PROFILE
人物プロフィール
『VIVANT』のアリ役や『深夜食堂』シリーズのゲン役など、映画やドラマで印象に残る人物を数多く演じてきた山中崇さん。
1978年3月18日に東京都で生まれ、学生時代から舞台に立ち始めましたが、子どものころから俳優を目指していたわけではありません。
芝居との出会いは芸能事務所のスカウトでもオーディションでもなく、高校の文化祭で半ば成り行きのように出演した演劇でした。
大学では演劇にのめり込み、卒業後は一般企業へ就職せずに小劇場の世界へ進みました。
その選択の前後には、21歳で亡くなった父親から受け取った言葉や、出演する舞台を見守っていた母親の存在もありました。
今回は、そんな山中崇さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ進んだ経緯、舞台から映像作品へ活動を広げていった若い頃などをご紹介します。
山中崇の生い立ち|東京都で育ち剣道を続けた少年時代
山中崇さんは1978年3月18日生まれ、東京都出身です。
公式プロフィールには、学生時代から演劇活動を始めたことが記されています。
ただ、その前の少年時代に長く取り組んでいたのは芝居ではなく剣道でした。
小学生から中学生まで続けた剣道
山中さんは、小学生のころから中学生まで剣道を経験しています。
本人が2022年のインタビューで振り返ったところでは、小学2年生から中学1年生まで剣道を続けていました。
この剣道経験が、のちに初めて立った演劇の舞台で思いがけず役立つことになります。
剣道では稽古中に大きな声を出すため、高校生になった山中さんには体育館の後方まで声を響かせられるだけの声量がありました。
山中さんが俳優になるきっかけには、演技のレッスンより先に、少年時代の剣道で身につけた「大きな声」が関わっていました。
高校文化祭で「キジムナーF」を演じ芝居に出会う
高校時代、山中さんの学校では沖縄へ行く「ホームルーム合宿」を前に、沖縄について学んだ内容を文化祭の演劇として発表することになりました。
このとき山中さんは、人前に立つことが得意ではなく、本来は裏方を希望していたそうです。
人前に出ることが苦手だったので裏方を希望した
出典:SmartFLASH「山中崇、仲野太賀ら若手の演技に打ちのめされる『悔しがる自分は「もっと伸びたい」証し』」(2022年4月24日)
ところが出演者の人数が多く、山中さんも舞台へ出ることになりました。
与えられたのは、沖縄の伝承に登場する精霊・キジムナーの一人で、本人が後年まで覚えていた役名は「妖怪キジムナーF」です。
キジムナーは沖縄の伝承に登場し、ガジュマルなどの木に住むとされる精霊です。
剣道をしていた山中さんの声は体育館の後方まで届き、上演後には友人たちから褒められました。
それだけではなく、本番前日に役者が稽古し、裏方が準備しながら一つの作品を作っている光景にも惹かれたと振り返っています。
友人が文化祭でバンドを組み注目されている姿を見て、自分も何かやってみたいと感じていた時期でもありました。
本人は後年、この文化祭の演劇がなければ役者にはなっていなかったと思うと語っています。
最初の舞台は主役でも大きな役でもありませんでしたが、ここで知った感覚を山中さんは大学でも追いかけることになります。
山中崇の家族|21歳で亡くなった父と舞台を見守った母
山中さんが大学で演劇に打ち込み、卒業後の進路を考えていた時期には、家族にも大きな出来事がありました。
とくに父親と母親については、本人が後年の対談で当時の様子を具体的に語っています。
父の言葉を「俳優をやってみな」という後押しとして受け取った
山中さんの父親は、山中さんが大学を卒業するころに病気が分かり、入院していました。
山中さん自身は、父親へ「俳優になりたい」とはっきり伝えたことはなかったそうです。
それでも学生時代から演劇をしていたため、父親は息子が考えていることを感じ取っていたのではないかと山中さんは振り返っています。
ある日、見舞いに訪れた山中さんが父親と食堂で食事をしていると、一つの言葉をかけられました。
金銭的に貧しくなっても、心は貧しくなるなよ
出典:kufura「作家・早見和真と俳優・山中崇が語る親子関係のいろいろ」(2024年3月30日)
山中さんはこの言葉を、俳優への道を「やってみな」と父親が背中を押してくれたものとして受け取りました。
その後、父親は山中さんが21歳のときに亡くなっています。
40代になってからも、ときどき父親と酒を飲んで話してみたいと思うことがあると本人は語っています。
母は反対も賛成もせず出演舞台を見続けた
一方、母親は息子が俳優になることへ強く賛成したわけでも、反対したわけでもありませんでした。
山中さんは母親の当時の距離感を、本人なりに「不安を抱きながら見守ってくれていたのかもしれない」と受け止めています。
出演する舞台は必ず観に来てくれました
出典:kufura「作家・早見和真と俳優・山中崇が語る親子関係のいろいろ」(2024年3月30日)
俳優として有名になってからも、母親は息子の出演作品をよく見ていたそうです。
山中さんが劇中でひどい目に遭う役を演じると、母親から感想が来なくなることもあったといい、作品の中であっても息子を見る親としての距離感が伝わるエピソードです。
「兄弟」と検索される背景|山中崇史・山中聡とは別人
山中崇さんについては「兄弟」という検索も多く見られますが、兄弟姉妹の構成を本人や公式プロフィールが詳しく公表した情報は確認できません。
ここで注意したいのが、同じ「やまなか たかし」と読む俳優山中崇史さんとの混同です。
『相棒』で芹沢慶二を演じる山中崇史さんには、俳優の山中聡さんという実弟がいます。
一方、1978年生まれで『VIVANT』のアリ役などを演じる山中崇さんは、この兄弟とは別人です。
山中崇さん、山中崇史さん、山中聡さんは名前が似ていますが、「山中崇史さんと山中聡さんが実の兄弟」であり、山中崇さんを兄弟の一人として扱うのは誤りです。
山中崇の学歴|東京経済大学で演劇にのめり込んだ学生時代
高校文化祭で芝居の面白さを知った山中さんは、大学へ進むと演劇へ使う時間を大きく増やしていきました。
この大学時代には、学校内のサークル活動だけにとどまらず、外部の舞台へも積極的に参加しています。
「東京大学」ではなく東京経済大学コミュニケーション学部卒業
山中さんの大学については「山中崇 東京大学」という検索も見られます。
しかし、出身大学は東京大学ではなく、東京経済大学です。
学部はコミュニケーション学部で、東京経済大学自身も卒業生の俳優として山中さんを紹介しています。
同大学の卒業式では、後輩にあたる卒業生へ向けて山中さんからのメッセージ映像が上映されたこともありました。
「山中崇 東京大学」という検索が見られますが、確認できる学歴は東京経済大学コミュニケーション学部卒業です。
演劇研究会から外部公演へ広がり年間6本ほど舞台に立つ
大学へ入った山中さんは演劇研究会に所属しました。
高校文化祭で一度舞台に立った経験は、ここから本格的な演劇活動へ変わっていきます。
大学内だけでなく、他大学のサークルや外部の劇団にも足を運び、そこで生まれたつながりから別の舞台へ呼ばれる機会も増えていきました。
本人によれば、学生時代には年間6本ほど舞台に出演する時期もあったといいます。
実家から大学へ通っていたため、生活費を稼ぐアルバイトを必要最小限に抑えられたことも、多くの舞台へ参加できた理由の一つだったそうです。
先輩から出演しすぎではないかと言われても、山中さんは舞台へ立つ経験そのものを重ねようとしていました。
NODA・MAPの出演者紹介にも、山中さんが学生時代から演劇研究会に所属し、bird’s-eye viewなどの公演へ参加していたことが記録されています。
高校で偶然立った一度の舞台は、大学では生活のかなり大きな部分を占めるものになっていました。
大学卒業後に俳優一本を選択|小劇場とアルバイトの日々
大学卒業が近づくと、舞台へ出演することと職業として俳優になることは別の問題として山中さんの前に現れます。
それでも卒業後に選んだのは、一般企業への就職ではなく芝居を続ける道でした。
一般就職ではなく芝居を続ける道を選ぶ
山中さんは大学を卒業すると、そのまま小劇場を中心に俳優として活動しました。
高校文化祭で芝居を知ってから数年がたち、大学では外部公演を含めて何度も舞台へ立っていたため、卒業と同時にゼロから芸能界へ飛び込んだわけではありません。
すでに舞台の現場へ出入りし、ほかの大学や劇団の人たちともつながりながら、演じる経験を積んでいました。
父親が入院していた時期に受け取った言葉も、この選択と重なっています。
ただし、俳優を選んだからといって、すぐにそれだけで生活できるようになったわけではありませんでした。
舞浜の倉庫で夜勤をしながら俳優を続けた
大学卒業後の小劇場時代は、映画やテレビの仕事も十分にはなく、舞台出演だけで生活費をまかなうことはできませんでした。
そこで山中さんがしていたのが、千葉県舞浜にある倉庫での荷さばきのアルバイトです。
夜中から夜明けまで荷物を出荷場へ運ぶ仕事で、同じ作業を毎晩繰り返していました。
俳優として先が見えず、酒を飲んだときには友人へ「役者に向いていないのかな」と弱音を吐くこともあったそうです。
役者以外にやりたいことが思い浮かばない
出典:SmartFLASH「山中崇、仲野太賀ら若手の演技に打ちのめされる『悔しがる自分は「もっと伸びたい」証し』」(2022年4月24日)
「役者をやめたあとに何をするのか」と考えると、別にやりたい仕事が浮かばず、結局は芝居へ戻ってきました。
俳優を続ける理由を大げさな目標に置き換えず、ほかにやりたいことがなかったという本人の言葉で振り返っているのも、この時期をよく表しています。
NODA・MAPのワークショップから『オイル』出演へ
小劇場で経験を重ねていた山中さんには、外部の大きな舞台へつながる機会も訪れました。
2001年に一般公募で行われたNODA・MAPのワークショップへ参加しています。
映画『松ヶ根乱射事件』の公式プロフィールには、2001年と2002年にNODA・MAPのワークショップへ参加した経歴も記載されています。
そして2003年、野田秀樹さん作・演出のNODA・MAP第9回公演『オイル』へ出演しました。
『オイル』には松たか子さん、藤原竜也さん、小林聡美さん、片桐はいりさん、北村有起哉さん、橋本じゅんさんらが出演しており、山中さんもその舞台に加わっています。
翌2004年には、野田秀樹さん作・演出の『透明人間の蒸気』や松竹『髑髏城の七人』にも出演しました。
山中さんの場合、「芸能界入り」と「俳優デビュー」を一日で区切るより、高校文化祭から大学演劇、小劇場、NODA・MAPへと舞台活動が連続して広がった経歴として見るほうが実際の歩みに合います。
舞台から映像作品へ|『松ヶ根乱射事件』までの俳優人生
小劇場の舞台を中心に活動していた一方で、山中さんは2000年代初頭から映画にも出演し始めます。
舞台俳優から映像俳優へ一度に転身したのではなく、しばらくは両方の現場を行き来しながら活動の幅を広げました。
2001年に映画へ出演し映像の仕事が始まる
山中さんの公式サイトには、2001年の映画として『怪談 こっちを見ないで…』『きれいにするとこからはじめよう。』『あの坂をのぼれば』の3作品が掲載されています。
映画『明け方の若者たち』の公式プロフィールでは、2001年の『怪談 こっちを見ないで…』を映画初出演と紹介しています。
『怪談 こっちを見ないで…』は清水崇監督による作品で、山中さんは忌野秀一役を演じました。
翌2002年には同じく清水監督の『怪猫 轢き出し地獄』へ出演しています。
初期作品には製作年・公開年の表記差がありますが、山中崇さんの映画初出演については、作品公式プロフィールが2001年『怪談 こっちを見ないで…』と明記しています。
舞台経験を重ねながら映画・ドラマへ活動を広げる
映画へ出演し始めたあとも、山中さんの活動の中心にはしばらく舞台がありました。
2003年には『オイル』、2004年には『透明人間の蒸気』『髑髏城の七人』などへ出演し、同時期からテレビドラマにも出演しています。
2004年にはBS-i『怪談新耳袋』の「ヘアピン」で主演し、その後『電車男』や『のだめカンタービレ』などの連続ドラマにも出演しました。
舞台では約1カ月かけて稽古する一方、映画やドラマでは現場へ入って相手の芝居を受けながら短い時間で形を作ることもあり、山中さんは両者の作り方の違いを感じていたそうです。
その違いを強く実感した作品の一つが、山下敦弘監督の映画『松ヶ根乱射事件』でした。
『松ヶ根乱射事件』が映像俳優としての転機になる
『松ヶ根乱射事件』は2006年に製作され、2007年2月24日に劇場公開された映画です。
山中さんは、新井浩文さん演じる警察官・鈴木光太郎の双子の兄鈴木光を演じました。
実家の畜産業を気まぐれに手伝いながら暮らす光が、町へやって来た男女との出来事に巻き込まれていく役です。
山中さんは山下監督から役を演じる際に「力を抜く」ことを求められ、自分のさまざまな要素を削りながら鈴木光を作っていったと作品公式サイトで振り返っています。
撮影で本人の記憶に強く残ったのが、新井さんと演じた兄弟喧嘩の長回しでした。
最初の撮影では、喧嘩の最中に枕へ貼ってあったテープがカメラに映り込んだため、もう一度撮り直すことになりました。
ところが山中さんも新井さんも、さらに山下監督も、テープが映ってしまった最初の芝居のほうに手応えを感じていました。
完成した映画に採用されたのも、その最初のテイクでした。
山中さんは、舞台のように稽古を繰り返して再現するのとは違う、その瞬間に相手との間で生まれる映像演技の面白さをこの撮影で強く感じています。
『松ヶ根乱射事件』は、山中崇さんが映像作品でも注目を集める大きな転機となりました。
高校文化祭で演じた「キジムナーF」から始まり、大学の演劇研究会、小劇場、NODA・MAPを経て、山中さんの仕事は舞台だけでなく映画やドラマへ広がっていきました。
『松ヶ根乱射事件』で経験した映像ならではの芝居は、その後さまざまな作品で役を演じていく山中さんにとって、一つのはっきりした節目になりました。















