PROFILE
人物プロフィール
『男はつらいよ』シリーズや映画『武士の一分』をはじめ、映画・ドラマ・舞台で数多くの役を演じてきた俳優の笹野高史さん。
1948年6月22日に兵庫県の淡路島で生まれましたが、若い頃から順調に俳優への道を進んだわけではありません。
子どもの頃に映画俳優を夢見ながら、大学では劇場の裏方を経験し、その後は約1年半も外国航路の船員として働いています。
そこから自由劇場へ戻ったとき、初めて「裏方」ではなく「役者」として芝居の世界に入っていきました。
その後も小さな役を長く積み重ね、50代後半になってから『武士の一分』で大きな役を任されることになります。
今回は、そんな笹野高史さんの生い立ちや家族、学生時代、若い頃の船乗り生活、自由劇場で俳優になった経緯、『男はつらいよ』や歌舞伎、『武士の一分』までの道のりをご紹介します。
笹野高史の生い立ちと家族|淡路島の造り酒屋で育った四男
笹野高史さんが生まれたのは、瀬戸内海に浮かぶ兵庫県・淡路島です。
実家は代々続く造り酒屋で、笹野さんは男ばかり4人兄弟の末っ子として育ちました。
3歳で父、11歳で母を亡くした子ども時代
幼い頃の家庭環境には、大きな変化が続きました。
笹野さんが3歳のとき、父親が結核で亡くなっています。
父親は実家の造り酒屋を経営していましたが、その後は母親も結核を患い、療養することになりました。
笹野さんは母親と3人の兄たちとともに一度実家を離れ、別の家で生活しています。
そして小学5年生だった11歳のとき、母親も40歳で亡くなりました。
父を3歳、母を11歳で亡くし、その後は年の離れた3人の兄たちが親代わりのような存在になっていきました。
母親を亡くしたあと、兄弟は再び実家へ戻って暮らすようになります。
笹野さん本人は、兄たちが末っ子の自分が道を外れないように気にかけ、後には進学や上京まで支えてくれたと振り返っています。
映画好きの母との時間が俳優への原点に
母親は大の映画好きで、笹野さんがまだ学校へ上がる前から映画館へよく連れていってくれました。
当時は字幕を読むこともできず、映画の物語そのものは理解できなかったそうです。
それでも、お菓子を食べながらスクリーンを眺め、隣では母親が映画を見て泣いているという時間が記憶に残りました。
母親が好んでいたのは、ジェリー・ルイスやボブ・ホープなどが出演する喜劇映画でした。
笹野さん自身も小学生の頃から人を笑わせることが好きで、修学旅行のバスでは歌を披露するような子どもだったといいます。
幼い笹野さんが覚えていたのは、映画の詳しい筋書きよりも、喜劇を楽しむ母親の姿や映画館で一緒に過ごした時間でした。
母親を亡くしたあと、中学生になった笹野さんは、母と一緒に通った映画館へ一人で足を運ぶようになります。
そこで気づいたのが、同じ俳優が作品ごとにまったく違う人物を演じていることでした。
「俺も映画俳優になりたい」
出典:ステラnet「俳優・笹野高史インタビュー『映画俳優になりたいと言えなくて』」(2025年9月17日)
12歳頃、映画俳優になることが笹野さん自身の夢になりました。
ただし、その夢をすぐ家族や友人に話せたわけではありません。
当時人気だった映画スターには石原裕次郎さんや小林旭さんのような二枚目俳優が多く、自分が俳優になりたいと言えば笑われるのではないかと考えていたそうです。
3人の兄に支えられて東京へ
俳優への憧れを胸にしまっていた笹野さんは、漫画雑誌で『映画俳優になる方法』という本の広告を見つけました。
そこで実家の酒屋にあった切手を使い、家族に知られないよう本を注文します。
郵便が届くのを毎日気にしながら待ったものの、本に書かれていたのは発声や滑舌、呼吸法などの基礎的な練習でした。
思い描いていた「映画俳優になる秘密」とは違ったため、本は引き出しの奥へ隠しました。
ところが、その本を3歳上の兄に見つけられてしまいます。
兄からは映画俳優を目指していることをからかわれ、酒屋の四男として家業を助けることも考えるよう諭されました。
それでも俳優になりたい気持ちは消えませんでした。
最初は俳優志望を心配した兄たちも、最後には笹野さんが東京の大学へ進むことを支えてくれました。
両親を早くに亡くした笹野さんにとって、年の離れた3人の兄たちは進路について相談し、上京を助けてくれる家族でもありました。
成人後は1990年に結婚し、4人の息子の父親にもなっています。
ただ、俳優になるまでの若い頃を振り返ると、進路に直接関わったのは淡路島で一緒に育った兄たちの存在でした。
笹野高史の学歴と学生時代|洲本高校から日本大学芸術学部へ
笹野高史さんは淡路島で学生時代を過ごし、兵庫県立洲本高校を卒業しました。
高校卒業後は島を離れて東京へ向かい、日本大学芸術学部へ進学しています。
中学生で「映画俳優になりたい」と決める
俳優という仕事をはっきり意識したのは中学生の頃でした。
母親と通った映画館へ一人で足を運び、日活映画などを見るうちに、同じ俳優が次々と違う役を演じる面白さに気づきます。
映画の中なら、一人の人間が作品ごとに別の人生を経験できるように見えました。
笹野さん本人は、この12歳頃の出来事を役者人生の「第1の転機」と振り返っています。
華やかなスター像とは違う自分でも俳優になれるのかという迷いは、その後もしばらく残っていました。
そんな笹野少年が憧れた俳優の一人が、後に『男はつらいよ』で共演することになる渥美清さんでした。
二枚目スターとは違う風貌で観客を引きつける渥美さんの存在は、笹野さんにとって映画俳優を目指すうえで勇気をもらえる存在だったといいます。
俳優志望を隠しながら東京の大学を目指した
高校時代になっても、俳優になるという希望を周囲へ積極的に話していたわけではありません。
実家が造り酒屋だったこともあり、学校の先生からも家業を継ぐのではないかと思われていたようです。
日本大学芸術学部の映画分野へ願書を出すことを知った先生から、芸術の道へ進むことを意外に思われたというエピソードも残っています。
それでも進路は変えず、淡路島から東京へ出ました。
映画を見る側だった少年が、まず選んだのは映画や演劇を学べる環境へ自分から移ることでした。
ただし、大学へ入ったあとすぐ映画俳優として仕事を始めたわけではありません。
日大の演劇サークルから自由劇場の裏方へ
日本大学では演劇サークルに入りました。
そのサークルの先輩が自由劇場の演出部にいたことから、笹野さんも劇場へ出入りするようになります。
ここで大切なのは、自由劇場との最初の接点は「俳優としての入団」ではなく、裏方の手伝いだったことです。
小道具や美術など舞台裏の仕事を手伝い、演劇の現場に身を置くようになりました。
すでに俳優を夢見て上京していたものの、この時点では表舞台に立つ役者ではありませんでした。
しかも、そのまま自由劇場で俳優へ転身したわけでもありません。
大学では学生運動が激しくなっていた時代で、その空気に違和感を抱いた笹野さんは大学を離れることになります。
俳優への最短距離を進むどころか、一度は演劇の世界からも離れました。
船乗りから俳優へ|自由劇場に戻った若い頃
大学を離れた笹野高史さんが次に選んだ仕事は、芸能界とはまったく違うものでした。
兄の紹介を受け、外国航路の船員として約1年半働いています。
大学を離れ、外国航路の船員として1年半
笹野さんには、役者だけでなく船乗りへの憧れもありました。
乗ったのは東南アジアを回る貨物船で、港から港へ移動する生活を送ります。
映画俳優を夢見て淡路島から東京へ出た青年が、海の上で働く船員になった時期です。
本人は船乗りの日々を楽しかったと振り返っており、単に俳優になるまでの空白期間だったわけではありません。
約1年半が過ぎると、念願だった世界一周航路の船へ移れる話まで決まりました。
笹野さんは東南アジア航路の貨物船で働いたあと、世界一周航路へ移る機会を得ていましたが、その直前に昔の演劇仲間と再会しました。
その偶然の再会によって、進路がもう一度演劇へ向かいます。
串田和美との偶然の再会で「今度は役者で」
世界一周航路へ移ることを楽しみにしていた頃、笹野さんは自由劇場の串田和美さんと偶然会いました。
串田さんから「また一緒に芝居をしよう」と声をかけられます。
以前の笹野さんは自由劇場で裏方を手伝っていましたが、このとき返した言葉は違いました。
「じゃあ今度は役者でなら」
出典:婦人公論.jp「名優たちの転機・俳優ってものになってやろう<前編>」(2023年10月16日)
船乗りを辞めて自由劇場へ戻ったとき、笹野さんは初めて俳優として芝居の世界へ入ることになりました。
本人はこの出来事を「第2の転機」と位置づけています。
裏方時代には、佐藤B作さんなどがすでに役者として活動する姿も見ていました。
自分も役者をやりたいという希望をようやく口に出せるようになり、1970年代前半から舞台俳優として経験を重ねていきます。
自由劇場との関わりは大学時代の「裏方」と、船員生活後の「俳優」の2段階に分かれます。
『上海バンスキング』でバクマツ役が注目される
俳優として自由劇場へ戻った笹野さんは、舞台でさまざまな役を経験しました。
若い頃から主演ばかりを任されていたわけではなく、短い出演時間で観客を笑わせる役も多かったといいます。
そんな劇団時代に大きな役となったのが、1979年に初演された舞台『上海バンスキング』でした。
笹野さんが演じたのは、トランペット奏者のバクマツです。
この役が新聞などでも評価され、映像の仕事も入るようになりました。
劇団で俳優として約10年を過ごした頃には、柄本明さんや佐藤B作さんら劇団を離れた仲間がテレビへ出演する姿も目にするようになります。
30代に入った笹野さんは、自分も劇団の外で俳優としてやっていけるのではないかと考え始めました。
串田和美さんや吉田日出子さんからは強く反対されましたが、1980年代初めに自由劇場を離れます。
しかし、独立したからといってすぐ仕事が増えたわけではありませんでした。
財津一郎さんが所属していた事務所へ移ったものの、半年ほど仕事がほとんどない時期を経験しています。
仕事がなかった半年間は事務所からの前借りで生活し、笹野さんはインタビューで前借りを意味する「バンス」という言葉を使って当時を振り返っています。
その後、俳優として仕事を受けるときの考え方にも変化がありました。
若い頃には主役への思いもあったものの、脇で光るタイプだと言われたことをきっかけに、与えられた役へ徹底して入り込もうと考えるようになります。
「七色の役者、カメレオンのような役者になってやる」
出典:スポニチアネックス「笹野高史は“カメレオン” 『いい役者になりたい』74歳、変幻自在の演技『七色の』輝き」(2023年5月21日)
一つの役だけで自分を印象づけるのではなく、作品ごとに違う人物へ溶け込むという方向へ進んでいきました。
『男はつらいよ』と歌舞伎を経て『武士の一分』へ
自由劇場を離れた笹野高史さんは、舞台だけでなく映画にも活動の場を広げていきました。
少年時代から憧れていた渥美清さんとの共演、中村勘三郎さんとの歌舞伎、そして山田洋次監督の『武士の一分』へと仕事が続いていきます。
劇団独立後の仕事ゼロから『男はつらいよ』へ
自由劇場を離れてから半年ほど仕事がなかった笹野さんに、やがて舞台の仕事が入りました。
それが倍賞千恵子さん主演のミュージカル『キス・ミー・ケイト』です。
笹野さんは、倍賞さんが出演する舞台なら『男はつらいよ』の山田洋次監督も観劇に来るのではないかと期待していました。
最初はなかなか実現しませんでしたが、ある日、本当に山田監督が舞台を見に来ます。
舞台が終わってしばらくすると、事務所へ『男はつらいよ』の台本が届きました。
1985年公開の『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』で、笹野さんは念願だったシリーズへの初出演を果たします。
演じたのは、伊豆・下田で寅さんと関わる人物でした。
その後もシリーズにたびたび出演しましたが、同じ人物を継続して演じるのではなく、宿屋の主人や泥棒など作品ごとに別の役を任されています。
一つの作品に出る時間は短くても、その場面に必要な人物として違う顔を見せる仕事が続きました。
渥美清さんとは、『男はつらいよ』で共演する以前にも接点がありました。
自由劇場時代、新宿の紀伊國屋ホールで渥美さんのほうから笹野さんへ声をかけ、出演した芝居を面白かったと伝えられたことがあったそうです。
『男はつらいよ』への出演後は柄本明さんも交え、渥美さんと芝居を見たり食事をしたりする関係にもなりました。
笹野さん自身が『男はつらいよ』出演のきっかけや渥美清さんとの思い出を振り返った映像も残されています。
少年時代に「こんな俳優もいる」と勇気をもらった渥美さんと、映画の現場で同じ場面を演じるところまで来ていました。
中村勘三郎との出会いでコクーン歌舞伎の世界へ
笹野さんの舞台歴には、一般的な現代劇とは違う歌舞伎も含まれています。
歌舞伎の家に生まれた俳優ではありませんが、自由劇場時代から長く仕事をしてきた串田和美さんと、中村勘三郎さんとの縁からコクーン歌舞伎へ参加しました。
初参加は1998年のコクーン歌舞伎『盟三五大切』です。
自由劇場時代に『ハムレット』の墓掘りや『マクベス』の門番など、短い場面で笑いを生む役を演じていたことを勘三郎さんも知っていました。
そこで『盟三五大切』の「ますます坊主」役へ誘われます。
ところが出演者の休演により、本格的な歌舞伎の演技を求められる了心役の代役まで務めることになりました。
現代劇とは違う台詞回しや仕草に苦戦し、本人が後に失敗だったと振り返るほど厳しい評価も受けています。
それでも歌舞伎との関係はそこで終わりませんでした。
後には『夏祭浪花鑑』の義平次などを任され、歌舞伎独特の台詞を学ぶため稽古も重ねています。
2012年には六代目中村勘九郎襲名の口上にも並び、現代劇出身の俳優としてコクーン歌舞伎の舞台を長く経験しました。
笹野さんが歌舞伎の舞台へ進んだきっかけは、自由劇場から続く串田和美さんとの縁と、中村勘三郎さんからの誘いでした。
歌舞伎関連の会見では、自身の故郷である淡路島にかけた言い方もしています。
「淡路屋でございます(笑)」
出典:歌舞伎美人「コクーン歌舞伎 記者会見」(2007年)
「笹野高史はなぜ歌舞伎に出ているのか」という経歴も、俳優になった頃から続く劇団仲間との関係の中にありました。
『武士の一分』の大役と受賞が俳優人生を変えた
笹野さんの映画人生で、本人が「第3の転機」として挙げているのが、2006年公開の山田洋次監督作品『武士の一分』です。
台本が事務所へ届き、出演者のページを開くと、木村拓哉さんが演じる三村新之丞、その妻・加世と並んで、中間の徳平役に笹野さんの名前がありました。
長くワンシーンの役を数多く演じてきたため、最初は自分にこれほど大きな役が来るとは思わなかったそうです。
『武士の一分』の徳平は、それまでとは違い、物語を通して主人公一家に関わり続ける大きな役でした。
しかし、大きな役を得たことがそのまま順調な撮影につながったわけではありません。
短い出演場面へ集中する仕事を多く経験してきた笹野さんに対し、山田監督は徳平という人物を長い時間軸で考えるよう何度も求めました。
撮影は約4か月にわたり、その間は監督から繰り返し演技を直されたといいます。
撮影後から公開までも時間があり、笹野さんは作品がうまくいかなかったのではないかと思い悩むほどでした。
ところが公開後、『武士の一分』での演技は高く評価されます。
第30回日本アカデミー賞では、笹野さんが最優秀助演男優賞を受賞しました。
『武士の一分』では日本アカデミー賞最優秀助演男優賞のほか、毎日映画コンクール男優助演賞、日刊スポーツ映画大賞助演男優賞、キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞などにもつながりました。
大きな役を演じ、映画賞を受けたあとには、笹野さん自身も仕事に変化があったと話しています。
「役が少しよくなったし、仕事の量も増えました。」
出典:婦人公論.jp「名優たちの転機・俳優ってものになってやろう<後編>」(2023年10月16日)
映画俳優になりたいことを家族にもなかなか言えなかった少年は、大学の演劇サークル、自由劇場の裏方、外国航路の船員、舞台俳優という時期を経て映画の大役まで進みました。
長くワンシーンを積み重ねてきた笹野さんにとって、『武士の一分』は一人の人物を長い時間をかけて演じ、最優秀助演男優賞を受けた大きな仕事になりました。















