水谷豊の生い立ち|家族・学生時代から子役時代、若い頃の転機まで

水谷豊さんの生い立ちをテーマに、家族・学生時代から子役時代、若い頃の転機までを示した人物イラスト

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
みずたにゆたか
カテゴリー
男性俳優
出身地
北海道
生年月日
1952年7月14日
芸能活動開始
1965年
俳優デビュー
1968年
デビューのきっかけ
子役

『相棒』の杉下右京と聞けば、落ち着いた口調と鋭い観察力で事件を解いていく水谷豊さんの姿を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

ところが、水谷さんの俳優人生は、最初からこの道一本と決めて進んできたものではありません。

12歳で劇団ひまわりに入り、子役として活動したあと、10代の終わりには一度芸能界を離れています。

大学受験に失敗し、山中湖で住み込みの仕事をした時期を経て、本人いわく「アルバイト」のような感覚で演技の世界へ戻り、『傷だらけの天使』『熱中時代』などの代表作に出会っていきました。

今回は、そんな水谷豊さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、子役時代、一度俳優を辞めてから大きな転機を迎えるまでをご紹介します。

水谷豊の生い立ち|北海道・芦別から東京・立川へ

水谷豊さんは1952年7月14日、北海道の芦別市に生まれました。

幼いころを北海道で過ごしたあと、1959年に東京へ移り、小学2年生ごろから立川で暮らすようになります。

4人兄姉の末っ子として北海道で誕生

水谷さんは、4人兄姉の末っ子として北海道・芦別で生まれました。

両親はもともと京都にいたものの、その後北海道へ移り、水谷さんが小学生のころには東京・立川へ生活の場所を移しています。

父親は工事現場で働いており、その仕事の関係で一家が東京へ転居したことが『水谷豊 自伝』を紹介する資料でも伝えられています。

水谷さんにとって映像との最初の記憶は、芸能界へ入るよりずっと前にありました。

2026年のFRIDAYのインタビューでは、3〜4歳ごろに野外の移動式映画館で『鞍馬天狗』を見たことを覚えていると話しています。

大人も子どもも地面に敷かれたゴザに座り、鞍馬天狗が悪人を倒すと観客から拍手が起きるという光景でした。

テレビに出たいと思うより前から、映像の中で物語が動く面白さには触れていたようです。

小学2年生で立川へ|アメリカ文化が身近だった少年時代

1959年、水谷さんは北海道から東京へ移り、立川で暮らし始めました。

小学2年生ごろの水谷さんはスポーツが好きで、学校では図画工作が得意だったそうです。

立川には米軍基地があり、当時の水谷さんにとってアメリカの文化は遠い外国の話ではありませんでした。

海外から日本へテレビドラマが次々と入ってきた時代でもあり、身近にアメリカ人の友達ができるなど、普段の生活の中でも外国の文化に触れていました。

その環境の中で、画面の向こう側にある世界への興味が強くなっていきます。

その世界を見てみたいと思ったのが俳優になったきっかけでした

出典:ENCOUNT「『熱中時代』北野広大を演じた水谷豊 人生の師は亡くなった名バイプレーヤー」(2024年8月1日)

最初から「俳優という職業で生きていく」と決めていたというより、自分がテレビで見ている世界の中へ行ってみたいという好奇心が入口でした。

水谷豊の家族|工事現場で働く父、芸能界入りを認めた母、兄姉

水谷さんが芸能界へ入るまでを見ていくと、家族の存在も外せません。

特に父親の仕事によって生活する土地が変わったことと、小学6年生で芸能界へ進むことを認めた母親の判断は、子ども時代の大きな出来事でした。

「父親が家にいないのが普通」だった子ども時代

『水谷豊 自伝』の刊行時に新潮社が紹介した水谷さんの家庭環境には、「父親が家にいないのが普通」という表現が使われています。

父親は工事現場で働いており、仕事で家を離れることが多かった家庭で育ちました。

北海道から立川への転居も父親の仕事と関係しており、幼い水谷さんにとって、父の仕事は暮らす場所にも関わるものでした。

後に水谷さんがアメリカ留学を考えた際にも、父親の会社をめぐる出来事が進路を変えることになりますが、それは高校を卒業するころの話です。

兄姉については細かな個人情報を広く語っているわけではありませんが、水谷さん自身は兄姉がいる末っ子として育っています。

検索すると「実家がお金持ちだったのか」「家庭が貧しかったのか」といった情報も見かけますが、確認できる具体的な出来事から家庭像を見たほうが、水谷さんの子ども時代は分かりやすくなります。

母の許可が小学6年生での芸能界入りにつながる

立川で海外ドラマやアメリカ文化に親しむうち、水谷さんはテレビの世界そのものへ興味を持つようになりました。

そして小学6年生のころ、芸能界へ足を踏み入れます。

まだ小学生だった息子が芸能活動を始めることについて、母親が強く反対したわけではありませんでした。

新潮社が『水谷豊 自伝』刊行時に紹介したエピソードでは、母親は「夜遊びをするよりはマシ」と考えて芸能界入りを認めたとされています。

華やかな芸能界へ息子を送り出そうとしたというより、子どもが興味を持った場所へ行くことを現実的に受け止めた判断だったことがうかがえる場面です。

1965年、水谷さんは劇団ひまわりへ入団しました。

このとき始まった子役生活が、そのまま迷いのない俳優人生へ続いていったわけではありません。

水谷豊の学生時代|12歳で劇団ひまわりへ、子役から初主演へ

水谷さんが劇団ひまわりへ入ったのは12歳のころで、学校へ通いながら芸能活動を始めました。

10代のうちにテレビ出演から主演まで経験しますが、資料によって「デビュー」と呼んでいる時点には違いがあります。

テレビの世界への憧れから劇団ひまわりへ入団

水谷さんが劇団ひまわりへ入った背景にあったのは、立川で身近になった海外ドラマやアメリカ文化への興味でした。

1965年に劇団ひまわりへ入団し、子役としてテレビの仕事を経験するようになります。

2026年のインタビューでは、テレビでアメリカのドラマを見て「この世界に行ってみたい」と感じたあと、劇団ひまわりへ入ったことを振り返っています。

芸能事務所へスカウトされて突然俳優になったのではなく、自分が興味を持った映像の世界へ近づくため、劇団という場所に入ったのが最初でした。

ただし、水谷さんは後年になっても「俳優以外の世界のほうが自分に向いているのではないか」と考えていたことを繰り返し話しています。

子どものころから役者になることだけを夢見ていた、という経歴ではありません。

子役出演を経て『バンパイヤ』で初主演

劇団ひまわりへ入ったあと、水谷さんは子役としてテレビ作品へ出演するようになりました。

本人は2026年のFRIDAYのインタビューで、14歳のころにテレビドラマ『マグマ大使』へ出演したことを俳優デビューとして振り返っています。

その後、1968年のテレビドラマ『バンパイヤ』で初主演を務めました。

手塚治虫原作の『バンパイヤ』は、実写映像とアニメーションを組み合わせた作品で、水谷さんが演じたのはオオカミへ変身する青年・トッペイです。

日本コロムビアの公式プロフィールでも『バンパイヤ』を「初主演」としており、水谷さんが10代で大きな役を任されていたことが確認できます。

「デビュー」の表記には資料差があります。
本人のインタビューなどでは『マグマ大使』への出演を俳優デビューとして扱う一方、フォーライフの公式プロフィールでは1968年の『バンパイヤ』を「デビュー」としています。『バンパイヤ』が初主演であることは複数の公式資料で確認できるため、この記事では「子役としての出演」と「初主演」を分けています。

『バンパイヤ』で主演まで経験した水谷さんですが、仕事を重ねるほど俳優という職業だけに気持ちが固まっていったわけではありませんでした。

高校時代の担任教師が後の『熱中時代』へ

水谷さんは東京・三鷹市にある大成高校へ進み、1970年に卒業しています。

高校時代の何気ない学校生活は、約10年後に演じる代表的な役の中へ入り込むことになりました。

高校1年生のときの担任は、ゆっくりと「○○だなぁ」「お母さん、元気かぁ?」と話す先生だったそうです。

高校2年生のときの担任には、黒板へ何かを書いたあと振り返って「いっか~?」と話す癖があり、水谷さんはその言い方をよくまねしていました。

のちに『熱中時代』で小学校教師・北野広大を演じる際、好きだった高校時代の先生たちの話し方や雰囲気を役へ取り入れています。

北野広大は完全に架空の人物としてゼロから作られたわけではなく、水谷さんが実際に高校で接した複数の先生の要素も入った役でした。

一方で、高校3年生になるころには、芸能界とは違う世界を見てみたいという気持ちが強くなっていきます。

19歳で一度俳優を辞める|大学受験失敗から“アルバイト感覚”の復帰へ

10代で主演まで経験していた水谷さんですが、高校を卒業するころには芸能界から離れることを考えていました。

俳優として仕事がなかったからではなく、「自分には別の世界があるのではないか」と考えていたことが理由でした。

カリフォルニア留学を目指すも進路を変更

高校3年生のころ、水谷さんが考えていた次の進路は、アメリカ・カリフォルニアへの留学でした。

子どものころからアメリカのドラマや文化に触れてきただけに、今度は実際に新しい世界へ出てみようと考えます。

留学を決めたのは新しい世界を見たいと思ったからです。

出典:FRIDAYデジタル「〖全文公開〗水谷 豊『いつでも俳優を辞める覚悟はありました』名優が人生を赤裸々に語る」(2026年7月21日)

ところが、その時期に父親の会社が経営破綻し、留学を断念することになりました。

自分で選んだ新しい道へ進もうとしていたところで、家庭の事情によって計画そのものを変えざるを得なくなったのです。

そこで国内の大学進学を目指しましたが、今度は受験にも失敗しました。

大学受験に失敗し、家を離れて山中湖へ

カリフォルニア留学を断念し、日本の大学受験にも失敗した水谷さんは、家を飛び出しました。

行き着いたのは山中湖畔のレストハウスでした。

そこで約2か月、住み込みで働いたことを後年のインタビューで明かしています。

すでにテレビドラマの主演まで経験していた若者が、芸能界を離れ、山中湖で住み込みの仕事をしていたことになります。

本人は高校3年生のころから芝居をやめることを考えており、別のインタビューでは19歳で一度「この世界」を辞めたと説明しています。

19歳のとき、この世界を一度、辞めたんですね。

出典:テレ朝POST「水谷豊、俳優は『いつ辞めてもかまわない』と思っていた。ブレークから『相棒』まで…その足跡を語る」(2025年7月4日)

「子役からそのまま人気俳優へ」という一直線の経歴ではなく、この時点で俳優生活はいったん途切れています。

プロデューサーの誘いで再び演技の世界へ

水谷さん自身には、芸能界へすぐ戻るつもりはありませんでした。

ところが、水谷さんが辞めたことを知らなかったプロデューサーからドラマ出演の話が舞い込みます。

大学受験に失敗してアルバイトをしなければならない時期でもあったため、知っている仕事ならいいだろうと考え、再び撮影現場へ戻りました。

復帰の時点でも「俳優として生きていこう」と決意したわけではなく、本人の感覚は“アルバイト”に近いものでした。

ただし、アルバイトのつもりだから仕事を軽く扱ったわけではありません。

2026年のインタビューでは、どの作品にもできる限りのことをして取り組んだ一方、評判が良くても達成感がなく、「もっと自分に向いている世界があるはずだ」と長く考えていたことを明かしています。

そうして俳優を続ける中で、水谷さんの名前を広く知られるきっかけになる作品がやってきました。

水谷豊の若い頃の転機|『傷だらけの天使』『熱中時代』から『相棒』へ

演技の世界へ戻った水谷さんは、20代に入ってから俳優として大きな役と出会っていきます。

ここでは出演作をすべて並べるのではなく、役柄や俳優としての立ち位置が大きく変わった作品を見ていきます。

『傷だらけの天使』と岸田森との出会い

大きな転機となったのが、1974年に始まった日本テレビ系ドラマ『傷だらけの天使』でした。

水谷さんが演じたのは、萩原健一さん演じる探偵・木暮修を「アニキ」と慕う乾亨です。

それまで犯人役や影のある若者を演じることも多かった水谷さんは、この乾亨役で一気に注目を集めました。

同じ作品で出会った俳優の岸田森さんは、その後の水谷さんに大きな影響を与えた人物です。

岸田さんからは、役ごとに無理に別人になろうとするのではなく、水谷豊自身の中にあるものを出していけばいいという考え方につながる言葉を受けました。

水谷さんは後年、岸田さんと出会っていなければ今のような役者にはなっていなかったと思う、と振り返っています。

『傷だらけの天使』のあと、1976年には長谷川和彦監督の映画『青春の殺人者』に主演しました。

同作で両親を殺してしまう青年・斉木順を演じ、キネマ旬報主演男優賞を受賞しています。

アルバイトのような感覚で戻った演技の仕事で、20代前半には主演俳優として評価されるところまで来ていました。

『熱中時代』でそれまでの俳優イメージが一変

『傷だらけの天使』や『青春の殺人者』で注目された一方、水谷さんには不良や影のある青年というイメージも強くついていました。

その印象を大きく変えたのが、1978年に始まった『熱中時代』の小学校教師・北野広大役です。

その少し前、水谷さんは大竹しのぶさんと夫婦役を演じたコメディー『オレの愛妻物語』に出演していました。

演出を担当した田中知己さんは、そこで水谷さんが持っている明るさやコメディー性に目を留め、子どもたちと一緒に演じる作品を構想します。

それが『熱中時代』でした。

ところが企画段階では、「不良役のイメージがある水谷豊に小学校教師を任せるのは難しい」という反対意見もあったと、本人は後年語っています。

最終的には企画が進み、水谷さんは北海道出身の教師・北野広大を演じることになりました。

役作りには、自身の明るい部分や北海道のニュアンスだけでなく、高校1年・2年のころに接した担任教師の話し方も持ち込んでいます。

実際の学生時代に覚えていた先生たちの癖が、約10年後の代表役の中で使われたことになります。

ドラマは大きな反響を呼び、それまでの不良役中心のイメージも変わりました。

今こうしていられるのは、あの役があってのことだと思うことも多いです。

出典:TVガイドWeb「水谷豊が『熱中時代2・先生編』の北野広大を通して伝えたいメッセージとは?」(2024年8月2日)

20代の水谷さんにとって『熱中時代』は、人気作品になっただけでなく、それまで表に出ていなかった明るさやコメディーの部分まで役として見せる作品になりました。

2000年『相棒』へ|子役から続いた俳優人生の大きな到達点

『熱中時代』のあとも、水谷さんは『事件記者チャボ』『浅見光彦ミステリー』『刑事貴族』『地方記者・立花陽介』『探偵事務所』など、長く俳優として仕事を続けました。

若いころに不良役や犯人役で知られ、その後は教師、記者、刑事、探偵など、異なるタイプの人物を演じています。

そして1999年ごろ、水谷さんのもとに、のちに長く演じることになる杉下右京の脚本が届きます。

水谷さんは『水谷豊 自伝』で、『相棒』の脚本を最初に読んだとき、刑事ものにこのような脚本があるのかと驚いたことを振り返っています。

杉下右京については、最初から誰にでも好かれる主人公にはせず、少し嫌味で冷たく感じられる人物として作ろうと考えていました。

2000年6月3日、『相棒・警視庁ふたりだけの特命係』がテレビ朝日の『土曜ワイド劇場』で放送されました。

この時点では毎週放送される連続ドラマではなく、2時間ドラマとして始まった作品です。

2000年から2001年にかけて3本のプレシーズンが制作され、その後、2002年10月に連続ドラマのseason1が始まりました。

シリーズ誕生25周年を迎えたインタビューでは、水谷さん本人が寺脇康文さんとともに、長く続く『相棒』への向き合い方を語っています。

『相棒』は最初から長期シリーズとして連続放送が始まったわけではありません。2000年の『土曜ワイド劇場』で第1作が放送され、計3本のプレシーズンを経て、2002年に連続ドラマ化されています。

子役時代から数えれば、そこへ来るまでにもすでに長い俳優生活がありました。

しかも、その途中には19歳で一度俳優を辞め、別の「自分の世界」を探した時期があります。

その後に再び現場へ戻り、乾亨、北野広大とまったく違う役を経て、2000年には杉下右京という新しい役を演じ始めました。

「アルバイト」のつもりで戻った演技の仕事は、『傷だらけの天使』『熱中時代』を経て、『相棒』という長く続く代表作へたどり着くことになりました。