PROFILE
人物プロフィール
りょうさんは、1973年1月17日生まれ、埼玉県出身の女優です。
モデルとして活動したのち、1996年のドラマ『ロングバケーション』で女優デビューし、映画や舞台へ活動の場を広げてきました。
ただ、子どもの頃から女優を目指していたわけではありません。
幼い頃に興味を持っていたのはヘアメイクやデザイナー、スタイリストといったファッションの仕事で、15歳で受けたスカウトもモデル事務所からのものでした。
ファッションの世界に憧れた少女がモデルになり、演技経験のないまま女優の仕事へ進んでいったのが、りょうさんのキャリアの始まりです。
今回は、そんなりょうさんの生い立ちや家族、学生時代、モデルになったきっかけ、『ロングバケーション』で女優を始めた頃、俳優としての転機などをご紹介します。
りょうの生い立ち|埼玉で4人きょうだいの3番目として育つ
りょうさんは埼玉県で生まれ、2人の兄と弟がいる4人きょうだいの3番目として育ちました。
男兄弟に囲まれた子ども時代は、後に広く知られるクールなモデル姿とは少し違う、かなり活発なものだったようです。
男兄弟に囲まれた子ども時代|草野球で投手兼キャプテン
小学生になると、りょうさんは草野球チームに入っていました。
ただ参加していただけではなく、最後にはピッチャーを任され、さらにチームのキャプテンも務めています。
「最終的にはピッチャーでキャプテンでした」
出典:ORICON NEWS「両親の離婚、実兄の死…女優・りょうが知られざる苦悩を初告白」(2009年7月25日)
本人は当時を振り返り、女の子らしい遊びよりも、男兄弟と一緒に動き回るような遊びを好んでいたことを明かしています。
小学生時代には野球でピッチャー兼キャプテンを務めるほど、外で活発に遊ぶ子どもでした。
4人きょうだいの中で、りょうさんは2人の兄と弟に挟まれた3番目でした。
幼い頃からヘアメイクや服の仕事に憧れた
活発に遊ぶ一方で、幼い頃から興味を持っていたものがファッションでした。
幼稚園の頃にはヘアメイクの仕事に憧れ、小学生になるとデザイナーやスタイリストといった仕事にも目を向けるようになります。
この頃は、自分がモデルとして服を着ることよりも、服やヘアメイクに関わる仕事そのものに惹かれていました。
高校を卒業する頃にも、その気持ちは残っていました。
進路として考えていたのは芸能系の学校ではなく、服飾の専門学校です。
女優はもちろん、最初から芸能人になることを中心に将来を考えていたわけではありませんでした。
りょうの家族|2人の兄と弟、両親との関係
りょうさんの若い頃を知るうえで外せないのが、家族との出来事です。
4人きょうだいで過ごした子ども時代から、高校生になる頃には家庭の状況が大きく変わっていきました。
高校1年で両親が離婚し、きょうだいも別々に
りょうさんが高校1年生だった頃、両親が離婚しています。
それまで一緒に育ってきたきょうだいも、その後は離れて暮らすことになりました。
2009年に『ソロモン流』の取材を受けた際には、15歳から父親とも会っていないと本人が明かしています。
両親の離婚と家族が離れて暮らすようになった時期は、りょうさんが15歳でモデル事務所からスカウトされた頃とも重なっています。
家庭の状況が変わる中でモデルの仕事へ進み、のちには東京で一人暮らしをしながら活動するようになりました。
兄の病気と死をきっかけに女優の仕事と向き合う
離れて暮らすようになった家族との関係は、大人になってからもう一度りょうさんの仕事に影響することになります。
ある時、離れて暮らしていた兄が重い病気となり、余命を告げられていることを知りました。
長く離れていたため、兄とはそれまで頻繁に付き合いがあったわけではありませんでした。
それでも兄は、妹が出演するドラマを見てくれていたといいます。
兄が自分の作品を楽しみにしてくれているなら、自分自身ももっと仕事を楽しもうと考えるようになりました。
兄の存在は、女優という仕事に対する気持ちを見直すきっかけの一つになりました。
夫TOSHI-LOWとの結婚で「人に頼る」ことを覚えた
りょうさんは2003年、BRAHMANのボーカルとして知られるTOSHI-LOWさんと結婚しました。
2人は結婚する以前から長く友人関係にあり、TOSHI-LOWさんは兄が重い病気になった時期にも、りょうさんを支えていた一人でした。
本人は、子どもの頃から日常生活のことを自分でこなし、家庭環境の影響もあって親に頼ることができなかったと振り返っています。
結婚後、何でも一人でやろうとする姿を見た夫から、もう少し人に頼ってもいいのではないかと何度も言われました。
「少しずつ変わることができたんです」
出典:毎日キレイ「私が30歳のころ:りょうさん 交際0日婚で生きることが楽に 夫のおかげで『少しずつ変わることができた』」(2022年7月)
結婚後には2人の息子が生まれ、子育てでは義母にも助けてもらいながら、再び仕事へ向かうようになりました。
生育家庭について語る時に出てくる「自分でやる」という生活と、結婚後に覚えた「人に頼る」という感覚は、本人自身が振り返っている家族にまつわる変化です。
学生時代|服飾の道を考えていた15歳で原宿スカウト
高校生になる頃まで、りょうさんが思い描いていた将来はファッションの世界にありました。
そこへ芸能界との最初の接点が生まれたのは、15歳の時に出かけた東京・原宿でした。
高校卒業後は服飾専門学校への進学も考えていた
高校卒業後の進路として、一時は服飾の専門学校へ進むことも考えていました。
幼稚園の頃からヘアメイク、小学生ではデザイナーやスタイリストに興味を持ってきたため、服飾系の進路はそれまでの関心から自然に出てきた選択肢でした。
ただ、高校を卒業するより前に、すでにモデル事務所との出会いがありました。
相手が俳優事務所ではなくファッションモデルを扱う事務所だったことも、りょうさんが芸能の仕事を試してみようと考えた理由になっています。
スカウトを受けたのは15歳。本人は、高校卒業後にモデルとしてキャリアを本格的にスタートしたと振り返っています。
靴を買いに行った竹下通りでモデル事務所から声をかけられる
スカウトの日、りょうさんが原宿へ向かった目的は、芸能事務所を探すことでもオーディションを受けることでもありませんでした。
靴を買うために竹下通りへ出かけていたところ、横道で声をかけられたといいます。
もともとファッションへの興味が強く、声をかけた相手もファッションモデルの事務所でした。
女優になるためではなく、好きだったファッションの世界へ近づけることが、芸能界へ入る入口になりました。
高校卒業後にはモデルとしての活動を本格化させ、最初の頃は男性向け雑誌の仕事も多かったと本人が話しています。
ここから、服を作る側を思い描いていた学生時代とは別の形で、ファッションを仕事にする生活が始まりました。
モデル時代|165cmでショーを目指し、ファッションの世界へ
モデルになったりょうさんが特に憧れていたのは、ランウェイを歩くファッションショーでした。
ところが、そこでは自身の身長が大きな壁になります。
身長の壁にぶつかりながらモデルとして活動
りょうさんの身長は165cmです。
本人によると、モデルを始めた当時は、ショーに出演するモデルには170cm以上の身長が求められることが珍しくありませんでした。
「私はショーに出たくて。コレクションに出たかったんです」
出典:スポニチアネックス「りょう 『ショーに出たくて』デビュー当時のプロフィル詐称告白 オーディションで言われた痛烈な言葉」(2023年4月23日)
ショーに出たい一心で、プロフィールでは身長を168cmとし、ブーツの中にインソールを入れてオーディションへ向かったこともあったそうです。
しかし、コレクションのオーディションではその場で衣装へ着替えるため、実際の身長はすぐに分かってしまいます。
あるオーディションでは、着せられる服がないという理由で帰るよう告げられたこともありました。
モデルとしては決して有利とはいえなかった165cmの身長で、りょうさんはコレクション出演を目指していました。
その後、ケイト・モスのように小柄でも個性の強いモデルが世界的に注目されるようになり、りょうさんにも仕事が増えていったといいます。
「涼」から「りょう」へ|雑誌や広告で存在感を広げる
モデルとして活動を始めた頃、りょうさんは「涼」という漢字表記の芸名を使った時期がありました。
芸名の「りょう」は、「涼しげな女性」への憧れから選んだ名前だったと伝えられています。
その後は読み方を変えず、現在まで知られるひらがなの「りょう」という表記になりました。
モデル時代にはファッション誌や広告などへ活動を広げ、切れ長の目とシャープな雰囲気でも知られるようになります。
芸名の読み方は一貫して「りょう」で、活動初期には漢字の「涼」が使われた時期があります。
ただ、この頃のりょうさん自身は、自分の容姿を最初から大きな武器だと考えていたわけではありませんでした。
モデルとしては身長に悩み、後に女優になってからは自身の顔にもコンプレックスを抱くことになります。
『ロングバケーション』で女優デビュー|演技未経験から撮影現場へ
モデルとして活動していたりょうさんに、今度は演技の仕事が入ります。
1996年、ドラマ『ロングバケーション』への出演をきっかけに女優としての活動を始めました。
1996年、氷室ルミ子役で初めて本格的に演技
『ロングバケーション』で演じたのは、通称“るう”こと氷室ルミ子です。
モデルとして人前に立つ経験は積んでいましたが、演技についてはまったく別でした。
本人は、それまで芝居をした経験がなかったと話しています。
「うまくお芝居ができなくて毎日泣いていました」
出典:mi-mollet「“クールビューティー”じゃない自分も見せたかった。俳優・りょうの役者人生」(2020年11月27日)
多くの人に知られる作品でのデビューでしたが、本人にとって撮影現場は華やかなスタートというより、分からないことばかりの場所でした。
オンエアされた自分の演技を見ることにも申し訳なさを感じるほど、不安を抱えて撮影を続けていたそうです。
人気ドラマで女優デビューした一方、本人は演技経験のない状態で毎日のように悩みながら撮影へ通っていました。
演技レッスンは2〜3回|「個性で行け」と言われ現場へ
撮影へ入る前には、所属事務所の演技レッスンも受けています。
ところが、レッスンへ通ったのは2〜3回ほどでした。
事務所側は、一般的な演技の型を身につけさせるよりも、りょうさん自身が持っている個性を生かす方針を選びました。
「りょうは個性で行け」
出典:mi-mollet「“クールビューティー”じゃない自分も見せたかった。俳優・りょうの役者人生」(2020年11月27日)
そのため、発声や芝居の基礎を十分に身につけた状態で『ロングバケーション』へ参加したわけではありません。
モデルとして培ってきた見せ方とは違い、セリフを話し、役として動く仕事を現場の中で覚えていくことになりました。
『ロングバケーション』は、モデル活動の延長ではなく、りょうさんにとって本格的に演技へ踏み出した最初の作品でした。
『双生児』が女優としての転機に|コンプレックスだった顔が武器へ
女優として仕事を始めた後も、りょうさんには自分の外見に対する迷いが残っていました。
その感覚を大きく変えた作品が、1999年公開の映画『双生児-GEMINI-』です。
塚本晋也監督が雑誌の表紙を見て起用
『双生児』を監督したのは塚本晋也監督です。
りょうさんは同作で、本木雅弘さんが演じる大徳寺雪雄の妻・りんを演じました。
塚本監督がりょうさんへ目を留めるきっかけの一つになったのは、モデルとして登場していた雑誌の表紙でした。
それまで、自分の顔立ちについてはコンプレックスも抱えていたといいます。
「その顔があればいい」
出典:mi-mollet「“クールビューティー”じゃない自分も見せたかった。俳優・りょうの役者人生」(2020年11月27日)
その言葉を受け、自分が嫌っていた顔にも、ほかの人には出せないものがあると考えられるようになりました。
モデル時代から悩んできた自身の特徴を、女優として使えるものだと思えた作品が『双生児』でした。
高崎映画祭主演女優賞を受賞し、映画・舞台へ活動が広がる
『双生児』での演技は評価され、りょうさんは第14回高崎映画祭の最優秀主演女優賞を受賞しました。
『ロングバケーション』で演技経験のない状態から女優を始めてから、約3年後の出来事です。
『双生児』は、コンプレックスだった外見を俳優としての個性へ置き換える大きな転機になりました。
その後もドラマや映画への出演を重ね、2008年には舞台『二人の約束』で初舞台を踏んでいます。
以降は映像作品だけでなく、舞台でも俳優として活動するようになりました。
1996年『ロングバケーション』で女優活動を開始し、1999年『双生児』で第14回高崎映画祭最優秀主演女優賞を受賞、2008年『二人の約束』で初舞台を経験しています。
服を作る仕事に憧れていた少女がモデルになり、演技の基礎も分からないまま飛び込んだ最初のドラマから3年後、自分の顔そのものを必要とする映画と出会いました。
『双生児』で得た主演女優賞と塚本監督の言葉は、りょうさんが女優として仕事を続けていくうえで、はっきりと記憶に残る出来事になっています。
















