PROFILE
人物プロフィール
中村優子さんは、映画『火垂』『血と骨』『ストロベリーショートケイクス』『海街diary』『ユンヒへ』など、映画を中心に数多くの作品へ出演してきた俳優です。
1975年1月7日に福井県で生まれた中村さんですが、若い頃から一直線に芸能界へ入ったわけではありません。
子どものころ夢中だったのは絵とアニメで、高校卒業後は福井県立藤島高校から東京外国語大学へ進学し、映画館や海外旅行に多くの時間を使っていました。
一方で、大学受験をする前にはすでに「演じる側に行きたい」という気持ちを持っていたと、後年のインタビューで明かしています。
そこから大学時代の自主映画、初期の舞台出演、映画デビューを経て、初主演作『火垂』へたどり着きました。
今回は、そんな中村優子さんの生い立ちや家族、若い頃の学生生活、演技を始めたきっかけ、映画デビューから『火垂』で初主演するまでをご紹介します。
中村優子の生い立ち|福井で絵を描くことが好きだった子ども時代
中村優子さんは福井県福井市で生まれ育ちました。
幼いころから好きだったのは絵を描くことで、最初から俳優を目指していたわけではなく、漫画家に憧れた時期もありました。
ラムちゃんとナウシカを繰り返し描いた幼少期
子どものころは、自分で物語を描くというより、好きなキャラクターを何度も模写していました。
特によく描いていたのが、『うる星やつら』のラムと『風の谷のナウシカ』のナウシカです。
ラムは何度も描いたため、大人になってからも描けるほど手になじんでいるといいます。
小学生のころには漫画家になりたいと思った時期もあり、演技より先に絵や物語の世界へ親しんでいました。
ナウシカは絵だけでなく、せりふを覚えるほど繰り返し見ていた作品でした。
「子どものころ毎日のように見ていた『風の谷のナウシカ』のせりふは今でも暗唱できるほど」
出典:福井経済新聞「福井の映画館で『こども映画教室』 地元出身俳優・中村優子さんゲスト講師に」(2021年12月15日)
この言葉は、2021年に故郷の福井市で行われた「こども映画教室」にゲスト講師として参加した際に語ったものです。
子どもたちとアニメーションを使ったワークショップに取り組みながら、自分自身が子どものころに好きだった作品の記憶も振り返っていました。
兄の塾キャンプに行きたくて「学ぶ楽しさ」と出会う
小学校3年生になると、思いがけない理由から塾へ通い始めます。
2歳上の兄が通っていた塾でキャンプがあると知り、「キャンプに行けるなら自分も入りたい」と母親へ頼んだのがきっかけでした。
勉強そのものより、最初の目的はキャンプでした。
その塾は小さなプレハブ小屋のような場所でしたが、先生の教え方が中村さんには合っていました。
授業がよく分かるようになり、成績も上がり、勉強すること自体を面白いと感じるようになったそうです。
「兄の塾のキャンプに行きたい」という動機から始まった通塾が、学ぶことを楽しいと思える体験に変わりました。
中村さんは後に東京外国語大学へ進みますが、小学生のころのこの塾について「学ぶ楽しさ」を知った場所として具体的に振り返っています。
中村優子の家族|会社員の父・ソフトテニス県代表監督の母・2歳上の兄
中村優子さんが育った家庭には、会社員の父、母、2歳上の兄がいました。
なかでも本人の回想に具体的なエピソードが多く登場するのが母親です。
母は30年以上県代表監督を務めたスポーツウーマン
父親について、中村さんは会社勤めだったと話しています。
母親は専業主婦でしたが、家庭の中だけで過ごしていたわけではありませんでした。
軟式テニスの県代表監督を30年以上務め、自身も大会へ出場するほど競技を続けていたといいます。
中村さんの記憶では、母は普段からジャージ姿でいることが多く、絵を描く人物という印象はほとんどありませんでした。
ところが、中村さんが小学6年生ごろにナウシカへ夢中になっていたある日、母が突然「お母さんも描いてみようかな」と絵を描き始めます。
初めて描いたという母のナウシカは、中村さんが素直に「負けた」と感じるほど上手でした。
しかも母には競技で培った勝負へのこだわりがあり、この一件は何十年も娘の記憶に残ることになります。
母との「ナウシカの絵対決」と兄から受けた影響
母は完成したナウシカを、娘の作品ではなく自分の作品として壁に飾りました。
子どもの中村さんは悔しくて仕方がなかったものの、出来栄えの良さは認めていたため、何も言えなかったそうです。
それから30数年後、今度は中村さんの娘が「ママとおばあちゃんで対決して」と提案し、母娘は再びナウシカを描き比べました。
母は勝負の前にわざわざ『ナウシカ』の本を用意し、中村さんも「絶対に負けない」という気持ちで絵に向かったと振り返っています。
母の競争心と、好きなことになると譲れない中村さんの一面が伝わる家族の思い出です。
一方、2歳上の兄は、小学生だった中村さんが塾へ通い始めるきっかけになった存在でした。
兄が先に通っていたからこそキャンプの話を知り、その先で中村さんは勉強の面白さに出会っています。
父、母、兄について本人が語っている内容はそれぞれ違いますが、子ども時代の具体的な場面には家族が自然に登場しています。
藤島高校から東京外国語大学へ|受験前には演じる道を決めていた
中村優子さんは福井県立藤島高校を卒業し、その後は東京へ出て東京外国語大学のイタリア語学科へ進学しました。
ここで大切なのは、大学へ入ってから突然俳優を志したわけではないことです。
藤島高校を卒業し東京外大イタリア語学科へ
本人は、大学受験をする前から、心の中では演じる側へ進みたいと決めていたと話しています。
それでも高校卒業後すぐに芸能事務所へ入る道は選びませんでした。
大学に通い、普通の生活を送ることも、自分がやりたいことへつながっていくと考えていたからです。
「回り道だとは思わなかったですね」
出典:テレ朝POST「俳優・中村優子、徹底した役作り。初主演映画では素性を隠してストリッパーの巡業に同行『役を生きたいと思っていた』」(2024年9月13日)
俳優を目指す気持ちを持ちながら、まず大学生活を選んだのが中村さんの若い頃でした。
専攻にイタリア語を選んだ大きな理由は、言葉の「音」に惹かれたことだったそうです。
大学にはイタリア語への情熱が強い教授もおり、中村さんはその様子を興味深く見ていたと振り返っています。
大学時代は海外旅行と映画館通いに夢中
東京外大での学生生活を振り返るとき、中村さんがよく覚えているのは、海外旅行と映画館へ通った時間です。
ギンレイホールや銀座テアトル西友など、東京にはお気に入りの映画館がいくつもありました。
『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』や『M★A★S★H』など、当時見た映画についても具体的に記憶しています。
学生だったころは「吸収したい、知りたい、見たい」という気持ちが強く、授業だけに学生生活を限定していませんでした。
俳優になりたいという意思はすでにありましたが、その前に映画を見る側として大量の作品と劇場体験に触れていました。
市川雷蔵映画祭で知った映画館の熱気
なかでも忘れがたい場所として挙げているのがテアトル新宿です。
学生時代に「市川雷蔵映画祭」が開かれており、中村さんは市川雷蔵の映画に夢中になって何度も通いました。
劇場は年配の観客を中心にいつも満席で、静かに鑑賞するというより、面白い場面では声を上げて笑っていたそうです。
さらにエンドロールでは満場の拍手が起こり、それまでとは違う映画館の空気を体験しました。
映画そのものだけでなく、大勢の観客と一緒に映画を見る楽しさを体で知った学生時代でした。
なお、中村さんが演じる側へ行きたいと決めたのは、この映画祭を経験した後ではなく大学受験前です。
映画館で過ごした時間は、その意思を持ったまま大学生活を送っていた時期の具体的な一場面として残っています。
大学時代に自主映画へ|初めての撮影現場から事務所所属まで
大学時代、中村優子さんはオーディションを受け、アート系の自主映画に出演しました。
本人にとっては、それが初めて映画の現場を経験する機会になりました。
オーディションでアート系の自主映画に出演
それまで映画館へ何度も通っていた中村さんが、大学時代には実際にカメラの前へ立つ側へ移ります。
自主映画のオーディションを受けて出演し、そこで初めて撮影現場を経験しました。
現場へ入ったことで、もっと映画に近い場所にいたいという思いが具体的になっていきます。
自主映画を経験した後、より映画に近い居場所を求め、のちにディケイドへ所属しました。
ここは「大学卒業後に初めて俳優を目指した」と理解すると、中村さん自身が語る時系列とは違ってきます。
演じたいという意思は受験前からあり、大学生活を送りながら実際の映画制作へ近づいていったという順序です。
中村優子さんには、大学時代の自主映画出演、1997年の舞台出演、1999年の映画デビューという別々の段階があります。芸能界入りと映画デビューを同じ出来事として扱わない方が、初期の経歴を正確に整理できます。
1997年『アルケミスト』と初期の演技活動
1997年には野村リエナ演出の舞台『アルケミスト』へ出演しています。
一方、それ以前から大学時代に自主映画の撮影現場を経験していたことを本人が語っているため、『アルケミスト』を単純に「初めて演技をした作品」とすることはできません。
この時期は、自主映画、舞台、そして後の商業映画と、演じる場所が少しずつ広がっていた時期として見るのが実際の経歴に合っています。
中村さんの場合、「女優デビュー」という一言にすべてをまとめるより、何をもってデビューとするのかを分けた方が分かりやすい経歴です。
1999年『金融腐蝕列島 呪縛』で映画デビュー
映画での明確な節目は1999年に訪れます。
所属事務所のプロフィールでは、原田眞人監督の『金融腐蝕列島 呪縛』を映画デビュー作としています。
中村優子さんの映画デビューは1999年で、大学時代の自主映画や1997年の舞台出演とは別の節目です。
翌2000年には『TRUTHS : A STREAM』へ出演しました。
その一方で、中村さん自身が後に「今までで一番過酷」と振り返る大きなオーディションも、この初期キャリアの中で待っていました。
初主演『火垂』が転機|過酷なオーディションから主演女優賞まで
河瀨直美監督の映画『火垂』で、中村優子さんはストリッパーの水沢あやこを演じました。
作品は2000年にロカルノ国際映画祭でワールドプレミアされ、日本では2001年3月24日に公開されています。
あやこは過去の記憶を抱えながら生きる女性で、中村さんにとって初めての映画主演となりました。
『火垂』は資料によって「2000年作品」「2001年公開」と年の表記が異なります。2000年にロカルノ国際映画祭でワールドプレミアされ、日本公開は2001年3月24日です。
事務所入りが決まり約2カ月後に『火垂』のオーディションへ
『火垂』の話が来たのは、本人によれば事務所に入ることが決まってから約2カ月後でした。
一次は書類審査で、その後も二次、三次と選考が続きます。
二次では50〜60人ほどが一室に集められ、詳しい説明もないままワンシーンの紙を渡されました。
与えられたのは、あやこがストリッパーで誰にも心を開いていないという程度の簡単な設定だけでした。
その少ない情報から、自分の想像力と集中力でシーンを演じることを求められます。
審査後はスタッフの協議があり、扉が開いて名前を呼ばれた人から帰される方式だったそうです。
最後まで残れるか分からない状況で、選考は何段階にもわたって続きました。
最終段階まで残ったのは3人ほどで、実際のストリップ劇場の舞台に立ち、即興で踊る審査までありました。
中村さんはこのオーディションを「身も心も削り取られていく」ようだったと振り返りながら、あやこ役をつかみました。
役が決まったと知ったときには、うれしさと同時に夢の中にいるような感覚だったと話しています。
ストリッパーの巡業に同行して「あやこ」を生きる
役が決まった後の準備も、台本を読んで踊りを練習するだけでは終わりませんでした。
河瀨監督の紹介で現役のストリッパーと会い、その巡業へ同行します。
河瀨監督も最初は同行していましたが、途中で中村さんを現場に残し、本人は3日間ほど踊り子の生活の中で過ごしました。
そこで教わったのは、ステージ上の踊りだけではありません。
着物の畳み方を教わり、一緒に豚汁を作るなど、踊り子の日常生活そのものをそばで経験しています。
劇中では赤いドレスで踊る「め組のひと」と、和装での「さくらさくら」という異なる踊りがあり、それぞれ別の先生から振りを教わりました。
スマートフォンで動画を撮って復習できる時代ではなかったため、バレエをしている友人にターンを見てもらいながら練習したそうです。
さらに近所の公共施設を自分で予約し、一人で踊りを繰り返しました。
撮影は四季を通して行われたため、一度振りを覚えて終わるのではなく、本番へ向けた自主練習も長く続きました。
「あやこを生きたいと思っていた」
出典:テレ朝POST「俳優・中村優子、徹底した役作り。初主演映画では素性を隠してストリッパーの巡業に同行『役を生きたいと思っていた』」(2024年9月13日)
役の職業を表面的に再現するのではなく、あやこの生活にできるだけ近い場所へ自分を置くという準備でした。
オーディションの段階から役を自分に必要な経験だと感じ、撮影準備では実際の生活へ入り込むところまで進んでいます。
ブエノスアイレス国際映画祭主演女優賞、その後の役作りへ
『火垂』は海外の映画祭にも出品され、2001年のブエノスアイレス国際映画祭で中村さんは主演女優賞を受賞しました。
初主演作で経験した「実際の生活へ入る」という役への向き合い方は、その後の仕事でも見られます。
2004年の映画『血と骨』では、ビートたけしさん演じる金俊平の愛人・山梨清子役を演じました。
清子が脳腫瘍を患う役だったため、病気によってどのような症状が表れ、体にどんな影響が出るのかを調べ、実際の医師にも話を聞いています。
2006年の『ストロベリーショートケイクス』では、秋代という人物の過去から考えるために「秋代日記」を書きました。
学生時代に思いを寄せる菊地と出会ったころから書き始め、撮影中も日記を続けていたそうです。
役によって方法は違っても、画面に映る場面だけではなく、その人物がそこへ至るまでの生活を準備する仕事を重ねていました。
そして2009年公開の映画『クヒオ大佐』でNo.1ホステスの須藤未知子を演じたときには、撮影前に銀座のクラブへ体験入店しました。
これは制作側から一方的に指示された準備ではなく、中村さん自身が監督たちへクラブを紹介してほしいと頼んだものでした。
「そうですね。自ら申し出ました」
出典:テレ朝POST「俳優・中村優子、No.1ホステスの役作りで高級クラブに体験入店。最終的には指名されるまでに」(2024年9月17日)
約1カ月、週3回ほど店へ入り、役名の「未知子」と名乗って接客しました。
出勤前にはクラブ指定の美容室で髪を整え、水割りの作り方や接客の所作を教わりながら店に立っています。
客には映画の役作りで来ていることを伏せていたため、実際に「未知子さん」「未知子ちゃん」と呼ばれていました。
最終的には客から指名されるところまで体験しています。
『火垂』でストリッパーの巡業へ同行した経験から8年後、別の役でも実際の仕事場へ入り込んで準備していました。
2020年1月には、国立映画アーカイブで行われた『火垂』上映後のトークイベントにも登壇しました。
所属事務所の公式Xでは、撮影当時の思い出や観客からの質問について話したことが紹介されています。
初主演から年月を重ねた後も、『火垂』は上映の場で本人が撮影当時を振り返る作品として残りました。
福井で絵と映画に夢中だった少女は、大学時代に初めて撮影現場へ入り、やがて役の生活そのものを経験しながら『火垂』のあやこを演じることになりました。
















