PROFILE
人物プロフィール
映画『PERFECT DAYS』で2023年のカンヌ国際映画祭男優賞を受賞するなど、日本映画を代表する俳優の一人となった役所広司さん。
ところが、若い頃は東京・千代田区役所で働く公務員で、最初から俳優を目指して上京したわけではありませんでした。
長崎県諫早市で育った少年時代には映画館が身近にありましたが、高校卒業後に選んだのは芸能界ではなく区役所への就職でした。
その生活が変わり始めたのは、20歳のころ、職場の同僚から偶然譲ってもらった一枚の舞台チケットがきっかけです。
今回は、そんな役所広司さんの生い立ちや家族、学生時代、若い頃の公務員生活、仲代達矢さんとの出会い、無名塾から俳優として活動を始めるまでをご紹介します。
役所広司の生い立ち|長崎県諫早市で育った子ども時代
役所広司さんは1956年1月1日、長崎県諫早市に生まれました。
本名は橋本広司さんで、「役所」という名字を使うようになるのは、上京して公務員として働いた後のことです。
子どものころの諫早には映画館が複数あり、家の商売も映画館と接点があったため、スクリーンの世界は日常のすぐ近くにありました。
映画館が身近にあった諫早での少年時代
役所さんが後年振り返ったところでは、当時の諫早には4軒ほどの映画館があり、土曜や日曜になると怪獣映画やクレージーキャッツの作品を観に出かけていました。
実家では飲料を製造・販売しており、売店だけでなく映画館へも商品を配達していました。
配達へ行くと映画館の人から「ちょっと観ていけよ」と声をかけてもらうことがあり、夢中になって帰りが遅くなり、家で叱られたこともあったそうです。
とにかく映画館がものすごく身近にありましたね
出典:映画.com「『CHANEL and Cinema TOKYO LIGHTS』役所広司が若手クリエイターたちに語った、俳優として大切なこと」(2024年12月30日)
映画館は、俳優という職業を考えるよりずっと前から身近な遊び場の一つだったようです。
中学生のころには、8ミリカメラを持っていた友人が海水浴の様子を撮影し、映写会で初めて「動いている自分」を見たという思い出もあります。
2020年には、自身の幼少期の映画館体験をインタビュー映像でも振り返っています。
大村工業高校時代と東京への憧れ
役所さんは諫早市立諫早中学校を経て、長崎県大村市にある長崎県立大村工業高校へ進みました。
思春期になると、怪獣映画だけでなくフランス映画などにも触れるようになり、映画を通じて諫早の外にある世界を見ていました。
とくにクレージーキャッツの「無責任」シリーズに映る大都会の風景は、東京への憧れを抱くきっかけの一つになったと本人が振り返っています。
ただし、このころから映画俳優を志していたわけではありません。
高校卒業後に選んだ進路は大学でも俳優養成所でもなく、東京で公務員として働くことでした。
役所広司の家族|5人兄弟の末っ子、家業を手伝った幼少期
役所さんが育ったのは、父親と母親、そして兄たちがいるにぎやかな家庭でした。
男ばかり5人兄弟の末っ子で、4人の兄たちに囲まれて育っています。
実家では飲料を扱う商売をしていたため、家族の日常と仕事はかなり近いところにありました。
家族で営んだ飲料水商売と父親の思い出
父親は家業に力を注ぎ、子どもたちも含めて家族全員で仕事を手伝っていました。
年末には家族で餅つきをすることもあり、役所さんは、そうした行事のときの父親が楽しそうだったことを後年のインタビューで思い出しています。
一方、父親本人について尋ねられた際には、まず「無口」という言葉を挙げていました。
うちのおやじは、かなり無口な男でした。
出典:シネマトゥデイ「『ガマの油』役所広司&瑛太 単独インタビュー」(2009年6月1日)
5人兄弟の中でも末っ子で、父親が比較的年を取ってから生まれた子どもだったため、本人には父からかわいがられた記憶が残っています。
商売がうまくいっていた時期だけでなく、状況が厳しくなった時期も、同じ家で仕事をしていたからこそ父親や兄たちの様子を身近に感じていたと話しています。
母親については、俳優になって故郷を離れた後も、生前は年に一度ほど帰省していたことを明かしています。
母親を思い出すことが、この映画にとって一番大事だった
出典:映画.com「役所広司『わが母の記』撮影でめぐらせた母との思い出」(2012年4月16日)
4人の兄たちと映画『生きる』の思い出
4人の兄たちとの記憶にも、映画が登場します。
ある兄が黒澤明監督の映画『生きる』を観て帰ってきた際、まだ作品を観ていなかった弟の広司少年へ、最初から最後まで物語を話して聞かせたことがありました。
兄は劇中の「ゴンドラの唄」まで歌いながら、映画の内容を細かく再現してくれたそうです。
役所さんが後に東京の小さな映画館で実際に『生きる』を観ると、スクリーンには兄から聞いていた通りの物語が展開されていました。
そこで思い出したのは作品の筋だけでなく、兄がそれほど真剣に映画を観ていたことでした。
脚本家の市川森一さんは諫早出身で、役所さんの兄と同級生でした。子どものころには役所家へ遊びに来ることもあり、後に役所さんは市川さん脚本のドラマ『親戚たち』で主演しています。
役所広司の若い頃|高校卒業後は千代田区役所の公務員
高校を卒業した役所さんは長崎を離れ、東京へ向かいました。
そこで始めたのが、俳優とはまったく異なる東京都千代田区役所での公務員生活です。
区役所では土木関係の部署に約4年間勤務し、その途中まで演劇を仕事にするとは考えていませんでした。
高校卒業後に上京して千代田区役所へ
役所さんが高校卒業後に向かったのは、芸能事務所や劇団ではなく千代田区役所でした。
KINENOTEの略歴では、勤務先は土木工事課とされています。
本名の橋本広司として働き、道路などに関わる土木部門の仕事をする生活が続きました。
10代のころから映画は好きでしたが、この段階で映画を見る側と演じる側はまだ別の世界でした。
若い頃の流れ:長崎県立大村工業高校を卒業 → 上京 → 千代田区役所へ就職 → 約4年間勤務 → 舞台『どん底』を観劇 → 無名塾を受験。
俳優とは無縁だった約4年間の公務員生活
区役所勤めを始めてからしばらくは、公務員として毎日職場へ通っていました。
後の俳優人生に直接関わる人物は、芸能関係者ではなく職場の中にいました。
演劇が好きだった同僚です。
その同僚から、都合がつかなくなった舞台のチケットを譲ってもらう機会が訪れます。
何気なく受け取ったその一枚が、仲代達矢さんの出演する舞台『どん底』のチケットでした。
役所広司が俳優になったきっかけ|仲代達矢と無名塾
役所さんが舞台『どん底』を観たのは、上京して約2年が過ぎた20歳のころでした。
それまで演劇経験はありませんでしたが、舞台上で演じる俳優たちを見たことで、仕事としての「俳優」を初めて自分に近いものとして考えるようになります。
とくに強く印象に残ったのが、舞台上の仲代達矢さんでした。
同僚のチケットで観た舞台『どん底』
『どん底』で仲代さんが演じていたのはサーチンという役で、役所さんは、その人物が語り始めると劇場の空気まで変わったように感じたと振り返っています。
演劇って、こんなに人の心を動かすものなのか
出典:文春オンライン「【追悼 仲代達矢】『叱ってくれてありがとう』役所広司が語った衝撃的な出会い、無名塾入塾、濃密な師弟関係」(2025年12月12日)
一度観ただけで、すぐ翌日に俳優へ転職したわけではありません。
その後は舞台を観る機会が増え、ステージに立つ同年代の俳優たちが生き生きと演じている姿にも惹かれていきました。
区役所の同僚からチケットをもらった日からおよそ2年後、スポーツ新聞で仲代達矢さんが主宰する「無名塾」の塾生募集を見つけます。
約800人から4人、1978年に無名塾へ
役所さんは演技経験のない状態で無名塾の入塾審査を受けました。
応募者は約800人で、合格者はわずか4人でした。
1978年、約200倍の選考を通過して無名塾へ入塾します。
本人は、不合格なら故郷の長崎へ帰るつもりで審査に臨んでいました。
ところが、合格後のスタートから順調だったわけではありません。
入塾式の当日、事前に場所まで確認していたにもかかわらず寝坊し、さらに移動で道に迷って約2時間遅刻してしまいます。
仲代さんから厳しく叱られ、その後も時間や挨拶など、演技以前の部分を繰り返し教えられました。
演技の稽古も、最初から自由に役を作るようなものではありませんでした。
役所さん自身の回想では、「三歩歩いてセリフを言う」「三歩歩いて息を吸ってからセリフを言う」といった細かな型から教えられ、そこへ自分で感情を入れて芝居にしていきました。
無名塾は仲代達矢さんと宮崎恭子さんが1975年に始めた俳優の私塾です。役所さんが入った1978年には、無名塾として舞台公演も本格的に始まっていました。
本名・橋本広司から「役所広司」へ
無名塾へ入った時点では、まだ名前は本名の橋本広司でした。
その後、仲代さんから芸名をつけてもらうことになり、そこで生まれたのが「役所広司」です。
「役所」は、もちろん千代田区役所で働いていた経歴と関係しています。
さらに「役どころが広くなるように」という願いも込められていたと、複数のプロフィールや仲代さん自身の証言で伝えられています。
候補はこれだけではなく、故郷の名前を使った「諫早広司」という案もありました。
この名前をつけたらもう一生諫早には帰られないからこれだけは勘弁してください。
出典:NCC長崎文化放送「カンヌ国際映画祭 主演男優賞の諌早市出身 俳優・役所広司さんに諫早市民栄誉賞授与」(2023年12月4日)
公務員として過ごした若い頃の経歴は、「役所広司」という芸名そのものに残ることになりました。
俳優・役所広司の始まり|初舞台から『徳川家康』『宮本武蔵』へ
無名塾への合格は、俳優としての準備が始まった出来事です。
実際に役を演じる仕事が始まるのは、入塾した1978年の舞台からでした。
そこから数年間、舞台やテレビで経験を重ねた後、時代劇で大きな役を任されるようになります。
1978年の初舞台と1980年のテレビデビュー
最初の舞台は1978年の『オイディプス王』で、コロスの一員として出演しました。
公務員を辞めて無名塾へ入った年に、舞台上で実際に演じる仕事が始まったことになります。
最初から主役を任されたわけではなく、無名塾の公演に参加しながら、仲代さんや先輩俳優の芝居を間近で見て学ぶ日々が続きました。
舞台では俳優として出演するだけでなく、大道具などの裏方仕事にも携わり、巡演にも参加しています。
映像の仕事にも進み、1980年にはNHK連続テレビ小説『なっちゃんの写真館』に出演しました。
KINENOTEでは、この作品を役所さんのテレビデビューとして紹介しています。
芸能界入りと演技開始は分けて考えると分かりやすくなります。
1978年:無名塾へ入塾し俳優としての訓練を開始
1978年:『オイディプス王』で初舞台
1980年:『なっちゃんの写真館』などテレビの仕事へ進出
『徳川家康』の織田信長から『宮本武蔵』主演へ
テレビでの出演を重ねる中、役所さんの名前が広く知られるきっかけの一つとなったのが1983年のNHK大河ドラマ『徳川家康』でした。
演じたのは織田信長です。
無名塾へ入ってから約5年で、大河ドラマの織田信長役を任されるところまで進みました。
そして翌1984年には、NHK新大型時代劇『宮本武蔵』で主人公の宮本武蔵を演じます。
『宮本武蔵』は1984年から1985年にかけて放送され、役所さんにとってテレビで大きな主演を担った初期キャリアの重要作となりました。
長崎の高校を卒業して東京の区役所で働いていた橋本広司さんは、数年後には大河ドラマで織田信長を演じ、その翌年には宮本武蔵として主演を務めていました。
そして「役所広司」という名前には、俳優になる前に過ごした公務員時代の記憶が、そのまま残っています。
















