PROFILE
人物プロフィール
映画『天国と地獄』の誘拐犯役や、ドラマ『必殺仕置人』の念仏の鉄などで知られる俳優・山﨑努さん。
長い俳優人生を歩んできた山﨑さんですが、若い頃は家計を支えるために働きながら、夜間高校に通っていました。
映画館で出会った海外の俳優や、演劇好きの同級生との交流を通じて、新劇の世界へ心を引かれるようになります。
一方、幼い頃には戦争と疎開を経験し、復員した父親との再会を、後年になって自分にとって最初の演技だったと振り返っています。
山﨑努さんの生い立ちや家族、学生時代の暮らしから、俳優座養成所での修業、文学座でのデビュー、黒澤明監督作品に出演するまでの出来事をご紹介します。
山﨑努の生い立ち|千葉県松戸で生まれ、戦争を経験した少年時代
山﨑努さんが生まれたのは、1936年12月2日のことです。
幼少期には太平洋戦争があり、家族と離れて暮らす父親を待つ日々も経験しました。
千葉県松戸町で過ごした幼少期
山﨑さんの出生地は、千葉県東葛飾郡松戸町です。
現在の千葉県松戸市にあたり、1936年当時はまだ松戸町と呼ばれていました。
山﨑さんは、友禅染の仕事をする父親と母親のもとに生まれた長男でした。
幼い頃の日本は戦争の時代に入り、山﨑さんも平穏な学校生活だけを送れたわけではありませんでした。
のちのインタビューでは、自分が子どもだった頃を振り返りながら、戦争中の出来事について語っています。
なかでも記憶に残り続けたのは、戦争が終わったあと、父親が帰ってきた日のことでした。
戦時中の縁故疎開で体験した暮らし
山﨑さんは小学校3年生頃、母親とともに千葉県内の山あいの村へ縁故疎開しました。
縁故疎開とは、親戚や知人など、つながりのある人を頼って都市部から離れることです。
疎開先では土蔵で暮らし、村の学校へ通っていました。
学校へ向かう山道は粘土質で滑りやすく、山﨑さんは普段、その道を慎重に歩いていたそうです。
2025年のNHK『ラジオ深夜便』のインタビューでは、疎開生活そのものについては、あまりはっきりした記憶が残っていないと話しています。
当時、生まれたばかりの妹がいたはずなのに、そのことさえ覚えていないというのです。
ただ、終戦後に父親の帰還を知らされた日の光景だけは、年を重ねても忘れませんでした。
山﨑さんが話す「疎開」と「父親の復員」は、1945年の終戦を挟んだ出来事です。復員とは、軍務に就いていた人が戦地などから帰還し、一般の生活へ戻ることを指します。
山﨑努の家族|友禅染職人の父と母、2人の妹
山﨑努さんは、父親、母親、そして2人の妹がいる家庭で育ちました。
父親との暮らしは長く続きませんでしたが、山﨑さんは後年、その父親にまつわる出来事を何度も語っています。
復員した父のもとへ走った8歳の記憶
山﨑さんの父親は、友禅染職人の宇之助さんでした。
母親はせんさんといい、山﨑さんは一男二女の長男として生まれています。
1945年の秋、戦地から父親が帰ってきたという知らせが疎開先に届きました。
そのとき8歳だった山﨑さんは、裸足のまま土蔵を飛び出し、父親が立ち寄っている家へ向かって走りました。
普段なら転ばないように歩いていたぬかるんだ坂道を、その日は一気に駆け抜けたそうです。
しかし、その行動は単純にうれしさから飛び出したものではありませんでした。
山﨑さんは、長男である自分が父の帰還を喜ばなければならないと、周囲の目を意識していたといいます。
父親のいる家に到着すると、ひと呼吸置いてから戸を勢いよく開けました。
そこで父親と目が合った瞬間、山﨑さんは自分の振る舞いを見抜かれたように感じたそうです。
後年、この出来事について、本人は次のように語っています。
思えばこのときの疾走が初めての演技でした。
出典:ステラnet「山﨑努インタビュー 戦後、復員した父に見せた“初めての演技”」(2025年7月17日)
俳優になる何年も前に、父親の前で自分の感情とは異なる行動を取った。
その記憶が、山﨑さんにとって演じるという行為を考える際の、一つの出発点になっていました。
父の早逝と母・妹たちとの生活
父親の宇之助さんは、復員からおよそ1年半後、36歳の若さで亡くなりました。
山﨑さんは2018年の『サライ』のインタビューで、脳出血だったかと思うと振り返っていますが、死因については本人の記憶にも曖昧な部分が残っています。
父親にもう一度会えたなら、あの日の自分の行動をどう受け取っていたのか尋ねてみたかったそうです。
けれども、父親にその質問をする機会は訪れませんでした。
父親を失ったあと、山﨑さんの家族には母親と2人の妹が残されました。
自伝『「俳優」の肩ごしに』にも、俳優を目指す気持ちが芽生えたとき、母親と妹たちの暮らしをどうするのかと考えたことが記されています。
やがて山﨑さんは、家計を支えるために昼間は働き、夜は学校に通う道を選ぶことになります。
都立上野高校の夜間部|働きながら演劇に出会った若い頃
山﨑努さんの学生時代は、勉強だけに時間を使える生活ではありませんでした。
働きながら学んだ高校時代に、映画や演劇に触れる機会が生まれます。
昼間は働き、夜は高校に通う生活
山﨑さんが通った高校は、東京都立上野高校の夜間部です。
夜間部を勧めたのは、昔から山﨑さんを理解してくれていた叔母だったと、自伝に記されています。
山﨑さんは昼間に働き、夜になると学校へ通っていました。
ただ、授業に出席せず、上野公園の周辺を歩き回る日も少なくなかったそうです。
上野には当時、映画館がいくつもあり、山﨑さんはそこで映画を観ていました。
ときには上映の途中から映画館へ入り、物語の筋もよく分からないままスクリーンを眺めることもあったといいます。
そうした映画鑑賞のなかで、山﨑さんの目を引いたのが、アメリカの俳優マーロン・ブランドでした。
ブランドが演じる、世の中とうまく折り合えず、苛立ちや衝動を抱えた人物に、山﨑さんは自分と重なるものを感じたそうです。
自伝では、ブランドを最初に観た作品名について記憶が定かではないとも書いています。
映画の題名以上に、スクリーンの中で生きているように見えた俳優の姿が、山﨑さんの記憶に残ったのでしょう。
同級生の影響で映画と新劇に関心を持つ
映画に興味を持つようになった山﨑さんは、同じクラスのH君という友人と親しくなりました。
H君は演劇が大好きで、自分も俳優になることを夢見ていた青年でした。
マーロン・ブランドの話になると、どこが優れた俳優なのかを身振りを交えて説明してくれたそうです。
それまで映画館へ足を運んでいた山﨑さんは、H君の影響で新劇の舞台を観るようになります。
文学座、俳優座、民藝など、当時の劇団が上演する作品を次々に観劇しました。
新劇とは、歌舞伎などの伝統演劇とは異なり、近代的な戯曲や演技表現を取り入れた演劇の流れを指します。
山﨑さんは、俳優という職業を身近に感じられるようになる一方で、舞台に立つためには何をすればよいのか、H君から教わっていました。
その頃の勉強に使ったのが、演出家・千田是也の著書『近代俳優術』です。
内容は難しく、十分に理解できなかったことも自伝には率直に書かれています。
演技の勉強を始める以前から、身近な友人が俳優になるための道筋を教えてくれていたのです。
芥川比呂志の『ハムレット』を観て俳優を志す
山﨑さんが観た舞台のなかで、特に強い印象を残したのは、芥川比呂志が出演した『ハムレット』でした。
シェイクスピアの戯曲を演じる芥川の姿に、山﨑さんはそれまでの観劇とは違う感覚を覚えました。
自伝では、当時の気持ちを次のように記しています。
なにがなんでも新劇俳優になるぞ。
出典:山﨑努『「俳優」の肩ごしに』「俳優志願」(文藝春秋「本の話」掲載、2025年)
舞台を観る側から、自分も舞台に立つ側へ進みたいと考えるようになったのです。
しかし、家族を支える立場だった山﨑さんにとって、収入が安定するとは限らない俳優の道を選ぶのは簡単なことではありませんでした。
そこで、夜間高校への進学を勧めてくれた叔母に相談することにします。
叔母は山﨑さんにコロッケの昼食をふるまい、しばらく黙って話を聞いていました。
そして、俳優は容姿のよい人や特別な才能を持つ人がなるものだとして、志望を思いとどまるように言ったそうです。
山﨑さんは、新劇には自分のような顔立ちの俳優もいると反論しました。
その会話からは、俳優になることをすでに自分の進路として考えていた若い山﨑さんの姿が伝わってきます。
反対されても気持ちは消えず、山﨑さんは俳優を養成する学校の試験へ向かいました。
俳優になったきっかけ|俳優座養成所から文学座への道
山﨑努さんが本格的に演技を学び始めたのは、1956年のことです。
そのきっかけには、新劇の世界を教えてくれた同級生との、少し意外な出来事がありました。
友人と受けた試験で自分だけが合格
高校時代、俳優を志していたH君は、山﨑さんを演技の学校の試験に誘いました。
山﨑さんも俳優の道にひかれていましたが、2018年の『サライ』のインタビューでは、受験当時の出来事をこんな言葉で振り返っています。
彼に付き合って受けただけの僕が合格したんです
出典:『サライ』「山﨑 努さん(俳優)『誰もが試行錯誤する“人間のアマチュア”なんです』」(2018年6月15日)
俳優になることを強く願っていたH君は、受験した学校に合格できませんでした。
一方、誘われて一緒に試験を受けた山﨑さんが合格しました。
そして1956年、山﨑さんは俳優座養成所に第8期生として入所します。
この年に都立上野高校を卒業し、演技を専門的に学ぶ生活へ進みました。
映画館や劇場で観るだけだった演技を、自分自身が実践する日々が始まったのです。
俳優座養成所で学んだ3年間
俳優座養成所は、新劇の俳優を育てるための教育機関でした。
山﨑さんはここで、舞台に立つための演技の基礎を学びました。
俳優座養成所に入る以前は、H君の勧めで本を読み、劇場へ通うことが主な勉強でした。
養成所では、俳優を目指す仲間たちとともに稽古する日常へ変わります。
山﨑さんはその後、演技の技術を覚えるだけでは本当に生きている人間を表現できないと考えるようになりますが、こうした問いを持つ以前に、まず新劇の俳優として訓練を受けた時期がありました。
1959年3月、山﨑さんは俳優座養成所を卒業しました。
卒業後は、学生時代に憧れていた劇団の一つである文学座へ進みます。
1959年に文学座へ入り『熱帯樹』で舞台デビュー
1959年4月、山﨑さんは文学座の研究員となりました。
文学座には、杉村春子や芥川比呂志など、山﨑さんが舞台を観てきた俳優たちがいました。
後年、山﨑さんは文学座に入った理由として、異なる演技の持ち味を持った先輩たちがいたことを語っています。
そして1960年、三島由紀夫の戯曲『熱帯樹』で舞台デビューを果たしました。
初舞台の稽古では、作者の三島由紀夫自身が戯曲を読み上げる場にも立ち会いました。
山﨑さんは2026年のエッセイで、三島が登場人物の男女の声を使い分けながら、楽しそうに台詞を読んでいた様子を振り返っています。
一方、自分自身の初舞台については、成功したという感触を語っているわけではありません。
同年の『週刊文春』の連載では、デビューを振り返り、厳しい言葉で当時の演技を表現しています。
憧れていた劇団に入り、著名な作家の作品で舞台に立ったものの、そこから俳優としての試行錯誤が続いていきました。
山﨑さんの経歴では、1956年の俳優座養成所入所、1959年の文学座入り、1960年の舞台デビューを区別できます。演技を学び始めた時期と、初めて舞台作品に出演した時期は同じではありません。
若い頃の転機|映画『天国と地獄』で黒澤明監督と出会う
文学座で舞台に立つようになった山﨑努さんは、映画にも出演するようになります。
1960年代前半、山﨑さんの名前が広く知られるきっかけとなったのが、黒澤明監督の『天国と地獄』でした。
1960年『大学の山賊たち』で映画初出演
山﨑さんの映画初出演作は、岡本喜八監督の『大学の山賊たち』です。
1960年公開の作品で、文学座に入って間もない頃の映画出演でした。
山﨑さんは、舞台で演技を学びながら、映画の仕事にも足を踏み入れていきます。
1961年には豊田四郎監督の映画『東京夜話』に出演し、かつて舞台を観て憧れた芥川比呂志と共演しました。
この作品では重要な役を務め、製作者協会新人賞を受賞しています。
高校時代に舞台を観ていた俳優と、今度は同じ作品の出演者として名前を連ねるようになったのです。
1963年『天国と地獄』の誘拐犯役で注目される
1963年、山﨑さんは黒澤明監督の映画『天国と地獄』に出演しました。
演じたのは、身代金を要求する誘拐犯の竹内銀次郎です。
物語の中心には、三船敏郎演じる会社重役の権藤金吾がいます。
誘拐されたのは権藤の息子ではなく、息子と間違えられた運転手の子どもでした。
竹内は事件を引き起こし、警察や権藤たちを翻弄していきます。
当時まだ若手俳優だった山﨑さんは、この役で、それまでとは比べものにならないほど多くの映画観客の目に触れることになりました。
『天国と地獄』の誘拐犯役が、山﨑さんを広く知られる俳優へ押し上げたのです。
1963年の作品を伝える東宝公式の予告編からも、若い頃の映画の雰囲気を確かめられます。
『天国と地獄』のあとも、山﨑さんは黒澤監督の映画に出演しました。
1965年の『赤ひげ』では車大工の佐八を演じ、1980年の『影武者』では武田信玄の弟・武田信廉を演じています。
『影武者』では助演男優賞も受賞し、黒澤作品との関わりは一度きりのものではありませんでした。
芥川比呂志と劇団「雲」で活動し、独立へ
映画の仕事が増えていく一方、山﨑さんは新劇の舞台にも立ち続けていました。
1963年1月、芥川比呂志らが結成した劇団「雲」に参加します。
山﨑さんにとって芥川は、高校時代に『ハムレット』を観て憧れた俳優であり、仕事を通じて学ぶことのできた先輩でもありました。
2026年の『週刊文春』で山﨑さんは、芥川の近くで俳優修業ができたことを幸運だったと振り返っています。
戯曲の読み方や登場人物への近づき方だけでなく、表現する際の考え方やユーモアについても、多くのことを教わったそうです。
山﨑さんは「雲」で長く活動しましたが、やがて劇団を離れ、自分の演技を追求する道へ進みました。
後年の本人の言葉によれば、劇団で求められる演技と、自分が考える演技が合わなくなっていったことも理由の一つでした。
学生時代には友人に俳優の道を教わり、文学座では憧れの先輩と出会った山﨑さんが、今度は自分の判断で活動の形を変えていったのです。
『お葬式』から『俳優のノート』へ|役と向き合い続けた俳優人生
1960年代に映画と舞台で経験を積んだ山﨑努さんは、その後、テレビドラマや映画で幅広い役を演じました。
悪役から普通の家庭の男性まで、作品によって異なる人物を演じながら、自分なりの演技への考えを深めていきます。
『必殺仕置人』『八つ墓村』で広がった役柄
1973年、山﨑さんはテレビ時代劇『必殺仕置人』で念仏の鉄を演じました。
念仏の鉄は、悪人に仕置きをする人物で、骨外しの技を使う独特の役柄として知られています。
若い頃に『天国と地獄』で演じた冷酷な犯人とは、また違う存在感を見せました。
1977年には、野村芳太郎監督の映画『八つ墓村』に出演します。
演じた多治見要蔵は、日本刀や猟銃を手に村人を襲う人物で、映画の中でも強烈な印象を残す役でした。
その一方、1983年のドラマ『早春スケッチブック』では、家族と向き合う元カメラマンを演じています。
犯罪者や仕置人だけでなく、家族との関係に悩む人物も演じるようになっていました。
若い頃に新劇から出発した山﨑さんの仕事は、舞台だけでなく、映画やテレビドラマにも広がっていきました。
1984年『お葬式』で主演俳優として大きな評価
1984年、山﨑さんは伊丹十三監督の映画『お葬式』に主演しました。
伊丹監督にとって、この映画は監督デビュー作でした。
山﨑さんが演じたのは、妻の父親が亡くなり、葬儀を取り仕切ることになった俳優・井上侘助です。
葬儀という非日常の出来事の中で、何をすればよいのか戸惑いながら振る舞う人物を演じました。
この作品での演技は高く評価され、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞などを受賞しています。
『お葬式』のあとも伊丹作品への出演が続き、1985年の『タンポポ』、1987年の『マルサの女』にも出演しました。
『マルサの女』では再び日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しています。
1990年代以降も多様な役柄を演じ、2008年の映画『おくりびと』では、本木雅弘さん演じる主人公が勤める会社の社長役で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。
一つの役柄で人気を得たあとも、異なる監督や作品のもとで、新しい人物を演じる仕事を重ねていきました。
『リア王』の役作りと、自伝に残した演技の原点
山﨑さんは映画やテレビドラマに出演する一方、舞台で一つの役と向き合う仕事も続けてきました。
1998年には、シェイクスピアの『リア王』で主人公を演じています。
この舞台に向けた準備や稽古の記録は、2000年刊行の著書『俳優のノート』にまとめられました。
役を理解するために考えたこと、試したこと、うまくいかなかったことを、山﨑さん自身の言葉でたどれる本です。
山﨑さんは2001年から日記もつけるようになり、芝居でうまくいかなかったことや、その理由を文章にして考えてきました。
2025年のインタビューでは、次のように語っています。
僕の場合、書くことと演じることは連動しています。
出典:ステラnet「山﨑努インタビュー 戦後、復員した父に見せた“初めての演技”」(2025年7月17日)
また、山﨑さんは演技について、感情を外へ出すだけが表現ではないという考えを持っています。
2023年3月には、自身の公式Xで、ドラマ『正直不動産』で共演した山下智久さんの演技を取り上げました。
その投稿では、人が内面を隠して生きていることに触れ、山下さんが感情をむやみに表出せずに演じている点を評価しています。
2018年の『サライ』のインタビューでも、山﨑さんは『モリのいる場所』で演じた画家・熊谷守一について、表情を外へ出さない「仮面」のようなものを意識したと話しています。
役柄によって何を見せ、何を見せないのかを考え続けてきたことが、こうした本人の言葉から伝わります。
2022年には、それまでの人生を振り返る自伝『「俳優」の肩ごしに』を出版しました。
自伝では、千葉で過ごした少年時代や、働きながら通った高校での出来事、俳優を志した頃の気持ちまで、自分自身を少し離れた場所から見つめるように書いています。
2025年には文庫版も刊行され、俳優になる前の山﨑さんを知ることのできる一冊となりました。
さらに2026年には、犬童一心監督によるドキュメンタリー映画『山﨑リバーサイド -俳優の肩ごしに-』が東京国際映画祭で上映されました。
この作品では山﨑さん自身が長い俳優人生について語り、渡辺謙さんや柄本明さんなど、ゆかりのある俳優たちの証言も収められています。
俳優を目指して夜間高校から養成所へ進んだ青年の記憶は、自伝と映像の両方に残されることになりました。
















