PROFILE
人物プロフィール
Netflix『地面師たち』や映画『ラストマイル』、連続テレビ小説『ばけばけ』など、映画やドラマで独特の存在感を見せてきた俳優・岩谷健司さん。
映像作品から知った人には意外かもしれませんが、岩谷さんの俳優人生は、養成所やオーディションから始まったわけではありません。
青森県五所川原市で育ち、高校卒業後はテレビ制作会社へ就職するため18歳で上京。ADを辞めた後も、洋服店や建設現場、東京湾の船上など、芝居とは異なる仕事を転々としていました。
そこから友人に誘われて初舞台を踏み、1992年にWAHAHA本舗へ入団しますが、岩谷さん自身が「役者としての考え方」が変わったと振り返るのは、さらにその後のことです。
岡部たかしさんや村松利史さんとの出会い、観客がわずか6人だった公演、40代半ばまで続いたアルバイト生活など、映像作品で知られるようになる前には長い舞台生活がありました。
今回は、そんな岩谷健司さんの生い立ちや家族、若い頃のAD時代、芸能界へ入ったきっかけ、WAHAHA本舗から俳優としての意識が変わっていくまでをご紹介します。
「3年B組金八先生」と岩谷健司さんについて
『3年B組金八先生』第1シリーズの安藤卓役には「岩谷健司」という出演者名が残っています。一方、この記事で扱う岩谷健司さんは1970年生まれで、本人は18歳だった1988年に青森から上京し、その後にWAHAHA本舗の若手公演で初舞台を踏んだ経歴を語っています。所属先BIRD LABELの公式出演歴にも『金八先生』の記載はなく、少なくとも本人が語る俳優経歴とは一致しません。
岩谷健司の生い立ち|青森県五所川原市で映画に夢中だった少年時代
岩谷健司さんは1970年2月25日、青森県五所川原市生まれです。
東京へ出たのは18歳のときで、それまでは青森で暮らしていました。
ブルース・リーとジャッキー・チェンに憧れた子ども時代
岩谷さんは子どものころから映画が好きで、地元にいた時期には映画館へよく足を運んでいました。
2012年のインタビューでも、青森時代についてこう振り返っています。
「まあ、映画は好きだったから、映画館に入り浸ってはいたけど」
出典:おコメダーズ「一期一得インタビュー『第一回・岩谷健司(俳優)其の一』」(2012年5月17日)
特に夢中になったのが、ブルース・リーやジャッキー・チェンの映画でした。
カンフー映画のブームと重なったこともあり、少年時代に思い描いていたのは、いわゆる正統派の俳優というより体を使ってスクリーンで活躍するアクション俳優でした。
アクション俳優を夢見てJACに入りたいと思っていた
岩谷さんは千葉真一さんが率いていたJAC(ジャパンアクションクラブ)にも憧れ、「絶対に入りたい」と思っていた時期があったそうです。
子どものころには、すでに「演じる側」への憧れがありました。
ただし、高校卒業後にそのまま俳優養成所やJACへ進んだわけではありません。
岩谷さんが最初に東京で飛び込んだのは、華やかな出演者側ではなく、テレビ番組を作る裏方の世界でした。
岩谷健司の家族|青森の母親と弟、妻について
岩谷さんがこれまで昔を振り返ったインタビューには、家族として母親と弟が登場します。
特に母親とのエピソードは、東京へ出たばかりの岩谷さんの若さがそのまま伝わってくるものです。
AD時代に新宿御苑から青森の母親へ電話
上京後、テレビ制作会社でADをしていた岩谷さんは、三波春夫さんが出演する番組のロケで大きな失敗を経験しています。
新宿御苑での撮影中、車に置き忘れたインカムを取りに戻るよう指示されたものの、広い園内で道が分からなくなってしまいました。
違う出口へ出てしまい、ようやく車を見つけても、今度は撮影場所へ戻れません。
携帯電話が一般的ではなかった時代です。
追い詰められた岩谷さんが公衆電話から連絡した相手は、東京のスタッフではなく、青森にいる母親でした。
新宿御苑の「赤い橋」がどこにあるのかを青森の母親に尋ねたというのですから、本人が後年笑い話として語るのも納得の状況です。
もちろん母親にも分かるはずはなく、本人によれば母親も戸惑っていたそうです。
結局、三波さんを約2時間待たせて戻ったところ、岩谷さんが運んできたケースの中に入っていたのは、インカムではなくドライバーセットでした。
激しく叱られた岩谷さんを見た三波さんは、その後の食事の席で岩谷さんを自分の前へ呼び、「頑張ってね」と声をかけてくれたといいます。
観客6人の公演を母親と弟が見に来ていた
家族が再び登場するのは、岩谷さんがWAHAHA本舗を辞め、岡部たかしさんたちと小さな舞台を作っていた時期です。
岩谷さんと岡部さんが下北沢のOFF・OFFシアターで行った初期の公演では、客席にいた観客がわずか6人だったことがありました。
しかも、その6人の中には岩谷さんの母親と弟が含まれていました。
ほかには偶然入ってきた女子高校生が3人ほどいたと本人が振り返っており、現在の二人の活動からは想像しにくい規模です。
岡部たかしさんとは、その後も長く舞台で活動をともにします。岩谷さんによると、一日中一緒に過ごす時期が続き、岡部さんから「今年は、岩谷さんにしか会ってない」と言われたこともあったそうです。
ピンク映画時代から仕事を理解していた妻
ラッコキーワードでも検索需要が大きい「妻」については、岩谷さん本人が2024年のインタビューで語っています。
2009年からピンク映画へ出演するようになったころ、岩谷さんには交際している女性がいました。
その女性は出演することを理解したうえで、岩谷さんの作品を一緒に映画館へ見に行っていたそうです。
「よく一緒に(出演作を)見に行っていましたよ(笑)。そのときの彼女が奥さんです」
出典:テレ朝POST「俳優・岩谷健司、ピンク映画から社会派まで幅広く活躍。恋人の“理解”が必要な作品も一緒に鑑賞『その時の彼女が妻です』」(2024年8月16日)
上映後、共演した女優と妻が少し似ていたため、前の席にいた観客から共演女優本人と勘違いされたこともあったと話しています。
岩谷健司の若い頃|高校卒業後に上京しADからさまざまな仕事へ
地元の大学ではなく東京のテレビ制作会社を選んだ
高校を卒業する時点で、岩谷さんには地元の大学へ進む選択肢もありました。
しかし、本人が選んだのは大学進学ではなく、赤坂にあったテレビ制作会社への就職でした。
理由として大きかったのは、テレビ業界への強い使命感というより、青森を離れて東京へ行きたいという思いです。
1988年ごろ、18歳で上京し、テレビ制作の現場でADとして働き始めました。
少年時代にはアクション俳優に憧れていたものの、この時点では俳優一本で生きていく将来像が固まっていたわけではありません。
制作現場では、長時間働くスタッフとは対照的に、現場へ来て短い芝居をして帰る俳優たちの姿も目にしました。
2012年のインタビューでは、その仕事ぶりを見て俳優という職業に興味を持ったことも率直に話しています。
三波春夫を約2時間待たせたAD時代の大失敗
ただ、ADの仕事は岩谷さんには合いませんでした。
担当していたのは、フジテレビで早朝に放送されていた三波春夫さん司会の『早起きチャンネル520』などです。
ゲストが歌うための準備をしたり、ロケへ同行したりと、当時のADらしい多くの雑務を担っていました。
その中で起きたのが、前述した新宿御苑での失敗でした。
岩谷さん自身、会社へ行ってタイムカードだけを押し、氷川神社のベンチで過ごしてしまうこともあったと明かしています。
制作会社は半年ほどで辞めました。
テレビの世界そのものから離れた岩谷さんは、そのまま俳優になるのではなく、さらにいくつもの仕事を経験していきます。
タカキューや建設現場、東京アクアラインでも働いた
制作会社を辞める岩谷さんを見ていた仕事関係者が紹介してくれたのが、洋服店タカキューでのアルバイトでした。
本人によれば販売成績も良く、仕事自体も楽しかったそうですが、そのまま続ける道は選びませんでした。
その後は建設現場などでも働き、東京アクアラインの建設に関わる船へ乗ったこともあります。
東京湾の船上にある食堂で作業員の食事を作っていたものの、忙しい中で味噌汁を大量にこぼしてしまい、別の仕事へ回されました。
新しい担当は、夜中に1時間おきに風向きを確認して記録する仕事でした。
AD、洋服店、建設現場、船上の食堂。
これだけ仕事が変わっても、まだ本格的に芝居を仕事にしようとは考えていませんでした。
岩谷健司の芸能界入り|友人に誘われWAHAHA本舗の若手公演へ
役者になるつもりがないまま踏んだ初舞台
仕事を転々としていたころ、岩谷さんの周囲には、お笑いライブなどに出ている友人が増えていました。
同じアパートに住んでいた友人もその一人です。
その友人が舞台へ出演することになり、役者の人数が足りないという話から岩谷さんにも声がかかりました。
大きなオーディションを突破したわけでも、芸能事務所へ自分から応募したわけでもありません。
友人から「やってみる?」と誘われて参加した舞台が、WAHAHA本舗の若手公演でした。
ここが、確認できる岩谷さんの最初の演技経験です。
初舞台で笑いが取れ、喰始から次の公演へ誘われる
初めて舞台に立った岩谷さんを待っていたのは、予想以上の客席の反応でした。
「初めてやったわりには、すっごいウケるんですよね。『あれ?イケるんじゃねえか?』みたいな(笑)」
出典:テレ朝POST「話題作次々出演の俳優・岩谷健司、40代半ばまでは『バイト生活』 AD時代には国民的歌手を2時間待たせる大失敗」(2024年8月13日)
公演を見ていたWAHAHA本舗主宰の喰始さんから、次の公演にも出てほしいと声をかけられました。
ところが、岩谷さんはすぐにWAHAHA本舗へ入ったわけではありません。
当時交際していた女性がWAHAHA本舗に所属しており、同じ劇団へ自分も入ることに抵抗があったため、何度か誘いを断ったと話しています。
それでも喰さんから声をかけられ続け、1992年にWAHAHA本舗へ入団しました。
1992年にWAHAHA本舗へ入り7年間活動
WAHAHA本舗には、村松利史さんや吹越満さんなど個性の強い役者がいました。
岩谷さんは舞台だけでなく、営業やさまざまな仕事にも関わりながら活動し、この時期はアルバイトをせずに何とか生活できていたと振り返っています。
所属先BIRD LABELのプロフィールでは、WAHAHA本舗を退団したのは1999年です。
本人はWAHAHA本舗へ入った理由の一つとして村松利史さんの存在を挙げており、村松さんら自分が好きだった役者が退団していったことも、自分の活動を見直すきっかけになりました。
ただし、WAHAHA本舗で7年間舞台に立ったからといって、この段階ですでに現在と同じ俳優観を持っていたわけではありません。
岩谷健司さんのキャリアは「芸能界入り」と「俳優としての意識が固まった時期」を分けると分かりやすくなります。
初舞台とWAHAHA本舗入団は1990年代前半。その後、村松利史さん・岡部たかしさんと活動した「午後の男優室」で、芝居への考え方が大きく変わっていきました。
WAHAHA本舗退団後に岡部たかしと出会い俳優の道へ
九十九一との縁から岡部たかしと知り合う
WAHAHA本舗時代、若手公演の演出を九十九一さんが担当したことがあり、岩谷さんはそこで九十九さんと親しくなりました。
退団を考えたときに九十九さんへ相談すると、「うちに来いよ」と声をかけてもらいます。
当時、九十九さんの周囲には若い役者たちが集まっており、その中にいたのが東京乾電池の若手だった岡部たかしさんでした。
WAHAHA本舗を辞めたことが、後に長く活動をともにする岡部さんとの出会いにつながりました。
村松利史・岡部たかしと「午後の男優室」を結成
2002年、岩谷さんは村松利史さん、岡部たかしさんと演劇ユニット「午後の男優室」を結成します。
所属先プロフィールには、2002年の舞台『零点大将』『SORAOTOKO』、2003年の『午後の男優室発表会』『もずく酢』、2004年の『登戸』などが記録されています。
WAHAHA本舗という大きな集団を離れ、自分たちで作品を作る時期に入ったことで、生活面では厳しさが増しました。
一方で、芝居に対する岩谷さんの考え方は、このころから変わっていきます。
村松利史との芝居で「役者」への考え方が変わった
岩谷さんは2012年のインタビューで、現在につながる役者としての考え方が生まれた時期をはっきり分けています。
「今の(役者としての)考え方に近くなったのはWAHAHAの時じゃなくて、『午後の男優室』をやっていた時ですね」
出典:おコメダーズ「一期一得インタビュー『第一回・岩谷健司(俳優)其の三』」(2012年5月17日)
WAHAHA本舗のころは、自分が客席から笑いを取れたかどうかを重視する意識が強かったそうです。
ところが村松さんと芝居を作るようになると、他人が書いた自分には言いづらいセリフをどう役として成立させるか、作品全体の中で自分がどう機能するかを考えるようになりました。
岩谷さん自身の言葉を借りれば、「笑いが取れればいい」というところから、舞台全体を見る方向へ意識が広がったことになります。
初舞台から約10年を経て、「舞台に出る人」から、自分なりに芝居を考える俳優へと変化していきました。
山内ケンジとの出会いから城山羊の会へ
「午後の男優室」では、岩谷さん、村松さん、岡部さんの3人が基本的に脚本を書いていました。
コント形式のオムニバス作品を作る際、村松さんが知り合いだったCMディレクターの山内ケンジさんに一本を書いてもらったところ、その脚本が強く印象に残ったと岩谷さんは振り返っています。
山内さんはその後、「午後の男優室」のために短いスケッチではなく一本の脚本を書きたいと申し出ます。
3人だけではなく深浦加奈子さんらほかの俳優も招き、2004年に上演したのが『葡萄と密会』でした。
これが、山内さんによる演劇ユニット「城山羊の会」へつながっていきます。
岩谷さんはその後も『効率の優先』『トロワグロ』『自己紹介読本』『温暖化の秋 -hot autumn-』など、山内作品へ繰り返し出演してきました。
2025年には、KAAT神奈川芸術劇場の公式番組「RADIO KAAT」に岡部たかしさんとそろって出演し、山内作品の特徴やキャスティング、劇場の大きさによる演じ方の違いなどについて語っています。
45歳ごろまで続いた下積み|舞台とアルバイトから映像作品へ
岡部たかしとの最初期の公演は観客わずか6人
岡部たかしさんとの活動が始まったころ、すぐに大勢の観客が集まったわけではありません。
下北沢のOFF・OFFシアターで二人が行った最初期の公演では、前述したように観客は6人でした。
それでも岡部さんとの関係は続き、村松利史さんとの「午後の男優室」、山内ケンジさんとの「城山羊の会」、さらに岡部さんと組む「切実」など、小劇場を中心に活動の場を積み重ねていきます。
二人が長く一緒にいたのは、舞台の上だけではありません。
公演を作りながら生活のための仕事も続ける時期を、同じようなペースで過ごしていました。
WAHAHA本舗退団後は約15年間肉体労働も続けた
WAHAHA本舗にいたころは営業などもあり、ぎりぎりながら芝居関係の仕事で生活できていたという岩谷さん。
しかし、1999年に退団すると再びアルバイト生活へ戻りました。
本人によれば、肉体労働などを約15年間続けています。
アルバイトをしていたのは45~46歳ごろまで。
俳優だけで生活することを絶対条件にはせず、仕事を持ちながら空いている時間で芝居をするというスタンスを長く続けていました。
ニッポン放送『ナイツ ザ・ラジオショー』の公式Xでも、岩谷さんのゲスト出演回では「テレビの再現ドラマで鍛えられた!? 岩谷さんの下積み時代」がトークテーマとして紹介されています。
映像作品で顔を知ったあとに経歴をさかのぼると、この長い時期は見落とされやすい部分です。
ただ、岩谷さんの俳優生活では、舞台とアルバイトが長く並行していました。
舞台・ピンク映画を経て映画やドラマへ活動を広げた
映像への出演自体は、ピンク映画より前からあります。
所属先BIRD LABELのプロフィールで確認できる初期の出演には、1998年の映画『お墓がない』やTBSドラマ『女借金取り VS 買いまくる女』があります。
2009年は「俳優デビュー年」ではありません。
岩谷さんは1990年代から舞台で活動し、1998年には映像出演も確認できます。2009年は、竹洞哲也監督の作品でピンク映画へ初めて出演した年です。
ピンク映画への入口になったのは、舞台で知り合った俳優・松浦祐也さんでした。
松浦さんがピンク映画へ出演してきたと知り、岩谷さん自身も俳優として興味を持ったといいます。
2009年11月、竹洞哲也監督の『若義母 むしゃぶり喰う』へ出演。
その後も複数の作品へ出演し、岡部たかしさんを竹洞監督へ紹介したこともありました。
岩谷さんにとってピンク映画も、別枠の仕事ではなく、一つの演技の現場でした。
「もちろんですね。それをでっかいスクリーンで見れるから、ああ、失敗したな…とかね」
出典:おコメダーズ「一期一得インタビュー『第一回・岩谷健司(俳優)其の四』」(2012年5月17日)
撮影した芝居を大きなスクリーンで見直し、自分の演技について反省する機会にもしていました。
2010年代に入ると、映画やテレビドラマへの出演は次第に増えていきます。
2016年には、舞台『トロワグロ』を映画化した山内ケンジ監督の『At the terrace テラスにて』にも出演しました。
『岬の兄妹』『共演NG』から映像でも知られる存在へ
映像で岩谷さんの名前がさらに広がっていく過程で外せない作品の一つが、2019年公開の片山慎三監督作『岬の兄妹』です。
ところが撮影時の岩谷さんは、その作品がどのような映画になるのか十分に分からない状態でした。
撮影日を1日勘違いして待ち合わせ場所へ現れず、片山監督が岩谷さんの自宅最寄り駅まで車で迎えに来たこともあったそうです。
台本も渡されておらず、現場で口頭の指示を受けながら芝居をしたため、完成作を見て初めて作品全体が分かったと振り返っています。
翌2020年にはテレビ東京系ドラマ『共演NG』へレギュラー出演。
岩谷さんが演じた戸沢寛治は、劇中のテレビ局でドラマ部長を務める人物です。
若いころにテレビ制作会社のADとして現場の裏側を経験した岩谷さんが、約30年後にはドラマの中で制作側の責任者を演じることになりました。
同作では、長い舞台仲間である岡部たかしさんも監督役で出演しています。
青森から18歳で上京したADは、友人に誘われた一度の舞台からWAHAHA本舗へ入り、岡部さんや村松利史さんと小劇場を続けながら、映像作品へ活動の場を広げていきました。
その後も2024年のNetflix『地面師たち』や映画『ラストマイル』、2025年度の連続テレビ小説『ばけばけ』、2026年の『銀河の一票』などへ出演しています。
少年時代に映画館へ通っていた岩谷さんが実際に俳優になるまでには、AD、販売員、建設現場、船上の仕事、WAHAHA本舗、そして観客6人の小劇場まで、いくつもの時期がありました。
中でも、2002年に始まった「午後の男優室」で芝居への考え方が変わったことは、岩谷さん自身が後年はっきりと振り返っている転機です。
















