菜葉菜の生い立ち|家族や若い頃、保育士から女優になるまで

短い巻き髪の菜葉菜を左側に描き、家族や若い頃、保育士から女優への歩みを右側に配した人物イラスト

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
なはな
カテゴリー
女優
出身地
東京都
芸能活動開始
2001年
女優デビュー
2001年
デビューのきっかけ
スカウト

映画『赤い雪 Red Snow』や『夕方のおともだち』などで主演を務め、映画を中心に数多くの作品へ出演してきた俳優の菜葉菜さん。

7月17日生まれ、東京都出身で、独特な名前とともに「年齢は何歳?」「本名は?」と気になって検索する人も多い俳優です。

映画の世界で長く活動しているため、若いころから女優を目指してきたようにも思えますが、もともとの夢はまったく違いました。

小さいころから目指していたのは保育士で、芸能界にも映画にもほとんど興味がなかったと本人が振り返っています。

実際に保育を学ぶ学校へ進み、芸能事務所へ所属したあとも保育士として就職しました。

そんな生活の中で、一言ほどのセリフしかない映画の仕事を経験したことから、少しずつ進む方向が変わっていきます。

今回は、そんな菜葉菜さんの生い立ちや家族、若い頃の学生生活、渋谷でスカウトされた経緯、保育士から俳優を目指すようになったきっかけ、初主演までをご紹介します。

菜葉菜の生い立ち|東京で育ち、小さいころから保育士を目指した

菜葉菜さんは東京都で生まれ育ちました。

俳優として活動する前の話を本人が振り返ったインタビューでは、子どものころから芸能人に憧れていたという話は出てきません。

むしろ早い時期から興味を持っていたのは、子どもと関わる仕事でした。

7月17日生まれ|年齢を公表してこなかった理由

菜葉菜さんの公式プロフィールで確認できる誕生日は7月17日で、出身地は東京都です。

一方、生まれた年はプロフィールに掲載されておらず、本名についても公に明かされていません。

菜葉菜さんについて検索される「年齢」「何歳」「生年月日」への答えは、7月17日生まれで生年は非公表です。本名についても、根拠のある公表情報は確認されていません。

年齢を公表してこなかったことには、俳優の仕事と関係する具体的なきっかけがありました。

2005年の映画『富江 BEGINNING』に出演したころ、すでに20歳を超えていましたが、高校生役を演じていたそうです。

そこで、実年齢を前面に出さないことで高校生の役にも呼ばれるのであれば、その方がいいと考えるようになりました。

「年齢を明かさなかったら、高校生の現場にも呼ばれるなら、その方がいい」

出典:ENCOUNT「『クボタ』CMの菜葉菜が年齢非公表を貫いたワケ 最新映画で20代から40代まで4役」(2022年11月26日)

年齢を隠すこと自体が目的だったのではなく、演じられる役の幅を狭めないために生年を出さない形が続いたという経緯だったのです。

内弁慶だった子ども時代、家ではものまねをしていた

子どものころの菜葉菜さんは、外では積極的に目立つタイプではありませんでした。

本人は自分のことを「内弁慶」だったと表現しています。

「小さいころは内弁慶で、周りの人に対しては『見て見て!』みたいな感じでした(笑)」

出典:GQ JAPAN「女優・菜葉菜、『ヤバすぎる女』を演じる」(2019年1月17日)

家ではものまねをして家族に見せることもあり、親しい相手の前では「見てほしい」という一面もあったそうです。

ただ、この時点で俳優や芸能人を職業として意識していたわけではありません。

小さいころから子どもが好きで、将来は保育士になりたいと考えていました。

その希望は単なる子どものころの夢ではなく、そのまま進路選択につながっていきます。

保育の学校時代に渋谷でスカウト|芸能界には興味がなかった

学校を選ぶ段階になっても、目指していたのは芸能界ではなく保育の仕事でした。

菜葉菜さんは保育を学ぶ学校へ進学しています。

学校名までは公表された本人情報から確認できませんが、この学生時代に、その後の進路を変える出来事が起こりました。

映画俳優を育てたいという事務所の話を聞いて所属

保育の学校へ通っていたころ、渋谷を歩いていた菜葉菜さんは、芸能事務所のマネージャーから声をかけられました。

芸能界入りのきっかけは、自分から受けたオーディションではなく、渋谷でのスカウトでした。

とはいえ、声をかけられたからすぐに芸能人になりたいと思ったわけではありません。

本人によれば、当時はテレビも映画もたいして見ておらず、芸能界そのものにもあまり興味を持てなかったそうです。

それでも話を聞いてみると、自分が知っている俳優が所属していたことに加え、事務所側には映画俳優を育てたいという考えがありました。

事務所の社長が映画に関わってきた人物だったことも知り、「ちゃんとした事務所だ」と感じて所属を決めています。

この時点では「芸能事務所へ所属した」段階です。保育士になる進路は変えておらず、俳優として仕事を始めた時期とも分けて考える必要があります。

学校へ通いながらオーディションを受けるも落選が続いた

事務所へ入ったあとは、保育の学校へ通いながらオーディションを受けるようになりました。

ところが、最初から順調に役を得られたわけではありません。

本人は後年、若いころについてオーディションに落ちては周囲の人と自分を比べ、落ち込んでいたと振り返っています。

辞めたくなることもあり、事務所の社長からは、人と比較することが自分の成長を妨げていると繰り返し言われていたそうです。

それでも保育の進路は途中で投げ出さず、学校を卒業したあとには実際に保育士として就職しました。

スカウトされて芸能事務所へ入ったあとに、あえて一般の仕事へ就いたことになります。

俳優としての入り口はできていましたが、生活の中心にあったのは、まだ子どものころから目指してきた保育の仕事でした。

保育士として働きながら『自殺サークル』で初めて演技

保育士になったあとも、芸能事務所からオーディションの話が来れば、行けるときには受けに行っていました。

保育の仕事を辞めて俳優を目指したのではなく、しばらくの間は保育士と芸能活動を並行していたのです。

その生活の中で受けた一本の映画が、菜葉菜さんを少しずつ映画の側へ引き寄せていきました。

有休を使って受けたオーディションで一言の役をつかんだ

保育士として働いていた菜葉菜さんは、オーディションへ参加するために仕事の有休を使うこともありました。

そんな中で合格したのが、園子温監督の映画『自殺サークル』です。

2001年の同作への出演が、確認できる俳優デビューとなっています。

ただし、与えられたセリフは一言ほどでした。

大きな役を手にして一気に女優を志したという始まり方ではありません。

実際に撮影現場へ行くと、大勢の大人たちが一つの作品のために真剣に動いている姿がありました。

その泥臭い雰囲気を、菜葉菜さんは面白いと感じます。

「もうちょっとしゃべりたい、もうちょっとセリフを言いたい」

出典:テレ朝NEWS「菜 葉 菜 保育士と俳優の二刀流から『インディーズ映画の女王』と称されることに!」(2026年2月6日)

最初の映画出演で生まれたのは、「もっと演技をしたい」という大きな決意ではなく、「もっとセリフを言いたい」という小さな欲でした。

その感覚を持って帰ったあと、生活の中で映画の占める割合が大きくなっていきます。

「もっとセリフを言いたい」から映画ノートをつける生活へ

当時の菜葉菜さんは、もともと映画に詳しかったわけではありません。

そこで事務所の社長から、映画女優を育てたいから映画をたくさん見て、本も読み、映画ノートをつけるように勧められました。

教えられた作品や俳優を一つずつ見ていく中で、特に邦画へ惹かれていったそうです。

その中には田中裕子さんや高峰秀子さんの作品もありました。

田中裕子さんを見て「映画女優とはこういう人なのか」と感じ、次第に自分もその世界へ進みたいと思うようになります。

邦画だけでなく海外作品も見るようになり、映画をほとんど見ていなかった学生時代から生活は大きく変わりました。

スカウトされた瞬間ではなく、保育士として働きながら映画を見続けた数年間の中で、俳優を仕事にしたいという気持ちが強くなっていったことが分かります。

保育士として働いた期間について、本人は3年から4年ほど、別のインタビューでは3年半あまりと振り返っています。

やがて、有休を使ってオーディションへ行く生活にも難しさが出てきました。

菜葉菜の家族|両親に実家での生活を頼み、俳優一本を選んだ

保育士を続けるのか、俳優へ進むのか。

どちらも中途半端な状態で続ければ、保育の職場にも芸能の仕事にも迷惑をかけてしまいます。

そこで菜葉菜さんは、保育士を辞めて俳優の仕事へ進むことを決めました。

このとき、生活面で関わってくるのが家族です。

進路について「何も言わなかった」両親

菜葉菜さんは、俳優一本へ進むことを決めたころの両親について、強く反対されたとも、芸能界入りを積極的に勧められたとも話していません。

本人が振り返っているのは、「両親は何も言わなかった」ということです。

子どものころから目指して就いた保育士を辞め、まだ安定して仕事を得られていない俳優へ進むという選択でした。

それでも、両親の反応を「賛成」「反対」と単純に言い換えることはできません。

実際に残っているのは、菜葉菜さん自身が生活を成り立たせる方法を考え、家族へ頼んだという具体的な出来事です。

アルバイトを3本掛け持ちし、実家にお金を入れながら俳優を続けた

保育士を辞めれば、毎月の収入が約束された生活ではなくなります。

そこで菜葉菜さんは、アルバイトを3つ掛け持ちすることにしました。

さらに、実家に少しお金を入れる代わりに、家で暮らしながら俳優を続けさせてもらえるよう両親に頼んでいます。

実家に少しお金を入れるから「なんとかいさせてください」

出典:女子SPA!「『とんでもないばあさんが演りたい』と語ったレジェンド女優が、80代で掴んだ役は。自分に嘘をつかない覚悟|対談・浜野佐知監督×菜葉菜」(2026年3月1日)

保育士を辞めたあと、すぐに俳優だけの収入で生活できたわけではありません。

アルバイトをしながら映画を浴びるように見て、オーディションを受け続けました。

学生時代に偶然スカウトされたころとは違い、この時点では自分で俳優を職業として選び直しています。

菜葉菜さんの場合、芸能界入りは「学生時代のスカウト」、俳優デビューは「2001年の『自殺サークル』」、俳優への本格的な専念は「保育士を辞めた時期」と段階が分かれています。

その後もオーディションに落ちる時期は続きましたが、2005年、大きな役が決まります。

約3000人から『YUMENO』主演へ|保育士から映画女優になった転機

2001年の『自殺サークル』では一言ほどだったセリフが、数年後には一本の映画を背負う役へ変わります。

菜葉菜さんの映画初主演作となったのが、鎌田義孝監督の『YUMENO ユメノ』です。

この作品は、その後の映画俳優としての経歴を語るうえで外せない一本になりました。

2005年、初主演作のオーディションで選ばれた

『YUMENO ユメノ』では、主演を決めるために多数の候補者がオーディションを受けました。

菜葉菜さんは後から、監督が非常に多くの人と会っていたと聞いたそうで、報道では約3000人の中から主演に抜てきされたとされています。

保育士として働きながら一言の映画出演を経験した人が、2005年には映画初主演を務めることになりました。

ところが、主演決定を聞いた本人は、その意味を完全には理解していなかったと振り返っています。

オーディションには何度も落ちていましたが、俳優という仕事の厳しさや、主演を得ることの重さを実感する前に役が決まった感覚だったそうです。

台本の最初に自分の名前が載っていることはうれしかった一方、テレビドラマをよく見て有名人に会いたいと思っていたタイプでもありませんでした。

むしろ当時の本人が一度乗ってみたかったものとして挙げているのは、ロケバスです。

菜葉菜さんは映画『コワイ女』の一編『鋼』で、顔がほぼ見えず脚が印象的な「鋼」を演じています。本人は公式ブログで、この作品を「菜葉菜を語る上で『鋼』は避けて通れない作品」と紹介していました。

極寒の北海道ロケで知った「演技に一つの正解はない」という感覚

『YUMENO ユメノ』は北海道を舞台にしたロードムービーで、撮影も北海道で行われました。

本人の記憶ではマイナス20度ほどになる場所もあり、流氷へ乗って撮影する場面まであったそうです。

特に忘れられない経験となったのが、物語のラストシーンでした。

台本には、一筋の涙を流す演技が書かれていました。

ところが本番になっても涙が出ません。

何度か撮ってもうまくいかず、鎌田監督は演出を変更し、叫ぶ芝居で撮影を終えました。

本人は「涙を出せなかった」と自己嫌悪になったそうです。

しかし初号試写では、その叫びを見た瀬々敬久監督からラストが良かったと声をかけられました。

「お芝居って何がいいという正解は、本当に見た人にしかない」

出典:テレ朝NEWS「菜 葉 菜 保育士と俳優の二刀流から『インディーズ映画の女王』と称されることに!」(2026年2月6日)

できなかったと思っていた演技が、監督の判断で別の表現へ変わり、それを見た人から評価される。

初主演の現場で、台本通りにできることだけが演技の答えではないという経験をしています。

もう一つ、その撮影で長く残った言葉がありました。

雪の中を子役と二人で撮影地点まで歩く場面で、寒さと疲れから、菜葉菜さんは撮影前に少し愚痴をこぼしてしまいます。

マイクが入っていることを知らなかったため、その声は録音スタッフにも聞こえていました。

撮影を終えて戻ると、スタッフから「大変だよな。でも腐っちゃダメだぞ」と声をかけられたそうです。

その言葉は、主演であってもそうでなくても現場にいるうえで大切な言葉として、後まで残ることになりました。

『YUMENO』は映画初主演という実績だけでなく、菜葉菜さんが主演として現場に立つことや、演技に正解が一つではないことを経験した作品でした。

『YUMENO』以降は映画への出演が増え、『夢の中へ』『地球でたったふたり』『ハッピーエンド』などへ続いていきます。

一方で、作品が増えたからすぐ自信を持てるようになったわけでもありませんでした。

若い時期には、オーディションに落ちるたびに他人と比較してしまい、辞めたいと思うこともあったと本人は話しています。

その後、映画の現場で経験を重ねていく中で、もう一つ本人が明確に「知ってもらうきっかけ」と位置づける作品に出会いました。

『どんずまり便器』で受賞|インディーズ映画界で名前が知られる転機

2012年に公開された小栗はるひ監督の映画『どんずまり便器』で、菜葉菜さんは主人公のナルミを演じました。

過去を抱え、弟へ激しい感情を向けるナルミは、簡単に共感できるように作られた人物ではありません。

菜葉菜さん自身にとっても、この役は当時の自分と切り離せないものになりました。

新人時代の自分だから演じられたナルミ役

小栗監督と初めて会ったのは事務所で、台本を読むような形から話が進んだと本人は振り返っています。

監督と好きな韓国映画や俳優の話が合い、表現したい女性像についても意見が一致しました。

当時の菜葉菜さんは、仕事をするうえで「ちゃんとしなければ」「いい子でいなければ」と考え、自分の中へ感情をため込むこともあったそうです。

そんな時期に出会ったのが、自分の感情を大きくさらけ出せるナルミという役でした。

小栗監督と二人で意見を出しながら人物像を作り、撮影時の自分の感情も役の中へ入っていきました。

後年、同じ役をもう一度演じても同じものにはならないだろうと話しています。

経験が少なかった時期だからこそ出せたものが、『YUMENO』にも『どんずまり便器』にもあったというのが、本人自身の振り返りです。

俳優経験を積めば、技術は増えていきます。

一方で、まだ慣れていないころにしか出せない反応や芝居もあり、それが作品として残りました。

2012年の最優秀主演女優賞が次のキャリアにつながった

『どんずまり便器』は、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも上映されました。

菜葉菜さんは同作で最優秀主演女優賞を受賞しています。

受賞歴そのもの以上に重要なのは、この作品を本人がその後のキャリア上の変化として語っていることです。

「インディーズ界で知っていただけるきっかけになった作品です」

出典:テレ朝NEWS「菜 葉 菜 反骨精神を持っていた監督と出会い意気投合!最強の二人で“どん詰まり”の女を体現」(2026年2月10日)

2001年の一言の役から始まった映画の仕事は、2012年には主演作での受賞と、映画界で名前を知ってもらう地点まで進みました。

そこへ至るまでには、学生時代のスカウト、保育士としての就職、有休を使ったオーディション、映画ノート、3本のアルバイト、そして初主演の北海道ロケがありました。

最初から映画女優を目指していたのではなく、一つの現場で「もっとセリフを言いたい」と感じたところから、少しずつ映画を選ぶ側へ進んでいったのが菜葉菜さんの若い頃でした。