PROFILE
人物プロフィール
ドラマ『HERO』の遠藤賢司役や『トリビアの泉』の司会で知られる俳優・八嶋智人さんは、奈良県奈良市で育ち、1990年に劇団カムカムミニキーナを旗揚げした俳優です。
出身大学は早稲田大学と間違えられることがありますが、実際に進学したのは日本大学文理学部で、早稲田大学では演劇サークルに参加していました。
テレビで見せる軽快なしゃべりや明るい表情の一方、俳優としての出発点は、奈良の中学生だった頃に一人で足を運んだ大阪の小劇場にあります。
さらに、実家は東大寺大仏殿の裏手にあり、母親や祖父も東大寺と深い縁を持っていました。
八嶋さんの生い立ちや家族、学生時代、演劇に出会ったきっかけ、劇団旗揚げから俳優として活躍するまでの道のりをたどります。
八嶋智人は奈良市・東大寺近くで育った
八嶋智人さんは、1970年9月27日、奈良県奈良市に生まれました。
観光客が訪れる奈良公園や東大寺は、八嶋さんにとって特別な旅行先ではなく、子どもの頃から慣れ親しんだ生活の場でした。
東大寺大仏殿の裏手にあった実家と奈良公園
2024年5月16日に公開されたLOVE Walkerのインタビューでは、幼少期を過ごした実家の場所について次のように話しています。
東大寺大仏殿の裏手辺りに実家があって
出典:LOVE Walker「俳優・八嶋智人さん『奈良公園は通学路。青春時代が詰まっています』」(2024年5月16日)
実家があったのは、奈良時代に建てられた国宝・転害門(てがいもん)のすぐ近くです。
少年時代には、家の近くにある転害門付近でボールの壁当てをして遊んでいました。
国宝のそばでボール遊びをしていたことを、大人になってから恐ろしいことだったと笑いながら振り返っています。
子どもの頃はボーイスカウトにも参加し、奈良公園の飛火野(とびひの)でキャンプの練習をしていました。
飛火野は春日大社と志賀直哉旧居の間に広がる草地で、八嶋さんはそこで飯ごう炊きをしたことも覚えています。
奈良公園の近くにある元興寺では、幼い頃に火渡りの行事へ参加したこともありました。
本人にとっては怖い体験だったそうで、燃えた草の上を歩くことを嫌がったのに歩かされたと話しています。
八嶋さんは、奈良公園の鷺池にある浮見堂も青春時代の思い出の場所として挙げています。若い頃には好きな女の子と訪れ、浮見堂のどこに座ろうかと悩んだそうです。
2013年には奈良市観光特別大使に就任しました。
幼少期を過ごした奈良の歴史や文化について、地元出身者ならではの思い出を交えながら紹介する活動も続けています。
祖母の詩吟をまね、人前で表現する楽しさを知る
八嶋さんが幼い頃から好きだったのは、人前で何かを披露することでした。
きっかけの一つとして挙げているのが、祖母の詩吟をまねた経験です。
祖母のまねをすると、周囲の大人たちが褒めてくれました。
その体験がうれしく、小学生になると学年集会や運動会で司会を務めるようになったといいます。
2021年12月に公開された月刊誌『ひととき』の回想では、子どもの頃についてこう話しています。
人前に出るのが好きで
出典:ほんのひととき「演じることは生きること(俳優・八嶋智人)|わたしの20代」(2021年12月27日)
一方、幼少期には人がいつか死ぬという事実に気づき、大きな衝撃を受けたこともあったそうです。
そこから、自分が生きていたことを誰かに覚えていてほしいと考えるようになりました。
人前に出るための手段は、最初から演劇に限られていたわけではありません。
子どもの頃に祖母のまねをして褒められた少年は、その後、音楽や舞台にも関心を向けていくことになります。
八嶋智人の家族|父親・母親・兄と東大寺の縁
八嶋智人さんが育った家族には、父親、母親、兄、そして祖父母がいます。
2023年2月27日放送のNHK『ファミリーヒストリー』では、両親や祖父母の歴史が紹介され、八嶋家と奈良・東大寺との深いつながりも明らかになりました。
父の好奇心と母の明るさ、両親の思い出
父親は、少年時代に古墳の堀で泳いだり、体育館の屋根でスキーをしたりするなど、好奇心旺盛な子どもだったそうです。
屋根でスキーをして怒られたというエピソードからも、思いついたことを行動に移す少年時代の様子がうかがえます。
八嶋さん自身も、父親から好奇心を、母親から明るさを受け継いだと紹介されています。
父親については、幼少期の忘れられない思い出があります。
親戚と和歌山の海へ遊びに行った際、岩場で遊んでいた八嶋さんと小さないとこが波にさらわれ、海へ落ちてしまいました。
岩場へ戻ろうとしても次の波が押し寄せ、なかなか上がれません。
そのとき、父親が海へ飛び込み、二人を抱えながら潮の流れに逆らわず安全な場所まで運んでくれたそうです。
2016年3月11日に公開された『アーロと少年』の声優インタビューで、この出来事を振り返っています。
僕の親父だけが飛び込んできたんです。
出典:アニメイトタイムズ「『アーロと少年』日本語吹替版キャストにインタビュー」(2016年3月11日)
八嶋さんの記憶には、当時の光景が映像のように残っているといいます。
母親は、近所の子どもたちの面倒を見たり、地域の親睦旅行を計画したりする世話好きな人でした。
地元では明るい「名物おばちゃん」として親しまれ、東大寺大仏殿でも働いていました。
一方で、母親の人生には苦しい時期もあり、東大寺での仕事が元気を取り戻すきっかけになったことが『ファミリーヒストリー』で紹介されています。
両親は初恋の相手同士で結婚した夫婦でした。
2015年に母親が74歳で亡くなる前には、骨折をきっかけに体が弱り、入院生活を送っていました。
その間、父親は毎日のように病院へ通い、母親に会っていたそうです。
2023年の『徹子の部屋』では、父親を大好きだった母親が幸せそうにしていたことを振り返っています。
同じ年に放送された『ファミリーヒストリー』を見た後には、本人のXにも母親を思う言葉が投稿されました。
母方の祖父と東大寺のお水取りの関係
八嶋家と東大寺の関係は、母親が大仏殿で働いていたことだけではありません。
母方の祖父は、東大寺で長く受け継がれてきた修二会(しゅにえ)、通称「お水取り」に関わっていた人物でした。
修二会は、奈良時代から続く東大寺の伝統行事です。
祖父はその行事で大切な役割を担い、仏教の精神に触れてきたことが『ファミリーヒストリー』で紹介されています。
また、父方の祖父についても、戦争前後で生活が大きく変わった歴史が明らかになりました。
戦前にはよく働いて稼いでいたものの、戦争から戻った後は、それまでの生活が一変したそうです。
八嶋さんが暮らした奈良の実家の周囲には、東大寺や古くからの街並みだけでなく、こうした家族の歴史もありました。
地元で暮らす兄について八嶋智人が語ったこと
八嶋智人さんには兄が一人おり、本人は男兄弟の弟です。
2021年のテレビ東京ドラマ『スナック キズツキ』に出演した際、兄弟について本人がコメントを寄せています。
演じた瀧井和也は、年の離れた弟との関係が描かれる人物でした。
その役柄と自身の家庭を比べ、実際には自分が弟であり、地元にいる兄に父親のことを任せていると説明しています。
そして、兄への感謝を込めて役を演じたいという思いも明かしていました。
東京で俳優として活動する弟と、奈良で父親を支える兄。
2021年の本人コメントには、兄弟それぞれの立場と、八嶋さんが兄に抱く感謝が表れています。
八嶋智人の小中高校時代|奈良女子大学附属で過ごした日々
八嶋智人さんは、小学校から高校まで奈良女子大学附属の学校に通っていました。
その学生時代に出会った一つの舞台が、後に俳優を目指す大きなきっかけになります。
奈良公園を自転車で通学した学生時代
出身高校は、奈良女子大学文学部附属高等学校です。
同校は、後に中高一貫の奈良女子大学附属中等教育学校へと改編されています。
2025年2月に放送されたテレビ大阪『大阪おっさんぽ』では、本人が小学校から高校まで奈良女子大学附属に通ったことを明かしました。
中学・高校時代は、奈良公園の中を自転車で横切って通学していたそうです。
観光地として知られる春日大社や興福寺、東大寺の周辺も、当時の八嶋さんにとっては毎日見慣れた景色でした。
同じ学校で出会った人物の中に、後に劇作家・演出家となる松村武(まつむら・たけし)さんがいます。
二人は中学・高校時代の同級生で、卒業後も東京で演劇活動をともにすることになりました。
八嶋さんは2023年6月に母校の小学校を訪れ、6年生たちへ「好きこそものの上手なれ」をテーマに話をしたこともXで紹介しています。
中学3年生で出会った南河内万歳一座の舞台
八嶋さんが本格的に演劇へ興味を持ったのは、中学3年生のときに大阪で小劇場の舞台を観たことでした。
観劇したのは、劇団・南河内万歳一座の『二十世紀の退屈男』です。
会場は大阪の扇町ミュージアムスクエアという小劇場でした。
2023年11月の演劇メディアAudienceの対談で、八嶋さんは当時を非常に細かく振り返っています。
奈良の中学生だった八嶋さんは、自分でチケットぴあを利用してチケットを購入し、一人で大阪へ向かいました。
梅田に到着すると、泉の広場から地上に出て、劇場へ向かいます。
開演まで時間があったため、「STAFF」という喫茶店に入りました。
これが人生で初めて入った喫茶店で、注文したアイスカフェオーレも初めて飲むものでした。
店内では大阪の演劇関係者たちが打ち合わせをしており、普段の生活とは違う雰囲気が広がっていたそうです。
劇場へ入ると、靴をビニール袋に入れ、ぎゅうぎゅうに詰められたベンチに座りました。
つぎはぎだらけの緞帳(どんちょう)があり、舞台が始まる前から初めて見る光景ばかりだったといいます。
そして始まった芝居には、プロレスの動きも取り入れられていました。
詩的な表現と大胆な身体表現が同居する舞台を観て、八嶋さんは強い衝撃を受けます。
訳がわからなかったけれど、すごく面白かった。
出典:演劇メディアAudience「板尾創路×八嶋智人、それぞれの視点から見る演劇の現在地」(2023年11月11日)
同じ頃には、野田秀樹さんが主宰する劇団・夢の遊眠社の『野獣降臨』も観劇していました。
内容をすべて理解できたわけではなくても、映画とは違う舞台の面白さに惹きつけられていきます。
この経験を通じて、自分も芝居をしたいと思うようになりました。
2023年には、子どもたちが演劇に触れる姿を見て、中学3年生だった自分の初観劇を思い出したこともXで明かしています。
高校時代のバンド活動と演劇への思い
思春期には、演劇だけでなく音楽にも挑戦していました。
バンドを組み、担当した楽器はサックスです。
本人は、当時は女の子にモテたいという気持ちもあったと率直に話しています。
しかし、管楽器のサックスでは演奏しながら歌うことができず、音楽以外の表現にも目を向けるようになりました。
人前で何かを表現したいという思いはありましたが、最初から俳優という職業だけを目指していたわけではなかったようです。
それでも中学時代の小劇場で受けた衝撃は大きく、高校卒業後には劇場の多い東京へ向かうことを選びました。
八嶋智人は日本大学へ進学|早稲田大学卒業と誤解された理由
1989年、八嶋智人さんは高校卒業後に奈良を離れて上京しました。
進学先は日本大学でしたが、演劇活動の中心となったのは早稲田大学の学生たちとの交流でした。
日本大学文理学部と早稲田大学の演劇サークル
八嶋智人さんが進学した大学は、早稲田大学ではなく日本大学文理学部です。
2022年5月放送の『なりゆき街道旅』では、本人が日本大学文理学部に入ったことを明かしています。
早稲田大学とのつながりは、中学・高校の同級生だった松村武さんから生まれました。
松村さんが早稲田大学に通っていたため、八嶋さんも一緒に早稲田大学の演劇研究会へ参加するようになったのです。
大学は別々でも、演劇活動では同じ仲間として行動していました。
さらに、二人が中心となって立ち上げた劇団カムカムミニキーナが早稲田大学の演劇サークルから誕生したことも、学歴を混同される原因となりました。
2025年2月の『大阪おっさんぽ』では、かつて本人が頼んだわけでもないのにプロフィールが早稲田大学卒業になっていた時期があったと説明しています。
本人は、誤った学歴が掲載されたことで学歴詐称のようになってしまったと、困惑した当時を振り返っていました。
大学と演劇活動の違い:大学の進学先は日本大学文理学部で、早稲田大学には演劇活動を通じて参加していました。カムカムミニキーナが早稲田大学の演劇サークルを母体としていることと、本人の出身大学は別の情報です。
また、大学時代の友人だった松村さんとの関係は、劇団旗揚げ後も長く続いています。
2025年には、松村武さん、中山祐一朗さんと写った同級生トリオの写真をXに投稿しました。
奈良県人寮での暮らしと松村武との交流
東京で学生生活を始めた八嶋さんは、東京・茗荷谷駅の近くにあった奈良県人寮で暮らしていました。
奈良県出身者が集まる寮には、個性的な先輩たちがたくさんいたそうです。
年上の人たちとさまざまな話をする機会があり、先輩の部屋へ呼ばれると突然一発芸を求められることもありました。
あるときには、即興でアニメの歌を披露しました。
芸を見せて先輩に褒められると、振る舞われるお酒の種類がよくなったという、当時の寮ならではの思い出もあります。
こうした生活を送りながら、大学の授業とは別に演劇サークルの活動にも参加していました。
当時の東京には小劇場が数多くあり、八嶋さんはほかの劇団の舞台も積極的に観に行くようになります。
奈良では出会えなかった劇場や演劇仲間に囲まれる生活が始まっていました。
1990年、松村武らとカムカムミニキーナを旗揚げ
大学2年生だった1990年、八嶋智人さんは松村武さんらとともに劇団カムカムミニキーナを旗揚げしました。
まだ学生だった八嶋さんにとって、自分たちで劇団を作り、舞台に立ち始めたことが俳優活動の出発点となりました。
新人公演の脚本が書かれず、自分たちで劇団を作る
劇団旗揚げには、学生演劇ならではの思いがけない出来事が関係していました。
演劇サークルで新人公演を行うことになっていましたが、脚本を書く予定だった先輩が脚本を完成させられなくなってしまったのです。
その結果、予定していた新人公演をそのまま進めることが難しくなりました。
そこで八嶋さんは、同級生の松村さんと一緒に、自分たちの劇団を立ち上げることにしました。
これがカムカムミニキーナの始まりです。
当時はバブル景気の終盤で、企業が文化活動に資金を出すこともあった時代でした。
八嶋さんたちは公演を次々と行おうと、前向きに活動を始めました。
松村さんは劇団の作・演出を担い、八嶋さんは舞台に立つ俳優として活動していきます。
中学時代に一緒に過ごした友人たちと、自分たちが面白いと思う芝居を作る生活が始まったのです。
小劇場で公演を重ねた20代の舞台活動
劇団を立ち上げた後も、自分たちの公演がないときには、ほかの劇団の舞台を積極的に観に行っていました。
面白い作品を観ると、その劇団の主宰者を飲みに誘い、自分も出演させてほしいと直接売り込むことがあったそうです。
しかも当時は、自分の方があの役者より面白く演じられると平気で口にするほど、自信に満ちていたといいます。
後年、20代前半の自分を振り返って、ずいぶん生意気だったと笑っています。
しかし、そうやってさまざまな劇団の人たちと会い続けるうちに、出演先が広がっていきました。
自分たちの劇団以外の公演へ客演する機会も増え、違う演出家や俳優と仕事をするようになります。
演技理論を学んでから舞台に立つというよりも、実際に舞台へ出続けながら経験を積んでいく日々でした。
カムカムミニキーナはその後も公演を重ね、八嶋さんは劇団の看板俳優として活動を続けました。
劇団公式サイトでは、2013年の公演『クママーク』に際して、八嶋さん本人を紹介する映像も公開されています。
劇団での活動と並行して、他劇団への客演や外部の舞台出演も重ねていきました。
そうした仕事の一つが、テレビドラマへの出演につながる出会いを生むことになります。
舞台から声の仕事、テレビドラマへ活動が広がる
八嶋智人さんの俳優人生は、最初からテレビドラマを中心に進んだわけではありません。
大学時代に始めた舞台活動を続けながら、アニメの声の仕事やほかの劇団への出演など、仕事の幅を少しずつ広げていきました。
アニメの小さな役や他劇団への客演
大学卒業後も劇団活動を続けていた八嶋さんは、知人の紹介を通じてアニメ作品の声の仕事にも参加しました。
本人が昔を振り返る際に挙げているのが、アニメ『るろうに剣心』と『こちら葛飾区亀有公園前派出所』です。
『るろうに剣心』では斬られる際の短い声を担当し、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』では両さんを呼ぶ一声だけの役を演じたことがあったそうです。
長いセリフや主要人物を任されたわけではありませんでしたが、舞台以外の現場で演技をする経験になりました。
この時点で、すでに劇団での舞台活動は始まっていました。
そのため、アニメへの参加は俳優デビューそのものではなく、舞台俳優として活動する中で広がった映像・声の仕事として位置づけられます。
一方で、30歳になる頃には芝居の仕事で生活できるようになりたいとも考えていました。
先輩たちに相談すると、俳優として仕事を続けるためには芸能事務所へ入った方がよいと勧められたそうです。
舞台活動と映像の仕事を両立するうえで、シス・カンパニーという事務所を紹介されましたが、簡単に入れる場所ではないとも聞いていました。
そんなとき、仕事で知り合ったのが俳優の高橋克実さんです。
高橋さんに事務所入りを相談したところ、社長に会ってみるよう背中を押されました。
その一言がきっかけとなり、シス・カンパニーへの所属につながったと、2022年の『なりゆき街道旅』で振り返っています。
後に高橋さんも日本大学文理学部に通っていたことを知り、二人には大学という意外な共通点もありました。
三谷幸喜との出会いから『古畑任三郎』へ
1990年代、八嶋さんは劇団カムカムミニキーナだけでなく、ほかの劇団の公演にも出演していました。
そのうちの一つが、劇団・泪目銀座(なみだめぎんざ)の舞台です。
この公演を観ていたのが、脚本家・演出家の三谷幸喜さんでした。
三谷さんは舞台での八嶋さんの演技を見て、テレビドラマ『古畑任三郎』への出演を依頼したそうです。
最初に声がかかったのは、セリフが一つだけの小さな役でした。
それでも、舞台での演技を見た人物からテレビの仕事へ呼ばれるという、新しい経験になりました。
1999年には『古畑任三郎』の第3シリーズに出演しています。
小劇場での客演を三谷幸喜さんが観たことが、テレビドラマ出演につながったという経緯は、八嶋さん自身が2021年の回想で語っています。
学生時代から劇団の外へも出て、さまざまな演劇関係者と交流してきた八嶋さんは、舞台で得た出会いをきっかけに仕事の領域を広げていきました。
『HERO』と『トリビアの泉』で広がった俳優人生
1990年代を通じて舞台経験を重ねてきた八嶋智人さんは、2000年代に入るとテレビドラマやバラエティ番組でも広く知られるようになります。
その中でも大きな存在となったのが、2001年のドラマ『HERO』と、2002年から始まった『トリビアの泉』でした。
2001年『HERO』の遠藤賢司役で広く知られる
2001年、八嶋さんはフジテレビ系ドラマ『HERO』に出演しました。
演じたのは、東京地検城西支部で働く事務官・遠藤賢司です。
木村拓哉さん演じる検事・久利生公平を中心に、さまざまな性格の検事や事務官が登場する作品で、八嶋さんもその一員として出演しました。
遠藤賢司は、城西支部の日常を描く場面で登場する事務官の一人です。
『HERO』への出演をきっかけに、小劇場や舞台を中心に活動していた八嶋さんの姿が、テレビドラマの視聴者にも広く知られるようになりました。
2022年の『なりゆき街道旅』でも、当時の仕事について話す中で『HERO』の時期が話題になっています。
その後もさまざまなドラマや映画に出演しましたが、俳優としての原点は大学時代に旗揚げした劇団での活動にありました。
司会も演じる感覚だった『トリビアの泉』
2002年には、フジテレビ系のバラエティ番組『トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜』が始まりました。
八嶋さんは高橋克実さんとともに司会を担当し、俳優としての出演とは違う形でもテレビに登場するようになります。
軽快な掛け合いやリアクションは番組の特徴の一つとなり、八嶋さんの顔と名前が幅広い世代に知られるきっかけにもなりました。
しかし、本人にとっては、芝居と司会を別々の仕事として考えていたわけではありません。
2021年の『ひととき』では、『トリビアの泉』の司会を務めたときも、司会者という役を演じている感覚だったと話しています。
毎回何が起こるかわからないお祭りのような場に参加し、その中で仕事を楽しんでいたそうです。
舞台、テレビドラマ、バラエティ番組という仕事の種類が変わっても、本人の中では演じるという感覚が続いていました。
2024年6月には『トリビアの泉』の関係者たちが久しぶりに集まり、八嶋さんも当時の仲間との写真をXで公開しています。
2005年の舞台『エドモンド』で初主演
テレビドラマやバラエティ番組で広く知られるようになった後も、八嶋さんは舞台に立ち続けました。
2005年には、東京・青山円形劇場で上演された舞台『エドモンド』に主演しました。
アメリカの劇作家デイヴィッド・マメットによる作品で、演出を担当したのは長塚圭史さんです。
共演者には小泉今日子さん、大森博史さん、酒井敏也さん、平岩紙さんらが名を連ねました。
2023年の演劇メディアAudienceの対談では、この作品について本人が次のように話しています。
僕が初めて主演した作品です
出典:演劇メディアAudience「板尾創路×八嶋智人、それぞれの視点から見る演劇の現在地」(2023年11月11日)
1990年に仲間と劇団を旗揚げしてから15年がたっていました。
中学3年生のときに大阪の小劇場で受けた衝撃から、大学時代の劇団旗揚げ、ほかの劇団への客演、テレビドラマや司会の仕事を経験し、2005年には舞台主演を務めるまでになったのです。
奈良の少年が一人で訪れた小さな劇場で始まった演劇への関心は、仲間と作ったカムカムミニキーナの舞台を通じて、俳優・八嶋智人さんの長い活動へと続いていきました。
















