PROFILE
人物プロフィール
『闇金ウシジマくん』や『勇者ヨシヒコ』など、作品によってまったく違う表情を見せる俳優・山田孝之さん。
若い頃はあどけない顔立ちで、15歳のときには女の子と間違えられてスカウトされたという、少し意外なエピソードがあります。
1983年10月20日に沖縄県那覇市で生まれ、鹿児島県で育った山田さん。家族には個性的な父親と母親、そして芸能活動を経験した2人の姉がいました。
中学生の頃は俳優を目指していたわけではなく、姉の雑誌掲載をきっかけに「自分も何かを表現したい」と考えるようになったそうです。
鹿児島での子ども時代から、東京への転校、原宿でのスカウト、アルバイト生活、俳優デビュー、そして演技の面白さを知るまで。山田孝之さんが歩んできた道のりをたどります。
山田孝之の生い立ち|沖縄で生まれ鹿児島で育った少年時代
山田孝之さんが子ども時代を過ごしたのは、自然が身近にある鹿児島県でした。
大人になってからは落ち着いた雰囲気や独特の存在感が印象的ですが、本人の話に登場する少年時代の姿は、好奇心が強く、いたずらを楽しむ男の子です。
沖縄県那覇市で誕生し、父の故郷・鹿児島へ
山田さんは1983年10月20日、沖縄県那覇市で生まれました。
母親は沖縄県の宮古島出身、父親は鹿児島県出身です。生まれた後は父親の故郷である鹿児島へ移り、15歳になるまでの大部分をそこで過ごしました。
所属事務所のプロフィールには「鹿児島県出身」と記載されていますが、本人が後年語った出生地は沖縄県那覇市です。
山田孝之さんの出生地と出身地
出生地は沖縄県那覇市、育った地域は鹿児島県です。「沖縄生まれ」と「鹿児島出身」は、異なる時期の事実を表しています。
山田さんにとって鹿児島は、学校へ通い、友達と遊び、家族と暮らした子ども時代の舞台でした。一方、母親の故郷である沖縄とも、生涯を通じたつながりを持つことになります。
小学生時代はいたずら好きで目立ちたがりだった
鹿児島の小学校に通っていた頃の山田さんは、教室でおとなしく過ごすよりも、友達や先生の気を引くことが好きだったそうです。
2019年のインタビューでは、幼少期の自分を振り返って次のように話しています。
目立ちたがり屋で、いたずら好きで
出典:ライブドアニュース「僕らは芝居をすることが生きがいだから――俳優・山田孝之が自らの手で変えていく未来」(2019年8月15日)
2017年の『FASHION PRESS』のインタビューでは、家の庭に落とし穴を掘っていたことまで明かしています。
いたずらが度を超えて、周囲からうるさがられることもあったといいます。それでも、人を驚かせたり、自分の行動に反応してもらったりすることが好きだったのでしょう。
もう一つ、子どもの頃から変わらないのが、知らない場所への好奇心です。
2022年の学生新聞のインタビューによると、学校から帰る際には、わざと普段と違う道を選んでいたそうです。遠回りになっても、知らない道がどこへつながっているのか、自分の目で確かめることを楽しんでいました。
こうした好奇心の強い少年時代の一方で、家庭では1人で過ごす時間も多かったと山田さんは振り返っています。
山田孝之の家族|父親・母親と2人の姉
山田孝之さんは、父親・母親・2人の姉がいる家庭の末っ子として育ちました。
父親は飲食店を営むかたわら創作活動にも関心を持ち、姉2人は若い頃からモデル活動を経験しています。山田さん自身も、芸能界へ進むきっかけとして姉の存在を挙げています。
父親が営んだ喫茶店と音楽・小説への思い
山田さんの父親は清孝さんといい、鹿児島で飲食店を営んでいました。
2018年放送の『チマタの噺』で山田さんが語ったところによると、父親はかつて蔵を改装した喫茶店を経営していたそうです。
店内には骨董品が並び、ターンテーブルでは昔のロックやジャズのレコードを流していました。写真にも関心があり、自分で暗室を作って現像していたといいます。
さらに父親は小説を書き、長い年月にわたって新人賞に応募していました。飲食店の経営だけでなく、音楽、写真、文学と、いろいろな表現に親しんでいた人物だったのです。
そんな父親について、山田さんは笑いながら語っています。
いつまでたっても自由人です
出典:Smart FLASH「山田孝之の家族はみんなアーティスト『父が実験的な生き方で』」(2018年11月16日)
父親との関係を示す出来事は、山田さんが芸能界で仕事を始めた後にもありました。
2017年放送の『有吉ゼミSP』で父親が明かしたのは、山田さんが21歳のとき、父親の店の改装費や家具、食器代などを贈ったという話です。
その頃は『ウォーターボーイズ』や『世界の中心で、愛をさけぶ』で主演を務め、映画『電車男』へ進む時期でした。俳優として得た収入を使い、父親の店に大きな贈り物をしていたことになります。
父親とのもう一つのエピソード
父親は50代になってからも音楽活動に関心を持ち、山田さんへストリートライブの旅に出るつもりだと連絡したことがあったそうです。山田さんは、その知らせを面白がって受け止めていました。
共働きだった両親と1人で過ごした子ども時代
山田さんの幼少期には、両親ともに仕事をしていました。
2人の姉とは年齢が離れており、姉たちも成長すると友達と過ごす時間が増えていったそうです。山田さんは、家に1人でいる時間が長かったと話しています。
学校で目立とうとしたり、いたずらを仕掛けたりしたことについて、後年の本人は、寂しさから周囲の関心を求めていたのかもしれないと振り返りました。
ただ、そんな時間のなかでも、外へ出て知らない道を歩いたり、身近なものを使って遊んだりしていました。
大人になってからの山田さんは、20代の自分は人との交流を避けがちだった一方、30代になってからは鹿児島の小学生時代の感覚に戻ってきたとも語っています。
静かな大人という印象とは違う、にぎやかで好奇心の強い少年の姿が、本人の記憶には残っているのです。
女優・椿かおりと歌手・SAYUKIの弟として育つ
山田さんの2人の姉は、女優の椿かおりさんと、歌手・アーティストのSAYUKIさんです。
姉たちは10代の頃、『egg』や『Popteen』などの雑誌でストリートモデルとして活動していました。
後に山田さんが出演した『山田孝之の東京都北区赤羽』には姉2人も登場しています。また、SAYUKIさんが山田さんの出演するCMに参加したこともありました。
仕事を始めてからも交流は続き、SAYUKIさんは2021年1月、山田さんの家で家族の新年会を開いたことを自身のXに投稿しています。
山田さんの仕事が軌道に乗ってからは、姉たちと一緒に仕事をする機会も生まれました。
2017年のテレビ番組でSAYUKIさんは、弟がCMのスポンサー側へ歌手である自分を紹介してくれていたことを知り、驚いたと話しています。
10代の頃に先に雑誌の世界へ進んだ姉たちと、その後に俳優になった弟。山田さんが中学生のときに見ていた姉の活躍は、のちに仕事を共にする関係へもつながっていきました。
母親の故郷・宮古島とのつながり
母親の故郷は、沖縄県の宮古島です。
山田さん自身も那覇市で生まれましたが、育ったのは鹿児島でした。その後15歳で東京へ移り、俳優としての活動を始めます。
2000年のドラマ『六番目の小夜子』で知り合った山崎育三郎さんは、若い頃に山田さんが母親と暮らしていた家へ遊びに行ったこともあると、後年の対談で振り返っています。
山田さんと母親の関係は、仕事や住む場所が変わった後も続きました。そして2019年、母親が亡くなる際に託した願いが、山田さんのその後の暮らしに関わることになります。
山田孝之の学生時代|中学3年生で上京した理由と進路
山田孝之さんの学生時代で最も大きな変化が起きたのは、中学3年生のときでした。
鹿児島から東京への転居を経て、芸能事務所にスカウトされます。ただし、そこに至るまでに、俳優になりたいという具体的な夢があったわけではありません。
姉がギャル雑誌の表紙を飾り、表現することに興味を持つ
2023年の『双葉社 THE CHANGE』のインタビューで山田さんが語ったのは、15歳の頃に姉がギャル雑誌の表紙を飾ったときの記憶です。
身近にいた姉が雑誌に載り、周囲から注目されるようになった姿を見て、なぜか悔しい気持ちが芽生えたといいます。
当時、山田さんには将来なりたい職業が特にありませんでした。それでも姉の活躍を見るうちに、自分も何かをやってみたいと考えるようになります。
本人はその頃の気持ちを、次のように表現しています。
芸能界への憧れというより、“自分も表現したい”気持ちが強かったですね。
出典:双葉社 THE CHANGE「山田孝之『自分を俳優だと思ったことはない』中学時代に芽生えた表現欲の原点となった『1冊のギャル雑誌』」(2023年10月28日)
最初から俳優という職業を目指していたわけではなかったことが、山田さんの芸能界入りを理解するうえで重要な点です。
何を表現するのか、どんな仕事をするのかは、まだ決まっていませんでした。
15歳で鹿児島から東京へ転校した
山田さんは中学3年生の2学期が終わった後、家族とともに鹿児島から東京へ引っ越しました。
そのため、中学3年生の3学期だけ東京の学校へ通うことになりました。
大人になってから、鹿児島の田舎にいた15歳の自分にとって、東京への転居は人生の非常に大きな変化だったと語っています。
慣れ親しんだ地域や友達から離れ、まったく違う環境で残りの中学校生活を送ることになったのです。
2021年放送の『日曜日の初耳学』では、転校した短い期間にスカウトを受けていたと説明しています。
東京へ移った時点で俳優デビューが決まっていたわけではありません。学校生活を終えるまでの間に、思いがけない出来事が起こりました。
高校へ進学せず芸能活動を始めた
山田孝之さんは、中学校卒業後、高校へは進学していません。
本人は『日曜日の初耳学』で、東京の中学校へ転校した当時、高校受験をするつもりがなかったと話しています。
卒業後は芸能事務所で演技や歌のレッスンを受ける一方、ファストフード店でアルバイトをしていました。
つまり、高校へ進学して芸能活動と両立したのではなく、中学卒業後にレッスンとアルバイトの生活へ進んだという経歴です。
山田孝之さんの学歴について
中学校は鹿児島と東京の両方で通学経験があります。高校には進学していないため、「出身高校」や「高校時代のエピソード」として語られる情報には区別が必要です。
芸能界へ入るきっかけは得たものの、まだ俳優として仕事があるわけではありませんでした。実際に出演の機会をつかむまでには、オーディションを受け続ける時間がありました。
15歳で芸能界入り|原宿でのスカウトとアルバイト生活
山田孝之さんが芸能界へ入る直接のきっかけは、原宿でのスカウトでした。
しかし、スカウトされたその日から俳優として働き始めたわけではありません。事務所との出会い、レッスン、アルバイト、オーディションという段階を経ています。
原宿のラフォーレ前で女の子と間違えられてスカウト
15歳の山田さんは、姉と一緒に東京・原宿のラフォーレ前を歩いていたとき、芸能事務所の人から声をかけられました。
このとき山田さんを見つけたのは、スターダストプロモーションのスカウト担当者です。
若い頃の山田さんは、目元の印象が強く、非常に中性的な顔立ちをしていました。
後年のテレビ出演では、スカウトした側が自分を女の子だと思っていたことも明かしています。
女の子と間違えられた15歳の少年が、偶然のスカウトから芸能界へ入ったというのは、今の山田さんの印象を知る人には意外な出来事かもしれません。
当時はその幼い顔立ちを気にしていたこともあり、ひげを生やしたいと思っていたそうです。
ただし、スカウトはあくまで芸能事務所へ入る入口でした。ドラマで演じる仕事を得るまでには、まだ時間が必要だったのです。
演技と歌のレッスン、落選が続いたオーディション
事務所へ入った山田さんは、演技レッスンやボイストレーニングを受け始めました。
しかし、もともと俳優になりたいという明確な目標がなかったため、演技レッスンで教わることも、最初は理解しきれなかったといいます。
2022年の『学生新聞オンライン』のインタビューでは、カメラの前では普段の自分のままでいてはいけないと教えられ、戸惑ったことを振り返っています。
その後、出演する仕事を得るためにオーディションを受け始めましたが、なかなか合格できませんでした。
2021年の本人の回想では、何十回もオーディションを受けて落ちていたそうです。
スカウトされたからといって、すぐに仕事が決まるわけではない。山田さんは15歳で、その現実を経験していました。
ファストフード店でのアルバイトから俳優の仕事へ
中学校を卒業した後、山田さんはファストフード店でアルバイトをしていました。
当時のアルバイト先では人間関係に悩むこともあり、仕事を辞めたいと思っていたそうです。
2021年放送の『日曜日の初耳学』で、山田さんはその頃の気持ちを率直に明かしています。
ファストフード店でバイトしてたんですけど、辞めたくてしょうがなくて。
出典:TBS系『日曜日の初耳学』での本人発言(2021年6月6日放送、スポニチアネックス2021年6月7日掲載)
そんなとき、マネージャーからドラマのオーディションに合格したという知らせが届きました。
山田さんはアルバイト先を辞め、初めての連続ドラマ撮影へ向かいます。
ただ、そこで思わぬことに気づきます。連続ドラマは撮影が終われば仕事も終わってしまう、ということを十分に考えていなかったのです。
初仕事を得た喜びの一方で、次の出演が決まらなければ、また仕事を探さなければならないという状況が待っていました。
しかし、最初のドラマの撮影が終わる日、マネージャーから次のオーディションの話が届きます。その合格が、山田さんの俳優生活を次へつなぎました。
山田孝之の俳優デビュー|『サイコメトラーEIJI2』から『ちゅらさん』へ
山田孝之さんが俳優としてテレビドラマに初出演したのは、1999年です。
最初から主演を務めたわけではなく、若い俳優たちと共演しながら経験を積み、2001年のNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』で広く知られるようになりました。
1999年『サイコメトラーEIJI2』で初めてドラマに出演
山田さんの俳優デビュー作は、1999年放送の日本テレビ系ドラマ『サイコメトラーEIJI2』です。
松岡昌宏さんが主演を務めたドラマで、山田さんはまだ10代の少年として出演しました。
1999年に俳優として初めてテレビドラマに出演したことが、山田さんの演技活動の出発点です。
その頃の山田さんにとって、現場での仕事はまだ分からないことばかりでした。後年、自分が何を演じているのか十分に理解できず、とにかくせりふを覚えて言うことに必死だったと振り返っています。
撮影が終わった後に次の仕事が決まったことで、俳優としての経験を続けられることになりました。
『六番目の小夜子』で山崎育三郎らと共演
2000年、山田さんはNHKのドラマ『六番目の小夜子』に出演しました。
恩田陸さんの小説を原作とする学園ミステリーで、山田さんが演じたのは関根秋(せきね・しゅう)という少年です。
鈴木杏さん、栗山千明さん、松本まりかさん、勝地涼さんら、当時の若い俳優たちが出演した作品でした。
山田さんは後年、撮影で学校へ通ったことや、共演者たちと一緒に渋谷へ出かけたことなどを懐かしく語っています。
そして、この作品で出会った山崎育三郎さんとは長い交流が続くことになります。
2025年には、山崎さんが山田さんの暮らす沖縄を訪ね、2人で若い頃のことや家族の話をする動画も公開されました。
16歳だった山田さんにとって、『六番目の小夜子』は、ドラマの仕事だけでなく、その後も続く人との出会いがあった作品です。
『ちゅらさん』の古波蔵恵達役で注目を集める
2001年、山田さんはNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』に出演しました。
演じたのは、国仲涼子さんが演じるヒロイン・古波蔵恵里の弟、古波蔵恵達(こはぐら・けいたつ)です。
沖縄を舞台にした物語で、山田さんは家族の一員として登場しました。
この作品は、山田さん自身の演技に対する気持ちにも変化をもたらします。
デビューからしばらくは、役を演じることの面白さを理解できないまま、撮影現場で必死に仕事をこなしていたそうです。
ところが『ちゅらさん』の撮影をしていた17歳の頃、NHKでの仕事を終えて帰る途中、ふと気持ちが変わったといいます。
芝居って楽しいかも
出典:学生新聞オンライン「山田孝之 常に刺激を求めた自分の人生、道は無限に広がる」(2022年4月1日)
俳優デビューしてから約2年後に、初めて演技の楽しさを実感したというのです。
山田さんは、このとき感じた楽しさから、俳優の仕事を続けてみようと思ったと語っています。
15歳でスカウトされたことと、17歳で演技を続けたいと思うようになったこと。山田さんの俳優人生には、この2つの異なる出発点がありました。
若い頃の転機|『ウォーターボーイズ』で主演へ
『ちゅらさん』で注目を集めた後、山田さんはテレビドラマへの出演を重ねていきます。
2000年代前半には青春ドラマや恋愛ドラマで中心的な役を務めるようになり、俳優としての知名度を大きく高めました。
2003年にテレビドラマ初主演を果たす
山田孝之さんがテレビドラマで初主演を務めたのは、2003年の『ウォーターボーイズ』です。
男子高校生たちがシンクロナイズドスイミングに挑戦する青春ドラマで、山田さんは主人公の進藤勘九郎を演じました。
それまでの若手俳優としての出演から、物語の中心を担う主演俳優へと進んだ作品です。
仲間たちと一つの目標へ向かう物語で、山田さんは不器用ながらも前へ進む高校生を演じました。
1999年のデビューから約4年で、連続テレビドラマの主演へ到達したことになります。
15歳の頃、明確な職業の目標を持たずに芸能界へ入った山田さんが、20歳になる年に主演を任されるようになっていました。
『世界の中心で、愛をさけぶ』と『白夜行』で主演を重ねる
2004年には、TBS系ドラマ『世界の中心で、愛をさけぶ』で主人公の松本朔太郎を演じました。
青春時代の恋愛と喪失を描く物語で、山田さんは感情の揺れを抱えた青年を演じています。
2006年には、東野圭吾さんの小説を原作とする『白夜行』で主演。綾瀬はるかさんと再び共演し、複雑な事情を背負った桐原亮司という人物を演じました。
『ウォーターボーイズ』の明るい青春像とは対照的に、『白夜行』では重い過去を持つ人物の内面を表現する役でした。
若い頃の山田さんは、こうした作品で主演を重ねる一方、自分が演じてみたい役と、実際に求められる役との違いも感じていたそうです。
『電車男』で映画初主演へ進む
山田さんは2003年公開の『ドラゴンヘッド』で映画にも出演し、2005年の映画『電車男』で映画初主演を果たしました。
『電車男』では、女性との交流に不慣れな青年が、周囲の人々の応援を受けながら恋愛に向き合う姿を演じました。
当時の山田さんのあどけない顔立ちや、戸惑いを見せる表情が、主人公の人物像にも重なります。
テレビドラマの主演を経験した後、映画でも物語の中心を担うようになった山田さん。2005年の映画初主演は、活動の場を広げる節目になりました。
しかし、この頃の山田さんは、青春ものや恋愛ものとは異なる役柄にも関心を持っていました。
若手主演俳優から多彩な役柄へ|山田孝之の演技の転機
2000年代前半に主演作品が増えた山田さんは、次第にそれまでと違う人物を演じる機会も得ていきました。
若い頃の爽やかな印象から、強面の人物、社会の暗い部分に生きる人物、さらにはコメディの主人公まで、演じる役柄が広がっていきます。
青春・純愛ドラマの主演から異なる人物像を求める
山田さんは、10代後半から20代にかけて、自分が演じたいと考える役柄とは違う作品のオファーが続くこともあったと振り返っています。
2019年のインタビューでは、若い頃から不良役やコメディ作品など、さまざまなジャンルへ挑戦したい気持ちがあったことを語りました。
その一方、俳優として仕事が増え、周囲から期待される役柄もできていました。
2018年のORICON NEWSのインタビューでは、18歳のときに出演したドラマ『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』が、自分の考え方を変えた出来事だったとも明かしています。
災害が起きる物語に参加したことで、人生がいつ終わるか分からないなら、やりたいことを試しておこうと考えるようになったそうです。
演じる役柄に限らず、新しいことに挑戦する姿勢を持ち始めた時期でもありました。
『クローズZERO』から『闇金ウシジマくん』へ
2007年公開の映画『クローズZERO』では、山田さんは鈴蘭男子高校の有力者である芹沢多摩雄を演じました。
不良たちの抗争を描く物語で、それまでの青春・恋愛ドラマとは大きく異なる存在感を見せています。
さらに2010年には、ドラマ『闇金ウシジマくん』で主人公の丑嶋馨を演じました。
無表情で圧迫感のある人物を演じるため、声の出し方や視線、立ち居振る舞いまで、それまでとは違う表現が求められました。
山田さんは2017年のインタビューで、役柄に合わせて声の抑揚や話し方を考えることについて語っています。
同じ俳優でも、作品や役によって声の調子、目線、体の動きまで変わる。山田さんの役づくりは、人物の性格や生き方を考えるところから始まるようになっていました。
『クローズZERO』や『闇金ウシジマくん』で、若い頃の爽やかな主演俳優とは違う印象を確立したことは、キャリアの大きな変化でした。
『勇者ヨシヒコ』などで広がった表現の幅
2011年には、テレビ東京系ドラマ『勇者ヨシヒコと魔王の城』で主人公のヨシヒコを演じました。
ファンタジーの世界を舞台にしたコメディ作品で、山田さんは真面目な勇者を演じながら、周囲の個性的な登場人物とのやり取りで笑いを生み出しています。
重い物語を演じた『白夜行』や『闇金ウシジマくん』とは、まったく異なる雰囲気の役です。
さらに2019年配信の『全裸監督』では、実在した映像制作者・村西とおるをモデルにした主人公を演じました。
山田さんは、人物の言葉をそのまま再現するだけでなく、どのような考え方で話し、どんな行動を取るのかを観察して役を作ったと説明しています。
『ちゅらさん』の頃、初めて演技の楽しさを感じた青年は、その後さまざまな人物の生き方を演じる俳優になっていました。
俳優以外の表現活動と母の願い|再び沖縄へ
俳優として多くの作品に出演した山田さんは、演じる仕事にとどまらず、映像作品の制作にも関わるようになりました。
その一方で、暮らす場所については、東京に定住することを当然とは考えていなかったそうです。
映画制作やプロデュースにも活動を広げた
山田さんは、2015年に放送された『山田孝之の東京都北区赤羽』や、2017年放送の『山田孝之のカンヌ映画祭』など、従来のドラマとは異なる形式の作品にも取り組みました。
2019年公開の映画『デイアンドナイト』にはプロデューサーとして参加。俳優として演じるだけでなく、企画や制作に関わる仕事へも活動を広げています。
その後は、短編映画を通じてクリエイターを発掘・育成する『MIRRORLIAR FILMS』にも参加しました。
2023年の『双葉社 THE CHANGE』のインタビューでは、俳優、歌、脚本、プロデュースなど、表現の形が違っても根底にある気持ちは中学生の頃から変わっていないと話しています。
また、山田さんは自分について、次のようにも語りました。
自分で自分を俳優だと思ったことは一度もない。
出典:双葉社 THE CHANGE「山田孝之『自分を俳優だと思ったことはない』中学時代に芽生えた表現欲の原点となった『1冊のギャル雑誌』」(2023年10月28日)
15歳で姉の活躍を見て芽生えた「何かを表現したい」という気持ちは、俳優以外の仕事を選ぶ場面にも現れていました。
2019年に亡くなった母親が託した沖縄への思い
山田さんの母親は2019年に亡くなりました。
2025年11月、山崎育三郎さんの公式YouTubeチャンネルに出演した山田さんは、母親が亡くなる前に託した願いについて語っています。
母親は、自分の両親、つまり山田さんの祖父母と同じお墓に入りたいと望んでいたそうです。
しかし、その願いをかなえるには親戚との話し合いが必要でした。山田さんは、母親が最期に望んだことだからと、親戚へ繰り返しお願いしたと振り返っています。
そして、母親を沖縄の祖父母と同じお墓に眠らせることができたと明かしました。
山田さんは、沖縄で暮らすことを決めるうえで、母親の存在が最も大きかったとも語っています。
母の故郷・沖縄で暮らすことを選んだ理由
山田さんは15歳で鹿児島から東京へ移った後、長く東京で俳優活動を続けてきました。
ただ、2025年に山崎育三郎さんと対談した際、東京に家を建てたり、家を買ったりして定住するという考えは、上京した頃から持っていなかったと明かしています。
一方、育った鹿児島へそのまま戻ることにも、本人の中ではしっくりこないものがあったそうです。
そんな山田さんが生活の拠点として選んだのが、自分が生まれ、母親と祖父母につながりのある沖縄でした。
2025年11月3日に公開された山崎育三郎さんの公式YouTube動画では、山田さんが沖縄を車で案内しながら、2人で若い頃のことや家族の話をしています。
動画のなかで山田さんが案内するのは、沖縄の海沿いの風景や、馴染みのある飲食店、地域の市場などです。
中学3年生で東京へ転校した頃に知り合った山崎さんと、約四半世紀を経て、母親の故郷である沖縄を巡ることになりました。
鹿児島で育ち、東京で俳優になった山田さんは、2019年に母親が残した願いをかなえた後、自分自身も沖縄で暮らす道を選んだのです。
















