阿部寛の若い頃と生い立ち|家族や大学時代、モデルから俳優になるまで

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
あべひろし
カテゴリー
男性俳優
出身地
神奈川県
生年月日
1964年6月22日
芸能活動開始
1985年
俳優デビュー
1987年
デビューのきっかけ
コンテスト・公募

2026年8月現在、阿部寛さんは日曜劇場『VIVANT』第2シーズンで公安刑事・野崎守を演じるなど、映画やドラマの第一線で俳優活動を続けています。

今では俳優としての姿がすっかり定着していますが、若い頃の阿部寛さんを知る人にとっては、『MEN’S NON-NO』の表紙を飾っていたモデル時代もよく知られています。

しかも芸能界を目指して専門的なレッスンを受けていたわけではなく、中央大学に通う理系の大学生からモデルになり、その後に俳優の世界へ入っています。

映画デビューまでは早かった一方、俳優として仕事がほとんどない時期も経験し、自分に求められる役からあえて離れた人物を演じるようになりました。

今回は、そんな阿部寛さんの生い立ちや家族、学生時代、若い頃のモデル活動、芸能界へ入ったきっかけ、俳優として最初の仕事、その後の転機などをご紹介します。

阿部寛の生い立ち|横浜・三ツ沢で過ごした子ども時代

阿部寛さんは1964年6月22日、神奈川県横浜市生まれです。

子ども時代を過ごしたのは横浜市神奈川区の三ツ沢周辺で、後年のインタビューでは現在も残る公園や池、団地について細かな場所まで覚えていました。

阿部寛さんが育ったころは、現在のみなとみらい地区も今とは大きく異なり、本人は海を見たり釣りをしたりする場所だったと振り返っています。

三ツ沢の住宅地でザリガニやクワガタを追った少年時代

三ツ沢の大きな団地には友人が住んでおり、阿部寛さんはそこで犬の散歩をしたり、団地の周囲を走ったりして遊んでいました。

走るコースは自分で距離を測ったことまであり、本人の記憶では1周およそ512メートルで、3周すると1500メートルほどになるコースだったそうです。

5歳くらいのころには、親から入ってはいけないと言われていた沼へザリガニを捕りに行ったこともありました。

三ツ沢公園や岸根公園周辺の池でもザリガニや雷魚を捕り、片倉町方面へクワガタを探しに出かけるなど、外で遊ぶ時間の多い少年でした。

三ツ沢や岸根周辺で過ごした子ども時代の風景については、大人になってからも木が生えていた場所を探しに行ったほどよく覚えているといいます。

三ツ沢小・松本中・白山高校へ|学生時代はテニスにも熱中

小学校から高校までは横浜で過ごし、本人が通っていた学校名も明かしています。

三ツ沢小学校、松本中学校、白山高校です。

出典:はまれぽ「横浜生まれの俳優、阿部寛さんを徹底解剖!」(2014年4月25日)

中学時代については、後年の映画『青い鳥』のインタビューで、中学2年生のころに少し荒れていた時期があったことも話しています。

当時の担任は教師になってまだ数年ほどの若い男性で、阿部寛さんの変化を気にかけ、毎朝顔を見ながら声をかけるタイミングを探していました。

ある日、職員室へ呼ばれると、その先生が阿部寛さんへの接し方に悩みながら半泣きになっている姿を目にします。

これはいかんな、甘ったれちゃいけないな

出典:シネマカフェ「『原作とは違うイメージにしたかった』阿部寛がいじめに悩む生徒たちに贈る言葉」(2008年11月27日)

目立つタイプではなかったものの、自分のために本気で悩んだ担任の姿は、その後も忘れられない先生として記憶に残りました。

また、1998年に出版した自著『アベちゃんの悲劇』では、学生時代の一時期に同級生をいじめていた自分についても振り返っています。

高校時代まで横浜で過ごした阿部寛さんはテニスもしており、岸根公園では倉庫の壁を使って壁打ちをしていました。

このとき撮られた一枚の写真が、数年後に阿部寛さんの生活を大きく変えることになります。

阿部寛の家族|寡黙な父と母、姉・5歳上の兄

阿部寛さんは姉・兄・阿部寛さんの3人きょうだいの末っ子として育ちました。

父親は仕事に打ち込む寡黙な人で、家庭や近所との付き合いは主に母親が担っていたと阿部寛さんは振り返っています。

3人きょうだいの末っ子|母や兄、近所の大人に囲まれて育つ

2022年、映画『とんび』の完成披露舞台挨拶では、自宅から探してきた幼少期の家族写真を公開しました。

写真を撮影していたのは父親で、そこには母親、姉、兄、そして幼い阿部寛さんが写っています。

僕が一番下の3人兄弟なんですけど、姉と兄と母です

出典:めざましmedia「阿部寛 95歳の父に感謝『舞台挨拶にいつも来てくれている』」(2022年2月17日)

5歳上の兄については、年齢が離れていたこともあり、子どものころは「半分父親」のような存在だったとも話しています。

父や兄とはあまり会話をした記憶がない一方で、母親とはよく話していたそうです。

実家では当時、6部屋ほどのアパートを経営しており、阿部寛さんの家族だけでなく住人たちとの交流も身近にありました。

母親はアパートの住人へ食事を持っていくなど日頃から付き合いがあり、幼い阿部寛さんも住人たちから「寛くん」とかわいがられていたといいます。

阿部寛さんの子ども時代は、父・母・姉・兄の5人家族だけで閉じた生活ではなく、実家のアパートに暮らす大人たちとも日常的に顔を合わせる環境でした。

世界最大級のダンプカーを造った父|俳優になる決断にも関わる

父親はダンプカーを造るエンジニアとして働いていました。

2025年の『徹子の部屋』では、タイヤだけで3メートルを超えるような、公道では走らない世界最大級のダンプカーを父が造っていたと説明しています。

子どもの阿部寛さんにとって、世界で使われる大きな車を造る父の仕事は誇りでもありました。

家では仕事の話をたくさんする父ではありませんでしたが、手先が器用で、休日になると物置などを自分で作っていたそうです。

阿部寛さん自身も手先が器用で、その部分は父親譲りではないかと話しています。

父親は2025年7月に98歳で亡くなり、最期は家族が病院へ集まり、昔話や普段の話をする中で静かに息を引き取ったといいます。

普段の会話は決して多くなかった父ですが、阿部寛さんが人生の大きな選択をするときには、その言葉が決断を後押しすることになります。

中央大学時代|1枚のテニス写真からモデルの世界へ

白山高校を卒業した阿部寛さんは、中央大学理工学部電気工学科へ進学しました。

現在の俳優としての経歴からは想像しにくいものの、大学では電気工学を学ぶ理系学生として生活していました。

中央大学理工学部へ|芸能界とは無縁だった大学生活

大学へ入った時点で俳優になる道を具体的に歩んでいたわけではなく、芸能界入りにつながったのは在学中の出来事でした。

きっかけになったのは、女性ファッション誌『non-no』が実施していた「ノンノボーイフレンド大賞」です。

応募に使ったのが、高校時代から馴染みのあった岸根公園でテニスの壁打ちをしていたときに撮られた写真でした。

横浜で何気なく撮られたテニス姿の写真を送ったところ、第3回ノンノボーイフレンド大賞で優勝します。

車が欲しくてノンノボーイフレンド大賞に応募

応募理由について、阿部寛さんは2026年の『MEN’S NON-NO』インタビューで、芸能界への憧れよりも賞品の車が欲しかったことを率直に話しています。

優勝すると先輩モデルから、近く男性ファッション誌『MEN’S NON-NO』が創刊され、そちらでもモデルができると教えられました。

ところが本人は、その言葉の意味を深く考えるより、まず車をもらえたことを喜んでいたそうです。

やがて『MEN’S NON-NO』のプレ創刊号を作ることになり、プロのモデルではなく新鮮な人物を表紙に起用したいという編集部の方針から阿部寛さんが選ばれました。

プレ創刊号の反響が良かったことで、その約8か月後に正式な創刊号が発売されます。

僕自身、「ここから始まった」という思いがあります

出典:MEN’S NON-NO WEB「阿部 寛、『メンズノンノには特別な敬意があります』」(2026年1月1日)

MEN’S NON-NO創刊号から43号連続で表紙を飾る

『MEN’S NON-NO』は1986年5月に創刊号となる6月号を発売し、阿部寛さんはセーシェルで撮影されたその表紙に登場しました。

真夏のような強い日差しの下で顔へ光を当てるため、下からレフ板で太陽光を反射させ、まぶしくて目を開けるのも大変だったと当時の撮影を覚えています。

最初から長期間表紙を担当すると聞かされていたわけではなく、3号ほど撮影したころになって、しばらく固定で起用する話を聞いたそうです。

当時の本人にはまだ「ただの大学生で、素人同然」という感覚があり、モデルとして急速に注目される状況へ気持ちが追いつかなかった時期もありました。

結果として創刊号から43号連続で『MEN’S NON-NO』の表紙を飾ることになります。

モデルを離れてから長い年月が過ぎた2025年末には、鈴鹿央士さんとともに約36年ぶりとなる同誌の表紙へ戻り、2026年の創刊40周年イヤーを飾りました。

モデルから俳優へ|大学4年で『はいからさんが通る』に出演

『MEN’S NON-NO』で人気モデルになったことが、阿部寛さんにとっての芸能界入りでした。

ただし、この段階ではまだ俳優として活動を始めたわけではありません

阿部寛さんの場合は「大学在学中にモデルとして芸能界入り」したあと、「映画出演をきっかけに俳優活動を開始」という二つの段階に分かれています。

モデルとして活動しながら俳優のオファーを受ける

モデル活動を始めたあと、大学4年生だった阿部寛さんのもとへ映画出演の話が届きます。

理工学部で学びながらモデルをしていた大学生にとって、そのまま俳優の世界へ進むかどうかは大きな進路変更でした。

そこで阿部寛さんが相談した相手が、普段はあまり多くを話さなかった父親です。

子ども3人のうちの1人がそういう世界に挑戦してもいいんじゃないか

出典:テレ朝POST「阿部寛、父は世界最大級のダンプカーを造るエンジニアだった」(2025年9月25日)

父は、うまくいかなければ普通の世界へ戻ればいいという考えで息子を送り出しました。

親戚には驚く人もいたそうですが、この父の言葉が阿部寛さんの背中を押しました。

父に進路を相談し、1987年に映画デビュー

出演したのは、大和和紀さんの漫画を実写映画化した『はいからさんが通る』です。

南野陽子さん演じる主人公・花村紅緒の許婚、伊集院忍役を演じました。

日本映画製作者連盟の作品データベースでも、同作について阿部寛さんが「本作が映画デビュー」と記録されています。

1987年公開の『はいからさんが通る』が、阿部寛さんの俳優としての映画デビュー作となりました。

モデルとしてすでに人前へ出る仕事は経験していましたが、役になりきって台詞を話す俳優の仕事は別の世界でした。

本人は後年、俳優になったばかりのころは、ほかの俳優が役や台詞に「こだわる」と聞いても、何をどうこだわるのか分からなかったと振り返っています。

1988年にはテレビドラマへ|演技の仕事が続き始める

映画デビュー翌年の1988年3月には、テレビドラマ『恋をしましょう~ユーミンを聴きながら~』へ出演しています。

その後も映画やテレビドラマの仕事が続き、モデルから俳優へ活動の軸を移していきました。

『MEN’S NON-NO』でモデルとして活動した期間は本人の回想で約3年ほどですが、その短い期間に作られたイメージは、俳優になったあともしばらく残り続けます。

俳優になった阿部寛を待っていた仕事が減る時期

映画に出演できたことで、そのまま俳優として順調に仕事が増えていったわけではありませんでした。

若い頃の阿部寛さんには、長身で端正な容姿を生かしたMEN’S NON-NOモデルという印象が強く残っていました。

「モデル出身」のイメージが俳優の仕事にもついて回る

2026年の『MEN’S NON-NO』インタビューでも、モデルを約3年経験して俳優へ進んだあと、当時は「モデルあがり」と見られ、なかなか俳優として扱われない時期が続いたと話しています。

俳優として求められる役も、外車に乗って女性を迎えに来るような二枚目の男性が多かったそうです。

モデルだったころの自分に近い人物ばかりを演じていては、別の役を任せてもらえるようにならないと考えるようになりました。

そこで阿部寛さんは、自分自身からできるだけ離れた人物を選び、同じタイプの主役はなるべく受けないという方向へ役選びを変えていきます。

現在ではコメディーからシリアスな役まで幅広く演じていますが、若手時代には「こういう人物も演じられる」と一つずつ示す必要がありました。

20代後半から30歳前後で仕事が激減し、役の選び方を変えていく

俳優という仕事の難しさに気づくまでにも、本人の感覚では2~3年ほどかかったそうです。

そのあと出演の機会が大幅に減り、今後どうすればいいのかを真剣に考える時期へ入ります。

そこから仕事が激減し、5年間くらい仕事がなくて

出典:シネマトゥデイ「阿部寛 仕事が激減し、もがいた若手時代」(2022年4月7日)

この時期について、2022年のインタビューでは「30歳のころ」、2026年には「仕事がなかった20代の時期」と振り返っており、本人の回想には多少の幅があります。

20代後半から30歳前後にかけて、約5年間にわたって仕事が乏しい時期を経験したことは、本人が複数のインタビューで語っています。

モデル時代には次々と表紙を飾っていた阿部寛さんが、俳優へ移ったあとには仕事の少なさに悩むようになりました。

それでもモデルへ戻るのではなく、これまでとは違う人物を演じる方向へ動いていきます。

難しい役や自分から遠い役へ挑む中で、やがて舞台の世界でも大きな出会いが訪れました。

つかこうへいとの『熱海殺人事件』が俳優としての転機に

仕事の少ない時期にも俳優を続けていた阿部寛さんは、1990年代に入ると舞台にも活動の場を広げます。

そこで出会った一人が、劇作家・演出家のつかこうへいさんでした。

1993年『熱海殺人事件』で、それまでとは違う役へ

阿部寛さんの公式出演歴には、1993年8月から9月に上演された『熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン』への出演が記録されています。

映画デビューから約6年がたち、モデル出身の二枚目俳優という印象から離れた役へ挑戦していた時期でした。

1993年の『熱海殺人事件』への出演と、つかこうへいさんとの出会いは、その後の阿部寛さんが演技そのものへ深く向き合っていく時期と重なります。

1998年に出版した『アベちゃんの悲劇』も、モデルとして華やかに活動した時期だけでなく、芸能界で生きていく苦悩から、舞台でつかこうへいさんに認められるまでを本人が書いたエッセイです。

舞台や古武術との出会いから演技そのものが面白くなる

同じころ、阿部寛さんはつかこうへいさんだけでなく、演出家の蜷川幸雄さんなどとも仕事をするようになりました。

さらに約15年間にわたって古武術の稽古にも通い、刀を抜くような一つの動作でも何度も繰り返して体へ覚え込ませる世界を経験します。

同じ動作を積み重ねたものが映像にも現れることを知り、芝居でも細部へこだわる感覚が強くなっていきました。

若い頃の阿部寛さんは、俳優が芝居へ「こだわる」と言われても意味がよく分からなかったと話していますが、舞台や古武術を経験する中で、その感覚が変わっていきました。

そこからは楽しくなりました

出典:シネマトゥデイ「阿部寛 仕事が激減し、もがいた若手時代」(2022年4月7日)

モデル出身のイメージを越え、幅のある役へ進む

若い頃から順調だったのはモデルとしてのスタートで、俳優としては役の幅を広げるまでに時間がかかりました。

同じような二枚目の役を避け、舞台へ進み、演出家や古武術から芝居への向き合い方を学ぶ中で、演じる人物の幅が少しずつ広がっていきます。

2000年にはテレビドラマ『TRICK』で日本科学技術大学教授・上田次郎を演じ、その後も従来のモデル時代とは異なる人物を数多く演じるようになりました。

2026年8月には『VIVANT』第2シーズンで再び野崎守を演じており、大学時代に一枚のテニス写真を送ったことから始まった芸能活動は、40年近くを経た現在も続いています。

その出発点には、横浜で過ごした学生時代、賞品の車を目当てに応募したコンテスト、モデルから俳優へ進む息子を送り出した父の言葉、そして仕事が減った時期に選んだ新しい役がありました。