石田ゆり子の生い立ち|若い頃の水泳生活と家族、女優デビューのきっかけ

石田ゆり子の生い立ちと若い頃の水泳生活、家族、女優デビューを紹介する、人物イラストとプール、ピアノ、台湾の街並みを組み合わせたビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
いしだゆりこ
カテゴリー
女優
出身地
東京都
生年月日
1969年10月3日
芸能活動開始
1987年
女優デビュー
1988年
デビューのきっかけ
スカウト

ドラマ『101回目のプロポーズ』や『逃げるは恥だが役に立つ』など、数多くの作品に出演してきた女優・石田ゆり子さん。

柔らかな雰囲気が印象的ですが、若い頃は毎日何千メートルも泳ぐ競泳選手で、全国大会に出場した経験もあります。

さらに、中学時代には父親の転勤で台湾へ移り住み、帰国後の15歳で思いがけず芸能界への入口に立つことになりました。

芸能界へ入る理由の一つになったのは、大好きだった俳優・真田広之さんに会いたいという気持ちだったそうです。

妹の石田ひかりさんも、偶然同じ人物にスカウトされていました。

今回は、そんな石田ゆり子さんの生い立ちや家族、台湾での学生時代、水泳選手としての経験、芸能界入りから女優デビューまでをご紹介します。

石田ゆり子の幼少期|ピアノと水泳に打ち込んだ子ども時代

石田ゆり子さんは、1969年10月3日生まれです。

子どもの頃は父親の仕事の関係で引っ越しを経験し、神奈川県川崎市でも小学校時代を過ごしました。

幼少期にはピアノを習い、小学生になると水泳にも本格的に取り組むようになります。

3歳からピアノを習い、小学校では伴奏も担当

石田ゆり子さんは、3歳頃から15歳頃までピアノを習っていました。

2024年8月20日にはInstagramでピアノを演奏する動画を公開し、子どもの頃の思い出を振り返っています。

わたしは3歳から15歳くらいまでピアノを習っていて、毎日毎日ピアノの練習をしていた子供でした。

出典:石田ゆり子公式Instagram(2024年8月20日)

小学4年生のときには、川崎市の合唱コンクールでクラスのピアノ伴奏を担当しました。

演奏した曲は『ぼくはジャイアンツ』という歌で、当時の記憶は大人になっても残っていたそうです。

同じ投稿では、富士見台小学校4年4組の同級生や伊藤先生に呼びかけています。

長い年月が過ぎても曲の伴奏を覚えていたことから、学校での音楽の時間が本人にとって印象深い経験だったことがうかがえます。

ただ、小学生時代に打ち込んでいたのは音楽だけではありませんでした。

9歳で水泳を始め、10歳でジュニアオリンピックへ

石田ゆり子さんが本格的に水泳を始めたのは、9歳のときでした。

川崎市の田園スイミングスクールに通い、競泳選手として練習を重ねるようになります。

そして、水泳を始めて約1年、10歳でジュニアオリンピックという全国大会に出場しました。

2022年10月16日放送のTBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』では、当時の競泳生活について詳しく語っています。

専門としていたのは、50メートルと100メートルの平泳ぎでした。

1984年のロサンゼルスオリンピックに向けた強化選手の候補になれる可能性もあったと、本人は振り返っています。

練習は非常に厳しく、2025年8月2日放送のTBS『人生最高レストラン』では、毎日約5,000メートル泳いでいたと話しました。

25メートルプールなら、100往復に相当する距離です。

七夕の短冊に「エラ呼吸になりたい」と書いたこともあったそうです。

練習を続けても思うようにタイムが縮まらず、苦しさを感じることもありました。

それでも水泳を続けた理由の一つは、同じ目標に向かう仲間たちの存在でした。

私の場合はコーチとか仲間、そこで生まれる友情が素晴らしかったので、彼らと一緒にいたくてやってましたね。

出典:スポニチアネックス「石田ゆり子 子供の頃は水泳選手 将来を有望視されるも父の転勤で断念『精神的に鍛えられました』」(2022年10月16日)/TBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』での本人発言

2018年には、昔の水泳仲間やコーチと再会し、子どもの頃の集合写真をInstagramで公開しました。

写真には少女時代の石田ゆり子さんと妹のひかりさんも写っており、競泳選手だった頃の姿を知ることができます。

石田ゆり子さんは2018年の投稿で、田園スイミングスクールの一期生だったことも明かしています。昔の写真には、当時一緒に泳いでいた仲間やコーチの姿が残っています。

石田ゆり子の家族|父親・母親・兄と妹の石田ひかり

石田ゆり子さんは、父親、母親、兄、本人、妹の石田ひかりさんという家族の中で育ちました。

父親の仕事による転勤や、母親が姉妹の芸能界入りを認めるまでの出来事は、本人の進路にも関係しています。

父親の転勤で生活する地域が変わった幼少期

父親は仕事で海外勤務を経験しており、石田ゆり子さんが小学生だった頃には、家族で台湾へ移住することになりました。

それまで日本で競泳選手として練習を続けていたため、この転勤は大きな生活の変化を伴うものでした。

父親は子どもたちのしつけにも厳しかったそうです。

妹の石田ひかりさんは、2020年10月の『徹子の部屋』で、食事に呼ばれてすぐ食卓につかないと、ご飯を下げられることもあったと振り返っています。

テレビを見る時間も限られており、姉妹は学校生活と水泳の練習を中心に毎日を過ごしていました。

その後、姉妹が芸能界へ入ることになった際にも、父親の反対がありました。

妹・石田ひかりと一緒に続けた水泳

妹の石田ひかりさんは、1972年5月25日生まれの女優です。

1992年のNHK連続テレビ小説『ひらり』でヒロインを務めたことでも知られています。

幼少期から姉妹で同じスイミングスクールに通い、毎日のように水泳の練習に励んでいました。

ひかりさんも競泳選手として活動しており、台湾に暮らしていた時期にも水泳を続けていました。

2017年に『女性自身』のインタビューで子ども時代からの姉妹関係を振り返った際には、お互いを仕事上のライバルというより、戦友のような存在として語っています。

2019年12月には、姉妹そろって子どもの頃に通った田園スイミングスクールを再訪しました。

建て替えを控えていた思い出のプールに、昔の仲間やコーチが集まったのです。

石田ゆり子さんは妹とプールで泳いだ写真や動画を公開し、当時の思い出を紹介しました。

水泳に取り組んでいた少女時代から、姉妹で女優として活動するようになった後まで、二人の関係は長く続いています。

芸能界入りに反対した母親と家族の約束

石田姉妹が芸能事務所から声をかけられたとき、両親は当初、芸能界入りに反対していました。

特に母親は、娘たちには学校と水泳を続けてほしいと考えていたそうです。

2025年7月25日公開の『美ST ONLINE』のインタビューで、石田ひかりさんは当時の詳しい事情を語っています。

スカウトを担当した事務所の人は、母親を説得するために約1年間連絡を続けていました。

母親は最終的に断るつもりで、東京・六本木にあった事務所まで足を運んだそうです。

ところが、小さなマンションの一室でスタッフが真面目に働いている姿を見て、考えが変わりました。

娘たちの将来を親の考えだけで決めてよいのか、という思いもあったといいます。

こうして母親は、いくつかの条件をつけて芸能活動を認めました。

その条件には、水泳を続けること、学校を休まないこと、大学へ進学して卒業することなどがありました。

ただし、父親と兄にはしばらく芸能活動を秘密にしていたそうです。

その後、ひかりさんのレコードデビューや、ゆり子さんの航空会社キャンペーンへの起用が決まったことで、父親にも事情を打ち明けることになりました。

姉妹が芸能活動を始めるまでには、スカウトされた本人たちだけでなく、母親や父親の判断も関わっていたのです。

中学時代は台湾へ|競泳生活と日本人学校での経験

石田ゆり子さんは、小学校高学年から中学3年生の途中まで、約3年間を台湾で過ごしました。

競泳に打ち込んでいた時期の海外移住でしたが、家族と一緒に暮らす道を選んでいます。

家族との台湾移住を選び、台北で暮らす

台湾への引っ越しが決まったとき、石田ゆり子さんは日本で本格的な競泳の練習を続けていました。

ロサンゼルスオリンピックに向けた強化選手の候補になる可能性もあると考えられていた時期です。

しかし、家族が台北へ転勤することになり、日本に残って水泳を続けるか、家族と一緒に移住するかという選択を迫られました。

当時のコーチからも、その二つの道を考えるように言われたそうです。

石田ゆり子さんは、競泳のために日本へ残るのではなく、家族と一緒に台湾へ行くことを選びました。

台湾でも水泳は続けましたが、日本で進めていた競泳の強化選手への道とは異なる生活が始まりました。

父親の転勤が、本人のスポーツ生活にとっても一つの分岐点になったのです。

台湾でも水泳を続け、日本人学校で学ぶ

台北で暮らしていた間は、日本人学校に通っていました。

2025年の『人生最高レストラン』では、日本人学校では勉強する時間が多かったことを振り返っています。

そのため、日本へ帰国したときには学力が上がったように感じたそうです。

台湾に住んでいたからといって、水泳から離れたわけではありません。

妹のひかりさんとともに現地でも練習を続け、競泳生活を送っていました。

日本とは違う環境で学校へ通い、家族と生活しながら水泳にも取り組んでいたのです。

また、台湾の食文化も当時の記憶として残っていました。

2025年の『人生最高レストラン』では、台北で食べた料理や、子どもの頃の食事にまつわる思い出も紹介しています。

中学3年生で日本へ帰国

石田ゆり子さんが日本へ帰国したのは、中学3年生の秋頃でした。

約3年間暮らした台湾を離れ、日本で再び学校生活を始めることになります。

2011年7月12日には、自身の公式サイトで、テレビ番組『アナザースカイ』の撮影のため台湾を訪ねたことを報告しました。

中学3年生で帰国してから、約26年ぶりの訪問だったそうです。

10代の多感な時期に日本を離れていたという経験は私にとってはとても大きなもので、

出典:石田ゆり子公式サイト「from Yuriko #56」(2011年7月12日)

久しぶりに訪れた台湾では、街の発展ぶりに驚いた一方、当時の出来事を思い出したといいます。

10代で暮らした土地を大人になって再訪したことで、学生時代の記憶を改めて振り返る機会になりました。

日本へ戻った石田ゆり子さんは、その後、高校生活を送るなかで思いがけない人物から声をかけられます。

高校時代にスカウト|15歳で芸能界へ進んだきっかけ

中学3年生で台湾から帰国した石田ゆり子さんは、東京都内で高校生活を送るようになりました。

高校は東京都立青山高等学校に通ったと伝えられています。

それまで芸能界を目指していたわけではありませんでしたが、15歳の春頃、東京・自由が丘でスカウトされました。

東京・自由が丘で声をかけられた15歳の春

石田ゆり子さんがスカウトされたのは、東京・自由が丘を歩いていたときでした。

本人は2018年の映画関連イベントでも、その日の出来事を振り返っています。

当時は競泳に打ち込んでいたため、日常的に動きやすい服装で過ごしていました。

スカウトされた日も、Tシャツと短パン姿で、髪は男の子のように短かったといいます。

2025年の『人生最高レストラン』でも、自由が丘を歩いていたところ、突然声をかけられたと話しました。

相手からは、劇団関係者なのかと尋ねられたそうです。

本人には女優になりたいという明確な希望があったわけではありません。

それでも、芸能事務所の人との出会いによって、学校と水泳以外の世界に触れる機会が生まれました。

憧れの真田広之に会えると聞いて芸能活動に興味

石田ゆり子さんが芸能活動に興味を持った理由には、当時大ファンだった俳優・真田広之さんの存在がありました。

スカウトした事務所の人から、真田さんに会わせてあげると言われたのです。

その言葉を聞いて、本人の気持ちは大きく動きました。

女優になりたいという夢よりも、憧れの俳優に会いたいという気持ちが、芸能界へ踏み出す動機になりました。

しかも、事務所へ入ってからほどなくして、その約束は実現します。

事務所の人にイベントへ連れて行ってもらい、真田広之さんと会うことができたそうです。

2025年8月2日放送の『人生最高レストラン』では、当時の心境を次のように明かしています。

もうなんか、夢がかなっちゃったので、もうやめてもいいなって。

出典:スポニチアネックス「石田ゆり子 15歳で芸能界入り スカウトの口説き文句 きっかけとなった大ファンの人気俳優」(2025年8月3日)/TBS『人生最高レストラン』での本人発言

憧れの人に会うという最初の願いがかなってしまったため、一度は仕事をやめてもよいと思ったほどでした。

しかし、実際に芸能活動を始めると、少しずつ仕事が入ってくるようになります。

その仕事の現場で、本人は自分にできないことが多いという現実にも直面することになりました。

妹も同じスカウトマンに声をかけられていた

石田ゆり子さんがスカウトされてから約1か月後、妹の石田ひかりさんにも同じような出来事が起こりました。

ひかりさんが東京・二子玉川を歩いていたところ、芸能事務所の人から声をかけられたのです。

渡された名刺には、すでに見覚えがありました。

姉が以前見せてくれた名刺と、同じ名前が書かれていたからです。

ひかりさんはその場で、自分が石田ゆり子さんの妹であることを伝えたといいます。

スカウトした人物は、二人が姉妹であることを知らずに、それぞれ別の場所で声をかけていました。

石田姉妹は約1か月違いで、同じスカウトマンから声をかけられていたのです。

この経緯は、ひかりさんが2020年の『徹子の部屋』や2025年の『美ST ONLINE』などで詳しく話しています。

その後、ひかりさんは1986年に女優として活動を始めました。

一方、姉のゆり子さんはモデル活動などを経て、翌1987年に大きな仕事をつかみます。

1987年にANAキャンペーンガールへ|若い頃の初仕事と転機

15歳でスカウトされた石田ゆり子さんは、芸能活動を始めてからモデルの仕事などを経験しました。

そのなかで大きな転機になったのが、1987年の全日本空輸(ANA)の沖縄キャンペーンガールへの選出です。

多数の応募者から選ばれた沖縄キャンペーン

1987年、石田ゆり子さんはANAの沖縄キャンペーンガールに選ばれました。

本人によると、スカウトから約1年後のことでした。

この仕事は、多数の応募者が参加するオーディションによって選ばれるものでした。

当時の石田ゆり子さんはまだ高校生でしたが、その大きなキャンペーンに抜擢されたのです。

2025年の『人生最高レストラン』では、以前から好きだったキャンペーンに選ばれたことがうれしかったと話しています。

さらに、キャンペーンの撮影に向けて沖縄に滞在し、肌を日焼けさせたことも明かしました。

沖縄へは撮影の約1か月前に入り、日焼けをするために時間を過ごしたそうです。

当時は夏らしい小麦色の肌がキャンペーンのイメージとして求められていた時代でした。

撮影後は普段と肌の色が大きく変わっていたため、周囲から気づかれにくかったというエピソードも残っています。

初めての大きな仕事で感じた変化

ANAのキャンペーンガールに選ばれたことは、石田ゆり子さん自身にとっても特別な経験でした。

それまで競泳と学校生活を中心に過ごしていた少女が、多くの人の目に触れる広告の仕事を担当することになったのです。

当時の気持ちについて、2025年のテレビ出演では、自分の人生がすごい勢いで変わる瞬間を感じたと振り返っています。

1987年のANA沖縄キャンペーンガールへの選出は、石田ゆり子さんの芸能活動初期を代表する大きな出来事でした。

ただし、この時点ではまだテレビドラマで女優デビューしたわけではありません。

芸能界に入り、モデルなどの仕事を経験した段階と、女優として演技を始めた段階は分けて考える必要があります。

キャンペーンガールとしての活動から翌1988年へ進むと、石田ゆり子さんは本格的にドラマの現場へ入っていきます。

1988年『海の群星』で女優デビュー|演技の世界へ

石田ゆり子さんが女優としてデビューしたのは、1988年です。

最初の女優出演作として公式プロフィールに記載されているのは、NHKドラマ『海の群星(むりぶし)』でした。

NHKドラマ『海の群星』で初めて女優として出演

1988年11月12日、NHKでドラマスペシャル『海の群星』が放送されました。

沖縄・石垣島を舞台に、漁師たちや少年たちの生活、人間関係を描いた作品です。

出演者には緒形拳さん、丘みつ子さん、順みつきさんらが名を連ね、石田ゆり子さんもキャストとして参加しています。

放送ライブラリーには1988年11月12日放送の90分ドラマとして記録が残っており、NHKグループの映像商品でも出演が確認できます。

石田ゆり子さんの女優デビュー作は、1988年のNHKドラマ『海の群星』です。

1987年のANAキャンペーンとは異なり、こちらは俳優として演技の仕事に参加した作品に当たります。

競泳選手からモデル活動を経て、演技をする仕事へ進んだことになります。

映画『悲しい色やねん』でスクリーンデビュー

同じ1988年には、映画『悲しい色やねん』にも出演しました。

こちらは石田ゆり子さんの映画デビュー作として、日本アカデミー賞の公式プロフィールにも記載されています。

映画とテレビドラマという二つの映像分野で、同じ年に女優としての経験を積み始めたのです。

当時はまだ芸能活動を始めて間もない時期であり、現場での経験も限られていました。

モデルとしてカメラの前に立つ仕事と、役を演じて物語の登場人物になる仕事は、求められることが異なります。

その違いに向き合いながら、石田ゆり子さんは女優としての活動を続けていきました。

演技ができずに悩んだ新人時代

憧れの真田広之さんに会うという願いをかなえた後も、石田ゆり子さんは芸能界で仕事を続けました。

しかし、最初から演技がうまくできたわけではありません。

2025年の『人生最高レストラン』では、デビュー当時の現場で、何もできない自分がいたと振り返っています。

十分な経験がないまま現場へ入り、うまくできずに厳しい言葉をかけられることもあったそうです。

それまでは競泳で全国大会に出場し、キャンペーンガールのオーディションにも合格していました。

ところが、演技の仕事では、自分の思うようにいかない場面に何度も出会うことになりました。

スカウトされたことや、大きなキャンペーンに選ばれたことだけで、俳優としての仕事が簡単にできるようになったわけではなかったのです。

それでも仕事を重ねるなかで、映画やドラマの現場に参加する機会が増えていきました。

本人は後年、新人時代の経験を思い返しながら、演技の世界へ進んだ頃の自分について率直に語っています。

15歳でスカウトされたときには想像していなかった女優の仕事が、次第に生活の中で大きな位置を占めるようになりました。

女優の仕事と学業を両立|夜間短大で学んだ学生時代

高校時代から芸能活動を始めた石田ゆり子さんですが、仕事だけに専念する進路は選びませんでした。

本人には、学校へ通って勉強したいという希望があったからです。

芸能活動を始めても進学を希望

石田ゆり子さんは、高校卒業後も学業を続けることを希望していました。

2025年の『人生最高レストラン』では、仕事を始めてからも大学へ進学したかった理由について語っています。

本人は勉強することが比較的好きで、どうしても学校へ行きたかったそうです。

こうした思いは、芸能界入りを認める際に母親から提示された進学の条件とも重なります。

実際に進んだのは、栄養学を学ぶことができる夜間の短期大学でした。

学歴については、女子栄養大学短期大学部に通ったと伝えられています。

女優の仕事が始まってからも、学校へ通う時間を確保していたのです。

夜間の短大で栄養学を学びながら仕事を続ける

石田ゆり子さんが通った短大は、夜間に授業を受ける形でした。

本人によると、授業は夕方6時頃から夜9時頃までだったそうです。

日中の仕事と夜間の授業を両立させながら、学生生活を送っていました。

栄養学は、食事や健康、人体に必要な栄養について学ぶ分野です。

競泳選手だった頃とは違う形で、身体や生活に関わる知識を勉強することになりました。

2025年のテレビ出演では、学校へ通っていた頃の話だけでなく、大人になってからも英語を勉強していることを明かしています。

学習を日々の生活に組み込むことが好きなのかもしれないと、本人は話していました。

学生時代に水泳と勉強を続け、高校生で芸能活動を始めた後も進学を選んだ石田ゆり子さん。

女優としての活動を始める一方で、学校に通う時間も大切にしていたことが分かります。

女優としての転機|『101回目のプロポーズ』から『北の零年』へ

1988年に女優としてデビューした石田ゆり子さんは、その後も映画やテレビドラマへの出演を重ねました。

初期の出演作品から連続ドラマの主演、映画での受賞まで、いくつかの重要な節目があります。

『101回目のプロポーズ』などで出演を重ねる

女優デビューから数年がたった1991年、石田ゆり子さんはフジテレビのドラマ『101回目のプロポーズ』に出演しました。

浅野温子さんと武田鉄矢さんが主演した恋愛ドラマで、石田ゆり子さんは矢吹千恵役を演じています。

1992年には『君のためにできること』などにも出演し、テレビドラマでの活動を続けました。

1988年の初出演から、少しずつさまざまな役を経験するようになったのです。

この時期には、映画だけでなく連続ドラマの出演機会も増えていきました。

そして1993年、女優としての経歴に新しい節目となる仕事が訪れます。

『彼女の嫌いな彼女』で連続ドラマ主演

1993年、石田ゆり子さんは日本テレビ系ドラマ『彼女の嫌いな彼女』に主演しました。

1988年の女優デビューから5年ほどが経過した頃で、連続ドラマの中心人物を演じるようになっていました。

当初は憧れの俳優に会いたいという気持ちから芸能界へ入った石田ゆり子さんでしたが、この頃にはドラマの主演を任されるまでになっていたのです。

1994年には、人気漫画を原作とする『美味しんぼ』で栗田ゆう子役を、『静かなるドン』で秋野明美役を演じました。

その後も『不機嫌な果実』『永遠の仔』『Dr.コトー診療所』など、さまざまな作品に出演しています。

作品ごとに異なる人物を演じながら、テレビドラマでの出演歴を積み重ねていきました。

『北の零年』で日本アカデミー賞優秀助演女優賞

映画の仕事でも重要な節目がありました。

2005年公開の映画『北の零年』です。

行定勲監督が手がけ、吉永小百合さんが主演した作品で、石田ゆり子さんは馬宮加代役を演じました。

そして2006年3月に行われた第29回日本アカデミー賞で、『北の零年』の演技により優秀助演女優賞を受賞しました。

この受賞は日本アカデミー賞の公式記録にも残っており、本人の公式サイトにも授賞式の報告が掲載されています。

1988年の映画デビューから約17年が経過し、映画での演技が賞という形でも評価されたのです。

子どもの頃には競泳選手として全国大会に出場し、その後はモデル活動から女優へ進んだ石田ゆり子さん。

当初は演技の現場で思うようにできない経験もしていましたが、長年にわたり映画やドラマへの出演を続けてきました。

『逃げるは恥だが役に立つ』で土屋百合役を演じる

2016年には、TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』に出演しました。

新垣結衣さんが演じる森山みくりの叔母、土屋百合役です。

百合は仕事を持ちながら自分らしく暮らす女性で、物語の中では主人公たちを支える存在として描かれています。

石田ゆり子さんは、2016年10月3日の公式ブログで、役名の「百合」が自身の本名とほとんど同じであることにも触れていました。

撮影現場でスタッフや共演者から「百合ちゃん」と呼ばれると、どこか子どもの頃に戻ったような気持ちになると書いています。

さらに、同じ日から公式ブログのメッセージをInstagramでの発信に切り替えることも発表しました。

ドラマが放送された2016年12月には、Instagramで土屋百合役の撮影を終えたことを報告し、役を演じられたことへの感謝をつづっています。

15歳で芸能界へ入り、1988年に女優デビューした石田ゆり子さんは、その後も長く映像作品への出演を続けています。

9歳で始めた水泳、家族と過ごした台湾での中学時代、自由が丘で受けたスカウト、そして初めての演技の仕事。

それぞれの出来事を経て、石田ゆり子さんは女優として数多くの作品に携わるようになりました。