井浦新の生い立ち|若い頃のモデル時代と家族、俳優になるまで

井浦新の生い立ちを紹介する、男性の肖像イラストと「若い頃のモデル時代と家族、俳優になるまで」の見出しを配したビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
いうらあらた
カテゴリー
男性俳優
出身地
東京都
生年月日
1974年9月15日
俳優デビュー
1998年
デビューのきっかけ
スカウト

井浦新さんは、俳優になる前に「ARATA」の名前で活躍していたファッションモデルでした。

19歳でモデル事務所にスカウトされ、パリコレにも出演。ファッションブランドを立ち上げた後、是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』で俳優デビューしました。

ただ、最初から俳優になりたかったわけではありません。『ピンポン』出演後には約3年間も俳優の仕事から離れ、再び映画の世界に向き合うようになるまでには、いくつもの出会いがありました。

その原点をたどると、東京都日野市の自然の中で遊んだ少年時代、歴史好きの両親との家族旅行、音楽や映画に夢中になった学生時代へとつながっていきます。

井浦新の生い立ち|東京都日野市平山で育った幼少期

井浦新さんは1974年9月15日生まれ、東京都日野市出身です。

生まれ育ったのは、日野市の平山という地域。都心のように建物が密集している場所ではなく、山や川、田畑が身近にある環境でした。

井浦さんは子どもの頃、自然の中で遊び、家族と出かけ、映画や音楽にも親しんでいました。

山や川に囲まれた平山で過ごした子ども時代

2018年3月24日放送のJ-WAVE『FRUIT MARKET』で、井浦さんはお気に入りの東京の街として、故郷の日野市平山を挙げています。

故郷の風景を振り返る言葉には、都会とは少し違う東京の姿がありました。

東京なんですけど、田んぼも畑も山も川もあって

出典:J-WAVE『FRUIT MARKET』「PARADISE FIELD 井浦新」(2018年3月24日)

井浦さんにとって日野市平山は、東京でありながら自然の豊かさを感じられる場所でした。

大人になってからも故郷を訪れることがあり、子どもの頃に見た風景を改めて眺めると、その美しさに驚かされると語っています。

カブトムシ採りや映画に夢中だった少年時代

夏になると、平山城址公園の山へカブトムシを捕まえに行っていました。

夜のうちに山へ入り、カブトムシを集めるための蜜を仕掛けることもあったそうです。

山の上から眺めた新宿や渋谷の夜景も、幼い井浦さんの記憶に残っています。

一方、家族で映画館に出かけることも楽しみの一つでした。

八王子にあった映画館ではアニメ映画を観て、多摩地域にあったドライブインシアターにも足を運んでいます。

1984年公開の映画『ネバーエンディング・ストーリー』を観たときは、車の中から大きなスクリーンを見上げていました。

スクリーンを飛ぶファルコンの姿と、カーオーディオから聞こえてくる映画の音。周囲には同じように映画を楽しむ車が並んでいました。

こうした映画体験は、後に10代の井浦さんが自分の足で映画館へ通うようになる以前の思い出です。

井浦新の家族|歴史好きの父親と母親・妹との思い出

井浦新さんは、父親と母親がともに小学校教師という家庭で育ちました。

家族には妹もおり、両親と井浦さん、妹の4人で出かけた思い出を本人が語っています。

両親の仕事、父親の歴史好き、家族旅行で訪れた場所は、井浦さんの幼少期を知るうえで欠かせないエピソードです。

小学校教師だった父親と自宅に飾られた縄文土器

父親は小学校教師で、特に歴史や縄文文化に強い関心を持っていました。

父親が遺跡を訪れて手に入れた土器のレプリカや、縄文文化に関する書籍が家に置かれていたそうです。

美術史家の山下裕二さんとの対談では、父親が美術の先生に焼いてもらった火焔型土器を持ち帰ったときのことを振り返っています。

リビングには土器のレプリカがいくつも飾られていましたが、子どもの頃の井浦さんは、それを特別な美術品として鑑賞していたわけではありません。

家にある少し変わった形の焼き物を、自然に眺めていたのです。

2024年の『ほぼ日』の対談では、当時の家庭環境をこう振り返っています。

生まれ育った環境に縄文が当たり前にあったんです。

出典:ほぼ日「第1回 ぼくたちと縄文の出合い」(2024年11月20日)

父親の仕事も、井浦さんにとって身近なものでした。

2020年に東洋館出版社の教材「板書シリーズ」のイメージキャラクターを務めた際には、父親が自宅でガリ版を使い、児童に配るプリントを刷っていたことを明かしています。

ガリ版とは、手書きの原稿から印刷用の版を作り、紙に刷る昔の印刷方法です。学校で配布する教材を教師が手作業で準備していた時代の道具でした。

父親が自宅で授業の準備をする光景も、井浦さんの子ども時代の日常にありました。

両親と巡った遺跡や神社仏閣への家族旅行

井浦さんの家では、旅行先として遺跡や博物館などを訪れることがありました。

歴史が好きな父親と一緒に全国の遺跡を巡り、考古館へ出かけた経験を井浦さん自身が語っています。

ただ、子どもの頃から土器の年代や美術的な価値に詳しかったわけではありません。

父親が考古館で展示を見ている間、井浦さんは外の広い原っぱで遊んでいたそうです。

後になって振り返ると、自分が走り回っていた原っぱも、実は遺跡の一部だったと気づいたといいます。

幼少期には、縄文文化そのものよりも、知らない土地へ出かけ、普段とは違う場所で遊ぶことの方が身近な楽しみだったのでしょう。

その後、芸術や文化に関心を深めるようになった井浦さんは、幼い頃から身近にあった縄文土器の造形を改めて見つめるようになります。

父親と出かけた場所を、大人になって別の視点から見直すようになったのです。

井浦さんは子どもの頃、古代文明や未確認生物(UMA)にも興味を持っていました。講談社のインタビューでは、両親にねだって買ってもらったUMAの図鑑に夢中になった思い出も語っています。

妹と一緒に楽しんだドライブインシアター

井浦さんには妹がいます。

2020年6月10日の『シネマトゥデイ』の取材では、幼い頃に家族4人で『ネバーエンディング・ストーリー』を観た記憶を話しています。

その場所は、多摩地域にあったドライブインシアターでした。

映画の内容だけでなく、車の中で妹や両親と話しながら過ごした時間、周囲に並ぶ車、大きなスクリーンから受けた印象が記憶に残っているそうです。

家族で同じ映画を観たときの空気まで、思い出として残っていたのでしょう。

やがて井浦さんは、家族に連れて行ってもらう映画館から、自分の興味で作品を探しに行く映画館へと足を運ぶようになっていきました。

井浦新の学生時代|サッカーから体操へ、音楽と映画への関心

井浦新さんは学生時代、スポーツに取り組む一方、音楽やファッション、映画への関心も深めていきました。

特に10代後半になると、自分の好きなカルチャーに夢中になる一方、将来何を仕事にしたいのかという悩みも抱えていたそうです。

9年間続けたサッカーと高校3年間の体操部

井浦さんは子どもの頃から約9年間、サッカーを続けていました。

ところが高校へ進学すると、それまでとは異なるスポーツに挑戦します。

選んだのは体操部でした。

2024年に映画『東京カウボーイ』の上映イベントに登壇した際、サッカーから体操へ転向した理由について、球技とはまったく違うことをしてみたかったと説明しています。

高校の3年間は体操部に所属し、それまで経験してきたサッカーとは違う運動に取り組みました。

小さい頃から外で遊び、サッカーを続け、高校では体操に挑戦する。井浦さんの学生生活には、映画やファッションだけでなく、体を動かす時間もありました。

高校卒業を前に悩んだ将来の進路

高校時代の井浦さんが夢中になっていたのは、音楽やファッションでした。

しかし、高校卒業が近づいた頃、将来の進路について悩むようになります。

周囲の友人たちが目標を決め、大学や専門学校へ進んでいく中で、自分が何をやりたいのか決められなかったのです。

井浦さんは『FILT』のインタビューで、当時の気持ちを次のように話しています。

僕には『やりたいこと』が決められなかったんです

出典:FILT「井浦 新」インタビュー

ファッションも音楽も好きでしたが、それをどのように自分の仕事へつなげていくかは、まだ見えていませんでした。

俳優になるという目標も、この時点では持っていなかったのです。

大学で出会った仲間と音楽・自主映画の活動

高校卒業後、井浦さんは大学へ進学しました。

大学では自分と趣味が合う仲間たちに出会い、音楽や自主映画の制作など、好きなことに取り組むようになります。

その頃、井浦さんはすでにミニシアターへ通い、一般的な大作映画とは少し異なるインディペンデント映画にも親しんでいました。

1994年には、大学の仲間たちと新宿の映画館で、あがた森魚監督の『オートバイ少女』を鑑賞しています。

あがた森魚さんの音楽が好きな仲間たちと映画を観に行き、上映後も作品について語り合いました。

2020年の『シネマトゥデイ』のインタビューでは、その夜に仲間たちと感じた熱気や、映画について答えの出ない話を続けたことを鮮明に覚えていると話しています。

映画を観るだけでなく、観終わった後に仲間と語り合う時間も、井浦さんの楽しみになっていました。

また、19歳の頃にはアルバイトで貯めたお金を使い、イギリスへ一人旅をしています。ロンドンでは、当時興味を持っていたファッションやカルチャーに触れ、自分の気に入った腕時計を購入したことも後年のインタビューで話しています。

大学生活の中で出会った仲間やカルチャーが、少しずつ井浦さんの進路を動かしていきました。

井浦新の若い頃|19歳でスカウトされパリコレモデルに

井浦新さんが芸能界へ入ったきっかけは、19歳のときにモデル事務所からスカウトされたことでした。

当時の井浦さんは俳優を目指していたのではなく、音楽やファッションに夢中になっていた学生でした。

モデルとして活動するようになると「ARATA」の名前で知られ、ファッション誌の表紙を飾り、海外のコレクションにも出演していきます。

ファッションショーがきっかけとなったモデル事務所のスカウト

井浦さんがモデル事務所から声をかけられたのは、19歳のときでした。

インディーズブランドのファッションショーに参加していたところをスカウトされたのです。

当時は自分が好きなファッションを突き詰め、将来は洋服屋をやることにも興味を持っていました。

2024年の双葉社『THE CHANGE』のインタビューでは、人生を変えた出会いについて、次のように振り返っています。

僕の場合、大きな変革は作品というより、人との出会いです。

出典:双葉社 THE CHANGE「井浦新『東京の山奥に住んでいた、ただのカルチャーオタク』が人気モデルに」(2024年4月28日)

モデルの仕事を始めたことは、好きだったファッションの世界を、仕事として経験するきっかけになりました。

そして、そのモデル活動の中で生まれた人とのつながりが、思いがけず映画の世界へも広がっていくことになります。

ARATA名義でファッション誌の表紙を飾る

井浦さんはモデルとして活動する際、ARATA(アラタ)の名前を使用していました。

『MEN’S NON-NO』などのファッション誌に登場し、表紙を飾るモデルとして活動しています。

1990年代のファッションシーンでは、雑誌やファッションショーが若者の流行を発信する重要な場所でした。

井浦さんはそうした世界で、服を着て表現するモデルの仕事を経験していきました。

ただ、本人にとってファッションの仕事は、モデルとして服を着ることだけではありませんでした。

好きな音楽や仲間とのつながり、自分たちで洋服を作ることへの興味も強く、モデルとしての活動と並行して、ものづくりへの関心を深めていきます。

2025年6月公開の『ゆとりくんチャンネル』の対談では、当時のファッション誌やモデル活動、学生時代の部活動、『ピンポン』の撮影秘話など、若い頃の経験が取り上げられています。

パリコレへの出演で広がったモデルの仕事

モデル活動が広がるにつれて、井浦さんは国内のファッション誌だけでなく、海外のコレクションにも出演するようになりました。

1990年代後半にはパリ・コレクション(パリコレ)にも出演しています。

若い頃の井浦さんは、俳優になる以前からファッションの世界で活動実績を積んでいたのです。

パリコレ出演は、モデルとして活動していた時代を代表する経歴の一つです。

その一方で、井浦さんはファッションの世界に関わる中で、モデルとして仕事を受けるだけでなく、自分たちで洋服を作って販売することにも取り組み始めます。

井浦新の芸能界入り後|REVOLVER設立と大学中退の決断

モデルとして活躍していた井浦新さんは、1998年にファッションブランド「REVOLVER(リボルバー)」を立ち上げました。

この時期、井浦さんにとって中心にあったのは、俳優の仕事ではなく、自分たちで洋服を作ることでした。

1998年に仲間とファッションブランドを立ち上げる

REVOLVERは、井浦さんがモデル仲間のKIRIさんとともに1998年に設立したファッションブランドです。

モデルとしてさまざまな服を着てきた井浦さんは、仲間と協力し、自分たちが作りたい洋服を形にするようになります。

REVOLVERは東京・原宿のストリートファッションとも関わりの深いブランドとして展開されました。

後年、G-SHOCK公式サイトのインタビューでも、井浦さん自身がREVOLVERの開始を1998年だったと振り返っています。

ブランド活動は、単に名前を貸す仕事ではありません。

どんな服を作るかを考え、形にして、人に届ける。井浦さんはモデルとして活動する一方、自ら作り手としてもファッションに関わっていきました。

洋服作りに専念するため大学を離れる

洋服作りへの思いが強くなった井浦さんは、大学を中退する決断をしています。

高校卒業前には自分のやりたいことを決められずにいた井浦さんでしたが、大学で仲間と出会い、モデルの仕事を経験し、自分たちのブランドを始める中で、取り組みたいことが明確になっていったのです。

『FILT』のインタビューでは、デザインに専念するために大学を辞めたと説明しています。

周囲の友人たちが将来の目標を持つ中で進路に迷っていた青年が、自分からやりたいと思える仕事を見つけ、その道へ進むことを選びました。

なお、ファッション業界での活動は、後に俳優になったことで終わったわけではありません。

井浦さんは2007年に自身のブランド「ELNEST CREATIVE ACTIVITY」を独立したブランドとして展開し、俳優業と並行してものづくりを続けていきます。

しかし、REVOLVERを始めた頃の井浦さんのもとへ、ファッションとは別の世界から思いがけない仕事の話が舞い込んできます。

それが映画への出演でした。

井浦新の俳優デビュー|是枝裕和監督との出会い

井浦新さんが俳優として歩み始めるきっかけになったのは、是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』への出演でした。

井浦さんは当時、俳優としての経験がなく、映画に出演することも想定していませんでした。

それでもオーディションに参加し、主人公に選ばれます。

モデルとして活動中に届いた映画のオーディション

井浦さんと是枝裕和監督をつないだのは、モデル時代の写真でした。

井浦さんの友人である写真家が撮影した写真を是枝監督が目にし、本人に会ってみたいと考えたことが、オーディションへつながったといいます。

是枝監督が準備していた映画『ワンダフルライフ』は、亡くなった人たちが人生で最も大切な思い出を一つ選ぶという物語です。

そこで行われたオーディションにも、作品の内容に深く関わる課題が用意されていました。

応募者が自分の人生で大切にしている思い出について、作文を書くというものです。

俳優の経験がなかった井浦さんにとって、映画のオーディションも作文の課題も初めてのことでした。

ビートルズとの思い出を綴った作文

作文の題材に選んだのは、小学6年生の頃に体験した音楽との出会いでした。

家族旅行の途中、車の中でビートルズの音楽を聴いたときのことです。

車窓から見える景色と音楽が重なり、強く心を動かされた記憶を、井浦さんは作文にしました。

幼い頃、家族旅行で何げなく聴いた音楽が、年月を経て映画のオーディションで語る大切な思い出になったのです。

面接では、是枝監督を前にして、井浦さんはさまざまな話をしたといいます。

是枝監督が注目したのは、井浦さんの芝居の経験ではありませんでした。

相手の話を聞き、自分の言葉で問いかけられること。その自然な会話の姿勢が、主人公への起用につながったと、監督は後に語っています。

『ワンダフルライフ』で演技未経験から主演へ

井浦さんは『ワンダフルライフ』の主人公、望月隆を演じることになりました。

作品は1998年に制作され、1999年に劇場公開されています。

演技未経験だった井浦さんにとって、この作品が俳優デビュー作であり、映画初主演作になりました。

しかし、出演が決まったときは、嬉しさだけではなく戸惑いもあったようです。

是枝監督は、俳優経験のない井浦さんに、無理に演技を作り込ませるのではなく、その人自身の自然な姿を大切にする接し方をしていました。

撮影が始まるまでの数か月間、是枝監督と毎週のように食事をし、最近あった出来事など、たわいのない話を重ねていたそうです。

井浦さんは、そうした時間の中で少しずつ撮影へ向かう気持ちを整えていきました。

映画では、亡くなった人々の話を聞き、それぞれが選んだ思い出に向き合う青年を演じています。

初めての現場で井浦さんが強く感じたのは、俳優という仕事そのものへの憧れよりも、映画を作る現場に参加する喜びでした。

完成した映画が上映されたのは、学生時代から通っていた渋谷の映画館、シネマライズです。

以前は観客として座っていた映画館のスクリーンに、自分の姿が映し出されました。

後年、井浦さんはその体験を不思議なものだったと振り返っています。

映画が好きで映画館に通っていた青年が、思いがけず、その映画館で上映される作品の主演俳優になったのです。

井浦新の新人時代|『ピンポン』出演後に俳優業から距離を置いた理由

『ワンダフルライフ』で俳優デビューした井浦新さんは、その後も映画への出演を重ねていきます。

しかし、映画に出演するようになっても、すぐに俳優を生涯の仕事にしようと決めたわけではありません。

2002年の『ピンポン』に出演した後には、一度俳優業から離れています。

『DISTANCE』から『ピンポン』へと続いた出演

『ワンダフルライフ』の後、井浦さんは青山真治監督の『シェイディー・グローヴ』(1999年)に出演しました。

2001年には再び是枝裕和監督と組み、映画『DISTANCE』に出演しています。

そして2002年、松本大洋さんの漫画を実写映画化した『ピンポン』に出演しました。

井浦さんが演じたのは、眼鏡をかけた卓球選手のスマイル(月本誠)です。

窪塚洋介さんが演じるペコと対照的な存在として、作品の重要な役割を担いました。

『ピンポン』は井浦さんにとって、それまで経験してきた映画とは異なる規模の宣伝活動なども伴う作品でした。

映画に出るだけでなく、作品を広めるために人前へ出る仕事も増えていきます。

俳優としての自信を持てずに抱えていた葛藤

井浦さんは、モデルとして働きながら、思いがけず映画の世界に入った人でした。

『ピンポン』出演後は映画の仕事の広がりを感じる一方、俳優として活動することに迷いも生じていました。

作品の撮影自体は楽しくても、宣伝活動など、撮影現場の外で求められる仕事には戸惑いがあったそうです。

2018年6月19日の『テレ朝POST』のインタビューでは、休業した時期を次のように振り返っています。

『ピンポン』の後、3年ぐらい。ちょっと疲れちゃってやめてました。

出典:テレ朝POST「俳優・井浦新、映画『ピンポン』のヒット後に休業した理由」(2018年6月19日)

撮影現場で知り合った仲間やスタッフとの思い出を大切にしていた一方、俳優としての自分の立ち位置が分からなくなっていた時期でもありました。

井浦さんは同じ取材で、当時は俳優の仕事で勝負していく覚悟がなかったことも明かしています。

作品を通して出会った窪塚洋介さんや大倉孝二さんら、俳優の道を歩んできた同世代の人たちの姿も見ていました。

自分が同じように俳優の仕事を続けてよいのか、迷いを感じていたのです。

映画から離れて向き合った自分の仕事

『ピンポン』後、井浦さんは約3年間、俳優としての仕事を休むことを選びました。

その間、届いた出演の話も断ってもらっていたと語っています。

俳優の仕事から離れた後も、井浦さんにはファッションという別の活動の場がありました。

モデルとして活動してきた経験があり、自分たちで立ち上げたブランドにも関わっていました。

一度映画から離れたことは、俳優としての活動が終わったことを意味しませんでした。

その後、映画への出演を再開した井浦さんは、再び自分の進む道を変える人物と出会います。

映画監督の若松孝二さんです。

井浦新の転機|若松孝二監督との出会いが変えた俳優人生

井浦新さんの俳優人生にとって、大きな転機となった人物の一人が映画監督の若松孝二さんです。

是枝裕和監督との出会いによって映画の世界に入った井浦さんは、若松監督との仕事を通して、俳優としての進路を改めて考えるようになりました。

その最初のきっかけは、井浦さん自身が若松監督の映画に参加したいと考えたことでした。

自ら参加を希望した『実録・連合赤軍』

井浦さんは以前から、1960年代から1970年代の文化や社会運動に関心を持っていました。

そんな中、若松孝二監督が連合赤軍を題材にした映画を制作することを知ります。

興味を持った井浦さんは、若松プロダクションへ自分から電話をかけました。

俳優として出演することにこだわらず、スタッフでも、現場の手伝いでもよいので参加したいと申し出たのです。

映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では、元連合赤軍メンバーの坂口弘を演じました。

若松監督の撮影現場は、それまで井浦さんが経験してきた映画の現場とは違っていました。

出演者もスタッフも同じ場所で生活をともにしながら撮影することがあり、監督から厳しい言葉が飛ぶこともありました。

井浦さんは若松組で、それまで自分が培ってきたやり方が通用しない経験をしています。

作品の撮影を通して、映画作りの難しさや現場に参加することの意味を、改めて実感するようになりました。

若松監督は、映画を作るだけでなく、完成した映画を観客に届けることにも強い思いを持っていました。

井浦さんも若松監督とともに映画館を訪れ、観客の前に立つようになります。

撮影現場から映画館まで、自分の参加した作品に関わり続ける経験を重ねていったのです。

さらに若松監督は、井浦さんが仕事を選び、自分の活動範囲を狭めていることにも厳しい言葉をかけました。

井浦さんはそれまで、自分が関心を持つ映画監督の作品を中心に出演していました。しかし、若松監督はもっと幅広い仕事に挑戦するよう求めたのです。

自分ができると思う仕事だけを選ぶのではなく、求められた場所へ出ていくこと。

井浦さんにとって、俳優としての仕事の幅を広げるきっかけになりました。

『蛇にピアス』のシバ役で見せた新しい一面

2008年、井浦さんは映画『蛇にピアス』に出演しました。

金原ひとみさんの小説を蜷川幸雄監督が映画化した作品で、井浦さんは彫り師のシバを演じています。

シバは、吉高由里子さん演じる主人公ルイや、高良健吾さん演じるアマと深く関わる人物です。

身体にピアスや刺青を入れた人物を演じた井浦さんは、それまでの『ワンダフルライフ』や『ピンポン』とは違う姿をスクリーンに見せました。

蜷川監督は当時の取材で、井浦さんが最初から頭を剃って現れたことに触れています。

役作りに向けた姿勢も、監督が井浦さんを起用する決め手の一つになっていたようです。

なお、『蛇にピアス』は若松孝二監督の作品ではなく、蜷川幸雄監督の映画です。

若松組での経験を重ねる一方、井浦さんは異なる監督の作品にも出演し、演じる役の幅を広げていきました。

2023年11月には、井浦さんが吉高由里子さん、高良健吾さんとの3ショットを自身のInstagramに投稿しています。『蛇にピアス』での共演から続く関係を振り返り、互いへの感謝や敬意を綴りました。

三島由紀夫役への挑戦と2012年の改名

2012年には、若松孝二監督の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』が公開されました。

井浦さんが演じたのは、作家の三島由紀夫です。

若松監督のもとで実在する人物を演じることになった井浦さんは、役柄と深く向き合いながら撮影に参加しました。

そして、この作品への出演をきっかけに、芸名を変更する決断をします。

2012年、芸名を「ARATA」から本名の「井浦新」へ変更しました。

改名の背景にあったのは、三島由紀夫を演じた作品のエンドロールに、自分の名前がアルファベットで表示されることへの違和感でした。

井浦さんは2012年の『キネプレ』による若松監督との対談で、撮影後にエンドロールを想像したとき、「ARATA」という表記が美しくないと感じたことを語っています。

それまでモデル時代から使い続けてきた名前を、映画への出演をきっかけに変えたのです。

俳優として活動してきた井浦さんにとって、若松監督との出会いは、仕事の向き合い方だけでなく、活動名にまで影響を与える出来事になりました。

その後、井浦さんは若松監督を題材にした映画『止められるか、俺たちを』(2018年)で、監督本人を演じています。

2024年には続編『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』でも同じ役を演じ、若松監督と過ごした時間について改めて語りました。

かつて自ら若松プロへ電話をかけ、現場に参加させてほしいと頼んだ青年が、後にその監督自身を演じることになったのです。

井浦新が歩んだ俳優の道|映画での評価から『アンナチュラル』へ

若松孝二監督との仕事を経験した井浦新さんは、映画だけでなく、テレビドラマにも活動の場を広げていきました。

俳優を目指して芸能界に入ったわけではなかった井浦さんですが、映画監督や共演者との出会いを通して、さまざまな役に挑戦するようになります。

『かぞくのくに』などで受けた俳優としての評価

2012年には、ヤン・ヨンヒ監督の映画『かぞくのくに』に出演しました。

この作品では、北朝鮮から一時帰国する兄を演じています。

映画は家族の再会を描きながら、国や政治の事情によって自由に生きることが難しい人々の姿を映し出しました。

井浦さんは同作などでの演技が評価され、映画賞でも名前を挙げられるようになります。

また、2012年にはNHK大河ドラマ『平清盛』で崇徳天皇を演じました。

もともと歴史に関心のある家庭で育った井浦さんが、歴史上の人物を演じる仕事にも取り組むようになったのです。

翌2013年からは、NHK Eテレ『日曜美術館』のキャスターも務めました。

父親と遺跡を巡り、家で縄文土器を目にしていた子ども時代を経て、井浦さんは大人になってからも美術や伝統文化への関心を持ち続けていました。

俳優の仕事とは異なる番組でも、自分が関心を持ってきた文化に触れています。

『アンナチュラル』中堂系役で広がった認知

2018年には、TBSのドラマ『アンナチュラル』に出演しました。

井浦さんが演じたのは、不自然死究明研究所(UDIラボ)に所属する法医解剖医の中堂系(なかどう・けい)です。

中堂は、石原さとみさん演じる三澄ミコトらとともに、不自然な死の背景にある事実を追っていく人物です。

映画を中心に活動してきた井浦さんにとって、このドラマは、それまでとは違う視聴者層に自分の演技を知ってもらう機会になりました。

2024年9月15日の映画.comのインタビューでは、『アンナチュラル』によって起きた変化を振り返っています。

それまで井浦さんのSNSのフォロワー数は約9万人で推移していましたが、ドラマの放送が終わる頃には20万人を超えていたそうです。

さらに、ドラマをきっかけに井浦さんの演技へ興味を持ち、映画館へ足を運ぶようになった人もいたといいます。

映画で積み重ねてきた俳優としての活動が、テレビドラマを通して新しい観客とつながりました。

その変化は、映画館を大切にしてきた井浦さんにとっても嬉しい出来事だったようです。

『ワンダフルライフ』で初めて映画の現場に参加したとき、井浦さんは俳優になることを人生の目標にしていませんでした。

『ピンポン』の後には一度仕事を離れ、自分が俳優として活動を続けることに迷いもありました。

それでも、是枝裕和監督との出会いによって映画の世界へ入り、若松孝二監督との仕事を通して、俳優として新しい場所へ踏み出すようになります。

2024年の映画.comのインタビューで井浦さんは、かつて俳優や芝居に興味を持っていなかった自分が、人間を表現することに喜びを感じ、仕事を続けてきたと語っています。

そして、長く続けてきた俳優という仕事について、自分にとって天職だと言えるようになったとも話しました。

日野市の自然の中で育ち、音楽やファッションを愛し、19歳でモデルの世界へ入った井浦新さん。

学生時代には想像していなかった俳優という仕事が、人との出会いを重ねる中で、井浦さん自身が選び続ける道になっていったのです。