甲本雅裕の生い立ち|兄・甲本ヒロトと育った家族、剣道から俳優になるまで

甲本雅裕の生い立ちと、兄・甲本ヒロトとの家族、剣道から俳優になるまでを示す人物イラスト

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
こうもとまさひろ
カテゴリー
男性俳優
出身地
岡山県
生年月日
1965年6月26日
芸能活動開始
1989年
俳優デビュー
1989年
デビューのきっかけ
紹介・推薦

『踊る大捜査線』シリーズの緒方薫役をはじめ、映画・ドラマ・舞台で長く俳優として活動してきた甲本雅裕さん。

兄は、THE BLUE HEARTSやザ・クロマニヨンズのボーカルとして知られる甲本ヒロトさんです。

ただ、雅裕さん自身の若い頃を見ていくと、最初から芸能界を目指していたわけではなく、学生時代は剣道に打ち込み、大学卒業後はいったん婦人服メーカーの会社員になっていました。

そこから会社を辞めて上京し、俳優経験がないまま三谷幸喜さんが主宰する東京サンシャインボーイズの舞台へ立つことになります。

今回は、そんな甲本雅裕さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入る前の会社員生活、俳優を目指したきっかけ、最初の舞台と転機をご紹介します。

甲本雅裕の生い立ち|岡山のクリーニング店で育った子ども時代

甲本雅裕さんは1965年6月26日、岡山県生まれです。

子ども時代の生活の中心には、父親が営んでいたクリーニング店と、小学1年生から始めた剣道がありました。

俳優になるずっと前の甲本さんは、岡山の家業と剣道に囲まれて育った少年でした。

実家「ドライクリーニング甲本」と暮らしが一つだった幼少期

実家の家業はクリーニング店で、後年本人が公開した幼少期の写真にも「ドライクリーニング甲本」と書かれた店の入口が写っています。

店と自宅は完全に切り離された空間ではなく、仕事場から戸を一つ隔てると居間がある環境だったそうです。

食事をしたりテレビを見たりする生活のすぐそばで、父親がお客さんと話し、アイロンをかけていました。

「おやじはクリーニング屋でした。」

出典:朝日新聞デジタル CRAFTWORKS「兄・ヒロトの中退宣言におやじは……甲本雅裕さんが語る『役者前』」(2022年3月28日)

幼いころの雅裕さんは、気がつけば兄のヒロトさんの後ろについて行き、兄の学校の友人たちと遊んだり、その友人の家で食事をしたりしていたと振り返っています。

実家の店で働く父親の姿、家のことをしながら店を支える母親、音楽を聴く兄という光景が、雅裕さんにとって日常でした。

2026年に本人がInstagramで振り返った記憶にも、アイロンをかける父親、店を手伝いながら夕食を作る母親、レコードを聴く兄、自分はテレビを見ながらおやつを食べているという家族の場面が残っています。

実家の店は、甲本さんにとって「仕事」と「家族の暮らし」が同じ場所にある環境でした。

小学1年から始まった剣道生活

甲本さんが剣道を始めたのは小学1年生のときでした。

ところが、最初から剣道に強い憧れがあったわけではありません。

本人によると、本当は野球をやりたくてパンフレットを親に渡したつもりが、それが手違いで剣道のものだったという、少し意外な始まりでした。

「実をいうと、剣道は偶然始めたんです。」

出典:BUSHIZO「『剣道は自分のすべてだった』俳優・甲本雅裕さんインタビュー」(2025年4月30日)

最初の練習で向かったのはグラウンドではなく体育館で、素振りをしても野球らしくないことを不思議に思いながら、そのまま剣道を続けることになったと振り返っています。

途中でやめることを好まない性格もあり、この偶然から始まった剣道は中学、高校、大学まで続きました。

小学生から大学4年まで続けた剣道は、学生時代の長い時間を占めるものになっていきます。

甲本雅裕の家族|父・母と兄・甲本ヒロトとの暮らし

甲本雅裕さんの生育家族を語るうえで、大きな存在だったのが父親、母親、そして兄の甲本ヒロトさんです。

本人の回想には、特別な出来事だけでなく、店の奥から父親の仕事を見ることや、兄と一緒に早起きすることなど、家の中の小さな場面が数多く残っています。

アイロンをかける父と店を支えた母

父親はクリーニング店を営み、母親も店を手伝いながら家のことをしていました。

幼い雅裕さんとヒロトさんが朝寝坊ばかりしていたころ、母親が困っているのを見た父親は、早起きすると家の前を妖怪が通ると兄弟に話したことがあったそうです。

兄弟はその話を信じ、朝早く起きて店のカウンターから外を眺めていました。

そんな父親自身にも、若いころには電車の運転士になりたいという夢がありました。

しかし、下に4人のきょうだいがいたため高校へは進まず、神戸へ働きに出て技術を身につけ、弟たちを学校へ通わせたといいます。

やがてクリーニング店を営むようになった父親は、息子たちへ家業を継がせようとはせず、自分の代で店を終えるという考えを口にしていました。

雅裕さんは大人になってから、その言葉を息子たちは自分のやりたいように生きればいいという意味だったと受け取っています。

父親は店を営む一方、行き場を失いかけた子どもと家庭・学校の間に立ち、話を聞く活動もしていたと甲本さんは後年のインタビューで振り返っています。

兄・甲本ヒロトが音楽へ、弟・雅裕が選んだ進学の道

兄の甲本ヒロトさんは、雅裕さんより先に岡山を離れ、東京の大学へ進みました。

ところが大学在学中、ヒロトさんは突然実家へ戻り、大学を辞めて歌手になる意思を家族へ伝えます。

父親は大学だけは卒業してはどうかと伝えましたが、ヒロトさんの意思は変わりませんでした。

東京の大学へ兄を送り出したことを誇りに感じていた父親は大きく落ち込み、その姿を弟の雅裕さんも間近で見ていました。

雅裕さん自身は、本心では就職や専門学校という選択肢も考えていたものの、小学1年から続けてきた剣道を生かしたスポーツ推薦の話が届きます。

父親が大学進学の話を喜んだこともあり、雅裕さんは進学する道を選びました。

兄が先に表現の世界へ進んだからといって、弟もそのまま芸能界へ向かったわけではありません。

兄・ヒロトさんが音楽の道へ踏み出したころ、雅裕さんは大学進学を選び、まだ芸能界とは別の道を歩いていました。

甲本雅裕の学生時代|関西高校から京都産業大学まで剣道一筋

甲本雅裕さんは関西高校で剣道部に所属し、1984年3月に卒業しました。

その後は京都産業大学へ進学し、大学でも剣道を継続しています。

学校名だけを見ると一直線の進学歴ですが、本人にとっては、剣道を続けることと、その先の生き方を考え始める時期でもありました。

関西高校剣道部で国体へ

中学時代の甲本さんは、全中への出場を目指していました。

しかし岡山県大会の決勝で敗れて準優勝となり、そのとき決勝で対戦したチームが全国大会を制したと本人は振り返っています。

高校へ進んでも剣道を続け、県大会では再び決勝まで進みましたが、ここでも準優勝でした。

一方で、国体メンバーには選ばれており、岡山県内で上位を争う選手だったことが分かります。

特に本人の記憶に残っているのが、インターハイ予選の2日前に肋骨を負傷したときのことです。

決勝戦の苦しい場面でけがのことが頭をよぎり、負けても仕方がないという理由を自分の中に作ってしまったことを、後年まで悔しく覚えていると語っています。

勝った試合だけでなく、あと一歩届かなかった経験まで含めて、剣道は甲本さんの学生生活の中心でした。

先輩を追って京都産業大学へ、剣道部と寮で過ごした4年間

大学進学には、高校・大学の先輩だった高橋英明さんの存在も影響しました。

中学時代には別の道場に所属する先輩と後輩の関係でしたが、高校では同じ剣道部で過ごしています。

もともと大学へ進むつもりが強かったわけではない甲本さんは、高橋さんの存在にも導かれる形で京都産業大学へ進みました。

大学の寮では高橋さんと同室になった時期もあり、剣道を通した関係は学生生活でも続いています。

大学での日々は、早朝練習をして講義へ向かい、講義が終われば再び練習するという繰り返しでした。

「とにかく、剣道の練習がきつかった!」

出典:京都産業大学「キャンパスマガジン『サギタリウス』2012 Oct. Vol.57」(2012年9月13日)

京都産業大学の公式インタビューでは、大学と寮を往復するような学生生活だったことや、在学中に全国大会へ出場したことも紹介されています。

小学生から大学まで長く続けたことで、剣道は甲本さんの中で「得意なこと」の範囲を超え、生活そのものに近い存在になっていました。

その一方、大学を終えるころには、このまま剣道だけを軸にした人生を続けることへの迷いも生まれていました。

「社会に出るにあたり、一番大切だった剣道を捨ててみようと思いました。」

出典:BUSHIZO「『剣道は自分のすべてだった』俳優・甲本雅裕さんインタビュー」(2025年4月30日)

大学卒業は、長く続けた剣道をいったん手放し、別の生活を始める節目になりました。

甲本雅裕の芸能界入り前|大学卒業後はアパレル会社員だった

京都産業大学を卒業した甲本雅裕さんは、そのまま芸能界へ入ったわけではありません。

選んだのは、剣道とはまったく違う婦人服メーカーで働く会社員という道でした。

この会社員時代に映画を見る時間が増えたことが、後の進路を変えるきっかけになります。

剣道から離れるために選んだ一般企業への就職

大学まで剣道をやり切った甲本さんは、卒業後にはあえて剣道から遠い世界へ進もうと考えました。

そこで就職したのが婦人服メーカーでした。

子どものころから一つのことを長く続けてきた甲本さんにとって、会社員生活はそれまでと違う環境でゼロから始める選択でした。

仕事には一生懸命取り組んでいた一方、剣道をやめた後の自分には、どこか宙ぶらりんな感覚もあったと後年振り返っています。

それまでの自分には剣道という分かりやすい軸がありましたが、社会へ出たことで、初めて何を本当にやりたいのかを探す時間が始まりました。

甲本さんの芸能活動は、学生時代の子役・モデル・歌手活動から始まったのではなく、大学卒業後に一般企業へ就職した後、20代で俳優を志した流れとして確認できます。

休日の映画鑑賞から「俳優」という仕事へ

会社員時代の休みは日曜日が中心で、疲れた休日を一人で過ごすため、甲本さんはレンタルビデオで映画を見るようになりました。

映画を見る時間を重ねるうちに、その作品が人を楽しませたり、疲れた気持ちを和らげたりする力にも惹かれていきます。

さらに気になったのが、作品ごとに漁師や銀行員など、まったく違う人物の人生を演じられる俳優という職業でした。

一つの仕事を始めたら続けなければならないと思っていた自分に対し、俳優なら作品ごとに違う仕事や人生を疑似体験できます。

「自分のやりたいことがやっと見つかった、という思いでした。」

出典:朝日新聞デジタル CRAFTWORKS「兄・ヒロトの中退宣言におやじは……甲本雅裕さんが語る『役者前』」(2022年3月28日)

甲本さんは、入社したときには定年まで勤めるつもりだったといいます。

それでも俳優という新しい興味を見つけると、入社2年目で会社を辞めることを決めました。

兄ヒロトさんが先に音楽の道へ進んだときとは違い、雅裕さんは大学を卒業して就職までした後、自分の意思で会社員生活を終えています。

大阪で暮らしていた部屋を引き払った日、父親には電話で東京へ行くことだけを伝えました。

大学進学と就職で一度は父親を安心させたと考えていた甲本さんは、そこで一区切りをつけ、俳優になるため東京へ向かいます。

甲本雅裕が俳優になるまで|上京と三谷幸喜との出会い

会社を辞めた甲本雅裕さんは、俳優としての仕事が決まっているわけでも、演技経験があるわけでもない状態で東京へ向かいました。

そこで同郷の俳優・梶原善さんに頼まれた手伝いが、三谷幸喜さんと東京サンシャインボーイズにつながります。

甲本さんの場合、芸能界へ入る出来事と、俳優として演技を始める出来事がほぼ同じ時期に訪れました。

会社を辞めて東京へ、梶原善に頼まれた荷物運び

上京した甲本さんは、まず生活のためにアルバイトを探していました。

そのころ、劇団に所属していた同郷の梶原善さんから荷物運びを手伝ってほしいと声をかけられます。

俳優になるための正式なオーディションを受けに行ったわけではなく、知人の手伝いとして劇団の現場へ足を運びました。

そこで出会ったのが、東京サンシャインボーイズを主宰していた三谷幸喜さんでした。

三谷さんは、翌月に芝居をやるから出演してみるかと甲本さんを誘います。

甲本さんには養成所へ通った経験も、俳優として舞台や映像作品へ出演した経験もありませんでした。

会社員から俳優への入口は、オーディションでもスカウトでもなく、梶原善さんに頼まれた劇団の荷物運びでした。

1989年『天国から北へ3キロ』で俳優デビュー

1989年、甲本さんは東京サンシャインボーイズに入り、舞台『天国から北へ3キロ』で俳優としてのスタートを切りました。

本人は後年、劇団そのものに憧れていたわけではなく、映画を見ながら、俳優なら作品ごとにさまざまな職業を演じられるところに魅力を感じたと話しています。

『天国から北へ3キロ』の最初の本読みでは、三谷さんから渡された台本がおかしくて出演者たちが笑ってしまい、なかなか読み進められなかったという記憶も残っています。

文字で書かれた脚本だけで人がこれほど笑うことに驚き、甲本さんにとって強く印象に残る最初の稽古になりました。

俳優経験がないまま入った劇団で、甲本さんは実際の舞台に立ちながら演技を覚えていきます。

初舞台では、自分の出番になると客席が固まるように感じるほど、思うようにいかなかったこともあったそうです。

それでも千秋楽を迎えた後、作り上げた舞台セットが解体されていく光景に甲本さんは惹かれました。

一つの舞台が終われば形はなくなり、次の作品ではまたゼロから始まります。

大学卒業時に剣道を離れ、会社員生活も辞めた甲本さんにとって、毎回ゼロから別の人物を作る俳優の仕事は、それまでとは違う生き方になっていきました。

1989年に東京サンシャインボーイズへ入った時点で、甲本さんにはそれ以前の芸能活動歴や演技経験が確認されていません。会社員を辞めて上京した後の舞台出演が、芸能活動と演技活動の出発点として重なる人物です。

舞台から映像へ、『踊る大捜査線』が大きな転機に

甲本さんは東京サンシャインボーイズの在籍中、三谷幸喜さんの作品に継続して出演し、舞台俳優として経験を重ねました。

『12人の優しい日本人』『ラヂオの時間』『彦馬がゆく』などにも出演しましたが、ここで重要なのは作品数そのものではなく、俳優としての最初の土台を東京サンシャインボーイズで築いたことです。

劇団が1995年1月に長い充電期間へ入ると、活動の場はテレビドラマや映画、ほかの舞台へと広がっていきます。

その流れの中で大きな転機の一つになったのが、1997年に始まった『踊る大捜査線』でした。

甲本さんは湾岸署の刑事・緒方薫を演じ、テレビシリーズから同シリーズへ継続して参加することになります。

小学生から大学まで続けた剣道も、大学卒業後に入った会社も、俳優になるために用意されていた経歴ではありませんでした。

実際に俳優を意識したのは会社員になった後で、そこから退職と上京を経て、三谷さんとの出会いによって初めて舞台へ立っています。

小学1年から大学まで剣道を続け、一般企業に就職した青年は、20代で会社を辞め、1989年の初舞台から俳優として歩き始めました。

梶原善さんに頼まれた荷物運びで足を踏み入れた劇団の現場から舞台を重ね、やがて『踊る大捜査線』の緒方薫へと仕事の場は広がっていきました。