村井國夫の生い立ち|若い頃は人見知り、佐賀高校演劇部から俳優座へ

村井國夫の生い立ちと、佐賀高校演劇部から俳優座へ進んだ歩みを示す人物ビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
むらいくにお
カテゴリー
男性俳優
出身地
佐賀県
生年月日
1944年9月20日
芸能活動開始
1966年
俳優デビュー
1966年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

村井國夫さんは、舞台『レ・ミゼラブル』のジャベール役や、ハリソン・フォードの吹き替えなどで知られる俳優です。

舞台、映画、テレビドラマ、ミュージカル、吹き替えと仕事の幅は広く、特に低く響く声を覚えている人も多いでしょう。

そんな村井さんですが、若い頃は人前に出るのが得意ではなく、本人が「人見知りが激しい」と振り返る少年でした。

俳優への道が動き始めたのは、母から勧められて入った佐賀高校の演劇部で、1学年上の辻萬長さんと出会ってからです。

今回は、そんな村井國夫さんの生い立ちや家族、学生時代、俳優座養成所へ進んだ経緯、俳優デビューとその後の転機をご紹介します。

村井國夫の生い立ち|中国・天津から佐賀で育った少年時代

村井國夫さんは1944年9月20日、中国・天津市生まれです。

所属先のプロフィールでは出身地を佐賀県としていますが、出生地は中国で、終戦後に日本へ引き揚げて佐賀で育ちました。

出生地と育った場所は分けて整理できます。
村井國夫さんは中国・天津市で生まれ、終戦後に佐賀県へ引き揚げて成長しました。

中国・天津で生まれ、終戦後は母と佐賀へ

村井さんが生まれた天津では、父が建設会社を営んでいました。

ところが、生まれた翌年の1945年に終戦を迎え、父は中国に残って捕虜となります。

母は子どもたちを連れて日本へ引き揚げ、実家のある佐賀へ戻りました。

まだ幼かった村井さんも母に背負われ、中国から佐賀へ渡った一人でした。

佐賀へ戻った母は美容師として働き、子どもたちを育てていきます。

「お袋は実家のある佐賀に戻り、美容師をやって僕たちを育ててくれました。」

出典:婦人公論.jp「村井國夫 中国・天津市で生まれるも親父は捕虜、お袋は五人の子供と引き揚げ。ある日芝居してたら『僕、村井國安の息子です』というのが楽屋に現れて…」(2025年11月10日)

父が日本へ戻ったのは、村井さんが小学校6年生の頃でした。

天津で生まれながら、物心がついてからの少年時代を過ごした場所は佐賀だったのです。

人見知りの少年が女剣劇とレビューに親しむ

子どもの頃の村井さんは、自分でも「神経が細くて人見知りが激しい」と振り返るほど内気な少年でした。

日刊ゲンダイのインタビューでは、病弱だったこともあり、甘えん坊に育ったとも話しています。

一方、家庭では意外なほど早くから芝居を見る機会がありました。

母は女剣劇が好きで、佐賀で人気を集めていた筑紫美主子さんの舞台へ幼い村井さんを連れて行っていたそうです。

姉は、女性だけでレビューを上演していた伊東舞踊団が好きで、村井さんも一緒について行きました。

ただし、この頃から俳優を目指していたわけではありません。

芝居は身近にありましたが、本人の進路が具体的に演劇へ向かうのは高校に入ってからでした。

村井國夫の家族|父・母・兄姉と育った家庭

村井さんの生い立ちを見ていくと、特に大きな存在だったのが母と兄姉です。

終戦後の家庭を支えた母は、のちに村井さんが演劇へ足を踏み入れるきっかけも作りました。

父が中国に残るなか、美容師の母が一家を支えた

父が中国に残ったため、引き揚げ後の生活を支えたのは美容師として働く母でした。

母は長く美容師を続け、村井さんによると90歳を過ぎても仕事をしていたそうです。

92歳で亡くなるまで働き続けた母について、村井さんは美容家の吉行あぐりさんを目標にしていたとも振り返っています。

その母が、幼い村井さんを女剣劇へ連れて行き、高校生になると演劇部を勧めました。

「人見知りが激しい息子に、人前で話す演劇をさせてみる」という母の提案が、俳優になる道の入口になりました。

3人の兄と姉に囲まれた末っ子|俳優を志した兄も

村井さんは兄や姉に囲まれて育った末っ子です。

本人は2015年の日刊ゲンダイのインタビューで「5人兄弟の末っ子」と話していました。

一方、妻の音無美紀子さんは2026年に家族構成を詳しく明かし、3人の兄と1人の姉がいて、さらに1歳で亡くなった一番上の姉まで含めると6人きょうだいの末っ子になると説明しています。

きょうだい人数の表現には資料による違いがあります。
村井さん自身は「5人兄弟の末っ子」と話したことがあり、音無美紀子さんは後年、1歳で亡くなった長姉を含めると6人きょうだいだったと説明しています。

3人の兄もそれぞれ異なる道へ進み、長兄は新聞記者、次兄は共同通信の海外記者として働きました。

5歳上の兄は若い頃に俳優を志し、文学座で芝居をしていた時期もあったそうです。

その兄は俳優を離れた後、福岡で起業して実業家になりました。

村井さんが高校で演劇に出会った頃、家族の中にも芝居の世界を知る兄がいたことになります。

妻は音無美紀子|娘・麻友美と息子・健太郎も俳優

俳優として活動を始めた後、村井さんは女優の音無美紀子さんと出会いました。

村井さん本人はGQ JAPANのインタビューで、結婚した年についてこう話しています。

「1976年に結婚して、ぼくは当時31歳だった。」

出典:GQ JAPAN「愛車の履歴書──Vol19. 村井國夫さん&音無美紀子さん(前編)」(2023年5月15日)

2人の間には長女の村井麻友美さんと長男の村井健太郎さんが生まれ、2人とも俳優として活動するようになりました。

妻も子どもたちも俳優という演劇一家ですが、村井さん自身が役者を目指すより前の家庭では、母から勧められた高校の部活動が大きな分岐点になります。

佐賀高校の演劇部で辻萬長と出会い、俳優座養成所へ

村井さんは県立佐賀高校へ進学しました。

現在の佐賀県立佐賀西高校につながる学校で、ここで1学年上の辻萬長さんと出会います。

村井さん自身が「第1の転機」として挙げているのが、この佐賀高校演劇部での出会いでした。

人見知りを心配した母の勧めで演劇部へ

演劇部へ入ったのは、村井さん自身が強く希望したからではありません。

内気で人見知りの激しい息子を心配した母が、人前で話さなければならない演劇部を勧めました。

当時の演劇部には20人弱の部員がいましたが、男子は辻さんと村井さんの2人だけだったそうです。

辻さんはすでに俳優を志していて、高校生ながら独自に演劇を学んでいました。

そこで後輩の村井さんは、1対1に近い形で演技を教わることになります。

「マンツーマンで演劇の基礎からトコトン教わりました。」

出典:日刊ゲンダイDIGITAL「『演劇をトコトン教わった』村井國夫の原点は高校の1年先輩」(2015年9月28日)

母に勧められて入った部活動で、本気で俳優を目指していた先輩と出会ったことが、村井さんの進路を変えました。

外堀越しの発声練習と『瓜子姫とアマンジャク』の初舞台

辻さんとの練習は、放課後だけではありませんでした。

登校前には学校近くにある旧佐賀城の外堀を挟み、向かい合って発声練習をしていました。

堀の幅は約50メートルあり、そこを越えて声を届かせる練習をほぼ毎朝続けていたといいます。

放課後になると、パントマイム、演技、表情、せりふ、歌だけでなく、台本の選び方や大道具・小道具、照明、音響まで学びました。

高校の部活動でありながら、村井さんは舞台に必要な仕事を一通り経験していきました。

そして迎えた初舞台が、木下順二作の『瓜子姫とアマンジャク』です。

村井さんは若い高校生ながら、おじいちゃん役を演じました。

舞台は評判となり、学校の作品として県の文化祭へ推薦されています。

この初舞台の後、音楽の先生から声を褒められ、「声楽家にならないか」と勧められたというエピソードもあります。後に舞台や吹き替えでも印象的な声を聞かせる村井さんですが、高校時代から声を評価されていました。

この時点で、村井さんはすでに「演技をした経験」を持っていたことになります。

後年の1966年を俳優デビュー年として整理する場合も、高校時代の演劇経験をなかったことにはできません。

1963年に上京|俳優座養成所「花の15期」に入る

高校卒業後、村井さんは佐賀を離れて上京し、1963年に劇団俳優座養成所の第15期生となりました。

先に俳優座養成所へ進んでいた辻萬長さんを追うように、今度は東京で本格的に俳優の訓練を始めます。

テレビ朝日の『徹子の部屋』関連記事では、村井さんが九州から東京まで23時間かけて上京したことも紹介されています。

第15期には小野武彦さん、地井武男さん、夏八木勲さん、前田吟さん、太地喜和子さん、栗原小巻さんらがおり、後に「花の15期」と呼ばれる世代になりました。

ただ、1963年の養成所入所は職業俳優としてのデビューではなく、俳優になるための本格的な訓練が始まった時期と考えるのが自然です。

村井國夫さんの演技歴は段階を分けると分かりやすくなります。
高校時代に演劇部で初舞台を経験し、1963年に俳優座養成所へ入所。養成所を卒業した1966年から職業俳優としての活動が本格的に始まりました。

1966年に俳優デビュー|自由劇場から舞台・映像・吹き替えへ

俳優座養成所で3年間学び、村井さんは1966年に卒業しました。

同じ年には自由劇場の立ち上げに加わり、映画にも出演して、職業俳優として仕事を始めています。

自由劇場の旗揚げと映画『大忍術映画 ワタリ』

俳優座養成所を卒業すると、村井さんは串田和美さん、吉田日出子さん、佐藤信さんらが立ち上げる自由劇場へ参加しました。

村井さんを誘ったのは、俳優座養成所の同期だった劇作家・斎藤憐さんでした。

自由劇場では白土三平さんの劇画を舞台化した『赤目』や、ルイジ・ピランデルロ作『ヘンリー四世』などに出演しています。

同じ1966年には、東映の映画『大忍術映画 ワタリ』へ新堂の小次郎役で出演しました。

高校演劇、俳優座養成所での訓練を経て、1966年に舞台と映像の双方でプロとしての活動が始まったことになります。

ただ、小劇場での活動だけで生活を続けるのは簡単ではありませんでした。

村井さんは自由劇場に4年ほど在籍した後、収入を得るためにテレビや映画へ活動の場を移していきます。

1973年『藪原検校』を観て、もう一度舞台へ

テレビや映画の仕事をするようになった村井さんに、再び舞台へ向かわせる出来事が訪れたのは1973年でした。

西武劇場のオープニング記念として上演された、井上ひさし作『藪原検校』を観劇したのです。

舞台には俳優座養成所の同期だった高橋長英さんと太地喜和子さんが出演していました。

同期の2人が立つ舞台を見た村井さんは強い衝撃を受け、終演後もしばらく席から立てなかったと振り返っています。

そこで村井さんは「やっぱり舞台へ戻ろう」と考えました。

俳優として仕事を始めた後も、舞台から映像へ移り、さらに観客として見た一本の芝居から舞台へ戻るという変化があったのです。

1985年からハリソン・フォードの吹き替えを担当

村井さんの仕事を語るうえで、舞台と並んで外せないのがハリソン・フォードの吹き替えです。

本人によると、初めてハリソン・フォードの声を担当した作品は、日本テレビで1985年に放送された『スター・ウォーズ/新たなる希望』のハン・ソロ役でした。

同じ1985年10月4日には、日本テレビ系『金曜ロードショー』の第1回放送作品となった『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でインディ・ジョーンズを担当しました。

ここからハリソン・フォードの吹き替えは、村井さんを代表する仕事の一つになっていきます。

『インディ・ジョーンズ』シリーズでは第1作から第3作までテレビ版のインディを担当し、長くハリソン・フォードの声と向き合いました。

第4作『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』では一度別の声優が担当しましたが、2023年の日本テレビ放送用に村井さんによる吹き替えが新たに収録されています。

同年の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』でもインディ役を務め、ハリソン・フォード本人から、長い旅路を共にしてくれたことへの感謝を伝えるメッセージが寄せられました。

公開記念舞台あいさつでは、そのメッセージを受け取る村井さん本人の様子も残されています。

1985年から続いた吹き替えは、一つのシリーズだけでは終わらず、ハリソン・フォードが出演するさまざまな作品へ広がっていきました。

『レ・ミゼラブル』ジャベール役と『蜘蛛女のキス』が転機に

舞台俳優として、もう一つ大きな仕事となったのがミュージカル『レ・ミゼラブル』です。

きっかけは、舞台で共演していた細川俊之さんからオーディションへ誘われたことでした。

細川さんはさらに、二期会のバリトン歌手だった平野忠彦さんを歌の師匠として紹介しました。

本格的なミュージカルへ挑むため、村井さんは仕事の合間を縫って歌を一から鍛え直します。

「朝に先生のところへ行って、昼に仕事して、夜また先生のところへという生活を続けました。」

出典:Stagebook MAGAZINE「『レ・ミゼラブル』に13年間出演の村井國夫が飽きない理由」(2017年9月3日)

本人は別のインタビューで、オーディションまでに平野さんのもとへ100回ほど通ったとも振り返っています。

オーディションには合格したものの、契約上の事情から1987年の日本初演には出演できませんでした。

転機が来たのは、その2年後の1989年の再演です。

初演でジャン・バルジャンとジャベールを交代で演じていた鹿賀丈史さんと滝田栄さんがジャベールを離れることになり、演出のジョン・ケアードさんが村井さんを起用しました。

村井さんはジャベールを長く演じ続け、本人が「800回くらい」と振り返るほどの代表役となりました。

高校時代に演劇部へ入り、初舞台ではおじいちゃん役を演じた少年が、40代になって歌を一から鍛え直し、大規模なミュージカルの舞台に立ったことになります。

さらに1992年には舞台『蜘蛛女のキス』で第47回文化庁芸術祭賞を受賞しました。

村井さん自身も『レ・ミゼラブル』と『蜘蛛女のキス』を俳優人生の大きな転機として挙げています。

佐賀高校で初めて舞台に立ってから約30年後、村井さんは『蜘蛛女のキス』で文化庁芸術祭賞を受賞し、舞台俳優としてもう一つの大きな節目を迎えました。