PROFILE
人物プロフィール
『深夜食堂』のマスターをはじめ、映画やドラマで長く印象的な役を演じてきた俳優・小林薫さん。
1951年9月4日、京都府に生まれた小林薫さんですが、子どものころから俳優を目指していたわけではありません。
10代後半には周囲になじめない感覚を抱え、演劇をしていた兄に勧められて俳優養成所へ入ったものの、そこにも自分の居場所を感じられなかったと後年に明かしています。
そんな時期に出会ったのが、唐十郎率いる状況劇場の紅テントでした。
1971年に状況劇場へ入り、20代のほぼすべてを舞台で過ごしたことが、小林薫さんの俳優人生の大きな始まりとなりました。
今回は、そんな小林薫さんの生い立ちや家族、若い頃、学生時代、状況劇場へ入ったきっかけ、映像俳優として評価を高めるまでをご紹介します。
小林薫の生い立ちと若い頃|京都で過ごした10代から芝居との出会いへ
小林薫さんは京都で生まれ、10代までを京都で過ごしました。
のちに数多くの映画やドラマへ出演することになりますが、若いころの本人には、俳優を職業にするという明確な計画があったわけではありません。
京都で育ち、18歳ごろには行き場所を探していた
小林薫さんは京都府京都市で育ち、京都府立洛東高校に進学したのち中退しています。
学校生活について詳しく語られている資料は多くありませんが、10代後半の自分については複数のインタビューで振り返っています。
子どものころから役者に憧れていたのかと聞かれた際には、そうではなかったことをはっきりと語っています。
10代の頃に何かまわりと馴染めないなぁと行き場がなかったりして。
出典:NEWYORKER MAGAZINE「Vol.26 小林 薫」(2014年10月8日)
18歳前後については、本人が後年「問題児」だったと表現するほど、周囲とぶつかる時期もあったそうです。
喧嘩をしたり、トラブルを起こしたりすることもあり、そのころ面倒を見ていたのが演劇をしていた兄でした。
俳優への入口は、幼いころから抱いていた夢ではなく、行き場を探していた10代の終わりに現れました。
小林薫さんは最初から映像俳優を志して芸能界へ入った人物ではなく、舞台との出会いから俳優としての活動が始まっています。
演劇青年だった兄に勧められ俳優養成所へ
兄は演劇に関わっていたことから、弟の小林薫さんに俳優養成所へ行くことを勧めました。
小林薫さんもその勧めを受けて養成所へ入り、演技の世界に足を踏み入れます。
ただ、そこで「自分の進む道を見つけた」と感じたわけではありませんでした。
本人は当時を振り返り、養成所について自分がいるべき場所ではないように感じていたと話しています。
芝居そのものに触れ始めてはいても、まだ「ここで生きていこう」と思える場所には出会っていなかったのです。
その感覚が変わったのは、東京で偶然観た紅テントの芝居でした。
小林薫の家族|父親の反対と兄が俳優への道を開いた
小林薫さんの若いころを知るうえでは、京都で一緒に暮らしていた家族の存在も外せません。
本人のインタビューでは、両親のもとに兄2人、姉2人、小林薫さん、妹1人という大家族で育ったことが明かされています。
小林薫さんは兄2人・姉2人・妹1人がいる6人きょうだいの家庭で育っています。
なかでも若いころの進路に具体的に関わった人物として、父親と演劇をしていた兄のエピソードが残っています。
上京を反対した父親と20歳の決断
父親は大正生まれで、家庭では一家の中心となる存在だったそうです。
社交的に外を歩き回るタイプではなく、仕事を終えるとまっすぐ家へ帰るような人だったと小林薫さんは振り返っています。
小さい頃はやたら怖かった記憶がありますね。
出典:ゆうゆうtime「俳優歴52年の小林薫さんが今思うこと。『今の若い人は芝居も感性もいい。僕らも彼らから学ばなくちゃ』」(2023年9月5日)
そんな父親と大きく意見が分かれたのが、小林薫さんが京都を離れて芝居の道へ進もうとしたときでした。
20歳で東京へ出ることを決めた小林薫さんは、かなり直前になってから父親へその意思を伝えたといいます。
父親は芝居の世界で生活していくことを心配し、行かないほうがいいと反対しました。
しかし、小林薫さんの側ではすでに気持ちは決まっていました。
父親の許可を求めるというより、自分の決断を報告して京都を離れたのが20歳のころでした。
後年のインタビューでは、父親も最終的には息子が行くことを分かっていたのではないかと振り返っています。
兄が芝居への入口を作った
父親が芝居の道を心配する一方で、別の角度から小林薫さんを支えていたのが兄でした。
18歳ごろに周囲とぶつかることが多かった時期には、演劇青年だった兄が弟の面倒を見ていたと本人が語っています。
兄から養成所を勧められたことも、結果として芝居の世界を知る最初のきっかけになりました。
ただし、小林薫さんは兄と同じ道をそのまま進んだわけではありません。
養成所に通ってみても違和感は消えず、自分の居場所を見つけるまでにはもう一つの出会いが必要でした。
家族の中で兄が芝居への入口を作り、その先で小林薫さん自身が選び取ったのが状況劇場でした。
小林薫が俳優になるまで|紅テントに魅了され状況劇場へ
養成所ではしっくりこなかった小林薫さんが強く心を動かされたのは、唐十郎が率いる状況劇場の芝居でした。
劇場の建物ではなく赤いテントを立てて公演する「紅テント」は、当時の小林薫さんがそれまで触れてきた芝居とはまったく違う世界だったようです。
養成所では感じなかった居場所を紅テントで見つける
小林薫さんは東京へ出たあと、偶然紅テントの芝居を観る機会を得ました。
養成所では自分の居場所ではないと感じていた一方、状況劇場の世界から受けた感覚はまるで違っていました。
そこは、僕にとってこれまでで一番違和感のない世界だった。
出典:PINTSCOPE「伊藤健太郎×小林薫×余貴美子×阪本順治監督『「自分」に出会う。』」(2022年6月3日)
本人は、その芝居に強く引き込まれた感覚を「掻っさらわれてしまった」と表現しています。
10代後半に感じていた行き場のなさや、養成所で抱いた違和感とは対照的に、紅テントには自然に入っていける感覚がありました。
紅テントとの出会いが、小林薫さん自身が「ここならいられる」と感じた最初の芝居の世界でした。
その後に劇団員募集の情報を得ると、小林薫さんは状況劇場へ飛び込みます。
迷いながら演技の道を探していた時期は、ここで具体的な舞台生活へ変わりました。
1971年に状況劇場へ入り20代のほぼ全てを舞台で過ごす
小林薫さんは1971年、唐十郎が主宰する状況劇場へ参加しました。
生年月日が1951年9月4日なので、まさに20歳前後での出来事です。
状況劇場には1980年まで在籍し、舞台を中心とした生活を送りました。
本人に在籍期間を尋ねたインタビューでは、その長さを「9年弱」と答えています。
だから、まぁ、20代、ほぼ、みたいな感じ。
出典:ほぼ日刊イトイ新聞「井戸を掘る薫ちゃんと、すぐ帰るイトイさん。」(2015年1月31日)
その言葉どおり、俳優として経験を積み始めた20代の大部分を状況劇場で過ごしています。
当時の状況劇場は、舞台に立つだけで完結するような環境ではありませんでした。
小林薫さんは地方公演の記憶として、九州へ向かう際に荷物と一緒にトラックの荷台へ乗ったことまであったと話しています。
全国を移動しながら公演を続ける劇団生活の中で、芝居と日常がほとんど切り離せない時間を過ごしました。
また、20代という時期に唐十郎と出会い、その脚本を演じ続けた経験について、後年の小林薫さんは自分にとって大切なベースになったと語っています。
小林薫さんの場合、俳優としての活動開始は映画出演より前で、1971年からの状況劇場での舞台活動が先にあります。
1973年以降、舞台俳優として存在感を高める
状況劇場へ入ったあと、小林薫さんは舞台俳優として経験を重ねていきました。
1973年には『ベンガルの虎』『海の牙』などの舞台へ出演しています。
1975年には『蛇姫様』で主演を務めるなど、劇団の中でも主要な役を担うようになりました。
後年に映画やテレビで小林薫さんを知った人にとっては映像俳優の印象が強いかもしれませんが、20代の活動の中心は舞台でした。
映画に初めて出演するよりも前に、状況劇場で数年間にわたって俳優として舞台に立っていたことになります。
そのため、小林薫さんの「俳優デビュー」と「映画デビュー」は同じ出来事として扱わないほうが実際の経歴に合っています。
状況劇場で積み重ねた舞台経験を持ったまま、20代後半になると少しずつ映画にも出演するようになりました。
状況劇場退団後|舞台から映像へ活動の場を広げた
小林薫さんの活動が映像へ大きく広がっていくのは、状況劇場で過ごした20代の後半から30代に入るころです。
ここでも、舞台を離れてすぐに「映像俳優として成功しよう」と将来を決めていたわけではありませんでした。
1977年の映画初出演と1979年『十八歳、海へ』
映画での初期活動を整理すると、まず1977年の『はなれ瞽女おりん』への出演があります。
小林薫さんの映画プロフィールでは、この作品が映画初出演として紹介されています。
一方、俳優データベースでは、1979年の藤田敏八監督作『十八歳、海へ』を初の本格的な映画出演とする整理もあります。
資料によって「映画デビュー」の扱いが異なりますが、1977年『はなれ瞽女おりん』が映画初出演、1979年『十八歳、海へ』が本格的な映画出演として整理すると両方の記録を矛盾なく捉えられます。
『十八歳、海へ』では、映画俳優として早くも大きな評価を得ました。
1979年度の第4回報知映画賞で、小林薫さんは新人賞を受賞しています。
舞台ではすでに何年もの経験を持っていたため、俳優としての新人というより、映画の世界で存在を知られる大きなきっかけになった受賞でした。
1980年に状況劇場を退団し30代から映像の世界へ
小林薫さんは1980年に状況劇場を退団しました。
20代のほぼすべてを過ごした場所を離れましたが、退団直後から次のキャリアを細かく計画していたわけではなかったようです。
しばらく何もしないで生きていこう
出典:東洋経済オンライン「小林薫×阪本順治『天狗だった30、40代を越えて』」(2022年6月2日)
ところが、劇団を辞めると映画などの仕事の声がかかり、30代はその仕事を受けてみようと考えるようになりました。
舞台から映像へ活動の中心が移っていったのは、状況劇場を離れたあとに届いた仕事を一つずつ受けた結果でした。
1981年には村上春樹の小説を映画化した『風の歌を聴け』へ出演しました。
1982年にはNHK大河ドラマ『峠の群像』にも出演し、映画だけでなくテレビドラマでも活動の幅を広げていきます。
状況劇場で舞台に立ち続けた20代から、映画とテレビの双方へ進む30代へと仕事の形が変わっていきました。
『ふぞろいの林檎たち』から『それから』『恋文』へ
テレビドラマで小林薫さんの名前が広く知られるきっかけの一つとなったのが、1983年に始まった『ふぞろいの林檎たち』でした。
状況劇場を離れて数年のうちに、舞台出身の俳優から映画やテレビでも継続して役を担う俳優へと活動の場が広がっています。
さらに1985年には、森田芳光監督の『それから』と神代辰巳監督の『恋文』に出演しました。
翌1986年の第9回日本アカデミー賞では、この2作品で最優秀助演男優賞を受賞しています。
10代の終わりに兄を通じて芝居へ触れ、20歳前後で状況劇場へ飛び込んだ小林薫さんは、30代半ばには映画賞でも高く評価される俳優となりました。
最初から俳優としての将来を描いていたのではなく、養成所での違和感、紅テントとの出会い、約9年間の劇団生活を経て、少しずつ活動する場所を広げていった経歴です。
1985年の『それから』『恋文』と翌年の受賞は、舞台から映像へ進んだ小林薫さんが映画俳優として大きな評価を得た一つの到達点となりました。
















