染谷将太の生い立ち|映画好きの父と子役時代、13歳で見つけた俳優の道

染谷将太の生い立ちと子役時代、俳優への道を伝える人物ビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
そめたにしょうた
カテゴリー
男性俳優
出身地
東京都
生年月日
1992年9月3日
俳優デビュー
2001年
デビューのきっかけ
子役

映画『ヒミズ』で第68回ヴェネチア国際映画祭のマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞し、映画やドラマで幅広い役を演じてきた染谷将太さん。

1992年9月3日に東京都で生まれ、7歳から子役として芸能活動を始めました。

これだけ早く現場に立っていると、幼いころから俳優になることを決めていたようにも見えます。

ところが本人の話をたどると、最初から「俳優になりたい」と一直線に進んできたわけではありません。

そこには、映画好きだった父親、同い年の友人からの誘い、子役として経験した独特の緊張、そして13歳のころに出会った一本の映画がありました。

今回は、そんな染谷将太さんの生い立ちや家族、子役時代、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、俳優を仕事として意識するまでの歩みをご紹介します。

染谷将太の生い立ち|東京で育った映画好きの少年

染谷将太さんは東京都出身で、子どものころから映画が身近にある環境で育ちました。

芸能界との接点ができたのは7歳のころですが、それより前から、映画そのものへの興味は育っていたようです。

幼いころから父親の影響で映画に親しんだ

染谷さんが映画好きになった背景には、映画好きだった父親の存在がありました。

とにかく父親が映画好きなんです。

出典:CREA「子役出身ですでに芸歴10年 世界が熱い視線を送る染谷将太」(2011年12月1日)

幼稚園ぐらいのころ、ケーブルテレビで偶然チャップリンの短編を見たことから、自分でも映画を見るようになったと振り返っています。

言葉のないサイレント映画だったため、幼い染谷さんにも映像の面白さが伝わりやすかったようです。

小学校低学年になると、『007』シリーズも父親と映画について話すきっかけになりました。

ピアース・ブロスナン版のジェームズ・ボンドを見ていたところ、父親からショーン・コネリー版を勧められたことも本人が明かしています。

小学生だった染谷さんは『007』に出てくる「殺しのライセンス」の意味が分からず、父親に尋ねたこともあったそうです。

ただ映画を見るだけではなく、父と作品について言葉を交わす時間も、幼いころの日常にありました。

「映画を作る人たちの一員になれたら」という思いも、俳優になる前からぼんやりと持っていたといいます。

7歳で友人に誘われ子役の世界へ

その映画好きの少年に、芸能界へ入る具体的なきっかけをくれたのは家族ではなく、同い年の友人でした。

7歳のとき、先に子役を始めていた友人から、一緒に芸能事務所へ入ろうと誘われます。

それまで「映画を作る側」への興味はあっても、自分が出演するという方法までは意識していませんでした。

友人を通して、映画に参加する方法の一つとして「出演する」という道を知ったのです。

こうして7歳から子役活動を始め、オーディションにも数多く参加するようになりました。

公式プロフィールには、2001年の映画『STACY』が初期の出演作として記録されています。

染谷さんは9歳のころに同作へ出演し、映画の現場へ足を踏み入れました。

7歳で子役活動を開始し、9歳で映画『STACY』に出演。ただし、この時点で将来を俳優一本に決めていたわけではなく、職業として強く意識する時期はもう少し後に訪れます。

染谷将太の家族|映画好きの父親と母親、兄との関係

染谷将太さんの生い立ちをたどると、家族は子役になる前だけでなく、現場へ出るようになってからもたびたび登場します。

特に父親から受けた影響は、映画への興味と仕事への向き合い方という二つの面に表れています。

父親から受けた映画と仕事への影響

父親について本人が繰り返し語っているのは、名前や職業ではなく、とにかく映画が好きな人だったということです。

染谷さん自身が映画を見るようになった背景にも父親がおり、小学生になってからは作品を勧められることもありました。

そして子役活動が始まると、父親から受け取るものは映画の楽しさだけではなくなります。

初めて撮影現場へ向かう前夜、両親から、撮影は遊びではなく仕事であり、周囲へ迷惑をかけないよう仕事をする気持ちで行くよう伝えられたと明かしています。

まだ7歳だった染谷さんに、両親は撮影現場を「子どもの遊び場」ではなく「仕事の場所」として教えていました。

2026年のインタビューでも、父親から何度も言われていた言葉として「人にだけは迷惑をかけるな」を挙げています。

幼いころに撮影現場へ向かう際に教えられた姿勢と、大人になってから振り返った父親の言葉には、共通するものがあります。

母親との思い出と子役活動を支えた両親

子役を始めたいと話したとき、両親は強く反対するのではなく、「やりたいならやってみれば」と背中を押しました。

一方で、両親も本人も、それがそのまま将来の職業になるとは考えていなかったそうです。

染谷さんは辞めたいと言わず、家族の支えもありながら現場へ通い続けました。

母親については、2019年に食事と家族の記憶を振り返ったインタビューで、家庭の日常が伝わる小さなエピソードを話しています。

思い出の料理は母親の唐揚げで、揚げている最中に油がはね、台所から叫び声が聞こえてきたことまで覚えているそうです。

仕事として撮影へ向かうよう教えた両親と、家庭では唐揚げを囲む日常がありました。

2026年の本人発言で確認できる兄の存在

染谷さんには兄がいることも、本人自身の発言から確認できます。

2026年6月に公開されたインタビューでは、その年の正月に父親と兄と3人でウイスキーを飲んだことを明かしました。

父親は以前からその銘柄を好んでおり、染谷さんがCMへ出演したことを喜んでくれたそうです。

同じ時期には、サントリーウイスキー「角瓶」のWEBムービー『親子の答え合わせ』篇にも出演し、「父になった息子」を演じています。

成人した息子たちと父親が正月に酒を囲むという、子役時代とは違う時期の家族の姿も本人の言葉に残っています。

父親から繰り返し聞いた「人に迷惑をかけるな」という言葉についても、仕事や人間関係を築く際に意識していると話しています。

染谷さんにとって父親は、幼いころに映画を教えてくれた人であると同時に、仕事へ向かう基本姿勢を伝えた人でもありました。

染谷将太の学生時代|子役の仕事と学校生活

7歳から仕事を始めた染谷さんにとって、学生時代は学校生活と俳優活動が同時に進んでいく時期でした。

現場が好きだった一方、幼いころから仕事を楽しむ余裕ばかりがあったわけではありません。

子役現場では食事も喉を通らないほど緊張していた

子役としてオーディションへ参加すると、同じ年ごろの子どもたちが同じ演技をし、それを大人たちが真剣な目で見て一人を選びます。

まだ7、8歳だった染谷さんも、その独特な空気を子どもながらに感じていました。

撮影現場そのものは好きだったものの、緊張はかなり強かったようです。

失敗したらどうしようという恐怖心とかプレッシャーを感じてました

出典:スポニチアネックス「染谷将太 『失敗したらどうしよう』食事ものどを通らなかった子役時代」(2021年10月29日)

中学生くらいまで、現場では弁当も食べられず、食事が喉を通らない状態が続いていたといいます。

子役として長く出演を続けていても、現場に慣れきっていたわけではありませんでした。

好きな場所であることと、失敗できない仕事として緊張することが、子どものころから同時に存在していたようです。

高校時代には一般のアルバイトにも挑戦

中学校を卒業するころには、将来への思いは大きくぶれなくなっていました。

本人は、高校について役者を志す人たちが通うような学校だったと振り返っています。

同じ高校には仲野太賀さんもおり、高校時代には一緒に映画を自主制作することもありました。

すでに俳優として仕事をしていましたが、その一方で「一般の仕事」への興味も持っていました。

高校生のころ、デリバリーのキッチンなどで働こうとアルバイトの面接を受けたものの、結果は不採用続きだったそうです。

面接で俳優の仕事によって急に休むことがあると正直に伝えていたため、自分でも「受かるわけない」と後から笑っています。

知らない職業を経験してみたくて、ですね。

出典:ORICON NEWS「染谷将太『自分もそうしてみよう――とはならないけど 演じるのはおもしろい』」(2013年2月27日)

俳優の仕事では実感しにくい「時給で働いてお金を稼ぐ感覚」にも興味があったと話しています。

子役から仕事を続けてきたからこそ、自分が知らない働き方を一度経験してみたいという気持ちがありました。

高校卒業後は役者一本の道へ

高校時代にはすでに映画への進路を見据えていましたが、卒業はもう一つの区切りになりました。

学校を卒業すれば、学生生活と俳優業を並行する状態ではなくなります。

仕事の中心が俳優一本になったとき、その現実を強く意識したと2026年のインタビューで振り返っています。

オレには他の選択肢はない。これで生きていくしかないんだ

出典:GOETHE「染谷将太、『ぬるっと始まった役者』が“一生の仕事”となった瞬間とは」(2026年5月15日)

7歳で自然に始まった仕事が、高校卒業後には自分が生きていく仕事になっていました。

ただし、その決意が高校卒業の日に突然生まれたわけではありません。

俳優という仕事を自分の将来として初めて具体的に意識した出来事は、すでに中学生のころに起きていました。

13歳の『14歳』で俳優を仕事として意識

染谷さんの経歴では、7歳の子役開始と13歳前後の『14歳』出演を分けて考えると、俳優になるまでの流れが見えやすくなります。

演技の仕事そのものはすでに何年も経験していましたが、「役者を職業にする」という意識が生まれたのは『14歳』の現場でした。

映画の見方まで変えた撮影現場

廣末哲万監督の映画『14歳』は2007年に公開され、染谷さんは13歳のころに撮影へ参加しました。

それまでにも数々の現場に立っていましたが、この作品では「映画を撮っている」という感覚を初めて強く持ったそうです。

映画の見方だけでなく、自分が作品へどう関わるのかという意識まで変化しました。

このまま役者を職業にできたら幸せだな

出典:双葉社 THE CHANGE「染谷将太『ほかの業界の仕事をしていることが想像できない』役者になりたいと思ったきっかけの作品」(2024年12月8日)

本人は『14歳』の現場を、自分にとっての「ひとつの転機」と表現しています。

さらに、俳優として芝居を続けられなかったとしても、何らかの形で映画に携わる仕事をしたいと思うようになりました。

幼いころから映画を見てきた少年が、見る側ではなく、映画を作る側で生きていくことを初めて具体的に考えた時期でした。

また、このころから見る映画のジャンルも広がり、自分が芝居をする世界への感覚も広がっていったと話しています。

『パンドラの匣』で長編映画初主演へ

『14歳』以降も出演を重ね、2009年には冨永昌敬監督の映画『パンドラの匣』で主演を務めました。

太宰治の同名小説を映画化した作品で、染谷さんが演じたのは結核療養所で暮らす青年・ひばりです。

子役として小さな役から現場経験を重ねてきた染谷さんにとって、長編映画で主演を担うところまで進んだ節目になりました。

まだ10代でしたが、映画『14歳』で職業としての俳優を意識してから、主演として一本の作品を背負う立場へ進んでいます。

高校時代には仲野太賀さんと自主映画も作っており、出演するだけでなく、映画そのものへの関心を持ち続けていました。

やがて、その若い俳優が国際映画祭で大きな評価を受ける作品と出会います。

『ヒミズ』が俳優・染谷将太の大きな転機に

染谷将太さんの10代までの歩みを締める大きな出来事が、園子温監督の映画『ヒミズ』への出演です。

『14歳』が俳優を職業として意識した内面的な転機だったとすれば、『ヒミズ』はその演技が国内外から広く評価された転機になりました。

憧れていた園子温監督作品のオーディションへ

『ヒミズ』への参加は、最初から出演が決まっていたわけではありません。

染谷さんはオーディションを受け、主人公の住田祐一役をつかみました。

そこには、以前から園子温監督の映画を見ていたという背景がありました。

ずっと出たいと思っていましたから、受けない理由はありませんでした。

出典:シネマトゥデイ「『ヒミズ』染谷将太&二階堂ふみ 単独インタビュー」(2012年1月16日)

『ヒミズ』公開前には、染谷さん本人が原作や撮影現場について振り返ったインタビュー映像も残されています。

作品では、平凡な生活を願いながら過酷な現実へ追い込まれていく15歳の少年を演じました。

自分から受けに行ったオーディションでつかんだ主演作は、やがて海外の映画祭へ届きます。

ヴェネチア国際映画祭で新人俳優賞を受賞

2011年、『ヒミズ』は第68回ヴェネチア国際映画祭へ出品されました。

そこで染谷さんと二階堂ふみさんは、若手俳優を対象とするマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞します。

マルチェロ・マストロヤンニ賞は、ヴェネチア国際映画祭で若手俳優の演技を評価する賞で、染谷将太さんの公式プロフィールにも第68回映画祭での受賞歴として記載されています。

染谷さんは当時10代で、9歳の映画初出演からおよそ10年が経っていました。

友人に誘われて7歳で始めた子役の仕事は、13歳の『14歳』で自分の将来として輪郭を持ち、主演作品で国際映画祭の評価を受けるところまで進みました。

『ヒミズ』での受賞は、子役として現場に立ち始めた染谷将太さんが、若手映画俳優として国際的に名を刻んだ大きな到達点です。

10代の終わりに置かれたこの出来事は、その後も数多くの作品へ出演していく染谷さんの俳優人生をたどるうえで、今もはっきりと残る節目になっています。