PROFILE
人物プロフィール
映画『シン・ウルトラマン』『あんのこと』『Cloud クラウド』、ドラマや舞台などで、独特の存在感を見せてきた赤堀雅秋さん。
俳優として知った人も多いかもしれませんが、赤堀さんは劇作家・脚本家・演出家・映画監督としても活動してきた人物です。
ところが、その出発点をさかのぼると、子どものころから演劇に親しんでいたわけでも、学生演劇で腕を磨いていたわけでもありません。
千葉県で育ち、高校・大学時代まで演劇や芸術とは距離のある生活を送り、20代になってからパフォーマンス集団へ入りました。
1994年のSTAGE14°入団から、1996年のSHAMPOO HAT旗揚げへ。
今回は、そんな赤堀雅秋さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、俳優として最初の仕事、劇作家・演出家として歩き始めるまでをご紹介します。
赤堀雅秋の生い立ち|千葉で育った少年時代
赤堀雅秋さんは1971年8月3日、千葉県生まれです。
後年のインタビューでは、船橋市の中学校に通っていたころの同級生をたびたび思い出すと話しており、現在の創作にも意外な形でその記憶が残っています。
千葉県出身|船橋市の中学校へ通っていた
赤堀さんの幼少期について、学校名や細かな家庭生活まで詳しく公表されているわけではありません。
ただし本人は、劇団を始めたころから作品を届けたい相手として、千葉県船橋市の中学校時代の同級生を思い浮かべていたと語っています。
演劇をよく知らず、普段は劇場へ足を運ばないような同級生の想像力をどう動かすか。
若いころから、その感覚を作品づくりの一つの基準にしてきました。
「自分の中学校の同級生」
出典:演劇最強論-ing「中堅クライシス 第1回 赤堀雅秋【後編】」(2016年7月1日)
有名な俳優や演劇関係者ではなく、昔の同級生が頭に浮かぶという話には、赤堀さんがどこから演劇へ入ってきたのかがよく表れています。
演劇や芸術とは無縁の環境で育った
赤堀さん自身、演劇や芸術とはほとんど関係のない環境で生まれ育ったと振り返っています。
子どものころから舞台を見続けていたわけでも、家庭の中に演劇人や芸術家がいたという話でもありません。
高校時代、大学時代になっても状況は大きく変わらず、本人の言葉からは、少なくとも学生時代までは演劇が生活の中心ではなかったことが分かります。
赤堀雅秋さんは、幼少期から演劇教育を受けてきたタイプではありません。
本人が後年語った経歴では、高校・大学時代まで演劇や芸術とは距離のある生活を送り、その後に舞台の世界へ入っています。
そのため、赤堀さんの若い頃を理解するときは、「演劇少年がそのまま劇作家になった」というイメージで見ると実際の経歴とはずれます。
赤堀雅秋の家族|父親と兄、作品にも残る家族の記憶
赤堀さんが自ら具体的に語っている家族の話では、父親と兄の存在が印象的です。
家族について多くを並べて語るタイプではありませんが、父親との記憶は、のちに作る舞台や映画の人物像とも重なっていきました。
父親を自分の作品へ投影していたと振り返る
赤堀さんの作品には、家族の中で強い存在感を持つ父親が登場することがあります。
2017年の舞台『世界』では風間杜夫さんが独善的で高圧的な父親を演じ、2016年の映画『葛城事件』でも三浦友和さん演じる父親が一家の中心にいました。
赤堀さんは2021年のインタビューで、こうした父親像を振り返り、自分の父親を無意識に投影していたのかもしれないと話しています。
作品を先に作り、その後で振り返ったときに、自分の家族の記憶が入り込んでいたことに気づいた形です。
赤堀作品の父親像
『世界』『葛城事件』『白昼夢』などでは、家族の中にいる父親が重要な位置を占めています。赤堀さん本人も、自分の父との記憶が作品へ入り込んでいた可能性を語っています。
79歳の父を兄とともにみとった経験
父親は79歳で亡くなり、その最期には赤堀さんと兄が立ち会いました。
本人によれば、そこにあったのは悲しさや寂しさだけではなく、人の生命が終わる瞬間を前にした、言葉にしにくいざわつきだったそうです。
「人も『動物』として死ぬんだ」
出典:アシタノ「舞台『白昼夢』を作・演出 赤堀雅秋さん」(2021年4月12日)
このときに感じた人生のはかなさや、うまく整理できない感覚は、2021年の舞台『白昼夢』を書く動機の一つになりました。
赤堀さんにとって父親の記憶は、単なる家族紹介で終わる話ではなく、作品の中へ形を変えて現れていったものでもあります。
赤堀雅秋の学生時代|高校・大学でも演劇とは無縁だった
現在の肩書きだけを見ると、若いころから演劇一本で進んできたようにも見えます。
しかし本人が語る学生時代は、そのイメージとはかなり違います。
高校時代から大学時代までの経歴
赤堀さんは、高校時代も大学時代も、演劇や芸術との距離感は中学時代と似たようなものだったと話しています。
つまり、学校の演劇部から劇団へ進んだわけでも、大学で演劇を専門的に学んでそのままプロになったわけでもありません。
学生時代の具体的な学校生活や部活動について、本人が詳しく振り返った一次情報は多くありません。
一方で、本人が繰り返し語っているのは、演劇を特別な世界として育ってきたわけではないという点です。
その感覚は、後に「演劇を知っている人だけ」に向けて作品を作ることへの違和感にもつながっていきます。
赤堀さんが後年「一般の人」を考えるとき、中学校の同級生を真っ先に挙げたのも、自分だけが演劇の世界の住人になったとは考えていないからでした。
舞台を日常的に観る人と、ほとんど観ない人の間に自分を置く感覚は、このあとの作品づくりを考えるうえでも欠かせません。
まだ演劇を仕事にする未来は見えていなかった
赤堀さんは後年、演劇の世界へ入った経緯について、誰か有名な演出家に師事したわけではないと明かしています。
強い芸術的使命感が先にあったというより、もっと漠然とした芸能界への関心が出発点でした。
ここが、赤堀さんの経歴でかなり面白いところです。
演劇を学び続けてきた青年がプロになったのではなく、演劇の外側にいた青年が、20代になってから現場へ入り込んでいったのです。
赤堀雅秋が芸能界へ入ったきっかけ|1994年にSTAGE14°へ
赤堀さんの芸能活動の入口として確認できるのが、1994年のパフォーマンス集団「STAGE14°」への入団です。
当時のSTAGE14°は、青山のショーレストランを拠点に活動していました。
「芸能人になれればいい」から始まった若い頃
赤堀さんは、芸能界へ向かった当初の自分をかなり率直に振り返っています。
「もともと芸能人になれればいいやぐらいなところから始めた」
出典:演劇最強論-ing「中堅クライシス 第1回 赤堀雅秋【前編】」(2016年4月22日)
最初から「劇作家になる」「演出家になる」と明確に決めていたわけではなく、誰かに弟子入りして演劇の道へ入ったわけでもありません。
現在の多彩な肩書きからは想像しにくいほど、入口はミーハーで曖昧なものだったと本人自身が認めています。
そこから実際の舞台現場へ入り、仕事として演劇と向き合う時間が始まりました。
青山のショーレストランを拠点にしたSTAGE14°へ入団
1994年、赤堀さんはSTAGE14°へ加わり、約2年間活動しました。
本人は後のインタビューで、当時の出発点を、演劇部や養成所ではなく、ショーパブのような場所でコントに近いことをしていた時期として振り返っています。
「まず演劇ありき」ではなく、人前に立つ現場へ入ったあとで演劇との距離が縮まっていった順番でした。
後の劇団公演とは違い、この時点をそのまま「俳優デビュー」と断定するのは慎重に考える必要があります。
所属事務所の経歴では1994年をSTAGE14°入団、1996年をSHAMPOO HAT旗揚げとして分けており、日本タレント名鑑では1996年の舞台『くつ。』をデビュー作としています。
赤堀雅秋さんの活動開始を分けて見ると
1994年:STAGE14°へ入団し、パフォーマンス活動を開始
1996年:SHAMPOO HATを旗揚げし、舞台『くつ。』で作・演出・出演
芸能・舞台の世界へ足を踏み入れた時期と、俳優・劇作家・演出家として現在へ続く形がはっきりした時期は、同じ出来事として扱わないほうが実像に近いでしょう。
SHAMPOO HAT旗揚げ|俳優・劇作家・演出家として歩き始める
1996年、STAGE14°が解散すると、赤堀さんは仲間たちとSHAMPOO HATを旗揚げしました。
ここから、演じるだけではなく、自分で書き、自分で演出する活動が本格的に始まります。
1996年、STAGE14°解散から仲間との劇団結成へ
SHAMPOO HATの最初期には、1996年に新宿SPACE107で『くつ。』を上演しています。
赤堀さんはこの公演で作・演出・出演を担当しました。
まだ20代半ばですが、すでに「俳優だけ」「作家だけ」と役割を一つに絞る形ではありません。
1998年には『グレープフルーツムーン』『KIRIFUDA』、1999年には『みかん』『さくら』『黄色い空』を上演し、小劇場で作品を積み重ねていきました。
1999年には劇団名をTHE SHAMPOO HATへ変更しています。
旗揚げから数年の間に公演を重ねるなかで、劇団の名前と活動の形を少しずつ固めていきました。
作品数を増やすだけでなく、赤堀さん自身が書いて、演出して、出演するという劇団の形もこの時期に固まっていきます。
作・演出だけでなく自ら舞台に立つ俳優になった
THE SHAMPOO HATでは、赤堀さんが全作品の劇作・演出を担い、自ら俳優としても出演する形が続きました。
作品を外から演出するだけではなく、自分自身も同じ舞台空間の中へ入っていくスタイルです。
この時期に重要なのは、俳優、劇作家、演出家という肩書きが後から別々に追加されたのではなく、劇団旗揚げの段階から複数の役割を同時に担っていたことです。
その後の赤堀さんが舞台でも映像でも「作る側」と「演じる側」を往復していくのは、この時期の活動を見ると自然に理解できます。
THE SHAMPOO HAT時代|小劇場から外の世界へ
旗揚げ当初の作品は、コント的なワンシチュエーション劇の色合いが強いものでした。
ところが1998年ごろから、赤堀さんの作品は日常の生活空間へ視線を向けるようになります。
1998年ごろから変わっていった作品と市井の人々への視線
中流家庭の台所、アパートの一室、ビルの屋上など、ごく普通の人が暮らす場所を舞台にした作品が増えていきました。
そこにいるのも、特別な英雄ではなく、どこにでもいそうな人たちです。
人間の格好悪さや滑稽さ、残酷さまで含めて日常の中に置く作風は、THE SHAMPOO HATの特徴になっていきました。
ここで、船橋市の中学校時代の同級生を観客として想像していたという話とも重なります。
演劇に詳しい人だけが分かる作品ではなく、演劇の外にいる人の想像力も動かしたい。
学生時代まで演劇と距離があった自分自身の感覚を、赤堀さんは舞台の外へ捨てずに持ち続けました。
生活のために受けた仕事も経験へ変えていった若手時代
劇団を始めれば、すぐに演劇だけで生活できるわけではありません。
赤堀さんも若手時代について、自分で自由に仕事を選べる立場ではなく、生活のために来た仕事を受けていたと振り返っています。
ただ、それを演劇と無関係な寄り道として切り離すのではなく、外の現場で得た経験を自分の劇団へ持ち帰っていきました。
2001年にはグリング『イノセント』など劇団外の舞台にも出演し、脚本提供や演出の仕事も少しずつ広がっていきます。
2002年にはフジテレビ系『演技者。』で劇団作品『アメリカ』の脚本を担当し、2004年にはテレビドラマや短編映像で脚本・監督の仕事も手掛けました。
舞台で培った会話や人物の距離感を、テレビや映像へ持ち込む仕事が増えていった時期です。
本人は、PARCO劇場やシアターコクーンのような場所から声がかかることにも憧れがあったと率直に話しています。
小劇場の中だけで完結したいわけではなく、外の仕事を経験しながら劇団へ戻る。
その往復を重ねるうちに、赤堀さんの活動範囲は舞台の外へも広がっていきました。
『その夜の侍』まで|舞台から映画へ広がった赤堀雅秋の活動
THE SHAMPOO HATで積み重ねてきた劇作と演出は、やがて映画へつながります。
大きな節目になったのが、2007年に劇団で上演した『その夜の侍』です。
劇団で生まれた『その夜の侍』を自ら映画化
舞台版『その夜の侍』は、妻をひき逃げ事故で失った男と、事故を起こした男の関係を描いた作品です。
この戯曲は岸田國士戯曲賞の最終候補となり、その後、映画化の話が進みました。
劇団で作ってきた「どこにでもいそうな人間」を見つめる視線は、そのまま映画版にも持ち込まれます。
赤堀さんは映画版についても、英雄的な人物ではなく、凡庸な男たちがむき出しになる姿を描こうとしていました。
映画の監督経験がなかった赤堀さんは、最初は依頼に怖さを感じていたそうです。
それでも、原作と赤堀さん自身が一体化しているとプロデューサーから言われ、気持ちが変わっていきました。
「自分で撮りたいという気持ちがムクムクとわいてきた」
出典:TOWER RECORDS ONLINE「赤堀雅秋(映画『その夜の侍』監督)」(2012年11月5日)
2012年、堺雅人さんと山田孝之さんを主演に迎えた映画『その夜の侍』が公開され、赤堀さんは監督・脚本を担当しました。
同作で新藤兼人賞金賞、ヨコハマ映画祭の森田芳光メモリアル新人監督賞を受賞しています。
初めての映画監督作で評価を受けたあと、2016年には監督第2作『葛城事件』を発表しました。
ただし映画監督へ転身したのではなく、映画を撮ったあとも舞台の作・演出・出演と俳優業を並行して続けています。
『その夜の侍』は突然生まれた映画企画ではありません。
2007年にTHE SHAMPOO HATの舞台として上演した作品を、赤堀さん自身が脚本・監督して映画へ移したものでした。
俳優・劇作家・演出家・映画監督へ広がった現在の活動
映画監督になったあとも、赤堀さんが舞台を離れたわけではありません。
2013年には『一丁目ぞめき』で第57回岸田國士戯曲賞を受賞し、2014年にはシアターコクーンで『殺風景』の作・演出を担当しました。
俳優としても映画やドラマへ出演しながら、自作の舞台では書き、演出し、自ら舞台に立つ活動を続けています。
2025年の赤堀雅秋プロデュース『震度3』でも、作・演出・出演の三役を担当しました。
『震度3』は2026年に第13回ハヤカワ「悲劇喜劇」賞を受賞し、上演台本は第77回読売文学賞の戯曲・シナリオ賞にも選ばれています。
1996年の小劇場公演から約30年を経ても、書くこと、演出すること、演じることを一つの作品の中で続けている点は変わっていません。
『震度3』の特設サイトでも、赤堀さんは目の前のささやかな出来事をしっかり見つめたいと語り、書き、創る姿勢は変わらないとしています。
1990年代に船橋の中学校時代の同級生を思い浮かべながら「市井の人々」を見ようとしていた感覚が、長い時間を経ても作品の中に残っていることが分かります。
同作では、荒川良々さん、丸山隆平さん、上白石萌歌さんと赤堀さんが作品について話す公式座談会も公開されました。
演劇とは無縁だった学生時代を経て、20代でSTAGE14°へ入り、SHAMPOO HATを立ち上げ、自分で書いた舞台に自分で立つようになった赤堀雅秋さん。
俳優、劇作家、演出家、映画監督という複数の顔は、1996年の小さな劇団の旗揚げから少しずつ広がっていきました。
















