鈴木亮平の生い立ち|家族と学生時代、モデル時代から俳優になるまで

鈴木亮平の生い立ちを伝える、ポートレートと家族・学生時代・モデル時代の文字を配したビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
すずきりょうへい
カテゴリー
男性俳優
出身地
兵庫県
生年月日
1983年3月29日
芸能活動開始
2004年
俳優デビュー
2006年
デビューのきっかけ
モデル

鈴木亮平さんは、1983年3月29日生まれの兵庫県出身で、2018年にはNHK大河ドラマ『西郷どん』で主人公・西郷隆盛を演じました。

東京外国語大学で英語を学び、英検1級も取得していることから、語学力の高い俳優としても知られています。

ただ、大学を卒業してすぐに順調な俳優人生が始まったわけではなく、プロへの入口を探して50社以上の芸能事務所や制作会社を回った時期もありました。

その前には兵庫県西宮市で過ごした少年時代があり、小学生でのアメリカ旅行、中学・高校での海外経験、大学の演劇サークル、モデル活動という段階を踏んでいます。

今回は、そんな鈴木亮平さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入るまでの若い頃、モデル時代から俳優として転機を迎えるまでをご紹介します。

鈴木亮平の生い立ち|兵庫県西宮で育った子ども時代

鈴木亮平さんは兵庫県西宮市で育ちました。

子どものころから親と一緒に外国映画を字幕で見る機会があり、フィクションの世界そのものに強く惹かれていたそうです。

小学生のころに好きになった作品のひとつが『シティーハンター』で、新宿という実在の街を舞台にした物語を見ながら、自分もそんな世界へ入りたいと想像していました。

西宮で過ごした小学校6年生のときには、1995年1月17日の阪神・淡路大震災も経験しています。

地震が起きたときは兄と子ども部屋の2段ベッドで寝ており、父親が暗い部屋へ飛び込んできて家の外へ出るよう促した姿が記憶に残っていると、神戸新聞の取材で話しています。

通っていた小学校の体育館は避難所となり、同年3月の卒業式は運動場で行われ、児童会長だった鈴木さんは屋外で答辞を読みました。

後に『花子とアン』で関東大震災後の家族との再会を演じた際には、自分が西宮で見た父親の姿を思い出して芝居に臨んだことも明かしています。

小学生で訪れたロサンゼルスが英語への入口に

英語への関心が大きく動いたのは、小学2年生で家族とアメリカ・ロサンゼルスを訪れたときでした。

当時、叔父がロサンゼルスに単身赴任しており、両親ときょうだいを含む家族全員で会いに行ったと振り返っています。

東京へ行った経験もほとんどないころに目にしたアメリカは、映画の中へ入ったように感じるほど鮮烈だったそうです。

僕のなかで英語のスイッチが入ったきっかけです。

出典:PRESIDENT Online「純ジャパの鈴木亮平の英語が超上手いワケ 車にライフルを積む同級生がいた」(2019年6月11日)

帰国後は兄と一緒にYMCAへ通い、遊びの延長のような形で英語に触れていました。

中学校で文法を習い始めると、それまで耳で触れていた英語と授業の知識がつながり、英語は好きな科目になっていきました。

映画への憧れから俳優を志し、海外への興味も深める

俳優という仕事への憧れも、かなり早い時期から芽生えていました。

2024年のインタビューでは、小学生で『シティーハンター』に出会い、フィクションの世界へ入りたいと思ったことから、何となく俳優になりたいと考えるようになったと話しています。

当時はまだ職業として具体的な道筋を考えていたわけではありませんが、フィクションの中へ入りたいという気持ちは、少しずつ俳優という仕事への憧れに変わっていきました。

思春期には映画への思いがさらに強くなり、進学を考えるころには「東京へ出て俳優を目指す」ことが大学選びの条件になっていました。

鈴木亮平の家族|共働きの両親と兄・妹の5人家族

鈴木亮平さんは、父親・母親・2歳上の兄・本人・年下の妹という5人家族で育ちました。

両親は共働きで、父親も食事の支度や掃除、風呂の世話まで家庭の仕事をきっちり担っていたそうです。

家事を半分担い、海外へ目を向けさせた父親

父親は建築士で、家庭では厳しさがありながらも、子どもが好きなことを自分の責任で選ぶ姿勢を尊重していました。

「勉強しろ」とは、ひとことも言われたことはありません。

出典:UR都市機構「未来を照らす(7)俳優 鈴木亮平さん」

一方で、海外へ視野を広げるための経験にはお金を惜しまず、小学2年生のロサンゼルス旅行や、その後の留学にも背中を押しました。

高校1年生でアメリカへ1年間留学したいと伝えた際も、費用は何とかすると送り出してくれたと鈴木さんは振り返っています。

父親の思い出の味は手作りプリン。家事を担っていた父親はプリン作りにもこだわっており、鈴木さんは後年、カスタード系のお菓子が好きなのは父のプリンの影響かもしれないと話しています。

2歳上の兄と年下の妹、家族そろって囲んだ夕食

家には、晩ごはんは家族そろって食べるというルールもありました。

思春期には窮屈に感じることもあったそうですが、仕事をしながら3人の子どもを育てた両親への思いは、年齢を重ねてから変わったと語っています。

2歳上の兄については、兄が先に学校生活を経験していたため、自分はその後を追えばよく、兄の友人とも自然に仲良くなれたことで学校生活が楽だったと振り返っています。

年下の妹は幼いころからかわいがっており、両親が共働きだったため、オムツを替えたり保育園へ迎えに行ったりすることもありました。

家庭では、父親だけでなく子どもたちも、それぞれの日常の中で家族の役割を担っていました。

鈴木亮平の学生時代|高校留学から東京外国語大学へ

鈴木亮平さんの学生時代は、英語と海外経験、そして俳優への思いが同時に深まっていった時期です。

公式プロフィールには東京外国語大学の英語専攻卒業に加え、英検1級とアメリカ留学経験が記されています。

中学のホームステイを経て高校1年でオクラホマへ留学

中学2年生では、父親が見つけてきたYMCAのプログラムでアメリカへ短期ホームステイしました。

父親から参加したいかと聞かれると、鈴木さんはすぐに行くと答えています。

中学3年生では西宮市のプログラムでオーストラリアへ行き、こちらも1〜2週間ほどのホームステイを経験しました。

高校は芦屋南高校、現在の兵庫県立国際高校へ進み、高校1年生のときにはアメリカ・オクラホマ州へ約1年間留学しています。

短期滞在とは違い、現地校では思うように英語が通じず、最初は無口になってしまうほど苦労したそうです。

それでも日本人やアジア人のほとんどいない環境でホストファミリーや同級生と生活し、英語を毎日使う時間が続きました。

留学先は都市部ではなく、牛を何十頭も飼うような農場のある地域で、日本で思い描いていたアメリカとは違う暮らしにも触れました。

英語が得意な生徒として渡米したものの、現地では思うように会話できず、最初は本来のよくしゃべる性格を出せなかったとも振り返っています。

短期ホームステイでは見えにくかった日常生活まで経験した1年間は、語学だけでなく、自分とは違う文化や価値観の中で生活する時間になりました。

英語との接点は大学からではありません。小2のロサンゼルス旅行、中2のアメリカ、中3のオーストラリア、高1のオクラホマ留学と、少年期から段階的に海外経験を重ねています。

英語と俳優への思いから東京外国語大学を選んだ

高校卒業後の進学先に選んだのは、東京外国語大学外国語学部でした。

大学選びには、英語を勉強したいという希望だけでなく、俳優になるために東京へ出たいという目的がありました。

まず、僕は役者になりたかったので、そのために東京の大学に行きたかったんですね。

出典:マイナビ学生の窓口「『あの人の学生時代。』#20:鈴木亮平『好きなことにとことん、まっすぐ』」(2018年1月24日)

私立大学より学費を抑えられることや、高校留学で理数系の勉強が遅れていたことも考え、受験条件まで現実的に検討して進学先を決めています。

大学では英語を専攻しましたが、学生生活で最も夢中になったのは授業ではなく演劇サークルでした。

演劇サークルの初舞台で俳優を一生の仕事にすると決意

演劇サークルへ入ると、最初のオーディションでメインとなる坂本龍馬役を任されました。

ところが、実際に舞台へ立つと、自分とは別の人物として歩くだけでも思うようにできず、演技の難しさを突きつけられます。

同時に、自分の芝居で観客の感情が動いていく感覚も味わいました。

一生の仕事として惚れ込んだ瞬間でした。

出典:@DIME「『冴羽獠』を演じたのは運命か?俳優・鈴木亮平が語る“30年越しの初恋”に込められた仕事の流儀」(2024年5月14日)

鈴木亮平さんが演技を始めたのは、芸能事務所へ入る前の大学時代です。

ここで俳優を仕事にすると決めたものの、所属していた演劇サークルには芸能界へつながるコネや決まった進路がありませんでした。

ホリプロの公式プロフィールには、大学時代に舞台で演技を始めた経歴とともに、東京のActor’s Clinicで映像演技のトレーニングを受けたことも記されています。

舞台で芝居の面白さを知ったあと、映像の仕事へ進むための技術も学びながら、所属先を探す段階へ進んでいきました。

鈴木亮平の若い頃|50社に断られモデル時代を経て芸能界へ

大学で芝居にのめり込んだ鈴木亮平さんは、プロになるための入口を自分で探し始めました。

履歴書を送るだけでなく、芸能事務所や制作会社を直接訪ねる飛び込みの売り込みも続けました。

プロを目指して50社以上の芸能事務所・制作会社へ売り込み

同世代の若い俳優がすでに活躍しているのを見て、鈴木さんは強い焦りを感じていました。

電車で移動する時間すら惜しくなり、原付バイクを買って事務所を回ったと後年のインタビューで明かしています。

人と同じことをしていたのでは、間に合わない。

出典:Precious.jp「死ぬまでに、誇りに思える作品を残したい|『土竜の唄 FINAL』鈴木亮平さんにインタビュー」(2021年11月13日)

しかし、訪ねてもほとんど相手にされず、最終的には50社以上から断られたといいます。

プロフィールを受け取ってもらえないこともありましたが、制作会社からキャスティング会社へと売り込み先を広げていきました。

事務所のドアをほとんど開けてもらえなかったり、制作会社でプロフィールを捨てられたりしたこともあったと、後年のテレビ出演で振り返っています。

部屋には「ここで諦めたら普通のヤツ!」と書いた紙を貼り、ノートにも自分を奮い立たせる言葉を書いていました。

そのキャスティング会社からモデル事務所を紹介され、ようやく仕事につながる場所が見つかります。

モデルとして仕事を始め「友近亮平」と名乗った時期も

2004年ごろからは、俳優ではなくモデルとして芸能活動を始めました。

ホリプロの人材育成を扱ったインタビューでは、当時所属したモデル事務所がホリプロ系列だったことから、俳優を志望していた鈴木さんとホリプロ側が会うことになった経緯も語られています。

モデルのオーディションでは、芝居を見てもらう前に外見だけで短時間に判断されることもあり、落選そのものに慣れる経験になったと本人は振り返っています。

俳優のオーディションなら演技を見てもらえる一方、モデルでは会場へ行って数秒で結果が決まることもあり、その違いを身をもって知ったそうです。

俳優一本で仕事を始めたのではなく、まずモデルとして現場に入り、そこから演技の仕事へ移っていったのが鈴木亮平さんの芸能界入りでした。

モデル時代には「友近亮平」と名乗っていた時期もありました。鈴木という姓が一般的だったため別の芸名を考え、当時好きだったお笑い芸人・友近さんの名前を借りたと、2023年のテレビ番組で本人が明かしています。

モデルとして活動した時間は、俳優になるまでの遠回りではなく、オーディションを受け続ける日々の一部でした。

モデル活動を経て2006年にテレビドラマへ出演

2006年には水着のキャンペーンボーイに選ばれ、同じ年にテレビ朝日系ドラマ『レガッタ〜君といた永遠〜』へ出演しました。

公式プロフィールにも2006年の『レガッタ』が初期のテレビ出演として掲載されており、2007年には映画『椿三十郎』へ出演しています。

鈴木亮平さんの「デビュー」は段階を分けると分かりやすくなります。演技そのものは大学の舞台で始まり、2004年ごろからモデル活動を行い、2006年にテレビドラマへ進み、2007年に映画へ出演しました。

テレビや映画へ出始めても、すぐに主演級の仕事が続いたわけではありません。

2010年には映画『ふたたび swing me again』で映画初主演を務めました。

監督の塩屋俊さんは、鈴木さんが以前に演技の学校で指導を受けた人物でもあり、後年のインタビューでも塩屋さんから教わったことを芝居の中で続けていると話しています。

モデルから映像作品へ進んだあとも、端役や脇役、主演を一つずつ経験しながら仕事の幅を広げ、その後、俳優としての印象を大きく変える作品と出会います。

鈴木亮平の転機|『HK/変態仮面』から『花子とアン』『西郷どん』へ

鈴木亮平さんのキャリアを作品一覧として並べると数は多くなりますが、本人が後年振り返った言葉を見ると、いくつかの作品にははっきりとした節目があります。

その中でも2013年の映画『HK/変態仮面』、2014年のNHK連続テレビ小説『花子とアン』、2018年の大河ドラマ『西郷どん』は、本人自身が変化や転機を語っている作品です。

『HK/変態仮面』で主演を引き受けた覚悟

2013年、鈴木亮平さんは映画『HK/変態仮面』で主演を務めました。

後年のインタビューでは、この作品への出演を決めた当時、数年間はCMや堅い作品から声がかからなくなる可能性まで考えていたと話しています。

奇抜な役だから流されて出演したのではなく、自分で選んだ上で引き受けた役だと2016年の映画.comのインタビューでも話しています。

ホリプロ公式YouTubeには、公開前の2013年3月に、撮影を終えた鈴木さん本人が『HK/変態仮面』について語る映像が残されています。

2026年にデビュー20周年を振り返った際にも、本人はキャリアの中で最も大きな「リブート」を挙げるなら『HK/変態仮面』だと答えています。

『HK/変態仮面』では約1年かけて肉体を作り込み、これまで以上に役ごとに身体まで変える俳優として注目されるきっかけにもなりました。

公開規模が大きい作品ではなかったものの続編が作られ、本人も後に代表作のひとつとして語る作品になっています。

『花子とアン』で名前が広く知られる俳優へ

『HK/変態仮面』の翌年、2014年にはNHK連続テレビ小説『花子とアン』で村岡英治役を演じました。

異色のヒーローを演じた直後に、朝の連続テレビ小説でヒロインの夫という役を担い、鈴木さんを取り巻く環境は大きく変わりました。

一気に世の中の人に知っていただいて、驚くくらい変わりました。

出典:クランクイン!「鈴木亮平、“あっという間”のデビュー20周年 キャリアの中で一番大きな“リブート”は?」(2026年1月18日)

『HK/変態仮面』で俳優としての振れ幅を見せ、『花子とアン』で広く名前を知られるという二つの出来事が、2013年から2014年に続きました。

『花子とアン』では吉高由里子さん演じる花子の夫・村岡英治を演じ、半年以上にわたる朝ドラの撮影に参加しました。

放送が終了した2014年9月には、本人公式Xにも村岡英治として撮影を終えた当時の姿を投稿しています。

本人ブログにも、クランクアップ時に「ここまで大切に思えるドラマに出会えることはそう何度もない」と感じたほど、作品への思いが強くなっていたことが残されています。

その後も映画、ドラマ、舞台で役を重ね、2018年には大きな到達点を迎えます。

2018年『西郷どん』で大河ドラマ主演

2018年、鈴木亮平さんはNHK大河ドラマ『西郷どん』で西郷隆盛役として主演しました。

青年期から最期まで一人の人物を約1年かけて演じる仕事は、それまでの作品とは違う経験になりました。

撮影に入る前には、西郷隆盛を「演じる」のではなく「生きる」という意識を持ち、長期間にわたって役と向き合いました。

最終回を翌日に控えた2018年12月15日には、本人公式Xから『西郷どん』と西郷隆盛への思いを自身の言葉で伝えています。

クランクアップ後には、自分と役が同化していくような感覚が大河ドラマならではだったとも話しています。

間違いなく大きな転機となった作品のひとつです。

出典:Precious.jp「死ぬまでに、誇りに思える作品を残したい|『土竜の唄 FINAL』鈴木亮平さんにインタビュー」(2021年11月13日)

モデル活動を始めた2004年ごろから数えると、大河ドラマの主演にたどり着いた2018年までには、約14年の時間が流れていました。

大学の演劇サークルで初舞台に立ったころ、鈴木さんには芸能界へ進む決まったルートがなく、50社以上を回っても所属先はなかなか見つかりませんでした。

そこからモデル、テレビドラマ、映画を経て、2018年に大河ドラマの主役を1年間演じるところまで進んだことが、鈴木亮平さんの若い頃から続く俳優としての道のりです。