市村正親の生い立ち|家族と川越の少年時代、若い頃から俳優になるまで

市村正親の肖像イラストと、生い立ち・家族・川越での少年時代から俳優になるまでを紹介するタイトル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
いちむらまさちか
カテゴリー
男性俳優
出身地
埼玉県
生年月日
1949年1月28日
芸能活動開始
1966年
俳優デビュー
1966年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

『オペラ座の怪人』のファントムや『ミス・サイゴン』のエンジニアなど、数々の舞台で知られる俳優・市村正親さん。

1949年1月28日、埼玉県川越市に生まれた市村さんは、新聞を発行する父親と居酒屋を営む母親のもとで、一人っ子として育ちました。幼い頃から舞台俳優を目指していたわけではなく、学生時代には野球や柔道、体操にも熱中しています。

俳優への道が開けたのは、高校3年生で演劇部に入ったことがきっかけでした。その後、舞台芸術学院、西村晃さんの付き人生活を経て、1973年に劇団四季の『イエス・キリスト=スーパースター』で本格的な舞台デビューを果たしています。

川越の町で過ごした少年時代から、高校で芝居に出会った日々、若い頃の映画出演、そして日本を代表するミュージカル俳優になるまでをたどります。

市村正親の生い立ち|川越の町と祭りに囲まれた幼少期

市村正親さんが生まれ育ったのは、埼玉県川越市です。幼い頃は今ほど建物が多くなく、家の周囲には田んぼが広がっていました。

市村さんが子どもの頃の思い出として繰り返し語っているのは、近所での遊びや川越まつりの風景です。映画や舞台を見る以前から、町には人が集まり、さまざまな芸能や遊びに触れられる場所がありました。

宮下町の田んぼや川で遊んだ少年時代

市村さんは川越市の宮下町で幼少期を過ごしました。近くには新河岸川が流れ、周辺の田んぼや水辺は子どもたちの遊び場になっていました。

市村さん自身、川越市の市制施行100周年記念誌で、当時の風景をこう振り返っています。

僕が暮らしていた宮下町は辺り一面が田んぼでした。

出典:川越市「川越市制施行100周年記念誌」(2022年)

友達と外で遊ぶことが多く、伊佐沼へ赤虫を捕りに行き、釣り道具屋に売ったこともあったそうです。鉄くずや銅を集めて売るなど、子どもなりにお金を手にする方法も考えていました。

少し変わった遊びもしています。母親の店から持ち出した小銭をあらかじめ神社の裏に埋めておき、翌日、友達の前でお金を発見するというものです。自分にはお金のありかがわかるかのように振る舞い、友達を驚かせていたといいます。

市村さんは、自分が子どもたちを引っ張るガキ大将だったわけではないと話しています。その一方で、周囲の人をどう楽しませるか、自分なりに考えて遊んでいたことが、こうした思い出から伝わってきます。

川越まつりの白狐に憧れた原体験

川越での幼少期を語るうえで欠かせないのが、秋の川越まつりです。

母親が営む店は大手町にあり、市村さんはそこで山車の上に登場する白狐の踊りを見ていました。川越市の記念誌では、その白狐の姿に心を動かされたことを本人が明かしています。

山車の上で人が狐になりきって踊る光景は、役者が舞台上で別の人物を演じる姿とも重なります。もっとも、市村さんがこの祭りを見た時点で俳優を志していたわけではありません。

少年時代には映画館にも親しみ、やがて学校で実際に芝居を経験することになります。川越の祭りで人が何かを演じる姿を見ていた少年が、高校で初めて自分も舞台に立つことになったのです。

市村正親の家族|新聞を作った父と居酒屋を営んだ母

市村正親さんは、父親・母親・本人の3人家族で育った一人っ子です。

父親は地域新聞の発行に携わり、母親は赤ちょうちんの居酒屋を切り盛りしていました。両親はそれぞれ自分の仕事を持っていたため、市村さんは学校が終わると母親の店で時間を過ごすことが多かったそうです。

2010年代以降の本人インタビューでは、両親の仕事だけでなく、父親の選んだ生き方や、母親の店で待っていた夜の思い出についても詳しく語られています。

農家の跡取りを離れ「武州新報」を発行した父親

父親が発行していた新聞の名前は、「武州新報」です。全国紙ではなく、地元に根ざした新聞でした。

市村さんによると、父親はもともと農家の長男でした。しかし、戦争から帰ったあと、農家を継ぐ権利を弟に譲り、自分のやりたい仕事を選んだといいます。

農家の跡取りという立場にありながら、家業とは違う新聞の仕事へ進んだ父親。市村さんは、そんな父の生き方に夢やロマンのようなものを感じていたと振り返っています。

市村さん自身も小学生の頃、流行していた「新聞少年」という歌に影響され、新聞配達をした経験があるそうです。

父親の新聞事業をそのまま引き継ぐことはありませんでしたが、市村さんが育った家庭には、家業に縛られず、自分で仕事を選んだ父親の姿がありました。

居酒屋「いっちゃん」を営んだ母親と一人っ子の暮らし

母親が営んでいたのは、赤ちょうちんの居酒屋「いっちゃん」です。

市村さんは小学校が終わると店へ行き、母親の仕事が終わるまで過ごしていました。眠くなると、店の一畳ほどの物置のような場所で横になり、閉店後に起こされて、自転車で両親と家へ帰る毎日だったといいます。

店の向かいには映画館がありました。市村さんはそこで映画を見る機会にも恵まれ、画面の中でさまざまな役を演じる俳優たちに親しんでいきました。

一人っ子だった市村さんにとって、友達と遊ぶ時間も大切でした。中学校で柔道部に入った際には、組み合ったり、投げたり投げられたりする時間が、仲間と触れ合える楽しさにつながっていたと語っています。

母親の居酒屋で過ごした放課後、店の向かいの映画館、地域の友達との遊び。市村さんの子ども時代には、家庭の内と外を行き来する日常がありました。

市村正親の学生時代|川越商業高校で体操から演劇へ

市村正親さんの出身高校は、埼玉県川越商業高校です。現在の川越市立川越高校にあたります。

高校へ進学した市村さんが最初に熱中したのは、演劇ではなく体操でした。中学時代から運動や美術など、さまざまな部活動を経験しています。

しかし高校での負傷や入院を経て、体操部から次第に離れることに。その後、同級生と演じた芝居がきっかけで、演劇部へと活動の場を移しました。

中学では野球・柔道・美術、高校では体操に熱中

中学生になった市村さんは、最初に野球部へ入りました。当時の野球人気に影響されての入部でしたが、夏に泳ぐことを禁止されたため、退部したといいます。

次に入ったのが柔道部です。畳の上で相手と組み合う練習を楽しみ、中学3年生では絵を描くことが好きだったため、美術部にも所属しました。

その一方で、以前から逆立ちや宙返りのような動きにも興味を持っていました。高校へ進学すると、迷わず体操部に入ります。

ところが自宅で練習していた際に、ガラスで足を大きく切り、十数針を縫うけがを経験しました。さらに高校2年生の大会では、技の途中で首から落ち、約3か月の入院生活を送ることになったそうです。

体操への関心は持ち続けていたものの、こうした出来事を経て、次第に部活動から足が遠のいていきました。

高校3年生で演劇部に入り、舞台の道を志した

高校生活の終盤、市村さんは同級生たちと、卒業する先輩を送る会で芝居を披露しました。

その姿を見ていた演劇部の顧問・茨木先生から、演劇部へ入らないかと声をかけられます。芝居を演じることが楽しかった市村さんは、高校3年生で演劇部へ入部しました。

演劇部に入ってからは舞台への関心が一気に高まり、演劇雑誌で公演情報を調べては、代々木や赤坂見附など東京の劇場へ足を運んだそうです。

その中でも特に大きな出会いとなったのが、劇団民藝の『オットーと呼ばれる日本人』でした。

2020年に掲載されたAKINAI Policyのインタビューで、市村さんは観劇した際の気持ちをこう振り返っています。

僕の生涯の道はこれだな!!と感じたんだよね。

出典:AKINAI Policy「役者ほど素敵な商売はない 俳優 市村正親 氏」(2020年3月8日掲載)

市村さんが強く惹かれたのは、数時間の舞台で他人の激しい人生を生きられることでした。俳優という仕事を自分の生涯の道にしようと考えたのは、この高校時代の観劇体験だったのです。

市村正親の若い頃|児童劇団と映画『涙になりたい』への出演

市村正親さんが俳優の仕事を始めたのは、一般的なプロフィールで舞台デビュー年とされる1973年より前です。

高校時代にはアルバイトをしながら児童劇団に入り、映画のオーディションにも挑戦していました。そこで出演したのが、1966年公開の日活映画『涙になりたい』です。

高校時代のアルバイトと児童劇団への入団

高校生の頃、市村さんは仲間と一緒に神宮球場でコーラを売るアルバイトをしていました。

演劇部で芝居に熱中する一方、赤羽にあった児童劇団にも入り、舞台や映画に出演する機会を探していたそうです。

当時はオーディションをいくつも受け、芸能人に弟子入りを頼みに行ったこともありました。ハナ肇さんや青島幸男さんを訪ねた経験についても、後年のインタビューで明かしています。

演劇部に入ったことで満足するのではなく、実際に演じる場所を求めて、自分から動いていた時期でした。

日活映画の端役で経験した初めての撮影現場

市村さんの若い頃を知るうえで興味深い作品が、1966年5月18日公開の映画『涙になりたい』です。

西郷輝彦さんと松原智恵子さんが出演した日活の青春映画で、日活公式の作品記録には、市村さんが「チンピラB」役として記載されています。

市村さん自身はインタビューで、松原智恵子さんが演じた人物の弟の友人という役どころだったと振り返り、せりふもあったことを明かしています。映画の現場では有名俳優たちを間近で見ることができ、演技への気持ちがさらに強まったそうです。

当時の市村さんは、主演を目指すというよりも、自分が演じている役より大きな役を務める若い俳優を見て、自分もあちらを演じたいと感じていました。

1966年の『涙になりたい』は、市村さんが劇団四季の舞台に立つ以前の映画出演作です。

市村正親さんの経歴では、1973年の『イエス・キリスト=スーパースター』が舞台デビューとして紹介されています。一方、日活の公式記録には1966年公開の『涙になりたい』への出演が残されています。映画での初期出演と、本格的な舞台俳優としての出発点は別の出来事です。

高校卒業後、市村さんは演技を専門的に学ぶため、舞台芸術学院へ進みます。そこでの学生生活が、次の大きな出会いを生むことになりました。

市村正親の俳優修業|舞台芸術学院から西村晃の付き人へ

川越商業高校を卒業した市村正親さんは、舞台芸術学院に進学しました。

舞台芸術学院での学びは演技の基礎を身につける時間であると同時に、のちに水戸黄門役でも知られる俳優・西村晃さんと出会う場所にもなりました。

無遅刻無欠席の学生生活が生んだ出会い

舞台芸術学院の入学式で、市村さんは学校側から、授業は学生全員の学費によって成り立っているという話を聞きました。

一人が授業を休んでも、その授業を行うためのお金はほかの学生の負担によって支えられている。市村さんはその言葉が印象に残り、一日も休まず学院へ通ったといいます。

その頃、学院で講師も務めていた西村晃さんが付き人を探していました。教務の先生が紹介したのは、無遅刻無欠席で通っていた市村さんでした。

市村さんはまず夏休みの約1か月間、西村さんの仕事を手伝います。その後、学院へ戻って学びを続け、卒業が近づいた頃に再び西村さんの舞台を見に行きました。

終演後、西村さんから卒業後の進路を聞かれた市村さんは、まだ決めていないと答えます。すると西村さんは、名古屋の名鉄ホールで行う芝居を手伝わないかと声をかけました。

この名古屋公演が、付き人として正式に働くきっかけになります。

西村晃の付き人として過ごした3年間

名鉄ホールでの公演中、西村晃さんから正式な付き人の誘いを受け、市村さんは約3年間、その仕事に就きました。

付き人は、俳優本人の身の回りの仕事を手伝いながら、舞台や撮影の現場に同行する役目です。市村さんは西村さんのそばで、舞台俳優たちがどのように芝居を作るのかを見ていました。

名古屋の『めおと太鼓』では、三木のり平さんや古今亭志ん朝さんらの芝居を間近で見ました。映画『座頭市』の現場では勝新太郎さんとも接し、歌舞伎座では萬屋錦之介さんらが出演する舞台を見ることもできたそうです。

同じ舞台を繰り返し見ることで、毎回異なる間合いや表情、せりふの伝え方にも触れられました。西村さんの付き人だったからこそ、多くの俳優の仕事を見る機会があったのです。

2020年のインタビューで、市村さんはこの3年間について次のように語っています。

その3年間は神様が僕に与えてくれたんですよ。

出典:AKINAI Policy「役者ほど素敵な商売はない 俳優 市村正親 氏」(2020年3月8日掲載)

2026年10月のFRIDAYデジタルのインタビューでも、市村さんは西村さんの付き人として過ごした時期を、自分にとって貴重な財産だったと振り返っています。

この修業時代には、日生劇場との接点も生まれていました。日生劇場は2023年の公式X投稿で、市村さんとの出会いが1972年にさかのぼることを紹介しています。

付き人として舞台の裏側から俳優たちを見ていた市村さんは、次第に自分も演じる側へ進みたいと考えるようになります。そして、別の習い事の場所で、劇団四季への道が開かれました。

市村正親の劇団四季デビュー|バレエ教室から舞台へ

市村正親さんが劇団四季のオーディションを受けることになったきっかけは、バレエ教室での出会いでした。

西村晃さんの付き人をしながら、新しいことに挑戦したいと思った市村さんは、バレエを習い始めます。そこで知り合った講師とピアノの先生が、劇団四季への応募を後押ししました。

バレエ教室で勧められたオーディション

市村さんが通っていたバレエ教室には、ダンサーの名倉加代子さんがいました。

ある日のレッスン中、名倉さんから劇団四季のオーディションを受けてみてはどうかと勧められます。

さらに、その教室でピアノを担当していた木内重子さんは、劇団四季の女優でもありました。市村さんがオーディションを受けると伝えると、歌の練習に使う伴奏を用意するなど、協力してくれたそうです。

すでに映画の撮影現場や舞台の裏側を経験していた市村さんでしたが、ここで初めて、劇団四季という大きな劇団の出演者を目指すことになります。

バレエ教室での勧めを受け、劇団四季のオーディションに合格したことが、本格的な舞台俳優としての出発点になりました。

1973年のヘロデ王役と翌年の劇団四季入団

1973年、市村さんは劇団四季のロックオペラ『イエス・キリスト=スーパースター』に出演しました。

演じたのはヘロデ王役です。主人公イエスの前に現れる短い場面ながら、独特の存在感を求められる役でした。

この作品でイエスを演じたのが、後に何度も共演することになる鹿賀丈史さんです。市村さんは後年、鹿賀さんの歌や演技に憧れながらも、自分には自分の表現があると考えて稽古を重ねたことを語っています。

市村さんは1973年の出演を経て、1974年に劇団四季へ正式入団しました。

1973年が舞台デビュー、1974年が劇団四季への正式入団というのが、市村さんの経歴における重要な区別です。

高校時代に日活映画へ出演してから、舞台芸術学院で学び、西村晃さんの付き人を経験し、ようやく劇団四季の舞台に立った市村さん。ここから長く続くミュージカル俳優としての活動が始まります。

市村正親の転機|『エクウス』から『オペラ座の怪人』へ

劇団四季への入団後、市村正親さんはさまざまな舞台で役を演じながら、出演の幅を広げていきました。

1975年には『エクウス』で中心的な役を務め、1980年代には『エレファント・マン』などにも出演。やがて『オペラ座の怪人』でファントム役を演じることになります。

『エクウス』で大きな役をつかんだ新人時代

1975年、劇団四季はピーター・シェーファーの戯曲を原作とする『エクウス』を日本初演しました。

物語の中心にいるのは、馬への複雑な感情を抱える少年アラン・ストラングと、その少年に向き合う精神科医です。

市村さんが演じたのは、少年アラン役でした。1973年のヘロデ王役とは異なり、物語の中心で心理的な葛藤を表現する役です。

『エクウス』の日本初演は、劇団四季の舞台史でも重要な作品となりました。市村さんにとっても、入団して間もない時期に大きな役を任された経験でした。

さらに1980年には、チェーホフ作品『かもめ』や『エレファント・マン』に出演し、ゴールデン・アロー賞演劇賞を受賞しています。

若い頃から歌だけに活動を絞っていたわけではなく、せりふを中心とする芝居でも経験を重ねていました。

ファントム役への挑戦と劇団四季での活躍

市村さんの劇団四季時代を代表する役の一つが、ミュージカル『オペラ座の怪人』のファントムです。

ただし、最初からファントム役を目指してオーディションを受けたわけではありません。2026年に放送されたフジテレビの『君たちは、どう演ずるか?』で、市村さんは当初ラウル役のオーディションを受けたものの、選ばれなかった経緯を振り返っています。

その後、ファントム役に挑戦することになります。仮面で顔の一部が隠れる役だけに、声や歌だけでなく、視線や身体の使い方も重要でした。

市村さんは、それまでにさまざまな舞台で役を演じてきました。『エクウス』で少年を、『エレファント・マン』でジョン・メリックを演じ、ファントムではまた異なる人物の孤独や苦悩を表現することになったのです。

『オペラ座の怪人』のファントム役は、劇団四季で積み重ねた経験が結び付いた代表的な役となりました。

一方で、市村さんは劇団四季の中で役を演じ続けるだけではなく、劇団の外でも新しい仕事に挑戦することを考えるようになります。

市村正親の舞台人生|劇団四季退団と『ミス・サイゴン』

市村正親さんは1990年、長く活動してきた劇団四季を退団しました。

その後、1992年に日本初演された『ミス・サイゴン』でエンジニア役をつかみます。市村さんにとってこの役は、劇団四季を離れた後の舞台人生を大きく広げる仕事になりました。

1990年に劇団四季を離れた理由

1974年の正式入団から1990年の退団まで、市村さんは劇団四季で数多くの舞台を経験しました。

退団については、後年の本人の回想で、ファントム以外の役を求められたことなど、劇団内での役の方向性をめぐる出来事が語られています。ただし、それだけを唯一の理由と断定できるものではありません。

市村さんは劇団四季でさまざまな役を務めながら、自分が演じたい仕事を求めてきました。そして1990年に劇団四季を離れ、劇団の外で舞台俳優として活動する道を選びます。

退団後、次に大きな転機となったのが、帝国劇場で上演される大型ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションでした。

1992年『ミス・サイゴン』のエンジニア役を獲得

『ミス・サイゴン』は、ベトナム戦争期のサイゴンを舞台にしたミュージカルです。

市村さんが演じたエンジニアは、戦争と社会の混乱の中で、自分の欲望や夢を追いながら生きる人物です。物語の中でも独特の存在感を持つ役でした。

劇団四季を退団した市村さんは、このエンジニア役をどうしても手に入れたいという気持ちでオーディションに臨んだといいます。

本人の回想によると、審査側には、市村さんが会場に入ってきた時点で役の人物像を思わせるものがあったようです。市村さん自身はその評価を知らず、ただ役を獲得することに集中していました。

そしてオーディションに合格。1992年の日本初演でエンジニア役を務め、約1年半のロングラン公演を経験しました。

ホリプロの公式プロフィールには、初演で612回出演した記録が残されています。市村さんはその後も再演でエンジニア役を務め、2022年には同役の累計出演回数が900回を超えました。

2026年10月のFRIDAYデジタルのインタビューでは、2022年の公演を最後にエンジニア役を後進へ譲ったことについても語っています。

本音を言えば譲りたくないですよ。

出典:FRIDAYデジタル「市村正親インタビュー 俳優人生53年『食事も芝居も味付けのスパイスが重要』」(2026年10月5日)

市村さんは、作品の登場人物としてエンジニアを見てもらいたいという思いも語っています。自分が長年演じてきた役であっても、舞台全体の中でどう見えるかを考えた末の決断でした。

長男との親子共演につながった舞台人生

市村さんの舞台人生には、家族との新しい出来事もありました。

2021年、ミュージカル『オリバー!』で長男の市村優汰さんと初めて舞台共演を果たしたのです。

優汰さんは幼い頃から父親の舞台を見て育ち、『ミス・サイゴン』のドラゴンダンサーに憧れたことなどをきっかけに、自分も俳優の道へ進みたいと思うようになりました。

2021年の『オリバー!』にはオーディションを経て出演しています。市村さんは親子で同じ稽古場にいられることを喜ぶ一方、舞台では父親ではなく、演出家や音楽監督の指示に従うように伝えていたそうです。

2024年のThe Fashion Postの親子インタビューでは、優汰さんが俳優を目指した時の気持ちについて、市村さんはこう答えています。

僕は幸せでしたよ。嬉しかった。

出典:The Fashion Post「市村正親と市村優汰。影響し合う親子の肖像〈前編〉」(2024年8月7日)

市村さんが高校時代に舞台へ憧れたように、優汰さんも父親の出演する舞台を見て演じる仕事に関心を持ちました。市村さんが長年立ち続けてきた舞台は、息子にとっても身近な場所だったのです。

また、市村さんは劇団四季で出会った鹿賀丈史さんとも、退団後に共演を重ねています。2018年初演のミュージカル『生きる』では、主人公・渡辺勘治をダブルキャストで演じ、2023年の公演でもそれぞれ同じ役に挑みました。

ホリプロステージが公開したWOWOWの特別番組には、市村さんと鹿賀さんが出演し、『生きる』の舞台裏や演出家・宮本亞門さんとの仕事が紹介されています。

川越の居酒屋の向かいにあった映画館、川越まつりの白狐、高校の演劇部、舞台芸術学院、そして西村晃さんの付き人時代。市村正親さんは、そうした場所や人との出会いを経て、1973年に劇団四季の舞台へ立ちました。

『エクウス』『オペラ座の怪人』『ミス・サイゴン』と、演じる役は変わっていきましたが、出発点には、高校生の頃に『オットーと呼ばれる日本人』を観て、数時間の舞台で別の人生を生きる仕事に惹かれた経験がありました。

その後、2021年には長男と同じ舞台に立ち、2023年には50年前の劇団四季時代から縁のある鹿賀丈史さんと再びミュージカルを演じています。市村さんが若い頃に選んだ俳優という仕事は、長い年月を経て、家族やかつての仲間との共演にもつながっていきました。