入浴、下着姿も」(2016年7月26日)
モデルは私服を見せる企画も多かったため、100円、200円ほどの古着を探していたことも振り返っている。
2026年のフォトエッセイでは、上京後に孤独を感じたことや、事務所のルールへの反発を「第二次反抗期」として記している。
秋田では家族や友人が近くにいた生活から、仕事のために東京で暮らす生活へ変わる。受賞歴だけを並べると見えにくいが、モデルとしてのスタートには生活そのものを作り直す時期が重なっていた。
本人はデビュー当時、長く芸能界に残る未来を当然のように思い描いていたわけではなく、後年には25歳くらいで辞めると思っていたとも振り返っている。
地方で働いていた10代が、東京で新人モデルとして生活を組み立て直す時期でもあった。
モデルの仕事を重ね、活動の場が広がる
『プリンセスPINKY』のグランプリを経て、佐々木希は『PINKY』のモデルとして活動を広げた。
雑誌の中で服を見せ、撮影でポーズを取り、モデルとして経験を積む一方、芸能活動は徐々に雑誌の外へも広がっていく。
ここで重要なのは、モデルとして芸能界に入ったことと、女優として演技を始めたことは別の段階だという点だ。
2006年のモデル活動開始から約2年後、初めて「演じる」仕事がやってくる。
モデルから女優へ|『ハンサム★スーツ』から『天使の恋』へ
佐々木希の俳優としてのスタートは、モデル活動が軌道に乗ったあとだった。
2008年の映画『ハンサム★スーツ』が初めての演技仕事となり、2009年の『天使の恋』で映画初主演へ進んだ。
モデルデビューと女優デビューは同じではありません。2005〜2006年に雑誌をきっかけにモデル活動が始まり、演技への挑戦は2008年の映画『ハンサム★スーツ』から確認できます。
2008年『ハンサム★スーツ』で映画初出演
2008年公開の映画『ハンサム★スーツ』で、佐々木希は映画に初出演した。
それまでの主戦場はファッション誌だったため、映画の現場は「モデル佐々木希」にとって初めて本格的に演技へ向き合う場所になった。
役柄はモデルだったが、雑誌撮影と映画撮影はまったく同じではなかった。
立ち位置やセリフ、雑誌と違って難しかったです。
出典:日刊スポーツ「人気モデル佐々木希が女優デビュー」(2008年6月10日)
モデルとしてカメラの前に立つ経験はあっても、決められた位置で動き、台詞を覚え、相手役と芝居を組み立てる映画の現場は新しい仕事だった。
芸能界入りから約2年を経て、「見せる」モデルの仕事から「演じる」俳優の仕事へ初めて足を踏み入れたことになる。
2009年『天使の恋』で初主演、演技の楽しさを知る
映画初出演の翌年、2009年には『天使の恋』で映画初主演を務めた。
その前の2009年1月には日本テレビ系『神の雫』で連続ドラマにも初出演しており、映画だけでなくテレビドラマへも演技の場が広がっていた。
『ハンサム★スーツ』に続く2本目の映画で、女子高生・理央役を演じることになった。
一方、当時の佐々木希は、演技に対して最初から自信を持っていたわけではない。
この作品に出て、少し楽しさや充実感を感じられるようになりましたね。
出典:cinemacafe.net「佐々木希×谷原章介インタビュー 18歳差の恋人役の2人、次の共演は…義理の兄妹?」(2009年11月7日)
それまで演じる楽しさがよく分からなかったという本人が、主演作を通して少しずつ手応えを持ち始めた。
初主演そのものだけでなく、演技を「できない」と感じていた時期から、楽しさや充実感を感じるところまで進んだことが大きな変化だった。
演技への苦手意識と向き合い、俳優業を続けていく
『天使の恋』の時点で、佐々木希はまだ演技の方法をつかみ切ったとは考えていなかった。
それでも映画初主演の経験を経て演技の仕事は続き、2010年には『土俵ガール!』で連続ドラマ初主演を務めた。
モデルとして芸能界に入った人物が、2年ほど後に映画で初めて演じ、さらに映画初主演、連続ドラマ初主演へと仕事の幅を広げたことになる。
モデルの経歴を捨てて女優へ転身したというより、モデルの仕事を続けながら演技の経験を増やしていった形に近い。
だからこそ、芸能界入りの年と女優デビューの年を同じものとして扱うと、この数年間の変化が見えにくくなる。
2026年のフォトエッセイでは、かつて「芸能界は向いていない」と辞めようと思った時期があったことも明かしている。
最初から女優だけを目指していた一本道ではなく、秋田での生活、スカウト、モデル、新人時代の迷い、初めての演技が一つずつ積み重なって俳優としての道が形になった。
秋田でショップ店員として働いていた日常から始まった芸能活動は、モデルを経て演技へ枝を伸ばした。
その歩みを見ると、2008年の映画初出演と2009年の初主演は、佐々木希が「モデルとして知られる人」から「演じる仕事を続ける人」へ移っていった大きな分岐点だった。
















