坂東龍汰の生い立ち|父と家族、シュタイナー教育から俳優になるまで

坂東龍汰の肖像イラストを右側に配し、父と家族、シュタイナー教育を経て俳優になるまでの生い立ちを伝える構成

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
ばんどうりょうた
カテゴリー
男性俳優
出身地
北海道
生年月日
1997年5月24日
芸能活動開始
2017年
俳優デビュー
2017年
デビューのきっかけ
芸能事務所への応募

ドラマ『ライオンの隠れ家』や映画『爆弾』などで、印象の異なる役を演じてきた俳優・坂東龍汰さん。

俳優としての活動だけを見ると順調に進んできたようにも見えますが、プロになるまでをたどると、かなり独特な少年時代と進路選択が見えてきます。

ニューヨークで生まれ、幼いころに北海道へ移り、自然の中でシュタイナー教育を受けて育ちました。

映画好きの父、3歳で亡くした実母、姉と弟との暮らし、学校で出会った演劇は、それぞれ坂東さんが俳優を目指すまでの時間の中にあります。

高校の卒業演劇で俳優になると決めたあとも、すぐ芸能界へ入ったわけではなく、旅館で住み込みの仕事をして上京資金を貯めました。

東京へ出てからも半年ほど事務所が決まらず、原宿でスカウトを待つ時期まで経験しています。

今回は、そんな坂東龍汰さんの生い立ちや家族、シュタイナー教育の学生時代、俳優を目指したきっかけ、旅館勤務から2017年の俳優デビューまでをご紹介します。

坂東龍汰の生い立ち|ニューヨーク生まれ、北海道で育った幼少期

坂東龍汰さんは1997年5月24日、アメリカ・ニューヨーク生まれです。

ただし、物心がついてからの記憶の多くは、その後に暮らした北海道にあります。

ニューヨークで生まれ、幼くして北海道へ

坂東さんがニューヨークで生まれたのは、父・剛さんがアメリカで生活していたためです。

姉もニューヨークで生まれており、家族は坂東さんがまだ幼い時期まで現地で暮らしていました。

その後、家族で北海道へ移住します。

坂東さん自身は当時のニューヨークについてほとんど記憶がなく、2026年の『ANOTHER SKY』で父と現地を訪れた際には、生まれた病院や家族ゆかりの場所を父の記憶と写真を頼りに巡りました。

番組公式YouTubeでは、地上波未公開映像として、父とニューヨークを歩く坂東さんの姿も公開されています。

生まれた日のホームビデオも残っており、父が好きだった坂本龍馬の「龍」の字が名前に入ったことも番組で明かされています。

記憶には残っていなかったニューヨークですが、坂東さんにとっては家族の生活が始まった土地でもありました。

海と自然のそばで遊んだ子ども時代

北海道で暮らした家は、ほかの家がほとんどない海の近くだったと本人は振り返っています。

子どものころは自分で魚を獲ってさばいたり、たらいに乗って海へ出たり、テトラポッドの間で遊んだりしていました。

家の中で用意された遊びに時間を使うよりも、目の前の自然から自分で遊び方を見つけるような毎日でした。

北海道の自然は学校生活にも入り込み、大雪山への登山やモンゴルへの旅行など、教室だけでは完結しない体験も重ねています。

モンゴルでは馬にも乗っており、後年のインタビューでは、落馬して腕を骨折したあとも馬が好きで乗っていたというエピソードまで話していました。

のちに写真、油絵、ギター、ダンス、クレイアニメーションなど次々と興味を広げますが、子どものころから自分で動き、試してみる時間が身近にありました。

坂東龍汰の家族|父・母・姉・弟との関係

坂東龍汰さんの家族をたどると、検索でも関心の高い父親だけでなく、母親、姉、弟それぞれとの具体的な出来事が確認できます。

父から映画に触れる機会をもらい、姉とのつながりから演劇に入り、幼くして亡くした母については俳優としての原動力との関係まで本人が語っています。

父は映画監督を夢見て渡米、北海道では家づくりとワインへ

父・剛さんは若いころから映画が好きで、19歳で映画監督を目指してカリフォルニアへ渡りました。

特殊メイクにも興味を持っていた父は、アメリカで歯科技工士の資格を取得し、その後ニューヨークで仕事をするようになります。

そこで陶芸を教えていた坂東さんの母と出会いました。

二人は結婚し、姉と龍汰さんがニューヨークで誕生します。

家族で北海道へ移ったあとには、父自身が長い時間をかけて家を建てました。

さらにワイン造りにも取り組むなど、一つの仕事だけに収まらない父の姿を坂東さんはそばで見て育っています。

僕の家族は、なんか変なんです(笑)。

出典:ViVi「“坂東龍汰”はLOVEで溢れている♡本能で生きる恋愛体質な素顔とは!?」(2021年10月2日)

家庭や学校ではテレビやゲームなどのメディアから距離を置いていましたが、父が大の映画好きだったため、映画は子ども時代から身近な娯楽でした。

本人は『スター・ウォーズ』やジム・キャリーの映画など、父が選んださまざまな作品を見て育ったことを語っています。

映画監督を夢見た父と、俳優になった息子。

坂東さんが俳優を選んだ直接のきっかけは高校の演劇でしたが、そのずっと前から映画を見る時間は家庭の中にありました。

3歳で実母と死別|本人が語った俳優活動への原動力

2026年2月放送の『ANOTHER SKY』で、坂東さんは3歳のときに実母を交通事故で亡くしたことを明かしました。

父と生まれた病院を訪れ、家族の記憶をたどる中で語られた出来事です。

幼いころの出来事ではありますが、本人の中には今も消えないものとして残っています。

もう一生なんじゃないかな。忘れることはないし

出典:ORICON NEWS「坂東龍汰、3歳で最愛の母を亡くしていた 突然の別れに『忘れることはない』」(2026年3月1日)

同じ放送では、母を失ったことが自分の中の「もっともっと頑張ろう」という気持ちにつながってきたとも話しています。

さらに、俳優として踏み出した最初の原動力や、内側から生まれるエネルギーにも母の存在が結びついている感覚があると語りました。

本人が長く抱えてきた家族の記憶を、自分の仕事との関係まで含めて言葉にした場面でした。

姉に演劇へ連れ出され、年の離れた弟をかわいがる

坂東さんは姉・本人・弟の3人きょうだいの真ん中です。

姉と一緒にいるときは「されるがまま」だったそうで、子どものころには着せ替え人形のように遊ばれていました。

姉から受けた影響は遊びだけではありません。

『ガラスの仮面』や『NANA』といった漫画を読むようになったのも姉の影響でした。

さらに、姉が参加していた演劇活動が、坂東さん自身が演劇へ入っていく入口になります。

年の離れた弟とは、坂東さんが早くに家を出たため、一緒に暮らした期間はそれほど長くなかったそうです。

そのぶん会ったときには思い切りかわいがり、お年玉を渡したことも明かしています。

姉については、坂東龍汰さん自身が「この仕事を始めるきっかけのひとつにも姉の存在があった」と話しています。

父からは映画、姉からは漫画や演劇。

家族との日常の中に、後から職業につながる文化や表現との接点がいくつもありました。

坂東龍汰の学校・高校時代|シュタイナー教育と表現の原点

北海道では、小学校から高校までシュタイナー教育の環境で学びました。

母校の北海道シュタイナー学園いずみの学校の卒業生インタビューでも、学生時代の暮らしや演劇との出会いを本人自身が振り返っています。

テレビ・ゲーム・インターネットから離れた学校生活

坂東さんの学生時代について特徴的なのが、テレビ、ゲーム、インターネットなどのメディアから距離を置いた生活です。

学校生活では、演劇や音楽、絵画などの芸術活動だけでなく、身体を動かすことや自然の中での体験にも多くの時間を使いました。

一方で、子どものころからその環境を素直に歓迎していたわけではありません。

本人は母校の卒業生インタビューで、ゲームができないことやテレビを見られないことを我慢したり、窮屈に思ったりした時期もあったと振り返っています。

卒業して社会に出た時に 一気に開ける 感じはする。

出典:北海道シュタイナー学園いずみの学校「坂東龍汰さんが 12/13(金) 23時 TBSに出演。彼の卒業生インタビューを再掲します。」(2024年12月13日)

学校を出て外の世界に触れてから、自分で考えて選ぶための時間だったことに気づいていったといいます。

母校公式の卒業生インタビューでは、大雪山登山やモンゴルへの旅行など、北海道の自然や教室の外で経験した学生時代の話も紹介されています。

絵やものづくりなど多彩な表現に触れる

学校生活の中で、坂東さんは演劇だけに取り組んでいたわけではありません。

絵を描き、写真を撮り、自分で脚本を書き、クレイアニメーションも制作していました。

特に高校の卒業制作では、20分を超えるクレイアニメーションを約1年かけて制作しています。

ストーリーを考え、人形を作り、音楽をつけ、セットや背景画まで自分で用意する作品でした。

完成した映像を見た人によって受け取り方が違うことも面白かったと、インタビューで振り返っています。

体育の授業で触れた社交ダンスにも興味を持ち、学校に社交ダンス部ができた際には部員第一号として活動しました。

その後は部員が増え、大会にも参加しています。

絵、写真、映像、音楽、ダンスと、一つの分野に絞るよりも、気になった表現には自分で飛び込んでいました。

小学4年生から演劇に触れ、人前で演じる面白さを知る

演劇との最初の接点は、小学4年生ごろ、姉が入っていた演劇塾に参加したことでした。

年に一度の公演へ向けて稽古をする中で、子どものころから舞台に立つ経験を重ねていきます。

ただ、このころから俳優一本に決めていたわけではありません。

高校生になっても写真、ギター、社交ダンス、映像制作など興味は幅広く、将来は何かを表現する方向へ進みたいという感覚のほうが強かったようです。

小学生から続けた演劇も、その多くの表現方法の一つでした。

そこから演技がはっきり職業の候補として抜け出したのは、高校生活の最後に行われた卒業演劇です。

高校の卒業演劇で俳優を志す|大学へ進まず旅館勤務へ

高校卒業を前に、坂東さんは進路を決めることになる大きな舞台を経験します。

ここで長く続けてきた「演劇」が、初めて自分の仕事として意識するものへ変わりました。

卒業演劇の主演を経験し「俳優になる」と決める

高校3年生の卒業演劇で取り組んだのは、ヘンリック・イプセンの『民衆の敵』です。

坂東さんは主人公のトマス・ストックマンを演じ、長い演説の場面にも向き合いました。

作品名は、近年の本人インタビューでは『民衆の敵』、2018年の本人インタビューでは『人民の敵』と表記されています。いずれもイプセンの同じ戯曲と主人公トマス・ストックマンを指しています。

簡単に演じられる作品ではなく、台詞を覚えることにも苦労したと本人は振り返っています。

それでも本番の舞台で役を演じきったとき、それまでの絵や写真、映像制作とは違う感覚に出会いました。

この卒業演劇で主演した経験が、俳優になると決めた直接のきっかけです。

恐怖と歓喜が混ざった、半端じゃないエクスタシーを感じた

出典:情熱大陸「坂東龍汰(俳優)」(2026年6月14日)

舞台の楽しさだけではなく、もっと幅広く、多くの人に自分の芝居を見てもらいたいと思うようになります。

公演を終えたあと、家族にも東京へ出て役者をやりたいと伝えました。

子どものころからさまざまな表現を試してきた坂東さんが、初めて進路を「俳優」に定めた場面でした。

大学は選ばず、旅館の住み込み勤務で上京資金を貯める

俳優を目指すと決めたあと、坂東さんは大学への進学を選びませんでした。

まったく選択肢にありませんでした。

出典:双葉社 THE CHANGE「坂東龍汰『上京前は旅館に住み込みで働いてました。“本日、担当させていただく坂東です”って。デスクワークが絶対的に向かない、というのは自分自身、わかっていたんです』」(2024年2月25日)

高校卒業後は北海道を離れ、旅館の仲居として住み込みで働き始めました。

目的は、東京へ行って俳優になるための資金を自分で貯めることでした。

住み込みなら生活費を抑えやすいだけでなく、さまざまな人と接する仕事ができることにも魅力を感じていたそうです。

旅館では、担当した宿泊客のチェックインから翌日のチェックアウトまで関わりました。

食事を運び、案内をし、相手が快適に過ごせるよう接客する仕事です。

年齢も職業も違う人たちが次々とやってくる環境で、人と話し、相手を見る時間を過ごしました。

俳優になるための資金作りとして始めた仕事でしたが、本人は後にこの接客経験を「むちゃくちゃ勉強になりました」と振り返っています。

お金が貯まると、決めていた通り東京へ向かいました。

上京後の事務所探しから俳優デビューへ|村上虹郎との縁と2017年

資金を貯めて東京へ出れば、すぐに俳優として仕事が始まったわけではありません。

上京後には所属先を探す時期があり、そこから村上虹郎さんとの縁を経てプロの現場へ進みます。

原宿でスカウトを待つほど苦戦した事務所探し

東京では安いアパートで暮らしながら、いくつもの芸能事務所へ履歴書を送りました。

しかし、なかなか所属先は決まりません。

半年ほどさまざまな事務所を受けても決まらず、スカウトされようと原宿・竹下通りで待ったり、通りを走り回ったりしたと本人は振り返っています。

事務所へ入るために高額な授業料を求められるような話もあり、本人が「だまされそうになったこともある」と語るほど手探りの時期でした。

高校の舞台で進路を決め、旅館で働いて上京資金まで用意したものの、東京では改めて「俳優として仕事を始められる場所」を探さなければなりませんでした。

そこで以前から面識のあった俳優へ相談します。

村上虹郎に教えられた鈍牛倶楽部との出会い

相談していた一人が、俳優の村上虹郎さんです。

村上さんもシュタイナー教育を受けており、交流会などを通じて坂東さんの姉とつながりがあったことから、坂東さん自身も以前から面識がありました。

坂東さんは村上さんが映画『2つ目の窓』で俳優として活動している姿も見ており、自分の所属先がなかなか決まらない時期に相談しています。

すると村上さんが「こういう事務所がある」と、のちに所属する鈍牛倶楽部の存在を教えてくれました。

虹郎がこういうとこがあるって教えてくれたから、今がある。

出典:双葉社 THE CHANGE「坂東龍汰『半年間、いろんな事務所を受けてはダメで、竹下通りでずっと待ってたり、通りを走り回ったりしてました』人生を変えた出会い」(2024年3月4日)

村上さんから事務所の存在を教えられたことが接点となり、そこから鈍牛倶楽部との縁が生まれました。

坂東さんは同じインタビューで、村上さんと並んで、現在のマネージャーとの出会いも俳優人生が動いたきっかけとして挙げています。

旅館で働いていた青年が東京へ出て、半年ほど所属先を探した末に、ようやくプロとして仕事を始める場所を得ました。

2017年に俳優デビュー|初舞台・映画出演・ドラマ初主演へ

事務所へ入ったあとには、さまざまなオーディションを受けました。

最初期の仕事として確認できるのが、2017年のABC-MART「NIKE AIR MAX KISS MY AIRS」のCMです。

一方、複数の公式プロフィールや高信頼媒体では、同年放送のテレビ東京系ドラマ『セトウツミ』を俳優デビュー作として紹介しています。

資料によって「デビュー作」の示し方には違いがありますが、坂東龍汰さんが2017年にプロの俳優活動を始めたことは共通しています。

CMの仕事とドラマ出演が同じ2017年に確認できるため、「最初の仕事」と「ドラマでの俳優デビュー」を無理に一つの出来事として扱わないほうが実際の経歴に沿っています。

2018年1月下旬から2月上旬には、岩松了プロデュース『三人姉妹はホントにモスクワに行きたがっているのか?』で初舞台を踏みました。

事務所に入ってまだ数か月ほどの時期で、後年には、芝居について右も左も分からない状態で参加したと振り返っています。

2018年6月公開の『EVEN~君に贈る歌~』は映画初出演作となり、劇中バンド「EVEN」のギタリスト・快を演じました。

ギター経験はありましたが、オーディションでは経験者の演奏を目の当たりにして「終わった」と思うほど手応えがなかったそうです。

それでも役をつかみ、初めての映画現場へ入りました。

撮影初日は泣くシーンだったこともあり、緊張で前夜は一睡もできなかったと当時のインタビューで明かしています。

同年8月にはNHK BSプレミアムの『花へんろ特別編 春子の人形』で、オーディションを経てドラマ初主演を務めました。

演じたのは、脚本家・早坂暁さんの若き日をモデルにした富田良介で、田中裕子さんや芦田愛菜さんらと共演しています。

初めは「主演」がどれほど大きな役割なのか十分に実感できていなかったものの、台本を受け取り、共演者と通し稽古をする中で、その重さを感じるようになったそうです。

高校の卒業演劇で「もっと多くの人に芝居を見てもらいたい」と思った坂東さんは、2018年夏、『春子の人形』で初めて主演としてドラマの中心に立ちました。