PROFILE
人物プロフィール
NHK連続テレビ小説『まんぷく』の小松原完二や、『あなたの番です』の蓬田蓮太郎など、さまざまな作品で印象を残してきた俳優・前原滉さん。
宮城県で育った前原さんは、子どものころから俳優を目指していたわけではなく、小中学校では長くサッカーに打ち込んでいました。
高校もサッカーの強豪校へ進みましたが、そこで選んだのはサッカーを続ける道ではありませんでした。
その後、親友が全国大会へ進んだ姿を見て感じた後悔や、母親と観た一つの舞台をきっかけに、俳優という仕事を意識するようになります。
高校卒業後に入った俳優養成所でもすぐに結果が出たわけではなく、本人が「窓際」と振り返る時期や、辞めることを考えた時期もありました。
今回は、そんな前原滉さんの生い立ちや家族、高校時代、芸能界へ入るきっかけ、養成所生活、俳優として仕事を始めるまでをご紹介します。
前原滉の生い立ち|宮城でサッカーを続けた少年時代
前原滉さんは1992年11月20日生まれ、宮城県出身です。
俳優になる前の前原さんを長く占めていたのは、演劇よりもサッカーでした。
ただ、幼いころの家庭での姿には、後に人前で表現する仕事へ進む前原さんを想像させるような一面もありました。
家では踊るのに人前では隠れてしまう子どもだった
子どものころは、家でSMAPの曲を聴きながら踊っていたそうです。
一方で、人に見られることは得意ではありませんでした。
家ではやるけど人前にでると隠れちゃう、みたいなタイプでした。
出典:タレントデータバンク「<前原滉>『大河ドラマ「おんな城主 直虎」』インタビュー」(2017年3月21日)
家の中では踊るのに、人前に出ると隠れてしまうという子ども時代で、養成所へ入った後も本人は人見知りだったと振り返っています。
人前へ出る仕事への憧れを幼いころから明確に持っていたというより、俳優という選択肢が生まれるのは高校時代になってからでした。
小中学校でサッカーを続け、市の優秀選手賞を受賞
前原さんがサッカーを始めたのは小学校低学年のころで、近所の友人に誘われたことがきっかけでした。
小学校から中学校までを通して、サッカーには約9年間取り組んでいます。
左利きで、左サイドバックやフォワードなど複数のポジションを経験し、中学校ではキャプテンも務めました。
中学時代には市の優秀選手賞を受賞しており、この実績は所属事務所のプロフィールにも記載されています。
小学校時代に一緒にボールを蹴っていた親友とは中学校が別になりましたが、「高校でまた一緒にサッカーをしよう」と話していました。
その約束は、前原さんの高校選びにもつながっていきます。
前原滉の家族|母親の影響と父親との再接点
前原さんが俳優を目指す過程では、特に母親が何度も登場します。
本人は母子家庭で育ったことを明かしており、祖母や妹のいる家庭で育ったこともインタビューで話しています。
俳優という職業に興味を持つきっかけを作り、卒業後の進路を具体的に探したのも母親でした。
ドラマ好きだった母親のそばで育つ
前原さんの母親は仙台で美容師として働きながら、仕事を終えるとドラマを見ることを楽しみにしていたそうです。
前原さんもそのそばでテレビを見ることがあり、高校時代にはアルバイト代でドラマ『ROOKIES』のDVD-BOXを買うほど映像作品を好むようになっていました。
ただ、この時点でテレビ好きと俳優志望がそのまま結び付いていたわけではありません。
進路を考え始めた高校時代、母親が仙台で上演されていた舞台へ前原さんを連れて行ったことで、俳優が現実の職業として目の前に現れます。
さらに高校卒業後には、母親が俳優養成所の募集情報を探し、前原さんへ持ってきました。
舞台を観る機会と、その後の具体的な進路の両方に母親が関わっていたことが、本人の複数のインタビューから確認できます。
中学ごろから会っていなかった父親から届いたメッセージ
父親について、前原さんは中学生のころから長く会っていなかったと話しています。
再び接点が生まれたのは、前原さんが養成所生活を経て芸能事務所へ所属したころでした。
父親からFacebookを通じて連絡が届き、その後、大河ドラマへの出演が決まった際にも短いメッセージが送られてきたそうです。
家族について検索すると、同じ「前原」という名字を持つ俳優・前原瑞樹さんとの関係を気にする人も少なくありません。
しかし、前原瑞樹さん自身が前原滉さんについて「全く親戚ではない」と公式Xで明言しています。
名字が同じ俳優同士ではありますが、兄弟や親戚という関係ではありません。
前原滉の学生時代|サッカーをやめた後悔から俳優を志すまで
中学校までサッカーを続けた前原さんは、高校でも親友と一緒にプレーするつもりで進学先を選びました。
ところが、実際に高校生活が始まると、その予定は大きく変わります。
サッカー強豪の工業高校へ進むも部には入らなかった
進学したのは、サッカーの強豪として知られる工業高校でした。
前原さん自身が複数のインタビューで「工業高校出身」と話しており、サッカー部が全国大会を狙えるレベルだったことも振り返っています。
ところが、部員が丸刈りにする決まりを知り、前原さんは入部しませんでした。
小中学校で約9年間続けたサッカーを、高校では続けない選択をしています。
そのまま高校生活を送る一方、小学校時代からの親友は約束どおりサッカー部へ入り、やがて部長を務めるまでになりました。
前原滉さんは本人インタビューで「工業高校」と明かしていますが、公開されている本人インタビューや所属事務所プロフィールでは学校名そのものまでは示されていません。
親友の全国大会出場を見て「自分も挑戦したかった」
高校3年生になるころ、親友が所属するサッカー部は全国大会への出場を決めました。
同じ高校へ進みながら、自分はそのチームに加わらなかった前原さんの中には後悔が残りました。
自分も何か挑戦しておけばよかった
出典:ENCOUNT「名バイプレーヤー前原滉、全国レベルのサッカー強豪校進学も“丸刈り”イヤで入部しなかった10代」(2024年12月20日)
このころは卒業後の進路も考える時期に入っていましたが、工業高校で学んだからといって就職したいとは思えず、何をするか決めかねていました。
サッカーを続けなかったことへの後悔を抱えていた時期に、次の挑戦として浮かんだのが俳優でした。
母親と仙台で観た舞台から俳優という仕事へ
進路を迷っていた高校時代、母親に誘われて仙台で舞台を観に行きました。
前原さんが覚えていたのは、主演が佐藤隆太さんだったことと、舞台上の出演者たちが楽しそうに見えたことでした。
「これを仕事にしている人たちは楽しそうだ」と感じたことが、俳優という職業へ興味を持つきっかけになりました。
後年のインタビューでは、その舞台を佐藤隆太さん主演の『ビロクシー・ブルース』だったと振り返っています。
観劇時の学年には資料による差があります。後年のインタビューでは「高校3年」と振り返っていますが、『ビロクシー・ブルース』の仙台公演は2009年3月4日に行われており、生年月日から通常の進級時期を当てはめると一致しません。確実に確認できる範囲として、ここでは高校時代に母親との舞台観劇をきっかけに俳優を意識したことまでを扱います。
2017年の本人インタビューでは舞台名自体を覚えていないと話していたため、年月よりも、母親との観劇が進路を考える直接のきっかけになったことが一貫して語られている部分です。
高校卒業後は俳優養成所へ|仙台から東京へ通った1年間
舞台を観て俳優へ興味を持った前原さんでしたが、高校卒業後にいきなり芸能事務所へ所属したわけではありません。
まず選んだのは、演技を学ぶための養成所でした。
ここから事務所所属までには、およそ4年の時間がかかります。
母親が見つけたトライストーン・アクティングラボへ入所
高校卒業を控えた前原さんは、当初、東京でアルバイトをしながら劇団へ入るような進路を考えていました。
その話を聞いた母親が見つけてきたのが、俳優養成所トライストーン・アクティングラボの募集でした。
高校を卒業した2011年、前原さんはトライストーン・アクティングラボへ入所します。
大学名を公表した本人・所属事務所の資料は確認できず、高校卒業後の具体的な進路として本人が語っているのは、この養成所への入所です。
舞台を観たことをきっかけに「俳優になりたい」と考え始めた前原さんに対し、母親はそのための現実的な入口を探していました。
仙台でアルバイトをしながら週1回東京へ
養成所へ入ったからといって、最初から東京で生活したわけでもありませんでした。
入所後の1年間は仙台に住み続け、地元でアルバイトをしながら東京で行われるレッスンへ通っていました。
週に1度、仙台から東京まで移動して演技を学ぶ生活を続けています。
夜行バスを利用して東京へ向かり、レッスンを終えれば再び仙台へ戻るという生活でした。
翌2012年ごろになって東京へ移り、本格的に養成所生活を続けるようになります。
高校卒業後の流れ:2011年に養成所へ入所 → 約1年間は仙台でアルバイトをしながら東京へ通う → 2012年ごろに上京して養成所生活を継続。
上京後も結果が出ず、養成所では「窓際」だった
東京へ移ればすぐに状況が変わったわけではなく、むしろ養成所では長い間ほとんど目立てませんでした。
2年くらいは、完全な窓際でした。
出典:GOETHE「前原滉『養成所時代は窓際族。道が拓けた転機はヒッチハイクだった』」(2024年11月28日)
後に講師から、当時の前原さんはレッスンに来て言われたことをやり、そのまま帰っていくため「そのうち辞めると思っていた」と聞かされたそうです。
本人にも芝居が上達している実感はなく、周囲の生徒が前へ進む中で、自分だけ何も変わっていないように感じていました。
養成所へ通い始めてから2年ほどがたつころには、辞めることも考えるようになります。
俳優をやめかけた前原滉を変えたヒッチハイク
芝居が思うように上達せず、養成所を辞めることまで考えていた前原さんは、演技とは直接関係のない行動に出ました。
自分の中に残っていた人見知りを変えるため、突然ヒッチハイクへ出ることにしたのです。
人見知りを変えるため「西へ」の紙を持って旅に出る
前原さんは紙に「西へ」と書き、車に乗せてもらいながら西日本を目指しました。
2015年のインタビューでは鹿児島まで到達したと振り返っており、知らない人へ自分から話しかけなければ何も進まない旅でした。
車に乗せてくれた人たちと話してみると、それぞれが仕事や家庭、人間関係など、自分には想像できなかった事情を抱えていました。
前原さんはそこで、自分が抱えていた悩みや「俳優にならなければならない」という思い込みを以前とは違う距離から見るようになります。
このヒッチハイクから戻った後、養成所での前原さんの行動が変わりました。
言われたことをこなすだけの芝居をやめる
それまでの前原さんは、講師から与えられた課題を指示どおりにこなすことが中心でした。
ヒッチハイク後は、台本や課題に書かれていないことでも、自分で考えて試すようになります。
若者の役を演じる課題で、あえて老けたメイクや衣装を用意するなど、まず講師や周囲の記憶に残る方法を考えました。
「正解をやる」ことより、自分なりの芝居を持ち込むようになったことで、養成所内での見られ方も変わっていきます。
旅そのものが演技技術を教えたわけではありませんが、知らない人の話を聞き、自分から動かなければ進まない状況を経験したことで、レッスンへの向き合い方が変わりました。
マネージャーの目に留まり所属へ近づく
トライストーン・アクティングラボでは、養成所生の中からマネージャーが所属候補者を見る機会がありました。
以前は目立たなかった前原さんも、レッスンで自分なりの工夫を見せるようになり、少しずつ候補として見られる位置へ進みます。
ただ、入所から所属までの時間は短くありませんでした。
僕にとっては4年が必要だったと思うんです。
出典:Deview「インタビュー『前原滉』」(2017年3月1日)
養成所へ入った2011年から、正式にトライストーン・エンタテイメントへ所属する2015年まで、前原さんは約4年間レッスンを続けました。
所属が決まる直前には、養成所を離れて外で劇団を作ることまで考えていたと後年のインタビューで明かしています。
前原滉が俳優として歩き始めるまで|養成所生から事務所所属へ
前原さんの経歴は、「養成所へ入った年」と「最初に舞台へ出た年」と「芸能事務所へ所属した年」が同じではありません。
俳優としての始まりを一つの年だけで表すより、養成所生として現場へ出始め、オーディションを経て正式所属をつかむまでを順番に見る方が実際の流れに近くなります。
養成所時代から舞台・テレビの現場へ
正式所属前から、前原さんには出演経験がありました。
少なくとも2013年1月には東京スピカの舞台『話半分』へ出演していた記録があります。
2014年には日本テレビ系スペシャルドラマ『奇跡の教室~その時、仏が舞い降りた!~』へ出演し、この作品は後の媒体でテレビドラマのデビュー作として紹介されています。
つまり、トライストーン・エンタテイメントへ正式所属する前から、舞台や映像の現場には立ち始めていました。
前原滉さんの「デビュー年」は資料によって扱いが異なります。2013年には舞台出演、2014年にはテレビドラマ出演が確認でき、トライストーン・エンタテイメントへの正式所属は2015年6月です。そのため、この記事では一つの年へまとめず、出演開始と事務所所属を分けて整理しています。
『S-最後の警官-』がトライストーン所属への足掛かりに
正式所属へ近づいていたころ、前原さんが受けたのが映画『S -最後の警官- 奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE』のオーディションでした。
募集されていたのはテロリスト役で、前原さんは役について自分なりに考え、オーディションへ白衣を持参しました。
だったらテロリストの中に科学班みたいなヤツもいるんじゃないか?
出典:Deview「インタビュー『前原滉』」(2015年7月29日)
劇中では実際に白衣姿が採用され、オーディションで考えた人物像が作品へ取り入れられました。
養成所時代に「自分から何かを持ち込む」ようになった前原さんが、実際のオーディションでも同じように役へのアイデアを持ち込んでいた場面です。
2015年6月3日、前原さんはトライストーン・アクティングラボからトライストーン・エンタテイメントへの正式所属が発表されました。
養成所側も後に、『S-最後の警官-』への出演が所属への足掛かりになったと紹介しています。
映画自体の公開は2015年8月29日で、所属発表より後ですが、オーディションと撮影はその前に進んでいました。
養成所へ入って約4年、ようやく前原さんは所属俳優として仕事を続ける立場をつかみます。
『あゝ、荒野』で初めて大きな役を任される
事務所所属後も、小さな役を重ねる時期が続きました。
その中で前原さん自身が大きな仕事として振り返っているのが、2017年公開の映画『あゝ、荒野』です。
前原さんが演じたのは、新宿新次やバリカン建二が所属するボクシングジムの仲間・川崎敬三でした。
それまでに比べてセリフも出番も多い役を初めて任され、長いセリフを抱えて撮影へ臨みました。
現場では岸善幸監督から演出を受け、菅田将暉さんら出演者と長期間撮影を共にしています。
作品の公開後、前原さんは映画関係者などから声をかけられる機会が増えたと振り返っています。
養成所で「役名のある仕事」を目指していた時期から数年を経て、作品の中でまとまった役割を任される段階へ進みました。
『まんぷく』『あなたの番です』へと出演が続く
その後、前原さんの名前をより広く知られるきっかけになった作品の一つが、2018年に放送が始まったNHK連続テレビ小説『まんぷく』でした。
演じたのは、立花萬平が塩作りのために集めた若者たち、通称「塩軍団」の一人である小松原完二です。
出演者の多い場面でも、それぞれの人物が少しずつ違った個性を持つ中で、小松原として長期間撮影へ参加しました。
2019年には日本テレビ系『あなたの番です』へ出演し、マンションの新しい管理人となる蓬田蓮太郎を演じています。
蓬田は物語の途中から登場する人物で、前任の管理人とは異なる軽い調子を見せながら、住人たちの間へ入っていく役でした。
『あゝ、荒野』でまとまった役を経験し、『まんぷく』『あなたの番です』と出演が続くころには、テレビドラマを通じて前原滉さんを知る視聴者も増えていきました。
2011年に仙台から週1回東京へ通い始めた養成所生活を経て、事務所所属をつかみ、作品の中で役名を持って継続的に出演する俳優として仕事を重ねていきました。
















