PROFILE
人物プロフィール
ドラマ『HERO』で、何を頼まれても「あるよ」と答えるバーのマスターを演じた田中要次さん。
2001年の『HERO』は田中さんにとって初めての連続ドラマレギュラーでしたが、その約20年前は、俳優とはまったく違う場所で働いていました。
高校卒業後に就職したのは国鉄で、仕事は線路を守る保線でした。
長野県木曽の農家で育った青年が、国鉄からJR東海へ移り、映画館で出会った人たちをきっかけに撮影現場へ入り、照明助手と俳優を行き来するようになります。
今回は、そんな田中要次さんの生い立ちや家族、学生時代、国鉄・JR東海で働いた若い頃、映画の世界へ入り俳優になるまでの道のりをご紹介します。
田中要次の生い立ち|長野県木曽で育った少年時代
田中要次さんは1963年8月8日、長野県西筑摩郡新開村、のちの木曽郡木曽町に生まれました。
山に囲まれた土地で育ちましたが、子どもの頃から外遊びばかりしていたわけではありません。
山に囲まれた故郷よりプラモデルが好きだった
木曽町は森林の割合が非常に高い山間の町で、田中さんの身近にも山がありました。
ただ、子どもの頃はその自然を誇らしく感じるというより、目の前をふさぐような山を「田舎」の象徴として見ていたそうです。
「この壁はどうにかならないのか」
出典:林野庁『林野』2012年7月号「緑のエッセー」
自然の中で遊ぶより家で何かを作るほうが好きで、小学2年生の入院中に兄がお見舞いで持ってきたプラモデルをきっかけに夢中になりました。
誕生日には大きなフェアレディZのプラモデルを買ってもらったことも、後年のインタビューで覚えている思い出として挙げています。
田中さんは幼い頃から「自然派」一辺倒ではなく、プラモデルやラジオなど、家の中で楽しめるものにも強く惹かれていました。
放送室をラジオ番組のように変えた小中学生時代
1970年に入学した木曽福島町立黒川小学校は、生家から忘れ物を取りに戻れるほど近く、1クラス11人ほどの小さな学校でした。
小学校では放送部に入り、昼休みの校内放送をラジオ番組のようにして楽しんでいます。
中学校でも放送活動を続け、放送室の窓にリクエストボックスを設けたり、実際には電波を飛ばしていないのにコールサインを作ったりしていました。
先生から「学校放送に革命を起こした」と言われるほど自由に番組を作る一方、『帰って来たヨッパライ』のレコードを流したときには叱られたというエピソードもあります。
この頃は漫画『がきデカ』にも夢中で、授業中に主人公のこまわり君になりきったように机や椅子を叩き、先生に叱られたこともありました。
静かにプラモデルを作る一方で、放送室や教室ではふざけて人を楽しませることも好きな子どもだったようです。
姉からもらったラジオでタモリさんの『オールナイトニッポン』などを聴いていたことが、こうした遊びにつながったようです。
この頃の田中さんは人前に立つ俳優を目指していたわけではありませんが、音楽やラジオ、プラモデルなど、自分の好きな世界にのめり込む少年でした。
田中要次の家族|父・母・兄・姉・祖母と暮らした生家
田中要次さんは二男一女の末っ子として生まれ、両親、兄、姉、祖母と同じ家で育ちました。
後に国鉄へ就職する進路にも、家族の出来事が関わっています。
13歳上の兄と10歳上の姉、祖母に囲まれた末っ子
兄は田中さんより13歳上、姉は10歳上で、きょうだいの中ではかなり年の離れた末っ子でした。
兄が高校時代にバンドでビートルズの「ヘイ・ジュード」などを演奏していたことから幼いうちに洋楽を知り、姉からもらったラジオでは深夜放送を聴くようになります。
生家は土間や囲炉裏のある昔ながらの平屋の農家で、台所は屋内にありましたが、風呂と便所は外にありました。
田中さんは祖母と同じ区画を使って暮らし、夜に外の便所へ行くのが怖いときは祖母についてきてもらっていたそうです。
「小さい頃は夜に便所に行くのが怖くなると、いつも祖母についてきてもらっていました。」
出典:週刊文春「役者一本に決めたのは、これまた追突事故のせい。トホホとしか申しようがない。|田中要次」(2025年2月24日)
家の裏には蔵があり、亡くなった祖父が集めたバイオリンや山高帽、ステレオスコープなども残されていました。
父の仕事を手伝った山の記憶と小学6年生での別れ
山に囲まれた暮らしを当時はあまり好きではなかった田中さんにも、父と山へ入った記憶は残っています。
父は原木シイタケの栽培をしており、田中さんも木に穴を開けて種菌を植える作業を手伝っていました。
夢中で作業をして、夕方に一人で山から帰るときには怖くなったこともあったと、林野庁のエッセーで振り返っています。
その父を、田中さんは小学6年生のときに亡くしました。
父がいなくなったあと、母や親戚からは安定した仕事に就き、家を守るよう勧められたといいます。
高校卒業後に国鉄を選んだ背景には、地元で働くことと、家を支えることへの家族の思いがありました。
木曽の生家は後に民泊として再生
田中さんが育った家は明治元年に建てられた古民家で、田中さん自身は国鉄の民営化後に転勤するまで暮らしていました。
田中さんの公式サイトによると、生家は一時約15年間空き家になったあと、2008年から木曽町の「田舎暮らし体験住宅」として使われ、2019年に返還されました。
屋根や屋内の修繕を重ね、2024年には母屋が民泊「魯芭伍屋6858」として再生されました。
公式サイトには、ここで暮らしていた頃には俳優になる将来など考えていなかったという、田中さん自身の言葉も記されています。
2024年11月には、本人の公式Xにも生家と周囲の山を写した投稿が残されています。
田中要次の若い頃|高校卒業後に国鉄・JR東海の保線員へ
田中要次さんの若い頃をたどるうえで欠かせないのが、約8年8カ月にわたる鉄道員時代です。
俳優を目指して学校へ進んだのではなく、高校を卒業するとそのまま国鉄へ就職しました。
高校では音楽に熱中、大学へ進まず国鉄へ就職
進学したのは長野県木曽山林高等学校の林業科で、後の長野県木曽青峰高等学校につながる学校です。
林業科を強く希望して選んだわけではなく、入学してからヘルメットや軍手が必要だと知って驚いたほどだったと本人は書いています。
高校では一時期、演劇部にも入りました。
これは後から振り返れば俳優歴の前史に見えますが、本人は当時について、役者になりたいとはまったく考えていなかったと話しています。
ところが俳優志望だったからではなく、男子の多い学校で「女子がいるクラブ」を探したことなどが入部理由で、文化祭で一度舞台に立つと肌に合わないと感じて辞めています。
むしろ熱中したのは音楽で、YMOなどの影響を受け、ゴルフ場でキャディーのアルバイトをしてシンセサイザーを購入し、バンドでも演奏していました。
大学には進学せず、1982年に日本国有鉄道の長野鉄道管理局へ就職します。
地元で働くためにいくつか試験を受け、その中で国鉄に合格したことも就職の理由でした。
線路を守った国鉄・JR東海時代
国鉄で担当したのは、レールの交換や検査などを行う保線の仕事でした。
1987年の国鉄分割民営化後はJR東海の社員となり、岡崎保線区へ移っています。
線路のゆがみを直す保守用車「マルタイ(マルチプルタイタンパー)」を扱い、線路を歩いてレールの状態を目視や音、測定で確認する仕事にも携わりました。
測った数値からレールをどれだけ動かすか計算し、マルタイへ入力するデータまで作っていたそうです。
「つまり生身のドクターイエローだったってことですね(笑)。」
出典:旅と鉄道note「7人7鉄の新幹線話 第3回 田中要次」(2026年8月21日)
黄色いマルタイに、100系新幹線の青いラインを参考にしたデザインを入れる提案までしており、鉄道員時代にも機械やデザインへの興味が顔を出しています。
1987年ごろには、黄色を残しながら青いラインと「J」「R」をイメージした斜めの線を加えたといい、何十年もたってから当時の保守用車の話を楽しそうに語っています。
保線は、列車が安全に走れるよう線路を検査し、レールや枕木、バラストなどを整備する仕事で、田中さんは現場作業だけでなく検測や保守用車の操作にも携わっていました。
愛知への異動で映画館通いが人生を動かす
鉄道員として働く一方で、映画は以前から好きでした。
中学生の頃には、10歳上の姉の夫に連れられて松本市まで出かけ、1978年公開の『スター・ウォーズ』を観たこともありました。
木曽では新作映画を見るために松本市まで出る必要がありましたが、1987年の民営化でJR東海へ移り、職場が愛知県になったことで映画館へ足を運ぶ機会が増えていきます。
愛知・岐阜・三重の映画館や自主上映活動へ出入りするようになり、映画を作る側の人たちとも知り合うようになりました。
「民営化で居場所が変わったのは運命だったのかな」
出典:スポニチ「元国鉄マン田中要次 民営化が『運命』職場は愛知に、映画館通いに火」(2015年11月15日)
この時期に山川直人監督の作品に強く惹かれ、やがて監督本人ともつながります。
国鉄の民営化で長野を離れたことが、映画館へ通う生活と映画人との交流を生みました。
田中要次が俳優になるまで|JR退職から「HERO」の転機へ
田中さんは最初から俳優を目標にして映画界へ入ったわけではありません。
鉄道員のまま映像作品へ出演し、その後に会社を辞め、上京後は撮影スタッフとして映画の現場へ入っています。
山川直人監督との出会いと「BoBA」の始まり
国鉄勤務中に雑誌『宝島』で山川直人監督を知り、『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』などの作品を見るようになりました。
その後、山川監督の妻の仕事を手伝った縁もあり、佐木伸誘さんのミュージックビデオ『SEEK AND FIND』への出演を誘われます。
北海道で数日間の撮影に参加し、プロの俳優たちと同じ現場を経験したことで、田中さんの気持ちは実際の撮影の世界へ傾き始めました。
初めて作品へ出演できたことがうれしく、田中さんは地元のレコード店へわざわざ出演を知らせに行ったこともあったそうです。
ただ、この時点ではまだJR東海の社員で、映像の仕事は鉄道員として働きながら経験したものでした。
この作品で演じた役の名前が「ボバ」で、後に使う「BoBA」の由来になっています。
「本当は、タナカヨウジではなく、『BoBA(ボバ)って呼んで下さい』っていうのが僕のなかの思いです。」
出典:テレ朝POST「1つの役に2つの俳優名が…田中要次がひらめいた驚きの『解決方法』」(2018年6月29日)
『鮫肌男と桃尻女』ではオープニングに「BoBA」、エンドロールに「田中要次」と表記されたことから、本人は英字表記ではBoBAを使うという考え方も語っています。
『SEEK AND FIND』は1989年の起用・出演として紹介する資料と1990年の作品として「俳優デビュー」とする資料があるため、この記事では鉄道員時代に出演した最初期の映像仕事として扱い、芸能界入りと俳優専業の時期を同一にはしていません。
撮影現場を経験したあとも、すぐにJRを辞めたわけではありません。
退職を考えながら踏み切れずにいた時期に自動車事故を起こし、自分が選んだことへ進もうと考えます。
「だったら自分で選んだことをやろうと思い、JRに退職を申し出ました。」
出典:SmartFLASH「田中要次 国鉄勤務時代に映画と出会い俳優の道へ…目を留めてくれたのは竹中直人だった」(2022年6月19日)
母に東京へ行くと伝えると強く反対され、食器を投げられたことも本人は振り返っています。
1990年12月8日、田中さんはJR東海を退職しました。
8月8日生まれの田中さんが計算すると、その日は国鉄へ入ってからちょうど「8年8カ月8日」にあたり、ジョン・レノンの命日でもあったため、この日を選んだそうです。
上京後の部屋も、内見できない物件の番地が「2-18-18」だったことを面白がって決め、1990年のクリスマスに引っ越して初めて室内を見たというほど、節目で数字の巡り合わせを楽しんでいました。
田中さんは鉄道会社を辞めることを自ら「脱線」と表現しており、12月8日の退職日まで含め、鉄道員時代は後年も本人のトークでたびたび語られる経歴になっています。
27歳で上京し『無能の人』の照明助手から出演へ
JRを辞めた田中さんは27歳で上京しました。
俳優養成所へ入ったのではなく、まずは以前参加した作品で知り合った照明スタッフを頼り、照明機材の製作を手伝います。
その約1カ月後、竹中直人さんの初監督映画『無能の人』の現場へ照明助手として参加することになりました。
カメラテストで竹中さんの代わりに立ったところ、体格や生え際が似ていたこともあって竹中さんの目に留まり、作品へエキストラとして出演します。
エンドロールに名前は出ませんでしたが、撮影スタッフとして入った現場で役者としてカメラの前にも立つという、田中さんらしい初期のキャリアになりました。
上京直後は「俳優だけ」ではなく、照明、録音、ドライバーなど映画を作る側の仕事と出演を並行していました。
田中さん本人が鉄道員時代から『無能の人』『119』などへ進んだ経緯を語る対談では、この時期の「役者への道」を映像でも確認できます。
スタッフとの兼業をやめ俳優一本に
『無能の人』のあともオーディションを受けましたが、すぐに俳優の仕事だけで生活できたわけではありません。
撮影現場では照明助手や録音助手、ドライバーなどを続け、竹中直人監督の『119』までスタッフとしてさまざまな作品に関わりました。
撮影の仕事がない時期には、宅配便、解体、飲食店の厨房、バイク便など複数の仕事も経験しており、映画の現場へ残る方法を探しながら生活していました。
ところが、照明機材を積んだトラックを運転中に大きな事故を起こします。
幸い本人は無事でしたが、仕事先の先輩から「もう来るな」と言われたことを、田中さんは自分なりに「役者一本でやれということだ」と受け取り、撮影スタッフとの兼業をやめました。
ただし、この時点でアルバイトまで完全になくなったわけではなく、その後もしばらくはバイク便などで生活を支えています。
1998年ごろ、当時交際していた女性から「ご飯ぐらいなら食べさせてあげる」という趣旨の言葉をかけられたことが、最後まで続けていたバイク便を辞めるきっかけになりました。
その日のうちにバイト先へ退職を伝えたため、言葉をかけた本人にも驚かれたといいます。
撮影スタッフにも戻れず、アルバイトもなくなったことで、以前から知っていた監督たちへ自分から「出して下さい」と連絡するなど、役者の仕事を得るための動きが強くなりました。
鉄道会社を辞めた1990年から、俳優の仕事だけで生活できるようになるまでには、何年ものスタッフ兼業とアルバイトの時期がありました。
1999年の映画『鮫肌男と桃尻女』への出演後は、映画やCMでも名前を知られる機会が増えていきます。
田中さん自身も、この作品をきっかけに映画やCMで起用されやすくなり、NTTグループのCMへ継続して出演したことも『HERO』以前の大きな足場だったと振り返っています。
2001年『HERO』の「あるよ」で大きな転機
そして2001年、フジテレビ系ドラマ『HERO』でバーのマスター役に起用されました。
田中さんにとって『HERO』は初めての連続ドラマレギュラーでした。
最初から「あるよ」だけを言う役として決まっていたわけではなく、第1話の台本にあったセリフは「ビール」でした。
レギュラーとは聞いていたものの衣装合わせもなく、本人は店の奥でシェーカーを振るくらいの役だろうと思って現場へ行ったところ、印象的な衣装が用意されていたそうです。
リハーサルで「はい、ビール」と言うと監督から「はい」はいらないと指示され、田中さんはマスターがかなり無口な人物だと捉えたそうです。
回を重ねる中で第4話ごろから「あるよ」が繰り返されるようになり、短い一言がマスターの代名詞になっていきました。
鉄道員から映画スタッフを経て俳優になった田中さんが、広く顔を知られるきっかけになったのが『HERO』でした。
田中さんは後年、作品の中には存在したいものの、あまり多くはしゃべりたくないという趣旨の本音も明かしており、無口なマスターは本人にとっても相性のいい役だったと振り返っています。
放送後は、それまで映画館で気づかれる程度だった反応が変わり、駅や自宅の近くでも声をかけられるようになったと本人は振り返っています。
木曽で育ち、国鉄で線路を守り、映画を作る側の仕事も経験した田中さんが、初の連続ドラマレギュラーで一気に知られるようになったのは、JR東海を辞めてから約10年後のことでした。
















