高橋克実の生い立ち|実家の金物屋で育った若い頃、大学中退からショムニまで

高橋克実の生い立ちと、実家の金物屋で育った若い頃から『ショムニ』までを伝える人物ビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
たかはしかつみ
カテゴリー
男性俳優
出身地
新潟県
生年月日
1961年4月1日
芸能活動開始
1987年
俳優デビュー
1987年
デビューのきっかけ
舞台・演劇

ドラマ『ショムニ』の寺崎人事部長役や、『トリビアの泉』の司会などで広く知られる高橋克実さん。

長く第一線で活躍してきた俳優ですが、子どものころから役者になることを目指していたわけではありません。

生まれ育ったのは、金物の町として知られる新潟県三条市で、実家は商店街に店を構える金物屋でした。

高校卒業後は大学受験を理由に東京へ出たものの、予備校より映画館やドラマのロケ地へ通う日々を送り、映画の世界へ近づくために受け始めた俳優オーディションが思わぬ方向へ進んでいきます。

オーディションの落選者同士で芝居を始め、30代後半までアルバイトを続けながら俳優活動をしていたという経歴は、テレビで知られるようになった後の姿とはかなり違います。

今回は、そんな高橋克実さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、俳優として最初の仕事、『ショムニ』で転機を迎えるまでをご紹介します。

高橋克実の生い立ち|新潟県三条市の金物屋で育つ

高橋克実さんは1961年4月1日、新潟県三条市に生まれました。

金属加工の町として知られる三条で、高橋さんの家も金物を扱う商売をしていました。

テレビの世界とは離れた商店街で過ごした子ども時代ですが、家の中には映画やドラマが身近にありました。

三条小学校へ通い、実家の店番も手伝った子ども時代

高橋さんが通った小学校は、本人も母校として名前を挙げている三条小学校です。

実家は三条の商店街にあった金物屋で、家庭向けの商品だけではなく卸売りもしていました。

父親は夜遅くまで商品の荷造りをしており、高橋さんもその姿を子どものころから見て育っています。

小学生になると、店番を手伝うこともありました。

ただ、毎日次々に客が来るような店ではなく、店先に立ちながら、金物は壊れなければ買い替えない商品が多いことに子どもながら気づいたそうです。

三条市は包丁や工具など金属加工の産地として知られています。高橋さんにとって金物は、地域の産業であると同時に、父親が働き、自分も店番をした家業そのものでした。

後年、高橋さんが故郷について話すときには、華やかな思い出だけではなく、商店街で暮らした子どもの目線が何度も登場します。

俳優になる前の高橋さんにとって、最初に用意されていた将来は「実家の金物屋を継ぐこと」でした。

映画とテレビドラマが好きで東京に憧れる

一方で、高橋さんの家庭では映画やテレビドラマも身近な存在でした。

テレビドラマも映画も家族でよく見ていたんですよ

出典:スポニチアネックス「新潟県出身の高橋克実 実家の家業明かす 両親は役者の道に最初は反対『そこを継いでもらうという』」(2026年4月23日)

子どものころはドラマ全盛期で、『太陽にほえろ!』などを見た翌日に、学校で友人たちと前夜の放送について話すこともありました。

映画も好きで、アラン・ドロンやチャールズ・ブロンソン、そして松田優作さんらに憧れていました。

ただし、このころ考えていたのは「俳優になること」ではありません。

中学生のころにはCMの世界に興味を持ったこともあり、映画やテレビの制作側を含めた映像の世界そのものに惹かれていました。

映画やドラマに映る東京の風景を見るうちに、いつか東京へ出たいという気持ちも強くなっていきます。

「東京へ行きたい」という思いが先にあり、「俳優になりたい」という目標はまだありませんでした。

高橋克実の家族|家業を継がせたかった両親と映画好きの家庭

高橋さんの生い立ちを考えるうえで大きな存在だったのが、金物屋を営んでいた両親です。

家族で映画やドラマを楽しむ一方、父親には息子へ引き継がせたい家業がありました。

父親が働く金物屋と、跡を継ぐはずだった将来

父親の頭の中には、高橋さんが大人になった後の道筋がかなり具体的に描かれていたようです。

まずは商業高校へ進ませ、その後は名古屋や大阪の大きな店で仕事を覚えさせ、いずれ三条へ戻して家業を継がせるという考えでした。

ところが、高橋さん自身は普通高校への進学を選びます。

さらに高校3年生になると、父親が思い描いていた進路とは別の方向を向き始めました。

口にしたのは、「東京へ行きたい」という希望でした。

東京へ出るために考えた方法が、東京の大学を受験することでした。

父親は高校卒業後に他店で経験を積ませてから家業を継がせるつもりでしたが、高橋さんは大学受験という別の進路を持ち出しました。この時点でも、俳優になるための上京ではありません。

俳優の道には反対、それでも家族で映画を見ていた両親

高橋さんが東京で芝居を始めると、両親との関係は穏やかなものばかりではなくなりました。

金物屋を継ぐはずだった息子が大学受験から離れ、収入の安定しない芝居を続けていたため、両親は役者の道に反対しています。

上京した当初は実家へコレクトコールをすることもありましたが、そのうち電話に出てもらえなくなったと本人は振り返っています。

それでも、映画やドラマが好きだったことは親子に共通していました。

高橋さんが俳優として知られるようになってからは、両親も舞台を観に来て喜んでくれるようになったと後年語られています。

家業を継ぐことを望んだ両親と、東京へ出たかった息子。

その間にあった映画好きという共通点は、高橋さんが昔を振り返るインタビューでも繰り返し登場しています。

高橋克実の若い頃|三条東高校から大学受験を口実に上京

高橋さんは三条市で高校まで過ごし、新潟県立三条東高等学校を卒業しました。

高校時代には体格も生活も大きく変化し、卒業後には故郷を離れて東京へ向かいます。

高校時代はバスケットボール部へ

高橋さんには、高校時代のバスケットボールにまつわる印象的なエピソードがあります。

本人によると、中学3年生のころは身長が142センチほどで、両親も成長を心配するほど小柄だったそうです。

そこで親から「バスケをやったら背が伸びる」と勧められ、高校ではバスケットボール部へ入りました。

すると高校時代の1年間で、本人いわく身長が27センチ伸びたといいます。

検索では同姓同名のバスケットボール選手の情報も見つかりますが、俳優の高橋克実さん自身にも高校時代のバスケットボール経験があります。

部活動をしていた一方で、映画や東京への関心は消えませんでした。

高校3年生の夏になると、ついに両親へ東京へ行きたいと切り出します。

予備校へ行かず映画館とドラマのロケ地を巡った東京生活

高校卒業後、高橋さんは東京の大学を受験するためという理由で上京しました。

しかし、東京へ着いてからの行動は受験勉強中心とはほど遠いものでした。

予備校の寮へ入ったものの、授業にはほとんど出ず、まず始めたのが好きだったドラマのロケ地巡りです。

中村雅俊さん主演の『俺たちの旅』の舞台になった吉祥寺や、『太陽にほえろ!』で見ていた新宿中央公園などを訪ねました。

大好きだった松田優作さんが訪れると聞けば、下北沢の焼き鳥店や渋谷のバーにも足を運んでいます。

映画館にも頻繁に通い、雑誌『ぴあ』を手に新宿や横浜などの映画館を回りました。

大学受験は、東京へ出るための「口実」だったと高橋さん自身が後年明かしています。

ただ、この時期にも役者になるという目標はありませんでした。

役者になりたいとは思っていなかったです

出典:テレ朝POST「高橋克実、大学受験を“口実”に憧れの東京へ。予備校にはまったく行かず『最初にやったことがドラマのロケ地巡り』」(2022年9月9日)

高橋さんが近づきたかったのは、俳優という職業よりも映画を作る現場でした。

二浪と大学中退、映画オーディションから小劇場へ

上京後は受験に失敗し、二浪を経験しました。

その後は大学へ進学したものの、早い時期に中退しています。

高橋克実さんが二浪後に大学へ進学し、その後中退した経歴は確認できますが、大学名は本人インタビューや所属事務所の公開プロフィールで確定できないため、学校名は断定しません。

映画の世界で働きたい気持ちは強くなっていましたが、制作の仕事へ入る方法が分かりませんでした。

そこで考えたのが、俳優のオーディションを受ければ映画監督や制作関係者に会えるのではないか、という方法でした。

ところが、オーディションを受けても落選が続きます。

会場には同じように何度も落ちている若者たちがおり、顔を合わせるうちに話をするようになりました。

映画を1本作るには多くのお金が必要でも、舞台なら小さな劇場を借りて自分たちで始められます。

「だったら自分たちで劇団をやろう」という話になり、オーディションの落選者仲間と芝居を始めました。

東京へ出たときには想像していなかった形で、高橋さんの役者生活が始まりました。

高橋克実が俳優になるまで|劇団離風霊船と長い下積み時代

小劇場で芝居を始めたからといって、すぐに俳優だけで生活できたわけではありません。

高橋さんの20代から30代には、舞台の稽古と生活費を稼ぐアルバイトが同時に続いていました。

アルバイトを続けながら舞台へ立った20代

最初に仲間と始めた劇団は無名で、知人や友人にチケットを買ってもらうだけでも簡単ではありませんでした。

舞台だけでは生活できないため、昼夜を問わずさまざまな仕事をしています。

ディスコの黒服や看板設置の肉体労働をしていました。

出典:知るぽると「声をかけられてこその役者。人とのご縁を大切に、これからもさまざまな役を演じたい」(「くらし塾 きんゆう塾」vol.58・2021年秋号)

夜通し働いて明け方に帰宅し、少し眠ったあと午後から芝居の稽古へ行き、再び夜のアルバイトへ向かう生活もありました。

長く続けた仕事の一つが、街中に設置される野立て看板の取り付けです。

勤務先は劇団の稽古にも理解があり、仕事と芝居を両立しやすかったことから長く続きました。

当時住んでいたのは、東京・笹塚にあった家賃2万円ほどの4畳半のアパートでした。

風呂はなくトイレも共同で、目の前にある銭湯を利用していました。

予備校の授業へ出なかったため寮を出ることになり、実家からの援助にも頼れなくなった後の暮らしです。

26歳ごろには、このまま役者を続けていていいのかという不安も抱えていました。

それでも、自分で始めた芝居を多くの人に見てもらいたいという思いが残り、舞台から離れませんでした。

1987年には劇団離風霊船へ入団。

岸田國士戯曲賞を受賞した大橋泰彦さん作・演出の『ゴジラ』ではモスラ役を演じ、離風霊船の舞台俳優として活動を重ねていきます。

劇団離風霊船の『ゴジラ』で高橋克実さんが演じた役は「モスラ」です。EPADには1989年の札幌公演にも高橋さんの出演記録が残っています。

田山涼成との出会いから事務所所属へ

小劇場で活動を続けるなか、高橋さんの仕事の範囲を広げる出会いがありました。

相手は俳優の田山涼成さんです。

田山さんが手掛ける4人芝居へ出演したことをきっかけに、田山さんが所属していた事務所へ入ることになりました。

舞台中心だった高橋さんに、映画やテレビドラマへ進む道が開いたのは、この事務所所属からでした。

本人は当時、「この役をやりたい」と強く主張できるほど明確な野望を持っていたわけではなかったとも振り返っています。

事務所から声をかけられた仕事へ一つずつ向き合い、舞台以外の現場にも足を運ぶようになりました。

人とのつながり、それのみでここまで来ています。それのみです!

出典:田舎暮らしの本 Web「高橋克実さんインタビュー『両親は亡くなり家もないですけど、でもやっぱり生まれ育ったところで自分は形成されていますよね』」(2022年10月12日)

映画に関わりたくて俳優オーディションへ出向き、落選者たちと劇団を始め、舞台で田山さんと出会う。

高橋さんが後年「人とのつながり」と表現した通り、仕事はそうした出会いの先で少しずつ広がっていきました。

1993年『トーキョー国盗り物語』でドラマ初出演

高橋さんは舞台だけでなく映像作品にも出演し、1987年には映画『ウェルター』に端役で出演しています。

テレビドラマへの初出演は、1993年のNHK『トーキョー国盗り物語』でした。

すでに小劇場では何年も芝居をしていましたが、舞台とテレビでは勝手が大きく違いました。

舞台なら最初から最後まで芝居を続けますが、映像では同じ場面をカットごとに分けて撮影します。

初めてのドラマ現場では、そのつながりを合わせる「カット割り」の感覚が分からず、苦戦しました。

高橋さんは後に、先輩俳優がグラスの位置や手の角度まで確認して席を立つ姿を見て、映像の芝居を覚えていったと話しています。

ドラマへ出演できるようになっても、役は短い出番が中心でした。

事務所からは現場で「何かを残してこい」と言われていましたが、一場面だけで撮影が終わる仕事も少なくありませんでした。

テレビドラマに出始めた後も、俳優の収入だけで暮らせる状態にはならず、アルバイト生活は続きました。

高橋さん本人が上京直後の映画への憧れや『ショムニ』での転機を振り返った映像も残っています。

1998年『ショムニ』が転機に|下積みから広がった俳優人生

ドラマ初出演から5年後の1998年、高橋さんはフジテレビ系ドラマ『ショムニ』へ出演します。

演じたのは、満帆商事の寺崎人事部長でした。

このとき高橋さんは30代後半で、まだアルバイトを続けていました。

伊藤俊人との人事部コンビで初めて街で声をかけられる

『ショムニ』で寺崎の部下・野々村人事課長を演じたのが伊藤俊人さんでした。

伊藤さんも新潟県出身で、撮影現場への行き帰りも同じ電車になることが多く、二人で何度も台本を読み合わせていました。

時間があれば次の場面を練習し、リハーサルでは本番では使われないようなアドリブまで次々と試したそうです。

その掛け合いがスタッフの間で評判になり、やがて二人のリハーサルを見るために別のスタッフまで集まるようになりました。

子どものころから人を笑わせることが好きだった高橋さんにとって、現場が笑ってくれることはうれしく、伊藤さんとのリハーサルにもさらに熱が入ります。

『ショムニ』は、間違いなく俳優としてのターニングポイントになった作品です。

出典:テレ朝POST「高橋克実、36歳でバイトしながら出演したドラマ『ショムニ』。共に演じた伊藤俊人さんは『今でも特別で大切な存在』」(2022年9月13日)

『ショムニ』は、高橋さんが街を歩いていて初めて一般の人から声をかけられるようになった作品でもありました。

それまではテレビへ出演しても短い場面で終わることが多かったものの、『ショムニ』ではレギュラーとして寺崎人事部長を演じ続けます。

ただし、シリーズが始まった時点でも俳優の仕事だけで生活していたわけではありません。

『ショムニ』出演中もアルバイトを続けていたことを、高橋さんは複数のインタビューで明かしています。

テレビで名前と顔が知られ始めた時期と、長く続いた下積み生活の終わりは、ほとんど重なっていました。

舞台と映像で積み重ねた経験が仕事の広がりへ

『ショムニ』以降は、それまで単発的だったテレビの仕事が続くようになりました。

高橋さん自身も、仕事が次につながっていくことに驚いたと振り返っています。

俳優として知られるようになった後には、芝居以外の仕事も増えていきました。

その代表例が、八嶋智人さんと司会を務めた『トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~』です。

高橋さんと八嶋さんは、事務所の舞台『おかしな2人』で兄弟役を演じていました。

その舞台を見たフジテレビのプロデューサーから声がかかり、二人で深夜番組の司会をすることになります。

ここでも先にあったのは、テレビ司会者を目指した計画ではなく、舞台での仕事と人との出会いでした。

三条の金物屋を継ぐはずだった青年が、大学受験を口実に東京へ出て、オーディションの落選者たちと始めた小劇場から『ショムニ』へたどり着くまでには長い時間がかかりました。

その間、高橋さんは舞台に立ち、アルバイトを続け、田山涼成さんや伊藤俊人さんらとの出会いを重ねながら、一つずつ仕事の場を広げていきました。