PROFILE
人物プロフィール
ドラマや映画で幅広い役を演じてきた臼田あさ美さんは、1984年10月17日生まれで、千葉県松戸市で育ちました。
10代からモデルとして活動していましたが、子どものころから芸能界や女優を目指していたわけではありません。
最初のきっかけは、15歳のとき、友人と初めて遊びに行った渋谷109の前で雑誌の編集者から声をかけられたことでした。
そこから読者モデル、雑誌モデルへと仕事が広がりましたが、高校へ通いながらファストフード店のアルバイトも続けており、当初は芸能の仕事を特別なものとは考えていなかったそうです。
その後、CanCamの仕事、芸能事務所への所属、ドラマのオーディションと、少しずつ活動する場所が変わっていきました。
今回は、そんな臼田あさ美さんの生い立ちや家族、女子校で過ごした学生時代、若い頃のモデル活動、芸能界へ入ったきっかけ、女優として演技を始めてから最初の転機までをご紹介します。
臼田あさ美の生い立ち|千葉で本ばかり読んでいた子ども時代
臼田あさ美さんは千葉県松戸市出身です。
後年のインタビューでは、子どものころは恥ずかしがり屋で物静かで、中学2、3年生くらいまではあまり目立つタイプではなかったと振り返っています。
そんな子ども時代に長くそばにあったのが、本でした。
2025年のインタビューでも、中学2、3年生くらいまでは内気だったと話しており、10代になって急に芸能界へ憧れたという経歴ではありません。
むしろ、モデルの仕事が始まる直前まで、本人の関心は本や音楽など、自分の好きなものへ向いていました。
物静かで本好き、伝記の人物を想像していた小学生時代
母親から聞いた話として、友達が外で遊んでいるときにも一人で本を読み、飛んできたボールが頭に当たっても、そのまま音読を続けていたことがあったそうです。
小学校3、4年生のころには、ヘレン・ケラーやエジソンなど実在した人物の伝記をよく読んでいました。
ヘレン・ケラーがどのような感覚で暮らしていたのか気になり、真っ暗な押し入れに入って目を閉じてみたこともあります。
そこを母親に見つかり、「何をしているの」と心配されたという、かなり具体的な子ども時代の一場面も本人が明かしています。
本が好きだったため、将来について聞かれたときには「図書館で働く司書」と答えることもありましたが、本気でその職業だけを目指していたわけではなかったそうです。
モデルも女優も、子どものころに一度も夢見たことはありませんでした。
ただ、別の人物の人生を想像しながら本を読んでいた感覚については、後年、女優の仕事をするようになってから本人自身が振り返っています。
あんなに憧れていた本の世界に入れている
出典:Reader Store「Serendipity ~偶発的な出会い~ Vol.48 いま旬の女優・臼田あさ美が語る朝の読書スタイル」(2012年11月1日)
中学生になるとヘッドホンでX JAPANを聴いていた
本と並んで、10代の臼田さんが夢中になったものに音楽があります。
中学生のころは、家族に自分が聴いている音楽を知られることさえ気恥ずかしく、家の中でもずっとヘッドホンをしていました。
母親が食事の支度を知らせる声も耳に入ってほしくないほどで、そのころ一人で聴き続けていたのがX JAPANでした。
周囲で別のビジュアル系バンドが流行していても、自分はX JAPANを聴いていたと本人は話しています。
この音楽の好みをめぐって、家では姉とのちょっとしたやり取りも起きていました。
臼田あさ美の家族|調理師の母、父と姉との思い出
臼田さんが子ども時代を振り返るインタビューには、父親、母親、姉との具体的な思い出がいくつも登場します。
家族構成を細かく語るというより、食卓や音楽など日常の場面から家庭での様子が伝わってきます。
外食が少ない家庭で育ち、調理師の母の手料理が日常だった
母親は調理師で、臼田さんが子どものころは家庭で作った料理を食べることが多かったそうです。
外食が少ない家庭で育ちました。
出典:with class「女優・臼田あさ美『作ったものを家族が美味しいと言ってくれるだけで幸せ』人気女優の食遍歴と今の食生活」(2022年2月8日)
特に好きだったのは、母親がたまに作ってくれるカツ丼や中華丼などの丼ものでした。
母親は栄養の組み合わせまで考えて料理を作っていたようで、大人になって食べ合わせを知ったとき、実家で同じ組み合わせが食卓に並んでいたことに気づいたと話しています。
小学生のころに押し入れへ入ってヘレン・ケラーの感覚を想像していた娘を見つけたのも、この母親でした。
本を読んでいた記憶と食事の記憶の両方に母親が登場するため、臼田さんの幼少期の日常がかなり具体的に見えてきます。
父の替え歌と、姉から渡されたDragon Ash
父親との思い出として本人が話しているのが、井上陽水さんの「少年時代」です。
臼田さんは秋生まれで「あさ美」という名前だったため、父親は歌詞の「風あざみ」を「風あさ美」に替えて歌っていました。
思春期の本人にとっては、それがかなり嫌だったそうです。
2012年にFUJI ROCK FESTIVALで井上陽水さんの「少年時代」が聞こえてきたときには、別のステージへ向かっていた足を止め、最後までステージを観たと臼田さんは振り返っています。
一方、音楽をめぐって強烈な一場面を残しているのが姉です。
中学生の臼田さんが部屋でX JAPANばかり聴いていると、姉がDragon Ashのアルバム『Viva La Revolution』を部屋へ投げ込み、こちらを聴くよう勧めたことがありました。
それでも当時は受け入れず、X JAPANを聴き続けたそうです。
父親の替え歌、母親の手料理、姉が部屋へ投げ込んだCDという、それぞれ違った家族の記憶が残されています。
臼田あさ美の学歴・学生時代|女子校生活と15歳の渋谷109
臼田さんは、高校時代を女子校で過ごしたことを本人のインタビューで明かしています。
高校生になったころには中学時代までの内気さが少し変わり、本人の言葉では、少し明るくなっていった時期でもありました。
その変化には、服装や髪型を考えてくれた幼なじみの存在もありました。
本人は後年、その友人に誘われて初めて東京へ遊びに行ったことから「すべてが始まった感じ」だったと振り返っています。
学歴について
臼田あさ美さん本人は、高校が女子校だったことを明かしています。一方、具体的な学校名については、本人や学校などの一次情報で確認できる公表が限られています。
初めて友人と渋谷へ行った日に雑誌関係者から声をかけられる
芸能界との最初の接点は、15歳のときでした。
仲の良い幼なじみと一緒に、初めて東京の渋谷へ遊びに行った日のことです。
友人はファッションや流行に詳しく、臼田さんの服装や髪型を考えてくれるような存在でした。
その友人について渋谷へ出かけ、109の前にいたところ、「スナップ写真を撮らせてください」と声をかけられました。
ここで重要なのは、声をかけたのは芸能事務所のスカウトではなく、雑誌の編集者だったことです。
本人は芸能界に強い興味を持っていたわけではなく、自分も知っている雑誌だったため出てみようと思ったと振り返っています。
この一度のスナップをきっかけに、学校へ通いながら、呼ばれたときに撮影へ行く生活が始まりました。
学校・ファストフード店のアルバイト・モデル活動を並行
モデル活動が始まっても、生活がすぐ芸能一色になったわけではありません。
学校へ通い、ファストフード店でアルバイトをし、ときどき東京へ撮影に出かけていました。
当時は千葉に住んでいたため東京へ出ること自体には非日常感があったものの、撮影の仕事まで特別視していたわけではなかったそうです。
17歳になるころには複数の雑誌へ出るようになっていましたが、まだ芸能事務所には所属していませんでした。
ほんと他のアルバイトと変わり無いテンションだったんですよ。
出典:タレントデータバンク「<臼田あさ美>『色即ぜねれいしょん』インタビュー」(2009年8月1日)
女子校には、臼田さんより本格的にモデル活動をしている同級生や、雑誌へ出ている先輩もいたそうです。
そのため、学校の中でもモデルをしている自分だけが特別という感覚にはなりにくかったと話しています。
初めて自分が載った雑誌を見たときには恥ずかしさがあった一方、プロのメイクやスタイリング、撮影によって普段とは違う自分が写っていることにはうれしさも感じていました。
撮影に慣れるにつれて仕事は増えていきましたが、この時期の本人には「芸能人になった」という強い自覚より、学校生活の延長に撮影が加わった感覚のほうが近かったようです。
2021年には、本人公式Instagramで17歳当時の写真も公開しています。
CanCamの仕事が増え、高校卒業後の進路を半年悩む
その後、臼田さんは『CanCam』でモデルをするようになります。
本人にとって、このころから読者モデルとして呼ばれる感覚とは少しずつ変わり、周囲のモデルと同じように仕事へ向き合う意識が出てきました。
ただし、事務所へ入ることは即決していません。
高校卒業の年、芸能事務所へ所属するかどうかを約半年間悩みました。
本気で続けるなら事務所に入ったほうがいい一方、気持ちが固まらないなら入らないほうがいいと考え、周囲にも相談しています。
ほかにも興味のあることはありましたが、モデルを辞めて別の道へ踏み込むのかを考えた末、その時点で続けていた仕事を選びました。
CanCamで半年ほど活動したころ、芸能事務所へ正式に所属します。
ここでモデルをやめて女優へ切り替えたわけではなく、演技を始めたあともモデル活動は続きました。
2007年3月から2008年12月までは『AneCan』の専属モデルとしても活動しており、20代前半はモデルと女優の仕事が重なっていた時期です。
臼田あさ美が女優になるまで|事務所所属から『ひと夏のパパへ』へ
臼田さんの場合、15歳でモデル活動を始めたことと、女優として演技を始めたことは別の出来事です。
雑誌の編集者に声をかけられてから数年はモデルとして活動し、その後に事務所へ入り、ドラマのオーディションへ進みました。
モデルの仕事を続けるため芸能事務所へ正式所属
雑誌の仕事が増えていくと、自分だけで対応できる範囲を超えるようになり、事務所に所属することになりました。
これは、最初から「女優になるため」に芸能事務所へ入ったという話ではありません。
雑誌モデルとして始めた仕事を本格的に続けるために事務所へ入り、そのあと演技の仕事が入ってきました。
高校卒業の進路として自分で仕事を続ける選択をしたあと、活動の幅がモデル以外にも広がっていきます。
モデルでは、真冬に夏服を着て暑そうな表情を作るような撮影も経験しました。
季節を先取りする雑誌撮影では、実際には鳥肌が立つほど寒くても、夏らしい表情やポーズを求められます。
それでも2009年の時点で本人が「もっと大変」と話していたのは演技で、自分ではない誰かを演じる難しさを感じていました。
演技レッスンを受けないままドラマのオーディションへ
事務所所属後、流れの中で受けることになったのが、TBS系ドラマ『ひと夏のパパへ』のオーディションでした。
オーディションに合格し、2003年7月から放送された同作へ出演します。
2003年の『ひと夏のパパへ』が、臼田あさ美さんの女優デビュー作と位置づけられています。
ところが、この時点で演技の訓練を積んできたわけではありませんでした。
受けてなかったです。だから、本当に覚えたことをやるので精一杯でした。
出典:テレビ朝日「臼田あさ美 10代でスカウトされモデルデビュー後に俳優の道へ」(2025年3月18日)
現場では、言われた位置に立ち、覚えたことをこなすだけで精いっぱいだったと振り返っています。
放送された自分の姿を見ても、雑誌とは違う声や動いている姿が想像していたものと異なり、恥ずかしさを感じたそうです。
もっと演技をしたい、次々と作品へ出たいという明確な目標も、まだありませんでした。
モデルとは違う演技の現場に少しずつ惹かれていく
ドラマ出演を経験しても、すぐに「女優として生きていく」と決めたわけではありません。
それでも、映画を含めて演技の仕事を経験していく中で、モデルとは違う感覚が生まれていきました。
モデル時代には、誌面の中で常にかわいく、格好よく見える存在であることを求められたと本人は振り返っています。
私物を紹介する雑誌企画に古着を持っていったところ、掲載時にはきれいなものへ差し替えられていたこともあり、モデルとして求められる人物像を「演じる」必要も感じていたそうです。
20歳ごろに映画撮影を経験すると、そこで求められたものは少し違いました。
映画の撮影では“カワイイ”は関係なく、ただお芝居することを求められる。
出典:週刊女性PRIME「臼田あさみ、マイペースな日常と『今だから言える』モデル時代のエピソード」(2017年2月17日)
見た目のイメージではなく、演技そのものを求められる映画の現場を、本人は「しっくりきた」と振り返っています。
このころから、モデルとは別の仕事として演技の現場が少しずつ増えていきました。
公式サイトの出演記録を見ると、2004年にはWebシネマ『ヒトリナフタリ』、2005年には映画『真夜中の弥次さん喜多さん』などにも出演しています。
作品数は増えていきましたが、本人の中では、演技を仕事の中心として意識するまでにもう少し時間がかかりました。
臼田あさ美の女優としての転機|『美女缶』から『色即ぜねれいしょん』へ
2003年にドラマで演技を始めたあと、臼田さんは映画やテレビドラマへ出演するようになりました。
ただ、出演作が増えたことと、本人の中で「俳優としてこうなりたい」という意思が固まることは同時ではありませんでした。
『美女缶』など若い頃の出演作ではまだ手探りだった
若い頃の出演作として検索されることが多い作品の一つが、2005年4月12日に放送された『世にも奇妙な物語 ’05春の特別編』の「美女缶」です。
妻夫木聡さんが主演したエピソードで、臼田さんは藤川サキ役を演じました。
このころは20歳でしたが、後年のインタビューでは、「美女缶」のオーディションへ行った時点でも俳優として明確な意思を持てず、宙ぶらりんな感覚だったと話しています。
ドラマデビューから約2年がたっていても、まだ演技の仕事を手探りで続けていた時期でした。
同じ2005年には映画『真夜中の弥次さん喜多さん』やドラマ『海猿 EVOLUTION』にも出演しており、演技の現場そのものは確実に増えていました。
それでも、出演本数が増えたから俳優としての意思も同じ速さで強くなった、という単純な流れではなかったことを本人の回想が示しています。
「美女缶」は放送から20年後の2025年、『世にも奇妙な物語35周年SP~伝説の名作 一夜限りの復活編~』で再放送された5作品の一つにも選ばれています。
締め切り後に手紙を出し『色即ぜねれいしょん』のオーディションへ
仕事への向き合い方が大きく変わる作品として、本人自身が名前を挙げているのが、2009年公開の映画『色即ぜねれいしょん』です。
みうらじゅんさんの原作を田口トモロヲ監督が映画化した作品で、臼田さんは主人公の純が島で出会うオリーブ役を演じました。
もともと原作が好きで、田口監督の『アイデン&ティティ』も好きだったため、映画化を知ったときには出演したいと思ったそうです。
ところが、知った時点でオーディションの応募締め切りは過ぎていました。
それでもオーディション当日そのものはまだ先だったため、臼田さんは行動に出ます。
自分で手紙を書き、事務所のスタッフに頼んで田口トモロヲ監督へ渡してもらいました。
その手紙をきっかけにオーディションへ呼ばれ、最終的にオリーブ役を得ています。
最初のオーディションから出演決定までは長く、マネージャーから決定を知らされた瞬間も、すぐには実感が湧かなかったと話しています。
好きな原作だったからこそ、自分がオリーブを演じて大丈夫なのかという不安もありました。
15歳のころは雑誌から呼ばれたから撮影へ行き、モデル仕事をアルバイトとほとんど同じ感覚で受けていました。
『色即ぜねれいしょん』では、締め切り後でも自分から出演したいと伝え、オーディションの機会をつくっています。
撮影は23歳のころで、本人は後年、この作品が俳優としてきちんと演技へ向き合うきっかけになったと明言しました。
演技への意識が変わり『ランブリングハート』初主演へ
『色即ぜねれいしょん』への出演後、臼田さんの言葉には、初期のころにはなかった俳優としての希望が出てきます。
必要とされる役者になりたいとすごく思うようになりました
出典:ORICON NEWS「【映画インタビュー】臼田あさ美『必要とされる役者になりたい』」(2009年8月12日)
同じインタビューでは、芸能界に強く憧れて始めたわけではなく、バイト感覚だった仕事の中で、少しずつ必要とされる面白さやありがたさを感じるようになったとも話しています。
そして2010年1月16日、映画『ランブリングハート』が公開されました。
臼田さんにとって映画初主演となった作品で、性格の異なる双子の姉妹・葵と翠を一人二役で演じています。
撮影では、画面にいないもう一人の自分を相手に会話する場面もあり、双子の性格を演じ分けながら進めました。
本人は20代のころを、器用にこなすというより、何をするにもがむしゃらだった時期として振り返っています。
15歳で雑誌のスナップに声をかけられたころには考えていなかった女優の仕事が、この時点では一本の映画を主演で担う仕事になっていました。
















