PROFILE
人物プロフィール
松山ケンイチさんは、映画『デスノート』のL役や、大河ドラマ『平清盛』の主演などで知られています。
青森で暮らしていた高校時代には、まだ俳優になるという目標を持っていませんでした。
東京へ出るきっかけは、家族が見つけたオーディションでした。
モデルとして仕事を始め、ドラマの生徒役、映画の初主演を経験しながら、少しずつ演技の仕事が増えていきます。
今回は、そんな松山ケンイチさんの生い立ちや家族、学生時代、モデルから俳優になるまでの出来事、L役に出会った新人時代をご紹介します。
松山ケンイチの生い立ちと家族|青森県むつ市で過ごした時間
松山ケンイチさんは、1985年3月5日生まれ、青森県むつ市の出身です。
16歳で東京へ出るまで、青森で暮らしていました。
下北の言葉が身近にあった子ども時代
青森県の下北半島にあるむつ市で育った松山さんにとって、身近な言葉は下北弁でした。
下北弁と津軽弁では、イントネーションだけでなく、使う言葉にも違いがあります。
2009年の映画『ウルトラミラクルラブストーリー』で津軽弁の青年を演じた際には、方言指導を受けて役の言葉を覚えました。
同じ青森の言葉でも、普段の話し方をそのまま使えるわけではなかったのです。
2011年の『ザ!世界仰天ニュース』では、同じ青森県出身の新山千春さんに標準語をからかわれ、青森のアクセントで返した場面がありました。
祖父の農業と、祖父母と過ごした時間
身近には、農業を営む祖父がいました。
作物を育て、収穫して食べる暮らしを、松山さんはごく自然なものとして受け止めていたといいます。
2022年のインタビューで、自分にとっての幸せを考えたときに挙げたのは、こんな時間でした。
祖父母と一緒に何もしないで一緒にいられた時間
出典:LEON「松山ケンイチの決断。それでも今、やらなければと思った理由とは?」(2022年12月9日)
2009年に映画の撮影で青森へ戻った際にも、祖母のもとを訪ねています。
その青森でのロケは祖母の家に近く、撮影が早く終わると、ごはんを食べに行くこともあったそうです。
祖父が亡くなったときには、自分の息子と娘を連れて青森へ帰りました。
ただ、葬儀にきちんと向き合いたいと考え、子どもたちは友人に預けて参列したといいます。
すると祖母から、子どもたちを連れてきてほしかったと伝えられました。
松山さんはそのやり取りを心に残る出来事として挙げ、次に同じような機会があれば、一緒に連れていこうと思ったと話しています。
父親・母親・弟について本人が語ったこと
両親の暮らしについては、いつも何か特別なことが起こるわけではなく、ゆったりした豊かさがあったと話しています。
また、2023年の『ロストケア』のインタビューでは、弟が親の近くに住んでいることを明かしました。
同じ取材で語ったのが、祖母を介護する父親のことです。
笑いながら話していても父親の風貌の変化を感じ、介護の大変さを身近なこととして考えるようになったといいます。
松山ケンイチの学生時代|棒高跳びから16歳のオーディションへ
中学生のころに取り組んでいたのは、陸上競技でした。
高校へ進むころには、その競技から離れています。
中学時代は棒高跳びに取り組む
松山さんは中学時代、3年間にわたって棒高跳びをしていました。
東北大会で4位に入った経験もあり、俳優になってから出演したスポーツ番組でも紹介されています。
高校では棒高跳びから離れ、新しい目標も見つけられずにいたと、2024年の『メシドラ』で振り返っています。
学校生活では、塾にも通っていました。
青森県知事の宮下宗一郎さんは、自身の父が開いていた塾に、中学生だった松山さんが通っていたことを明かしています。
宮下さんは2023年11月、松山さんが訪れた際の写真を投稿しています。
親に勧められてオーディションへ応募
新しく熱中できるものを見つけられずにいたとき、親が雑誌に載っていたオーディションを見つけました。
東京へ行ってみたくないかと声をかけられ、松山さんは応募することになります。
当時の本人にとって、東京は外国のように感じられる遠い場所でした。
俳優志望ではなかったものの、東京へは行ってみたいと思っていたのです。
受けたのは、ホリプロ、雑誌『Boon』、PARCOによる『New Style Audition』でした。
2001年、1万6千人を超える応募者の中から、グランプリに選ばれます。
この合格によって、青森から東京へ出ることになりました。
本人は後年、高校2年生の夏、16歳で上京したと振り返っています。
松山ケンイチの芸能界入り|モデル活動から『ごくせん』へ
オーディション合格後、松山さんはホリプロに所属しました。
初めの仕事は、ファッションの広告に登場するモデルでした。
2001年にモデル活動を始め、東京で暮らす
モデルデビューは、PARCOの2001年のキャンペーン『Looking for a new“NEW”』でした。
東京での生活には、慣れないこともありました。
友人と渋谷のスターバックス前で待ち合わせたときには、駅へ行けば分かるだろうと考えていたそうです。
ところが、到着すると、どの出口から出ればいいのか分かりませんでした。
待ち合わせに大きく遅れ、友人に怒られてしまったと振り返っています。
昔よく出かけていた場所には、代々木公園を挙げています。天気のいい日に敷物を広げて寝転び、のんびり過ごしていたそうです。
人と話すことにも、少しずつ慣れていきました。
2018年のインタビューでは、上京したてのころは話さなかったと、周囲からいわれることを明かしています。
人とどうコミュニケーションを取ったらいいのかわからなかった。
出典:Numéro TOKYO「松山ケンイチ インタビュー『動物や原始人と同じことを一回やってみたい』」(2018年3月15日)
仕事を通じて、普通に人と話せるようになったとも述べています。
2002年の『ごくせん』で俳優デビュー
2002年、日本テレビのドラマ『ごくせん』第1シリーズに出演します。
演じたのは、白金学院高校3年D組の生徒、毛利研一でした。
仲間由紀恵さんが演じる担任・山口久美子、通称ヤンクミのクラスにいる生徒の一人です。
同じクラスには、松本潤さんが演じる沢田慎や、小栗旬さんが演じる内山春彦もいました。
松山さんは金髪の学ラン姿で登場し、セリフの多い中心人物とは異なる位置で、教室の場面に参加しています。
モデル活動を始めた翌年、この『ごくせん』で俳優としてデビューしました。
松山ケンイチの新人時代|映画初出演から初主演へ
ドラマ出演に続き、映画の仕事にも参加するようになります。
十代のうちに映画へ初出演し、主演のオーディションにも合格しました。
『アカルイミライ』で映画に初出演
映画初出演作は、2003年公開の『アカルイミライ』です。
監督は黒沢清さんで、オダギリジョーさんや浅野忠信さん、藤竜也さんらが出演しました。
松山さんは、映画に登場する少年たちの一人を演じました。
共演したユージさんは、当時中学生だった自分に、松山さんや先輩俳優たちが声をかけてくれたことを、後年のインタビューで振り返りました。
『ウィニング・パス』で初めて主演を務める
2004年1月24日公開の『ウィニング・パス』では、主人公の健太を演じました。
事故をきっかけに車いす生活となった高校生が、車いすバスケットボールと出会う物語です。
松山さんにとって、初めての映画主演作でした。
共演者の石井めぐみさんは、松山さんが4千人を超えるオーディションで選ばれたことを、自身のブログで振り返っています。
撮影当時、松山さんも、共演した佐藤めぐみさんも現役高校生でした。
ロケが行われたのは、2003年の夏休みの北九州市です。
舞台となった地域の高校生もオーディションで選ばれ、同級生役などで出演しました。
車いすバスケットボールの場面には、実際に競技をする選手たちが参加しています。
九州各地の8チームが集まり、練習や試合の場面を撮影しました。
真夏の試合シーンには、多くの地元の人がエキストラとして協力しています。
ほんの数分に見える場面にも、撮影では何日もかけていたそうです。
このころ、映画の現場とは別に、客席から芝居を見る機会もありました。
2004年ごろ、知人に誘われて池袋のサンシャイン劇場へ行き、劇団☆新感線の『レッツゴー!忍法帖』を観劇しています。
それまでは料金のことも気になり、舞台へ足を運ぶ機会がほとんどありませんでした。
ところが、阿部サダヲさんらが立つ舞台を見て、演技や照明、物語に引き込まれます。
後年、出演したいと思った理由を、こう振り返りました。
そんな中に入りたいって思ったんです。
出典:ウォーカープラス「【その1】5/8(木)~、松山ケンイチが劇団☆新感線に初参加。 「大好きな新感線に参加できて、幸せで感動してます」」(2014年3月25日)
映画の撮影に参加する一方で、舞台に立つことも希望するようになっていました。
その後、2013年の『遠い夏のゴッホ』で初舞台を踏み、2014年の『蒼の乱』で劇団☆新感線の公演に初めて参加しています。
『男たちの大和/YAMATO』の撮影に参加
2005年には、映画『男たちの大和/YAMATO』に出演しました。
広島県尾道市に造られた戦艦大和の大型セットなどで、3か月余りに及ぶ撮影が行われています。
松山さんはクランクアップの記者会見で、撮影前には戦争についてほとんど知らなかったと打ち明けています。
そのうえで、撮影中にしたことを振り返りました。
戦争体験者に話を伺ったりいろいろと学び
出典:シネマカフェ「『男たちの大和/YAMATO』クランクアップ記者会見」(2005年8月17日)
共演の渡辺大さんは、松山さんと訓練を受け、一緒に苦労した現場を振り返りました。
劇中ではけんかを演じながら、現場では本当の友情のようなものが芽生えたと話しています。
松山ケンイチの転機|『デスノート』のL役を作るまで
2006年、映画『デスノート』と『デスノート the Last name』で、探偵のLを演じます。
対する夜神月を演じたのは、藤原竜也さんでした。
アルバイトを続けながら、藤原竜也と共演
映画に出演するようになっても、初めから俳優の収入だけで暮らせたわけではありません。
上京後はオーディションに落ちることもあり、アルバイトを続けていました。
『デスノート』の撮影当時も、ダーツバーでアルバイトをしていました。
撮影後に藤原さんと飲みに行き、ダーツをしたときには、初めてだと伝えて勝負したそうです。
ところが、結果は藤原さんの勝ちでした。
この思い出を二人で語ったのは、2016年に開かれた『デスノート』の上映イベントです。
俳優の仕事だけで生活できるようになった時期についても、松山さんは後年、『デスノート』などの仕事が決まったころだと説明しています。
セリフの句読点から考え直したLの演技
Lは、普通の姿勢では椅子に座らず、甘いものを口にしながら捜査を進める人物です。
外見やしぐさに特徴がある一方、松山さんには、こうした特殊な役をどう演じればいいのか分からない時期がありました。
そのとき、金子修介監督から提案されたのが、セリフの句読点を外してつなげて話す方法でした。
松山さんは、自分で句読点の位置を変え、話し方を試していきます。
どこで区切り、どこをつなぐかによって、セリフの聞こえ方も変わっていきました。
2021年の『日曜日の初耳学』では、このときに感じた演技の面白さを語っています。
役を作っていく、試行錯誤をする楽しさを学んだんです
出典:MBS「松山ケンイチの俳優人生を変えた『遊ぶように生きる』という考え方」(2021年12月8日)
『L change the WorLd』で再びLを演じる
2008年には、Lを主人公にした映画『L change the WorLd』で主演しました。
前の2作では室内で捜査していたLが外へ出て、子どもたちと行動する物語です。
同じ役の続きでも、松山さんは、初めから作り直すような感覚があったと話しています。
撮影に入る2か月前から、中田秀夫監督とプロデューサーを交えた3人で話し合い、準備を進めました。
追っ手から逃げる場面では、コーヒーを持っていくかどうかという小さな動きにも、本人の考えがありました。
まだ焦りを顔に出したくないという思いから、場面の中でLの行動を探していたそうです。
公開時のインタビューで、Lへの恩返しについて尋ねられると、こう答えました。
Lでできることをすべてやった!
出典:シネマトゥデイ「『L change the WorLd』松山ケンイチ 単独インタビュー」(2008年2月7日)
さらに2016年の『デスノート Light up the NEW world』でもL役で登場しました。
作品公式アカウントには、久しぶりに演じたLとの距離を語る、本人のコメントが掲載されています。
2006年に作ったLを、10年後には探し直しながら演じていました。
















