鹿賀丈史の生い立ち|金沢の家族と若い頃、劇団四季への道

鹿賀丈史の肖像イラストと、生い立ち・金沢の家族・若い頃から劇団四季への道を示す見出し

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
かがたけし
カテゴリー
男性俳優
出身地
石川県
生年月日
1950年10月12日
芸能活動開始
1972年
俳優デビュー
1973年
デビューのきっかけ
オーディション

ミュージカル『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャン役や、テレビ番組『料理の鉄人』の主宰者役で知られる俳優の鹿賀丈史さん。

低く響く声と堂々とした立ち姿が印象的ですが、若い頃は俳優ではなく、クラシックの声楽家になることを目指していました。

高校卒業後には音楽大学への進学を目指して上京し、浪人生活を送っていた時期もあります。

ところが、新宿の喫茶店でアルバイトをしていたとき、友人に誘われて受けた劇団四季のオーディションが人生を変えました。

その後は劇団四季で主演を務め、映画で松田優作さんと共演し、再びミュージカルの大舞台へと活動を広げていきます。

今回は、そんな鹿賀丈史さんの生い立ちや家族との思い出、学生時代、劇団四季へ入ったきっかけ、若い頃の俳優活動と大きな転機をご紹介します。

鹿賀丈史の生い立ち|金沢で育ち少年合唱団へ

鹿賀丈史さんは、1950年10月12日に石川県金沢市で生まれました。

金沢で過ごした子ども時代には、後の仕事につながる音楽との出会いがありました。

その始まりは、小学生のときに参加した少年合唱団でした。

小学4年生で金沢少年合唱団に入団

鹿賀さんが本格的に歌を習い始めたのは、小学4年生で金沢少年合唱団に入団したことがきっかけでした。

金沢少年合唱団には、市内の小学校から推薦された子どもたちが集まっていました。

鹿賀さんも小学校から推薦され、合唱団の活動に参加するようになったそうです。

2018年発行の機関誌『ヘルシーライフ』では、指導者だった石本一雄さんのもとで合唱の練習に励んだことが紹介されています。

石本さんは後に金沢大学の名誉教授となった人物で、子どもたちの音楽教育にも携わっていました。

当時の鹿賀さんは、低音が特徴的な後年とは違い、少年合唱団でソプラノを歌っていました。

2025年に『婦人公論』のインタビューで振り返ったところによると、中学1年生頃まで少年合唱団に所属していたといいます。

成長とともに声が出にくくなり、やがて変声期を迎えました。

高校の合唱部に入る頃には、歌う声域がバリトンへ変わっていたそうです。

少年時代にソプラノで歌い、成長してからは低い声を生かして歌うようになったという経歴は、鹿賀さんの声を知っている人にとっても興味深い話ではないでしょうか。

合唱団の先生との出会いが歌の原点に

金沢少年合唱団で過ごした日々について、鹿賀さんは2025年7月31日放送の『徹子の部屋』でも振り返っています。

合唱団には各小学校から2〜3人ほどの生徒が集まり、みんなで仲良く楽しく歌うことを大切にしていたそうです。

厳しく競争することよりも、子どもたちが音楽を楽しむことを重視した指導だったといいます。

その先生との出会いを、鹿賀さんは大人になってからも大切にしていました。

元をたどれば金沢少年合唱団だったのかなという思いはあります

出典:テレビ朝日『徹子の部屋』(2025年7月31日放送)

1973年に舞台で主演デビューを果たし、その後も長く俳優として活動してきた鹿賀さんが、子どもの頃の合唱団をこうして振り返っているのは印象的です。

歌を学ぶ時間だけでなく、先生や同じ年代の子どもたちと音楽を楽しんだ経験も、本人にとって忘れられない思い出になっていました。

音楽を続けていくうえでは、家庭からの支えもありました。

鹿賀丈史の家族|両親と兄、祖母との思い出

鹿賀丈史さんの生い立ちを知るうえで、家族の存在も欠かせません。

2025年の『徹子の部屋』では、父親や母親、兄、祖母との思い出を語っています。

特に印象的なのは、祖母が作ってくれた洋服や、両親が買ってくれたピアノの話です。

兄と過ごした子ども時代と祖母が仕立てた洋服

鹿賀さんには兄がおり、男の子2人の兄弟として育ちました。

幼い頃の暮らしには、洋服を作る仕事をしていた祖母の思い出が残っています。

祖母はもともと呉服屋を営んでいましたが、時代の変化に合わせて洋服の仕立てを手がけるようになったそうです。

そして、鹿賀さんと兄のために、オーダーメードの洋服を仕立ててくれました。

子どもたちの体に合わせて作られた洋服を、兄弟で着ていたのです。

洋服を買ってもらったという話ではなく、仕立ての仕事をしていた祖母が自分たちの服を作ってくれたというところに、鹿賀家ならではの思い出があります。

祖母が呉服から洋服の仕立てへ仕事を変えていったという話からは、当時の暮らしや服装の変化もうかがえます。

鹿賀さんは70代になってからも、この子ども時代の洋服についてテレビで話していました。

家族との思い出
祖母は呉服屋から洋服の仕立て屋へ仕事を広げ、鹿賀さんと兄のためにオーダーメードの服を作っていました。

祖母の仕事については具体的なエピソードが残っていますが、父親や母親の職業とは区別する必要があります。

家族の仕事や生活ぶりを必要以上に想像しなくても、祖母が兄弟の服を作っていたという出来事だけで、当時の家庭の様子が伝わってきます。

ピアノを買ってくれた両親と父親が残した写真

鹿賀さんは『徹子の部屋』で、両親についても穏やかな口調で振り返っていました。

子どもの頃に厳しく怒られた記憶はほとんどなく、優しい両親だったそうです。

その人柄が伝わるのが、高校時代にピアノを買ってもらった話です。

合唱部に所属していた鹿賀さんは、歌の勉強を続けるためにピアノが欲しいと両親に頼みました。

すると両親は、鹿賀さんの希望を受け止め、ピアノを買ってくれたそうです。

本人はその思い出を語った後、両親についてこう話していました。

いい両親でした

出典:テレビ朝日『徹子の部屋』(2025年7月31日放送)

父親には、写真撮影やオートバイが好きだったという一面もあります。

父親が撮影した家族のモノクロ写真も残っており、番組ではその写真にまつわる思い出が紹介されました。

また、珍しいオートバイについて、日本に数台しかないものだと父親が話していたことも覚えているそうです。

写真やオートバイを楽しむ父親、子どものために洋服を仕立てる祖母、音楽の勉強を支えてくれた両親。

鹿賀さんが語った家族の思い出には、それぞれの人物の姿が具体的な出来事とともに残っています。

高校を卒業して上京するときにも、家族の支えは続いていました。

鹿賀丈史の高校・学生時代|金沢二水高校で声楽家を志す

鹿賀丈史さんの出身高校は、石川県立金沢二水高等学校です。

高校でも歌を続け、卒業後は音楽大学への進学を目指しました。

この頃には、幼い頃に始めた合唱が将来の進路を考えるほど大きな存在になっていました。

高校の合唱部で歌い、ピアノも習い始める

金沢二水高校に進学した鹿賀さんは、合唱部に所属しました。

同校の合唱部は、全国規模の合唱コンクールで優勝経験のある学校として知られています。

鹿賀さんも合唱部で活動する一方、クラシックの声楽を本格的に学ぶようになりました。

個人レッスンも受けながら、将来は声楽家になることを目指していたのです。

高校時代の体の成長についても、2025年の『婦人公論』で興味深い話をしています。

高校入学時には身長が160センチほどでしたが、卒業する頃には178センチほどに伸びていたそうです。

少年合唱団でソプラノを歌っていた声も、高校ではバリトンに変わっていました。

高校でピアノを習い始めたのも、この時期です。

歌うことに加えて、楽譜や伴奏にも向き合うようになりました。

2025年に『婦人公論』へ掲載されたインタビューには、高校時代の鹿賀さんが写った写真も紹介されています。

声楽を志していた高校生の姿が、本人提供の写真として残されているのです。

音楽大学を目指して上京し、新宿の喫茶店でアルバイト

高校を卒業すると、鹿賀さんは音楽大学への進学を目指して東京へ向かいました。

当初の進路はあくまで音楽であり、俳優として芸能界に入ることが目的だったわけではありません。

上京後は受験に備えて浪人生活を送りました。

家族はこのときも音楽の勉強を支えてくれました。

高校時代から使っていたピアノを、東京の下宿先まで送ってもらったそうです。

金沢から東京へ生活の場所が変わっても、声楽を学ぶための環境を整えてもらっていました。

一方、浪人生活を送るうちに、将来の仕事について考えるようになったといいます。

音楽大学に入学し、卒業した後、自分はどのような仕事をするのだろうか。

そうした疑問もあった中で、生活のために新宿の喫茶店でアルバイトをしていました。

そして、そのアルバイト先で知り合った友人が、思いがけない話を持ちかけてきます。

劇団四季の研究所で行われるオーディションを、一緒に受けてみないかという誘いでした。

鹿賀丈史の芸能界入り|友人の誘いで劇団四季へ

鹿賀丈史さんが芸能界へ入るきっかけになったのは、音大浪人中に受けた劇団四季のオーディションです。

もともと舞台俳優になるために上京したわけではありませんでした。

しかし、学生時代から続けてきた歌の経験と、人前で表現したいという気持ちが、この試験で生かされることになります。

音大浪人中にオーディションへ、ギターの弾き語りで挑戦

アルバイト先の友人に誘われた鹿賀さんは、劇団四季の研究所の入団試験を受けることにしました。

2018年の『ヘルシーライフ』では、そのきっかけについて本人が次のように話しています。

僕が俳優の道に進んだのは、ある偶然がきっかけです。

出典:『ヘルシーライフ』No.130「歩みを止めることなく、新しいことに挑戦していきたい」(2018年1月発行)

2025年の『婦人公論』では、試験当日の様子をさらに詳しく振り返っています。

最初の課題は、劇団四季の舞台を観た感想文でした。

鹿賀さんが観たのは、日生劇場で上演されていた『アンフィトリオン38』という作品です。

喜劇として紹介されていたものの、観客があまり笑っていなかったため、鹿賀さんは作品がよく分からず、面白いと思えなかったという率直な感想を書いたそうです。

続いて行われたのが、歌の実技試験でした。

通常はピアノの伴奏に合わせて歌うところ、鹿賀さんはギターを持って試験会場へ入りました。

そして、試験官にこう尋ねたといいます。

弾き語りしてもよろしいですか?

出典:『婦人公論』2025年8月号「名優たちの転機・芝居で歌う〈前編〉」(Web公開:2025年9月8日)

許可を得た鹿賀さんは、ギターを弾きながら『シバの女王』を歌いました。

後から聞いた話では、劇団四季の看板女優だった藤野節子さんが、鹿賀さんの声や個性を評価していたそうです。

そして試験の結果は、誘ってくれた友人が不合格となり、鹿賀さんだけが合格するというものでした。

音楽大学を目指していた青年が、友人と一緒に受けた試験によって劇団の研究生になる道を選ぶことになったのです。

1972年に劇団四季へ入団し「鹿賀丈史」の芸名に

鹿賀さんは1972年に劇団四季へ入団しました。

音楽大学への進学を目指していた生活を終え、演劇の世界で新しい生活を始めます。

劇団四季では、代表だった浅利慶太さんとの出会いがありました。

実は、よく知られている「鹿賀丈史」という名前も、浅利さんが名付けた芸名です。

「鹿賀」は、故郷の石川県にある加賀という地名にちなんでいます。

2025年の『徹子の部屋』では、浅利さんが「鹿」という漢字に、鹿のように俊敏で澄んだ目を持ち続けてほしいという願いを込めたことも語っていました。

また、「丈史」という名前は、劇団四季の創設に関わった俳優の日下武史さんにあやかったものと紹介されています。

本名とは別に、出身地や劇団との縁を込めた芸名を与えられたのです。

劇団に入ってからは、歌だけでなく、発声やせりふ、身体表現などの訓練を受けました。

まだ俳優としての本格的な仕事を始める前でしたが、その翌年には大きな役が巡ってきます。

芸能界入りと俳優デビューの違い
1972年:劇団四季へ入団し、演技の訓練を受ける。
1973年:『ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター』で主演デビューを果たす。

鹿賀丈史の俳優デビュー|1973年にジーザス役へ抜擢

鹿賀丈史さんが舞台俳優として大きな一歩を踏み出したのは、1973年のことでした。

劇団四季の研究生として経験を積んでいたところ、ロックオペラ『イエス・キリスト=スーパースター』の主役に選ばれたのです。

この公演では、後に何度も共演する俳優の市村正親さんとも出会っています。

研究生から『イエス・キリスト=スーパースター』の主役に

1973年、劇団四季は東京の中野サンプラザで『ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター』を上演しました。

中野サンプラザの開館を記念する公演でもあり、劇団にとって重要な舞台でした。

若手俳優だった鹿賀さんは、この作品のジーザス・クライスト役に抜擢されました。

劇団四季に入って2年目で主役を務めるという、早い段階での主演デビューでした。

この公演は、一般に知られる聖書の世界をそのまま再現した演出ではありませんでした。

日本の歌舞伎を取り入れた演出で、衣装や白塗りの化粧、隈取りなどにも独特の工夫が施されていました。

鹿賀さんも、その舞台でイエス・キリスト役を演じました。

2025年のインタビューでは、最初は別の役になるのではないかと思っていたことも振り返っています。

本人が想像していた役とは違い、実際には作品の中心となる大役を任されたのでした。

舞台の成功後も、鹿賀さんは劇団四季でさまざまな役を経験していきます。

1974年には『ウエストサイド物語』に出演し、トニー役も務めました。

歌唱だけでなく、せりふを使った演技や登場人物の感情表現も求められる仕事が増えていきました。

市村正親との出会いと劇団四季での舞台経験

1973年の『イエス・キリスト=スーパースター』で、ヘロデ王を演じたのが市村正親さんでした。

市村さんは外部からオーディションを受けて出演しており、鹿賀さんとはこの舞台を通じて交流を深めました。

2人はその後も長く親交を続け、数十年後にも同じ舞台に立つことになります。

2022年のミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』製作発表では、2人が長年の付き合いについて互いの思いを語っていました。

鹿賀さんは市村さんの演技の幅広さを評価し、市村さんも若い頃から舞台の中心に立っていた鹿賀さんについて話しています。

劇団四季では、浅利慶太さんから演技や発声について厳しい訓練も受けました。

2025年の『婦人公論』では、長野県にあった劇団四季の山荘で、研究生たちが合宿を行っていたことを話しています。

その際に行われていたのが、長いせりふを母音だけに置き換えて発声する訓練でした。

例えば「こんにちは」という言葉なら、子音を取り除いて「おんいいあ」と発声します。

母音を明確に出すことで、舞台の客席にもせりふが伝わりやすくなるという練習方法です。

鹿賀さんは研究生時代の合宿で、そうした課題にも取り組んでいました。

劇団四季での活動中には、歌手の越路吹雪さんのリサイタルにも出演しています。

越路さんは本番前に鹿賀さんへ話しかけ、舞台でどのように観客を楽しませるかを見ていてほしいと伝えたことがあったそうです。

鹿賀さんは、越路さんが声を抑えながらも大きな表現を生み出していたことや、舞台上で自分のペースを作る姿をよく覚えていました。

劇団四季では浅利さんから演技を学び、越路さんのような歌手の舞台にも間近で接する機会がありました。

その一方で、劇団員として活動を続けるうちに、鹿賀さんは映画やテレビの仕事にも関心を持つようになっていきます。

鹿賀丈史の若い頃|劇団四季から映画の世界へ

劇団四季で主演を経験した鹿賀丈史さんですが、20代の終わり頃には新しい仕事を求めるようになりました。

舞台だけでなく、映画やテレビドラマにも出演してみたいという気持ちが強くなっていたのです。

映像の仕事には、劇団四季に在籍していた時期から少しずつ関わっていました。

1978年にはNHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演し、高山右近役を演じています。

やがて1980年、映画への本格的な進出が大きな転機となりました。

劇団四季を離れ、1980年『野獣死すべし』で映画デビュー

鹿賀さんは、1980年に劇団四季を退団したと本人インタビューで振り返っています。

退団を考えるようになった理由の一つが、黒澤明監督の映画『影武者』のオーディションでした。

当時、劇団四季では『オンディーヌ』への出演も予定されていました。

しかし鹿賀さんは、映画の仕事にも挑戦したいと考え、浅利慶太さんに退団の意思を伝えたそうです。

最終的に『影武者』のオーディションへ参加することはできませんでしたが、劇団を離れるという決断は変わりませんでした。

退団するときの浅利さんとのやり取りについて、2025年の『婦人公論』では次の言葉を明かしています。

3年間は舞台に出るな

出典:『婦人公論』2025年8月号「名優たちの転機・芝居で歌う〈後編〉」(Web公開:2025年9月8日)

浅利さんから伝えられた言葉を、鹿賀さんは後年になって笑いも交えながら振り返っていました。

退団後に大きな仕事となったのが、1980年公開の映画『野獣死すべし』です。

この映画では、松田優作さんが演じる主人公・伊達邦彦の相棒となる真田徹夫役を演じました。

鹿賀さんにとっては映画デビュー作であり、舞台とは違う撮影現場を経験することになります。

松田優作さんは、すでに映画やテレビドラマで高い人気を得ていた俳優でした。

鹿賀さんは2025年のインタビューで、松田さんが映画の撮影現場を自ら引っ張っていく姿が印象に残っていると語っています。

劇団四季では、演出家の意図を舞台上で表現する経験を積んできました。

一方、映画の現場では主演俳優が作品全体のイメージを持ち、カメラや照明のスタッフとも関わりながら撮影を進めていました。

松田さんから演技について助言を受けることもあったそうです。

演じ方が松田さんに似てしまいそうになったときには、そうした部分を指摘してくれたと振り返っています。

鹿賀さんは映画デビューを通して、舞台俳優とは異なる制作環境や表現の方法に触れました。

『野獣死すべし』は、本人が後年になっても重要な出来事として挙げている作品です。

『悪霊島』『麻雀放浪記』へ広がった俳優活動

『野獣死すべし』で映画出演を果たした鹿賀さんは、その後も映像作品への出演を重ねていきました。

1981年には、横溝正史さんの小説を原作とした映画『悪霊島』で金田一耕助を演じています。

この作品は篠田正浩監督による映画で、鹿賀さんは事件の謎を追う探偵役を務めました。

翌1982年には、松本清張さん原作の映画『疑惑』にも出演しています。

1984年には、和田誠監督の映画『麻雀放浪記』に出演しました。

『野獣死すべし』から始まった映画での仕事は、ミステリーや人間ドラマなど、さまざまな作品へ広がっていきました。

劇団四季に在籍していた頃には、主に舞台の上で歌と演技を披露していました。

それに対して映画では、カメラの前で人物の細かな表情や動きを見せることが求められます。

鹿賀さんは、こうした違いについても後年のインタビューで話しています。

2025年の『クランクイン!』では、舞台と映像の演技を根本的に別のものとは考えていない一方、映画ではスクリーンを通して演技の奥まで見られる感覚があると語っていました。

若い頃から舞台で演技を経験し、その後に映画へ進出した鹿賀さんならではの言葉です。

映像の仕事を続けながらも、舞台で歌うこととの関係が終わったわけではありませんでした。

1987年、日本で初めて上演されることになったミュージカル『レ・ミゼラブル』から出演の話が届きます。

鹿賀丈史の転機|『レ・ミゼラブル』で再びミュージカルの舞台へ

鹿賀丈史さんが舞台俳優として大きな転機を迎えたのは、1987年のミュージカル『レ・ミゼラブル』日本初演でした。

劇団四季を離れて映画やテレビの仕事に取り組んでいた時期でしたが、この作品によって再び大きなミュージカルの舞台に立つことになります。

1987年の日本初演でジャン・バルジャンとジャベールを演じる

『レ・ミゼラブル』は、ヴィクトル・ユゴーの小説をもとにしたミュージカルです。

ロンドンやブロードウェイで上演された後、1987年に日本でも帝国劇場で初演されました。

この作品への出演のきっかけとなったのは、演出家ジョン・ケアードとの出会いでした。

鹿賀さんは2025年の『婦人公論』で、ジョン・ケアードが自分に会いたがっていると聞いたことを振り返っています。

ジョンがロンドンへ帰る直前に会いに行き、そこで歌ったのはジャベールの楽曲『スターズ』でした。

ジョンは歌を聞くと短く了承し、再会を告げて帰っていったそうです。

通常の大人数によるオーディションとは違う形で、鹿賀さんは作品に関わることになりました。

2025年のインタビューでは、この『レ・ミゼラブル』への出演について、本人がこう振り返っています。

まさに第3の転機はそれですね。

出典:『婦人公論』2025年8月号「名優たちの転機・芝居で歌う〈後編〉」(Web公開:2025年9月8日)

日本初演に向けた準備では、出演者たちが長い時間をかけて歌と演技の稽古を重ねました。

鹿賀さんによると、ほかの仕事をしながら約1年間にわたってレッスンを受け、感情を込めて歌うための訓練にも取り組んだといいます。

『レ・ミゼラブル』では、歌によって物語が進んでいきます。

単に美しい声を出すだけではなく、歌の中で登場人物の気持ちを表現する必要がありました。

鹿賀さんは日本初演でジャン・バルジャンとジャベールの両役を演じています。

同じ作品で、追われる側の主人公と、追う側の警察官という異なる立場の人物を演じたのです。

鹿賀さん自身は、ジャベールという人物にも強い興味を持っていたそうです。

日本初演の舞台には、後に俳優として活躍する山本耕史さんも、少年ガブローシュ役で出演していました。

鹿賀さんは、その頃の山本さんの演技についても後年のインタビューで振り返っています。

『レ・ミゼラブル』への出演は一度きりではありませんでした。

1987年の日本初演以降も再演に参加し、ジャン・バルジャンやジャベールを長年演じ続けました。

1995年には、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された『レ・ミゼラブル』10周年記念コンサートにも参加しています。

金沢の少年合唱団で歌を始めた鹿賀さんは、劇団四季で主演を経験し、映画の世界へ進んだ後、今度は世界的なミュージカルの日本初演に立つことになったのでした。

鹿賀丈史さんの主な転機
1973年:『イエス・キリスト=スーパースター』で舞台主演デビュー。
1980年:『野獣死すべし』で映画デビュー。
1987年:『レ・ミゼラブル』日本初演に出演し、ジャン・バルジャンとジャベールを演じる。

『ジキル&ハイド』や市村正親との舞台共演へ

『レ・ミゼラブル』以降も、鹿賀さんは舞台で重要な役を演じ続けました。

2001年には、ミュージカル『ジキル&ハイド』に主演しています。

この作品では、善と悪という異なる人格を持つ人物を演じました。

2005年には『ジキル&ハイド』と『レ・ミゼラブル』での舞台活動が評価され、第31回菊田一夫演劇賞の演劇大賞を受賞しています。

一方、舞台とは異なる分野でも印象的な仕事を残しました。

1993年に始まったテレビ番組『料理の鉄人』では、美食アカデミーの主宰者として番組を進行しました。

鹿賀さんは2018年のインタビューで、番組出演の話を受けたときは迷いもあったと語っています。

しかし、番組の設定や演出について説明を聞くうちに興味を持ち、出演を決めました。

主宰者という人物を、舞台で役を演じるような感覚で表現していたそうです。

番組で見せた独特の衣装や話し方も、そうした役作りの中から生まれました。

映画やテレビの仕事を経験してからも、舞台での活動は続いています。

2008年には、劇団四季時代から親交のある市村正親さんとミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』で共演しました。

鹿賀さんはジョルジュ役、市村さんはアルバン役を演じ、長年にわたって同じ作品の舞台に立っています。

1973年に『イエス・キリスト=スーパースター』で出会った2人が、今度は長く生活をともにしてきたパートナー同士を演じることになったのです。

2023年には、黒澤明監督の映画をもとにしたミュージカル『生きる』でも、それぞれ主人公の渡辺勘治役を務めました。

市村さんとは同じ作品に出演するだけでなく、長年の親交を通じて互いの演技について語り合う関係が続いています。

また、鹿賀さんは2023年に芸能生活50周年の節目を迎え、コットンクラブでライブ『MIS CAST』を開催しました。

長い俳優生活の中で出会った楽曲を、歌手として披露するステージでした。

少年合唱団で歌い始めた小学生が、音楽大学を目指して東京へ向かい、友人に誘われて劇団四季の試験を受ける。

そこから主演舞台、映画、テレビ、ミュージカルへと仕事を広げ、50周年には再び歌を中心にしたステージに立ちました。

鹿賀丈史さんの俳優人生には、金沢で始まった歌との長い付き合いが続いています。