PROFILE
人物プロフィール
14歳で『ViVi』の専属モデルとなり、2014年には女優デビューした玉城ティナさん。
華やかなキャリアの始まりは、沖縄で暮らしていた中学2年生の放課後、体操服姿で帰宅している途中に声をかけられたことでした。
その後はモデルとして注目を集めますが、最初から女優を目指していたわけではなく、高校時代に周囲の同級生が芝居の仕事をしている姿を見たことが、演技へ興味を持つきっかけのひとつになっています。
沖縄でどんな家庭に育ち、普通の中学生だった玉城さんがどのように芸能界へ入り、モデルから女優へ歩みを進めていったのでしょうか。
今回は、そんな玉城ティナさんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、モデル時代から女優になるまでの歩みをご紹介します。
玉城ティナの生い立ちと家族|沖縄で育った幼少期
玉城ティナさんは、1997年10月8日に沖縄県で生まれました。
モデルとして10代から全国で知られるようになりますが、その前には、沖縄の家族に囲まれて過ごした子ども時代がありました。
アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれた一人っ子
家族については、『ViVi』公式のプロフィールで、父親がアメリカ人、母親が日本人で、兄弟姉妹のいない一人っ子と紹介されています。
「ティナ」という名前を付けたのは母親で、本人は小学生のころから書きやすく、友達にも覚えてもらいやすい名前だったと振り返っています。
玉城ティナさんの生育家族
父親:アメリカ人
母親:日本人
兄弟姉妹:一人っ子
出身:沖縄県
本人も2015年、一人っ子である自分から見た「兄弟」という存在についてXで思いを巡らせていました。
父親のルーツがアメリカにあることは本人や公式媒体でも紹介されていますが、玉城さんの子ども時代を語るうえで具体的なエピソードが多いのは、沖縄での日々を支えていた母親や祖母との時間です。
名前についても、母親が付けてくれた「ティナ」というカタカナの名前は、小学生のころから友人に覚えてもらいやすく、芸能活動を始めてからも人に覚えてもらいやすい名前として本人が感謝を語っています。
祖母の沖縄料理と母の送迎、習い事に通った子ども時代
玉城さんが後年語った幼少期の思い出には、沖縄らしい家庭の風景がたくさん残っています。
食卓にはタコライスやゴーヤチャンプルーが大皿で並び、近くに住んでいた祖母がイカスミ汁や中味汁を作ってくれることもあり、食後には母親が季節の果物をむいてくれたそうです。
そういう時間って、すごく豊かだったんだなと、今になって実感しています。
出典:HOTTO LIFE magazine「TINA TAMASHIRO Vol.1」(2026年9月1日)
さらに子どものころは、塾、英語、ピアノ、そろばん、水泳、バレエ、太鼓、習字、ダンスなど、数多くの習い事を経験しています。
ひとつの分野だけに打ち込んでいたというより、勉強系から音楽、運動、伝統芸能まで幅広く触れていたことが特徴的です。
習い事が終わる時間が遅くなる日は、母親の車で帰る途中に弁当を買うこともあり、本人にとっては仕事を始める前の沖縄の日常として記憶に残っています。
母親が車で送り迎えをしてくれて、帰りが遅い日には一緒に弁当を買うこともあったといい、家族との日常の中でさまざまなことに触れていた子ども時代だったことがうかがえます。
小さいころに家族で撮ったプリクラも残っているそうで、本人は昔の写真を見返すと自分の成長の過程が見えて面白いと話しています。
玉城ティナの中学時代|下校中のスカウトからViViモデルへ
玉城さんの生活が大きく変わったのは中学生のころでしたが、芸能界に入る直前までの学校生活には、華やかなモデルのイメージとは少し違う一面もありました。
一人の時間も大切にしていた沖縄での中学時代
2019年に学生時代を振り返った対談では、中学校では女の子たちのグループを行き来する一方で、一人で過ごすことも苦ではなかったと話しています。
むしろ「どう一人になろうかな?」ってよく考えてて、階段の隅とか、一人になれる場所を常に確保していました。
出典:CINRA「リーガルリリー×玉城ティナ対談 息苦しかった中高時代を打ち明ける」(2019年9月26日)
難しい本を読むこともあり、カート・ヴォネガットの作品を読んでいたことも本人が明かしています。
男の子とはあまり話せなかった一方、女の子のグループの間を行き来しながら過ごし、必要なら一人でいられる場所も確保していたそうです。
同じ対談では、沖縄で暮らしていたころから「環境を変えたい」という気持ちがあったことも語っており、のちに東京で仕事を始める前から、地元の外にある世界への意識を持っていました。
クラスの中心で目立つことだけを求めるタイプではなく、自分で一人になれる場所を作り、本の世界にも向かっていた中学生でした。
中学2年、体操服で帰宅中にスカウトされる
そんな中学生活の途中に、芸能界へ入るきっかけが突然やってきます。
玉城さんは中学2年生の放課後、体操服姿で家へ帰っているところを事務所関係者にスカウトされました。
本人の回想によると、声をかけたのはのちに所属する事務所の前社長で、その後は沖縄県内の仕事から芸能活動を始めています。
ここで大切なのは、スカウトされた時点で「女優になる」と決めていたわけではないことです。
まず地元で仕事を経験し、その流れの中で講談社のオーディション「ミスiD2013」へ進み、モデルとして活動の幅を広げていきました。
本人の経歴を振り返ると、ここには「スカウトされたらすぐ東京へ移った」という一段飛ばしの流れはありません。
沖縄でスカウトされる → 県内の仕事を経験する → オーディションへ進む → 全国誌のモデルになるという段階を踏んで、少しずつ活動の範囲が広がっています。
ミスiD初代グランプリから14歳でViVi専属モデルへ
2012年、玉城さんは講談社主催の「ミスiD2013」で初代グランプリを受賞しました。
同じ年には14歳で『ViVi』の専属モデルとなり、10代前半で全国誌のモデルとして活動する生活が始まります。
『ViVi』では最年少の専属モデルとして加わり、その後は表紙を飾るまでになりましたが、この時点ではキャリアの中心はあくまでモデルでした。
のちに俳優として知られるようになる玉城さんにとっても、まずカメラの前で自分自身を見せるモデルの仕事が先にあり、その経験を重ねてから演技へ進んでいます。
当時の玉城さん本人の姿を残しているのが、講談社「ミスiD」の公式YouTubeチャンネルで公開された2012年のPR動画です。
芸能活動の始まりと女優デビューは別です。
玉城ティナさんは、スカウト後にモデルとして活動を始め、女優としてのデビューは2014年のドラマ『ダークシステム 恋の王座決定戦』でした。
中学3年は沖縄と東京を往復しながら撮影
『ViVi』の仕事が決まっても、すぐに沖縄での生活がなくなったわけではありません。
中学3年生の時期には、沖縄で暮らしながら東京へ撮影に通う生活をしていました。
中学3年生のときに『ViVi』が決まって、沖縄と東京を行き来する生活がスタートしました。
出典:J-WAVE NEWS「玉城ティナ『脱無音を目指します』 俳優業や、私生活で好む“謎サイズノート”について聞いた」(2023年3月15日)
本人は、子どものころから大人になれば沖縄を離れて東京へ行くのだろうとぼんやり考えていたため、デビューでその時期が早まったという感覚だったとも振り返っています。
上京後の15〜16歳ごろには、喫茶店などでノートにその時々の感情を書いていたこともあり、環境が急速に変わった10代の気持ちを自分なりに残していたそうです。
モデルとして人前に立つ一方で、一人で考えたり言葉を書いたりする時間も持っていたことは、中学時代に一人になれる場所を探していた姿とも自然につながります。
強い決意を掲げて東京へ飛び出したというより、目の前に現れた仕事を続けるうちに、生活の重心が沖縄から東京へ動いていったという流れでした。
玉城ティナの高校時代|上京後の学生生活と女優への興味
高校進学を機に、玉城さんは生活拠点を東京へ移しました。
モデルの仕事が本格化する一方、高校時代には演技という新しい仕事にも興味を持つようになります。
高校進学で東京へ、1年生の夏に通信制へ
東京では一人暮らしを始め、食事も自分で用意するようになり、ネットでレシピを調べながら自炊していたと本人は話しています。
沖縄では母親や祖母の料理が身近にあったため、東京での一人暮らしは食生活ひとつをとっても大きな変化でした。
親から料理を細かく教わっていたわけではなく、「ちゃんとしなきゃ」という気持ちから自分でレシピを調べて作るようになったそうです。
学校は当初、制服のある高校に通っていましたが、高校1年生の夏に通信制課程へ切り替えました。
入学時にはシャツやリボンの種類をそろえてもらったものの、通信制へ移ってからは私服で過ごすことが増え、高校卒業を控えた時期には「もっと制服を着ておけばよかった」という思いも語っています。
仕事という学校以外の軸ができたことで、高校生のころは学校より仕事の思い出の方が強く残っているとも振り返っていました。
中学までは学校生活が日々の中心でしたが、高校ではモデルの撮影や芸能活動という明確な「やるべきこと」ができ、本人のなかでも優先順位が仕事へ移っていきます。
高校生活を後から振り返るインタビューでは、普通の高校生らしい制服デートやプリクラへの憧れも語っており、仕事中心で過ごしたからこそ残った感覚もあったようです。
芸能コースの同級生を見て演技に興味を持つ
玉城さんはモデルとして芸能活動を始めましたが、女優を目指す明確な幼少期の夢があったわけではありません。
本人が語っているきっかけのひとつは、高校の芸能コースで周囲の同級生たちが当たり前のように芝居の仕事をしていたことでした。
単純に女優という職業が面白そうと思ったのも大きいと思います。
出典:LEON「『玉城ティナは一個の強靭な意志。暴力的な女王のようだった』」(2019年11月12日)
モデルの仕事をしながら周囲の演技の仕事を身近に見るうちに、「女優」という選択肢が現実のものになっていったことが分かります。
玉城さん自身は「最初からひとつの道だけを決めていた」というより、モデルとして仕事を続けるなかで、持てる選択肢を増やしたいと考えるようになったと話しています。
周囲には芝居をする同級生がいて、日常の会話のなかにも役や撮影の話がある環境だったため、演技は遠い世界の仕事ではなくなっていきました。
芸能界入りのきっかけはスカウト、女優へ興味を持ったのはその後の高校時代という順番です。
2014年『ダークシステム』で女優デビュー
モデルとして活動を始めてから約2年後の2014年、玉城さんはTBSドラマ『ダークシステム 恋の王座決定戦』のヒロイン・白石ユリ役で女優デビューしました。
モデルの撮影では自分自身の強みを引き出してもらう一方、演技では台詞があり、自分とは別の役を魅力的に見せなければなりません。
この違いは、10代だった玉城さんにとって簡単なものではなく、女優の仕事を始めたばかりのころは、まず演技の現場に慣れるところから始めたと後年明かしています。
写真撮影では一瞬の表情やポーズを作ってきましたが、ドラマでは台詞を覚え、相手役とやり取りをしながら一人の人物として場面をつないでいく必要があります。
モデルとしてカメラの前に立つ経験がすでにあったからこそ、すべてをゼロから始めたわけではありませんが、演技には演技の難しさがありました。
高校卒業後は大学へ進まず芸能活動を続ける
2016年に高校を卒業した玉城さんは、大学には進学せず、芸能活動を続ける道を選びました。
一方で「進学しないこと」と「学ぶことをやめること」は別に考えていて、卒業後も英会話を伸ばし、中国語にも挑戦したいと話していました。
高校卒業の時点ですでにモデルと女優の両方を経験していたため、進学より芸能活動を選ぶことは、それまで数年間続けてきた仕事をさらに積み重ねていく選択でもありました。
高校卒業を迎えた2016年3月には、上京後の3年間を「とても濃い時間」だったと振り返り、両親や周囲の人たちへ感謝を伝えています。
沖縄から東京へ通っていた中学3年生の時期から、高校進学後の一人暮らし、モデルと女優の仕事を経験した3年間を経て、学生生活はひと区切りを迎えました。
玉城ティナがモデルから女優へ|映画デビューと2019年の転機
高校時代に始めた演技の仕事は、卒業後も続きます。
モデルとして身につけてきたものを持ちながら、映画の現場で俳優としての経験を重ねていきました。
2015年『天の茶助』で映画初出演、10代で演技の壁に向き合う
2015年、SABU監督の映画『天の茶助』で、松山ケンイチさん演じる茶助の妹・茶子役を演じ、スクリーンデビューを果たしました。
テレビドラマでの最初の演技仕事から約1年後に映画へ進み、撮影現場の経験をひとつずつ増やしていきます。
ドラマで女優デビューした2014年と、映画へ初出演した2015年は分けて考えると、玉城さんがモデルから俳優へ仕事を広げた流れが見えやすくなります。
モデルという土台があったから、さらに積み重ねていけたのかな、と自分では考えています。
出典:ECC MeLeDi「いつからでもチャレンジしていい、みなさんにそう思ってほしい」(2024年7月30日)
モデルと俳優は違う仕事だと感じながらも、カメラの前に立つことへ慣れていた経験は無駄にはならず、モデルの経験を消すのではなく、その上に演技の経験を積み重ねていったのでした。
ViVi卒業と『Diner ダイナー』で変わったモデルとの関係
玉城さんは14歳から長く『ViVi』の専属モデルを務め、2018年10月に卒業を発表し、2019年2月号をもって同誌を卒業しました。
専属モデル卒業は、モデルの経験を切り離す出来事ではありませんでした。
むしろモデル時代から積み重ねた人との出会いが、俳優としての大きな作品へつながった例のひとつが『Diner ダイナー』でした。
その後の大きな仕事のひとつが、蜷川実花監督の映画『Diner ダイナー』です。
蜷川監督とは、玉城さんがモデルを始めた14歳のころから撮影で仕事をしており、20歳で『Diner ダイナー』のヒロイン・オオバカナコ役として再び向き合うことになりました。
写真家とモデルとして出会った蜷川監督と、年月を経て映画監督と俳優として一本の作品を作ったことは、10代から続いてきたモデル活動と女優の仕事が交わる出来事にもなりました。
ヒロインのお話をいただいた時は嬉しさより不安の方が大きかったです。
出典:PINTSCOPE「玉城ティナ インタビュー『孤独と虚しさに向き合い、抗う。』」(2019年7月3日)
豪華な共演者のなかで主要な役を担うことに不安を抱えながらも撮影をやり切り、14歳のころから仕事をしてきた蜷川監督との関係も、写真の被写体から映画の主要キャストへと形を変えました。
『Diner ダイナー』『惡の華』で報知映画賞新人賞
2019年には『Diner ダイナー』に加え、井口昇監督の『惡の華』で仲村佐和を演じました。
『惡の華』は高校生のころから原作を読んでいた作品で、映画への出演が決まってからは原作を何度も読み返し、役へ向き合っています。
中高生のころに「環境を変えたい」と感じていた自分自身の記憶もあり、閉じた学校や町から抜け出そうとする原作の感情には理解できる部分があったと語っています。
モデルの仕事を始める前に一人で本を読んでいた中学生が、高校時代に読んだ漫画の実写映画で主要人物を演じることになったのも、時間の流れを感じさせる出来事でした。
そして同年、『Diner ダイナー』『惡の華』での演技が評価され、第44回報知映画賞新人賞を受賞しました。
報知映画賞の公式記録でも、2019年の第44回新人賞受賞者として玉城さんの名前が残っており、公式プロフィールでもこの2作品での演技が受賞対象として明記されています。
同年12月の表彰式では、作品を支えたスタッフへの感謝を伝えながら、物語を任せたいと思ってもらえる女優になりたいという思いも語っていました。
中学2年生の下校中にスカウトされ、14歳でモデルになり、高校時代に演技へ興味を持ち、ドラマと映画の現場へ進んだ玉城さん。
2019年の新人賞は、モデルとして始まった10代の芸能活動が、俳優としての評価へつながったひとつの到達点になりました。
最初から女優一本を目指して進んだのではなく、沖縄でのスカウトをきっかけにモデルの仕事と出会い、高校で演技に興味を持ち、ドラマ、映画へと少しずつ仕事の幅を広げてきたのが玉城さんの歩みです。
家族に送り迎えをしてもらっていた沖縄の子ども時代から、東京で一人暮らしをしながら働いた高校時代を経て、モデルとしての経験も抱えたまま俳優の現場へ進んでいったことが、玉城ティナさんが女優になるまでの道のりでした。
















