江口のりこの生い立ち|双子の姉と家族、若い頃から女優になるまで

江口のりこの生い立ちを紹介する、本人をイメージした肖像風ビジュアルと「双子の姉と家族、若い頃から女優になるまで」のタイトル文字

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
えぐちのりこ
カテゴリー
女優
出身地
兵庫県
生年月日
1980年4月28日
芸能活動開始
1999年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

映画『月とチェリー』で初主演を務め、ドラマ『半沢直樹』や『ソロ活女子のススメ』などでも知られる江口のりこさんは、1980年4月28日に兵庫県で生まれました。

双子の姉を含む5人きょうだいの家庭で育ち、中学校を卒業したあとは高校へ進学せず、アルバイトをしながら映画館へ通っていたそうです。

そんな江口さんが女優になるために上京したとき、手元にあったお金は約2万円でした。

住む場所も決めずに東京へ向かい、新聞配達をしながら劇団で芝居を学ぶ生活が始まります。

今回は、そんな江口のりこさんの生い立ちや家族、学生時代、若い頃のアルバイト生活、女優を目指したきっかけ、映画デビューまでをご紹介します。

江口のりこの生い立ち|明石市から姫路・夢前町へ

江口のりこさんは、1980年4月28日に兵庫県明石市で生まれました。

兵庫県姫路市の出身として紹介されることもありますが、幼少期には県内で何度も引っ越しを経験しています。

家族と一緒に暮らした地域には、明石市や加古川市、旧夢前町などがありました。

明石市に生まれ、引っ越しを重ねた幼少期

江口さんが子どもの頃、家族は父親の意向もあって引っ越しを繰り返していました。

生まれた明石市や、それ以前に暮らしていた地域には親しみを感じていましたが、小学校の途中から住むことになった土地は、あまり好きになれなかったそうです。

その地域を離れたいという気持ちは、子どもの頃から持っていました。

ただ、学校生活そのものが嫌だったわけではありません。

学校には面白い友達や好きな先生がいて、部活動にも楽しさを感じていました。

2024年のSTORYのインタビューでは、当時住んでいた地域について、なぜその場所なのだろうと感じていたことを振り返っています。

江口さんの幼少期を語るうえで、もう一つ欠かせないのが、自然に囲まれた環境です。

旧夢前町は、現在の姫路市北部にあたる地域です。

江口さんは山に囲まれた田舎で育ったことを、後年のインタビューでも繰り返し話しています。

2024年の宝島社のインタビューでは、山が周囲を取り囲み、少し行くと海もある土地だったと振り返っていました。

きょうだいや近所の子と外で遊んだ子ども時代

幼い頃の江口さんは、家の中で静かに過ごすよりも、外で遊ぶことが好きな子どもでした。

双子の姉と一緒に近所の子どもたちを誘い、ゴム跳びやドッジボール、鬼ごっこ、缶蹴りなどをして遊んでいたそうです。

ローラースケートが流行したときには、朝5時ごろから外へ出て滑ったこともありました。

学校が終わってからも、暗くなるまで遊び続ける毎日でした。

2024年の東京新聞のインタビューでは、きょうだいと過ごした子ども時代を楽しそうに振り返っています。

田んぼや山が身近にあり、子ども同士で遊びを見つけられる環境だったのでしょう。

一方で、家に帰ると兄2人、双子の姉、妹が待っていました。

5人きょうだいの中での江口さんの立場や、それぞれとの関係には、本人が語った印象的なエピソードが残されています。

江口のりこの家族|父親・母親と双子の姉、5人きょうだい

江口のりこさんの家族は、父親、母親、兄2人、双子の姉、本人、妹という構成です。

江口さんは5人きょうだいの4番目で、双子の姉がいます。

2024年の東京新聞のインタビューでは、両親やきょうだいの性格、子どもの頃の家庭内での出来事について詳しく語っていました。

父親の考え方と進路を任せてくれた両親

江口さんの父親は、子どもが必ず高校へ進学しなければならないとは考えていなかったそうです。

江口さんが中学卒業後に働くことを選んだときも、本人の意思を尊重していました。

2020年に婦人公論へ掲載されたインタビューでは、父親が学校へ行きたくないなら無理に行く必要はないという考え方だったことを話しています。

実際に一番上の兄も高校へ進学せず、働き始めていました。

こうした家庭環境もあり、江口さん自身は高校へ進まないことを特別な決断とは感じていなかったそうです。

母親については、明るく活動的な女性だったと語っています。

母親は部屋の模様替えが好きで、家具を一人で動かすこともありました。

ピアノを移動させたこともあり、子どもたちが朝起きると部屋の景色がすっかり変わっていたそうです。

さらに、家を少しでも広くしようと柱を切ってしまったこともありました。

もう一本切ろうとして設計士に相談したところ、その柱は建物にとって重要だからと止められたという話も残っています。

江口さんは、母親のこうした行動を2024年の東京新聞のインタビューで紹介していました。

家族全員が同じ方向へ進むことを求められる家庭ではなく、それぞれが自分で選んだ道を進んでいたようです。

2人の兄と妹との思い出

江口さんには、4歳上と2歳上の兄がいます。

子どもの頃は、兄2人の言うことが家庭内で大きな力を持っていたそうです。

兄たちがファミコンで楽しそうに遊んでいても、江口さんたち妹には使わせてくれないことがありました。

一方で、兄たちは年下のきょうだいの面倒を見ることもありました。

江口さんが一番下の妹に意地悪をして泣かせると、長兄が江口さんを叱ることがあったそうです。

2024年のSTORYのインタビューでは、長兄とのそんなやり取りを振り返る一方、次兄については優しかったと話しています。

妹は、上の4人の様子を見ながら育ちました。

江口さんによれば、妹は人に甘えることが上手でありながら、冷静な一面も持っているそうです。

子ども時代には、部屋に二段ベッドが2つあり、兄2人と江口さん、双子の姉がそれぞれ使っていました。

一人になりたいときや悔しくて泣くときには、ベッドの上で過ごしていた記憶があると語っています。

また、5人きょうだいならではの思い出が誕生日のケーキです。

家族の人数が多いため、切り分けられたケーキがとても細くなるのを残念に感じていたそうです。

江口さんは、子どもの頃の思い出には必ず兄や姉、妹が登場すると東京新聞のインタビューで語っています。にぎやかな5人きょうだいの生活は、本人にとって忘れられない記憶として残っているようです。

双子の姉との関係とそれぞれの性格

江口さんの家族について、特に検索されているのが双子の姉の存在です。

2人は顔が似ていますが、性格には違いがあるそうです。

江口さんは姉について、自分より社交的でおおらかなしっかり者だと語っています。

同じ日に生まれた双子でも、江口さんには姉が年上という意識がありました。

2024年の東京新聞のインタビューでは、姉との関係について次のように話しています。

双子ですが、姉という意識は絶対的にありました。

出典:東京新聞「俳優 江口のりこさん 5人きょうだいは縦社会 切り分けた誕生日ケーキはすごく細くて」(2024年8月25日朝刊)

例えば、母親が料理をしていると、姉が先に手伝いに行くため、江口さんは自分が手伝うことを諦めてしまったそうです。

自転車で一緒に出かけるときも、先頭を走るのはいつも姉でした。

2024年3月の『徹子の部屋』では、アメリカに暮らす姉を訪ねたときの話も披露しています。

姉は2人の子どもを育てていて、江口さんはその忙しい生活を間近で見ました。

自由に使える時間の多い自分と、子育てに追われる姉の生活が大きく違っていることを感じたそうです。

また、姉の子どもが顔の似ている江口さんを母親と間違えたこともありました。

双子の姉は芸能活動をしている人物として紹介されているわけではなく、江口さんが家族について語る中でその存在が知られています。

なお、俳優の安藤サクラさんと江口さんは顔立ちが似ていると話題になることがありますが、双子の姉妹ではありません。

江口さんの双子の姉は、本人が家族について語った実際の姉です。

江口のりこの学歴・学生時代|陸上部から高校へ進まない選択

江口のりこさんは、小学校と中学校を兵庫県で過ごしました。

その後、高校には進学せず、中学校卒業後から働き始めています。

勉強が好きではなかったことに加え、早く自分でお金を稼ぎたいという思いがありました。

中学校では陸上部に所属し、映画を見るように

江口さんは中学校で陸上部に入り、長距離走に取り組んでいました。

部活動そのものが楽しく、顧問の先生についても、厳しいけれど面白い人だったと振り返っています。

2024年のENCOUNTのインタビューでは、学校の授業よりも部活動に楽しさを感じていた当時のことを語っています。

そんな中学生時代、家で映画を見ることが楽しみの一つになりました。

当時は映画館へ自由に通えるほどのお金がなかったため、NHKのBSなどで放送される映画を見ていました。

そこで江口さんは、映画の中に登場する人物たちがさまざまな人生を生きていることに興味を持ったそうです。

映画に出演する人たちを見ながら、自分もその世界へ入ってみたいと考えるようになりました。

まだ演劇部に所属した経験はなく、芝居を習っていたわけでもありません。

映画を見て面白いと感じることから、俳優という仕事に興味が向かっていきました。

高校へ進学せず働くことを選んだ理由

中学3年生になると、多くの同級生が高校進学を考える時期を迎えました。

しかし、江口さん自身には勉強を続けたいという気持ちがありませんでした。

2019年7月23日号の婦人公論に掲載されたインタビューでは、当時の気持ちを次のように話しています。

もうこれ以上勉強したくない

出典:婦人公論「高校へは進まずに女優を目指して」(2019年7月23日号、2020年8月17日Web掲載)

江口さんの家庭には、子どもたちへ必ず高校へ行くよう求める雰囲気はありませんでした。

学校の担任教師からは進学するよう説得されたものの、本人の考えは変わらなかったそうです。

当時の江口さんが望んでいたのは、早く働いて自分で使えるお金を持つことでした。

家には決まったお小遣い制度がなかったため、お金が必要なら自分で稼ぎたいと考えていました。

すでに映画や演技への興味もあったので、働きながら自分の進みたい道を探していくつもりだったのでしょう。

実際に江口さんは中学卒業後、春休みのうちから仕事を探し始めました。

駅前を歩き、アルバイト募集の貼り紙がある店へ自分から声をかけていたそうです。

江口さんは高校にも大学にも進学せず、15歳で社会に出る道を選びました。

その頃に始まったアルバイト生活は、18歳の終わりまで続くことになります。

江口のりこの若い頃|アルバイトを転々とした芸能界入り前

中学を卒業した江口さんは、兵庫県内でさまざまなアルバイトを経験しました。

仕事をしてお金を稼ぐ一方、休日には一人で神戸の映画館へ出かけていました。

女優として活動を始める前の10代後半は、働くことと映画を見ることが生活の中心になっていた時期です。

うどん屋やカラオケ店で働いた10代

江口さんが最初に働いたのは、商店街にあったうどん屋でした。

ところが、その仕事は約1か月で辞めてしまったそうです。

お金を稼ぐために働き始めたものの、仕事中に自分はなぜここで働いているのだろうと考えることがありました。

その後はカラオケ店で働き、受付や掃除、簡単な調理などを担当しました。

当時の時給は800円台で、江口さんは自分なりに仕事を選ぶ際の最低ラインを決めていたそうです。

ただ、カラオケ店も長くは続かず、約2か月半で退職しています。

続いてレストランでウェイトレスとして働き、洋服店やレコード店なども経験しました。

レストランには気になる男性客がいて、思い切って手紙を渡したこともあったそうです。

その男性が仕事の都合で店へ来なくなると、江口さんもレストランを辞めてしまったと振り返っています。

こうした若い頃のアルバイトについては、婦人公論のインタビューで自ら詳しく話していました。

働き始めてからも、地元の同級生と積極的に会うことはなかったそうです。

高校へ進学した友達に、仕事を転々としている自分を見られることが恥ずかしいと感じていました。

また、働いて得たお金の一部を母親へ渡したり、兄へ貸したりすることもありました。

何度も職場を変えながら働いていましたが、まとまった貯金はなかなかできなかったそうです。

神戸の映画館へ通い続けた日々

アルバイト生活の中で江口さんが楽しみにしていたのは、映画館へ行くことでした。

仕事が休みの日や早く終わった日には、神戸まで出かけて映画を見ていました。

多いときには週に2回ほど、一人で映画館へ通っていたそうです。

特に気に入っていたのが、アサヒシネマと神戸アートビレッジセンターでした。

映画のジャンルや出演俳優で選ぶというより、好きな映画館で上映される作品を見ていたと語っています。

神戸の映画館で多くの作品に触れるうちに、映画を見るだけでなく、自分もその中へ入る方法を考えるようになりました。

映画に出演するには、どこへ行けばよいのでしょうか。

芸能事務所や映画のオーディションについて詳しい知識があったわけではありません。

江口さんが思いついた方法は、劇団に入ることでした。

映画の世界に入りたいという気持ちから、劇団のことを調べ始めたのです。

そこで江口さんは図書館へ通い、さまざまな劇作家の戯曲を読むようになりました。

江口のりこが女優を目指したきっかけ|岩松了の戯曲との出会い

江口さんが入団先として選んだのは、俳優の柄本明さんが座長を務める劇団東京乾電池でした。

劇団を選ぶまでには、図書館で出会った戯曲や、映画で見ていた俳優たちの存在がありました。

江口さんは、舞台特有の大げさな表現には少し恥ずかしさを感じていたそうです。

図書館で見つけた岩松了の戯曲

演技を始める方法を探していた江口さんは、図書館で多くの戯曲を読みました。

しかし、演劇の台詞には日常生活と大きく異なるものもあり、実際に人前で演じることを想像すると気恥ずかしさを感じていたそうです。

そんな中、江口さんが気に入ったのが劇作家・岩松了さんの作品でした。

岩松さんの戯曲は、普段の会話に近い自然な言葉で人物が話していると感じられたそうです。

2024年のSTORYのインタビューでは、そのときの気持ちを次のように表現しています。

コレだったら恥ずかしくなくできるかな?

出典:STORY「江口のりこさん(44歳) 2万円を握りしめて東京へ。女優を志したのは中学生から…その半生とは」(2024年8月24日)

岩松さんは、劇団東京乾電池で脚本や演出に関わっていた人物です。

また、江口さんが映画でよく見ていた柄本明さんやベンガルさんも、この劇団に関係していました。

好きな戯曲を書いた人と、映画で親しんでいた俳優たちが同じ劇団につながっていたことが、入団先を決める理由になりました。

演技の専門学校に通った経験も、子役として活動した経験もありませんでしたが、江口さんは研究生になるための試験に挑むことにしました。

劇団東京乾電池に応募し、約2万円で上京

江口さんは18歳の終わりごろ、劇団東京乾電池の研究生試験を受け、合格しました。

そして1999年4月28日、19歳の誕生日に劇団の入所式へ出席するため、兵庫県から東京へ向かいました。

そのとき持っていたお金は、アルバイトで貯めた約2万円だけでした。

東京で住む場所も決まっておらず、上京後の仕事も見つかっていませんでした。

それでも江口さんは、不安よりも、ようやく自分の好きなことができるという気持ちの方が大きかったと語っています。

入所式では、住むところがないので一晩泊めてくれる人はいないかと、同期の研究生たちに声をかけました。

すると、一人の女性が自宅へ招いてくれることになりました。

その日は江口さんの誕生日でもあったため、相手の女性がお祝いしてくれたというエピソードも残っています。

翌日、江口さんは住み込みで働ける仕事を探し始めました。

こうして、兵庫県でアルバイトをしながら映画館へ通っていた少女の生活は、東京で芝居を学ぶ日々へと変わりました。

劇団東京乾電池で演技を学ぶ|新聞配達と柄本明の教え

上京した江口さんは、劇団東京乾電池の研究生として演技を学び始めました。

その一方で、自分の生活費を稼がなければなりませんでした。

住み込みの新聞配達をしながら稽古へ通い、劇団の座長である柄本明さんから芝居を学ぶことになります。

1999年に研究生となり、2000年に正式入団

江口さんが劇団東京乾電池の研究生になったのは1999年です。

その後、約1年間の研究生生活を経て、2000年に正式な劇団員となりました。

1999年の研究生入りが演技を学び始めた時期で、2000年が劇団への正式入団年にあたります。

東京乾電池に入る以前、江口さんには演劇部で活動した経験がありませんでした。

そのため、劇団に入って初めて本格的に芝居を教わることになりました。

座長の柄本明さんは、1976年に劇団東京乾電池を旗揚げした俳優です。

舞台だけでなく映画やテレビドラマにも出演していた柄本さんの姿を、江口さんは中学生の頃から見ていました。

映画の中にいた俳優から、実際に演技を学ぶようになったのです。

劇団では稽古や公演を通じて経験を積み、その後も舞台へ出演し続けました。

2019年には、北村想さん作、柄本明さん演出の舞台『寿歌』に出演しています。

劇団東京乾電池の公式Xには、江口さんや共演者たちを紹介した当時の投稿が残されています。

映画やテレビドラマへの出演が増えたあとも、江口さんは劇団での活動を続けてきました。

住み込みの新聞配達と風呂なしアパートでの暮らし

東京へ来た江口さんが最初に選んだ仕事は、新聞配達でした。

住み込みで働ける新聞販売店を探し、飯田橋にある販売店で採用されました。

朝は4時ごろに起き、自転車で販売店へ向かいました。

その日に配る新聞へ折り込みチラシを入れ、部数を数えてから配達に出かける生活です。

江口さんは、新聞配達の仕事を約1年間続けました。

その後、まとまったお金を受け取り、アパートを借りて暮らすようになります。

初めて借りた部屋は約3畳で、お風呂もありませんでした。

別の時期に暮らしていたアパートは、家賃が2万6000円ほどで、トイレも共同だったそうです。

江口さんは2024年の『徹子の部屋』で、風呂のない部屋で生活していた頃のことを振り返っています。

当時はお金を節約するため、銭湯へ行くことも少なかったそうです。

新聞配達で得たお金についても、できるだけ長く使うつもりで生活していたと話しています。

劇団の稽古だけではなく、映画やドラマのオーディションにも参加する必要があったため、時間の使い方にも気を配っていました。

決まった時間にアルバイトを入れると、急なオーディションを受けられなくなることがあります。

そのため、新聞配達を終えてからは、できる限り別のアルバイトをせずに俳優の仕事を目指す生活を選びました。

中学卒業後にはいくつもの仕事を経験していた江口さんですが、劇団へ入ってからは芝居を中心に暮らすようになりました。

柄本明との出会いと芝居で学んだこと

劇団東京乾電池で江口さんに大きな影響を与えた人物が、座長の柄本明さんです。

江口さんは2025年の双葉社THE CHANGEのインタビューで、19歳のときに柄本さんと出会ったことを、俳優人生の重要な出来事として挙げています。

柄本さんからは演技の技術だけでなく、人間を演じることの難しさを学んだそうです。

また、生活面でのアドバイスを受けたこともありました。

江口さんが仕事のことで悩んでいたとき、柄本さんから睡眠をきちんと取るように言われたことがあったそうです。

そのときの柄本さんの言葉を、2025年のインタビューで次のように紹介しています。

あんたね、寝なきゃダメだよ

出典:双葉社 THE CHANGE「江口のりこ『人として基本的なことを学んだ』師・柄本明の“忘れられない言葉”と原点にかえった作品との出合い」(2025年5月13日)

江口さんは、それ以来、睡眠を十分に取ることを意識するようになったそうです。

また、柄本さんの芝居を見ること自体も勉強になりました。

芝居の技術を言葉で教わるだけでなく、目の前で演じる姿から学んだことも多かったと語っています。

江口さんにとって柄本さんは、映画で見て憧れていた俳優であると同時に、演技を始めた時期から関わり続けてきた師匠でもあります。

双葉社THE CHANGEのインタビュー映像でも、19歳で劇団に入り、柄本さんと出会ったことを振り返っています。

そして劇団での活動を続けながら、映画出演の機会が訪れました。

江口のりこの女優デビューと転機|映画初主演から舞台での評価へ

江口のりこさんは2002年、三池崇史監督の映画『金融破滅ニッポン 桃源郷の人々』で映画デビューしました。

その後、2004年には映画初主演を経験し、映画・ドラマ・舞台へと活動の場を広げていきます。

劇団で演技を学び始めてから、映画の主演やテレビドラマの主演を務めるまでには、それぞれ異なる節目がありました。

2002年『金融破滅ニッポン 桃源郷の人々』で映画デビュー

江口さんの映画デビュー作は、2002年公開の『金融破滅ニッポン 桃源郷の人々』です。

監督は三池崇史さんで、江口さんは劇団での演技活動を経て映画の世界へ進みました。

2002年は映画デビューの年であり、演技を始めた年とは異なります。

江口さんはその前から劇団東京乾電池で芝居を学んでおり、舞台での活動を経験していました。

映画出演後は『ジョゼと虎と魚たち』『着信アリ』などの作品にも出演しています。

どちらも2000年代前半に公開された作品で、江口さんが映画で経験を積んでいた時期にあたります。

当初から主演俳優として活動していたわけではなく、さまざまな役柄を演じながら出演機会を増やしていきました。

2004年『月とチェリー』で映画初主演

2004年、江口さんはタナダユキ監督の映画『月とチェリー』で初主演を務めました。

『月とチェリー』は、大学の映画サークルに所属する青年と、官能小説を書く女性との関係を描いた作品です。

江口さんが演じたのは、作家として活動する女性・真山葉月でした。

この作品は、江口さんにとって初めて主演として映画を担った重要な一本です。

所属事務所の公式プロフィールでも、『月とチェリー』が映画初主演作品として紹介されています。

その後も映画への出演を続け、2006年には『お姉ちゃん、弟といく』で第2回CO2女優賞を受賞しました。

映画初出演から数年の間に、主演と演技賞の受賞を経験したことになります。

しかし、江口さんの活動は映画だけに限られませんでした。

劇団での活動を続けながら、テレビドラマでも役を演じるようになっていきました。

『時効警察』『半沢直樹』を経て民放ドラマ主演へ

江口さんの出演作品の中でも、テレビドラマ『時効警察』シリーズは初期からの代表的な作品の一つです。

2006年に始まった同シリーズでは、時効管理課の警察官・サネイエ役を演じました。

独特な会話や間の取り方が特徴の作品で、江口さんもシリーズを通じて出演しています。

映画やドラマでさまざまな役を演じてきた江口さんが、広く注目されるきっかけの一つになったのが、2020年のドラマ『半沢直樹』です。

同作では、国土交通大臣の白井亜希子を演じました。

白井は強い言葉で相手を追い詰める政治家で、江口さんが演じる姿も大きな話題になりました。

この作品では、劇団東京乾電池の座長である柄本明さんも出演しています。

TBSの公式コメントでは、柄本さんが江口さんとのドラマ初共演を楽しみにしていると語っていました。

1999年に演技を教わり始めた相手と、約20年後にテレビドラマの同じ作品へ出演したことになります。

そして2021年、江口さんはテレビ東京の『ソロ活女子のススメ』で民放ドラマ初主演を務めました。

演じたのは、一人でさまざまな体験を楽しむ主人公・五月女恵です。

同じ2021年には、フジテレビのドラマ『SUPER RICH』でも主演を務めています。

こちらは、江口さんにとってゴールデン・プライム帯の連続ドラマ初主演となりました。

1999年の劇団研究生入りから、2021年の民放ドラマ主演まで、20年以上の時間が流れていました。

さらに2021年には、映画『事故物件 恐い間取り』で第44回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞しました。

映画の公式Xには、授賞式の会場で撮影された江口さんの写真が残されています。

2024年には映画『愛に乱暴』で主演を務め、家庭内で次第に追い詰められていく女性・桃子を演じています。

同作のインタビューで江口さんは、最初から役のすべてを決めて演じるのではなく、共演者と芝居をしながら人物を見つけていったことを話していました。

2025年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞

映画やテレビドラマで主演を務めるようになったあとも、江口さんは舞台への出演を続けました。

2024年には、舞台『ワタシタチはモノガタリ』と『リア王』に出演しています。

『ワタシタチはモノガタリ』では、小説家になる夢を持ちながらWebライターとして働く40歳の女性を演じました。

一方、『リア王』では、父親を裏切る長女ゴネリル役を務めています。

この2作品での演技が評価され、2025年に第75回芸術選奨文部科学大臣新人賞の演劇部門を受賞しました。

文化庁の贈賞理由では、2つの異なる役柄を演じた江口さんの表現が評価されています。

特に、『ワタシタチはモノガタリ』での関西弁を使った自然な演技と、『リア王』で演じたゴネリルの存在感が挙げられました。

中学生の頃にテレビで映画を見て俳優に興味を持ち、1999年に劇団で演技を学び始めた江口さんは、映画・テレビドラマ・舞台で経験を重ねてきました。

2025年の芸術選奨新人賞は、劇団で芝居を始めた江口さんが、舞台での演技によって受けた大きな評価の一つとなりました。