富田望生の生い立ち|いわきの家族と学生時代、女優になったきっかけ

富田望生のやわらかな似顔絵と、いわきの家族や学生時代、女優を目指すきっかけを紹介する見出しを配したビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
とみたみう
カテゴリー
女優
出身地
福島県
生年月日
2000年2月25日
芸能活動開始
2012年
女優デビュー
2014年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

映画やドラマ、舞台で役ごとに異なる表情を見せてきた富田望生さんは、2000年2月25日に福島県いわき市で生まれました。

2015年の映画『ソロモンの偽証』で浅井松子を演じてデビューし、連続テレビ小説『なつぞら』『ブギウギ』などへ出演しています。

ところが、子どものころから女優を目指していたわけではなく、小学生のころの夢はピアノの先生でした。

小学5年生のときに経験した東日本大震災で故郷を離れ、それまで思い描いていた学校生活や将来の夢も大きく変わります。

その後に始めた芸能のレッスンも、最初は女優になるためというより、震災後に失った「夢中になれるもの」に代わる存在でした。

今回は、そんな富田望生さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、『ソロモンの偽証』で女優として歩き始めるまでをご紹介します。

富田望生の生い立ち|いわきでピアノの先生を夢見た少女時代

富田望生さんが生まれ育ったのは、福島県いわき市です。

幼いころは家の中で静かに過ごすより、外へ飛び出して遊ぶことが好きな子どもでした。

海や山を走り回った活発な子ども時代

いわきでの子ども時代について、本人は海や山を走り回り、毎日のように膝を擦りむいていたと振り返っています。

自然の中で遊ぶだけでなく、地域の和太鼓にも自分から参加するなど、音やリズムに触れることも好きでした。

後に俳優として知られる姿からは少し離れた、体を動かすことと音楽が身近にある少女時代を過ごしています。

このころの生活には、後に仕事として向き合うことになる演技の要素はまだ登場していません。

夢中になっていたのは、むしろ音楽でした。

小学3年生からピアノに夢中|先生と同じ高校・大学を思い描く

小学3年生からピアノを習い始めると、鍵盤に触れることだけでなく、教えてくれた先生そのものに強く憧れるようになりました。

その先生は小さな子どもを育てながら夜遅くまでレッスンを続けていて、富田さんはその姿を尊敬していたそうです。

やがて先生が卒業した高校や大学にも関心を持ち、自分も同じような進路を歩きたいと考えるようになりました。

当時の将来の夢は、女優ではなくピアノの先生でした。

「どの学校へ進むか」まで好きな先生を手本に考えていたため、ピアノは単なる習い事ではなく、将来の進路そのものに結びついていました。

後に中学時代には吹奏楽部へ入り、クラリネットなどの楽器にも触れており、震災後も音楽との縁そのものが消えたわけではありません。

ただ、小学生の富田さんが思い描いていた「いわきでピアノを続け、その先生のようになる」という進路は、2011年に突然変わることになります。

富田望生の家族|生まれる前に亡くなった父と母・曽祖母との暮らし

富田望生さんの子ども時代を知るうえで欠かせないのが、父親、母親、母方の曽祖母との家族の話です。

誕生5カ月前に父親が事故で亡くなる

父親は、富田さんが生まれる5カ月前に事故で亡くなっています。

父親の死について本人インタビューで確認できるのは「事故で亡くなった」というところまでで、事故の種類や状況を断定できる信頼性の高い公開情報は見当たりません。

父親を亡くした後、母親は働きながら富田さんを育てました。

「母子家庭だからつらかったなんて記憶はないんです。」

出典:女性自身「“ウザさが癖になる”スズ子の弟子・小夜ちゃんを熱演 富田望生「天国の父と震災の孤独が、私を女優へと導いた」」(2024年1月13日)

一緒に過ごせる時間は多くなかったものの、休日には母とドライブへ出かけたり、公園で遊んだりした記憶を、本人は楽しい思い出として語っています。

ホテルで働く母と母方の曽祖母に囲まれて育つ

母親はホテルの支配人として働いていました。

家庭では母親と母方の曽祖母、富田さんの3人で暮らしており、仕事で忙しい母を曽祖母も支えていました。

母が働く時間が長くても、休日には一緒に外へ出かけるなど、母娘で過ごす時間も作られていました。

母親が働いていたホテルはどこ?
本人が語った主要なインタビューでは勤務先の固有名は示されていませんが、震災当時にホテル支配人を務め、震災後には関東の系列ホテルへ職場を移したことは確認できます。

震災後は、母の転勤先だった関東の系列ホテルにあるミニキッチン付きの部屋で、家族が避難生活を送りました。

母親は、富田さんが震災後に新しい習い事を始めることになったときにも、費用を出して背中を押しています。

東日本大震災の夜、曽祖母と母の帰りを待つ

2011年3月11日、小学5年生だった富田さんは、いわき市の小学校で東日本大震災を経験しました。

地震が起きたときは学校に残っており、ストーブが倒れ、窓ガラスにひびが入るほどの揺れの中で机の下へ身を隠しました。

自宅へ戻ると、90歳近かった曽祖母の無事は確認できましたが、電気、ガス、水道、電話が止まり、仕事中だった母親とは連絡が取れませんでした。

母親と会えたのは朝方になってからで、その後は曽祖母とともに母の勤務先だったホテルへ向かっています。

ホテルではレストランのシェフらが食料を集め、帰宅できない人たちへ食事を提供しており、富田さんも炊き出しを手伝いました。

本人の回想では、そのような状態が10日ほど続いたといいます。

福島第一原子力発電所の事故が起きると、母、曽祖母らと車で神奈川県へ向かい、その後は関東で避難生活を送ることになりました。

本人が2024年にTBSの取材で語った言葉には、11歳で故郷を離れたときの反応がそのまま残っています。

「私はいわきを離れる時には暴れましたね。母に叱られました」

出典:TBS NEWS DIG「東日本大震災で被災した富田望生さん「無理して周囲になじむ必要はない」能登半島地震で避難を余儀なくされている子どもたちに伝えたいこと #知り続ける」(2024年3月10日)

震災で変わった学生時代|いわきから関東へ、そして東京の中学校へ

震災のあと、富田望生さんは一度いわきの学校を離れ、関東で新しい生活を始めました。

しかし、本人の気持ちはすぐには新しい土地へ向きませんでした。

転校しても「いわきで卒業したい」|卒業式10日前に地元へ戻る

避難先で小学校へ転校しても、富田さんは母親が新しい家を探すことに反対し、いわきへ戻りたいと訴え続けました。

新しい学校では表面上は周囲になじんでいたものの、自分から望んだ転校ではなかったため、心の中には地元へ帰りたい気持ちが強く残っていました。

そして小学校卒業を目前にした時期、母親は娘の希望を受け入れます。

卒業式の10日前、富田さんはもう一度いわきの小学校へ転校しました。

短い期間だけ地元へ戻り、同じ地域で育った友人たちと卒業式に出席しています。

卒業後は再び関東へ移り、東京の中学校へ進学しました。

東京の友人から見れば「福島から来た子」、いわきの友人から見れば「東京へ行った子」という立場になり、どちらにも完全にはなじめない感覚を抱えていたそうです。

大好きだったピアノをやめ、将来の夢を失う

転居によって学校だけでなく、富田さんが小学生のころから大切にしていたピアノの環境も変わりました。

東京でも新しいピアノ教室を探して通いましたが、いわきで教わっていた先生への思いが強く、以前と同じ気持ちでは続けられませんでした。

リクルートワークス研究所のインタビューでは、学校へ通うことも外出することも食事をすることさえ、当時は自分の中で腑に落ちない感覚だったと振り返っています。

ピアノをやめたあと、母親は娘が新しく夢中になれるものを見つけられるよう、さまざまな習い事を勧めました。

中学校では吹奏楽部に入り、地域の和太鼓にも親しんでいたため、音楽そのものから完全に離れたわけではありません。

それでも、先生と同じ高校や大学へ進み、ピアノの先生になるという小学生時代の具体的な進路は消えていました。

震災から東京での生活、芸能のレッスンへ向かうまでの経緯は、2023年にLINE NEWSのドキュメンタリーでも本人自身が振り返っています。

高校・大学はどこ?学歴は確認できる範囲で整理

富田望生さんの学歴で、本人のインタビューから明確にたどれるのは、いわき市の小学校から震災後に転校し、卒業直前にいわきへ戻ったこと、その後は東京の中学校へ進んだことです。

中学時代には吹奏楽部へ入り、同じころから芸能のレッスンにも通うようになりました。

一方、出身高校の学校名を本人や所属事務所などの信頼性の高い公開資料で特定できる情報は確認できません。

大学についても、具体的な進学先を裏付ける本人発言や公式プロフィールは確認できず、「大学へ進学しなかった」とまで断定できる材料も十分ではありません。

高校・大学名について
ネット上には通信制高校の学校名や大学非進学を推測する記事がありますが、本人や所属事務所などの一次性が高い情報で裏付けられた学校名ではありません。

学校名が分からなくても、中学校進学後に芸能のレッスンを始め、進路を考える時期にはすでに演技の仕事と向き合い始めていた流れは本人の言葉から確認できます。

芸能界入りのきっかけ|福島の友達に見てもらえるかもしれない

東京でピアノをやめたあと、富田望生さんは「今の何もしていない状態を変えたい」と思うようになりました。

そこで見つけたのが、インターネットに表示された芸能系の募集広告でした。

インターネットで見つけた募集へ自ら応募

広告には短期間でデビューを目指す趣旨の言葉があり、富田さんは「テレビに出られれば、福島の友達の目に留まるかもしれない」と考えました。

芸能界入りの最初の動機は、幼いころから女優になりたかったからではありません。

いわきの友人たちと離れ、ピアノも続けられなくなった日々の中で、何か新しく打ち込めるものを探した結果でした。

しかも最初は母親へ相談せず、自分で応募しています。

後からオーディションの案内書類を見た母親が応募を知り、「呼ばれたものは行きなさい」という形で一緒に会場へ向かいました。

合格後に養成所へ通うことになると、母親は入学金を負担してくれています。

週に1回レッスンへ通う場所ができたこと自体が、当時の富田さんにとって大きな支えになりました。

最初は女優志望ではなかった|レッスンとエキストラの日々

芸能のレッスンを始めても、すぐに「女優として生きていく」と進路を決めたわけではありませんでした。

2018年の本人インタビューでは、当時の感覚を次のように説明しています。

「女優になりたいというよりは、ピアノに代わる習い事感覚でした。」

出典:リクルートワークス研究所「富田望生氏(女優)」(2018年4月10日)

『ソロモンの偽証』出演者公式ブログで本人が振り返ったところでは、同作に出演する以前の仕事経験はエキストラのみでした。

つまり、芸能の世界へ入った時点と、役名のある俳優として本格的に演技を始めた時点には時間差があります。

芸能界入りと女優デビューは別の出来事で、養成所で週1回のレッスンを始め、エキストラを経験したあと、『ソロモンの偽証』浅井松子役で初めて映画の主要キャストを務めました。

そして中学3年生への進級前後、芸能活動を続けるかどうかまで考える時期に、初めて大きな役のオーディションがやってきます。

『ソロモンの偽証』で女優へ|中学3年生直前に訪れた転機

富田望生さんが俳優の仕事そのものに強く惹かれるきっかけになったのが、映画『ソロモンの偽証』でした。

ただし、この作品のオーディションには、一般に知られる約1万人規模の募集とは少し違う入り方をしています。

「落ちたら辞める」と臨んだ初めての本格オーディション

中学生キャストを長期間探していた制作側は、主要人物のひとりである浅井松子の候補を改めて募集することになりました。

その案内が養成所側へ届き、富田さんに「明日オーディションへ行けますか」と声がかかります。

それまで本格的なオーディションへ行った経験はなく、本人にとっては初めての大きな選考でした。

時期については、2018年のインタビューでは「中学3年生に進級する直前」、2024年には「中学3年生の4月」と振り返っており、中学3年生への進級前後だった点は共通しています。

高校受験も控えていたため、富田さんはここで役を得られなければ芸能活動を辞めることも考えていました。

続けるか辞めるかを考えていた時期に受けた最初の本格オーディションが、デビュー作につながったことになります。

約1万人のオーディションとの関係
富田さんは最初から一般応募の約1万人に混じって選考を受けたのではなく、浅井松子役の再募集が養成所へ届いた段階から参加したと本人が説明しています。

ワークショップで初めて芽生えた「芝居をやりたい」という気持ち

最初の選考では、プロデューサーと出身地や好きな食べ物について話し、家族の場面を抜き出した台本を読むところから始まりました。

帰宅するころには翌日からワークショップへ参加するよう連絡が入り、長く選考を続けてきた同年代の候補者たちと一緒に過ごすことになります。

2018年のインタビューでは、オーディションは2〜3週間にわたるワークショップ形式だったと説明しています。

そこでプロデューサーや助監督、同世代の参加者と向き合ううちに、これまでの「週1回の習い事」とは違う感情が生まれました。

初めて自分の中に「芝居をやりたい」という感覚が芽生えたと、本人は後年振り返っています。

浅井松子役に決まったあと、成島出監督やスタッフと撮影に向き合う中で、台本だけに縛られず、自分の考えだけを押し付けるのでもない演技の考え方を学びました。

映画公開後には成島監督と地元いわきの映画館で舞台あいさつを行い、客席には震災当時の担任や親戚、友人たちも来ていました。

かつて「テレビに出れば福島の友達に見てもらえるかもしれない」と考えて養成所へ入った本人が、今度は地元の映画館で作品を届ける側に立ちました。

「『私は役者の道を行くんだな』って思いました」

出典:テレ朝POST「富田望生、11歳で東日本大震災を経験。地元いわき市を離れ神奈川へ…芸能界入りのきっかけは「福島の友達の目に留まるかも」」(2024年4月19日)

浅井松子役のため約15kg増量|2015年に映画デビュー

浅井松子は原作で食べることが好きな少女として描かれており、富田さんは役へ近づくために食事量を増やしました。

結果として、デビュー作の役作りで約15kg増量しています。

これは「体重を増やすこと」自体を目的にしたのではなく、原作にある浅井松子の姿へ近づくための方法のひとつでした。

2015年に『ソロモンの偽証 前篇・事件/後篇・裁判』が公開され、浅井松子役で映画デビューしました。

それまでエキストラ経験が中心だった富田さんにとって、これが役名のある本格的な演技仕事の始まりです。

後年、役の外見へ近づくことについて、服装や髪型、体型まで含めた「形」から入る方法をこの時期に学んだと話しています。

「形から入ることが、役が近づいてくれるひとつの方法だということを学んだからやっていました。」

出典:テレ朝POST「富田望生、デビュー作では15kg増量の役作り。役によって体型も容姿も自在にアプローチ「形から入ることがひとつの方法」」(2024年4月23日)

デビューから年月がたった後も、本人は『ソロモンの偽証』を自分のキャリアの起点として振り返っています。

デビュー作で見つけた役者の道|新人時代からその後の転機へ

『ソロモンの偽証』で初めて映画の現場を経験したあと、富田望生さんは作品ごとに新しい技術を身につけながら出演を重ねました。

ここでは出演作を並べるのではなく、デビュー作で覚えた「役へ近づくために実際にやってみる」という姿勢が見える作品を追います。

『チア☆ダン』『あさひなぐ』で経験を重ねる

2017年公開の映画『チア☆ダン~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~』では、東多恵子役を演じました。

撮影前には4〜5カ月ほど、ほぼ毎日のようにチアダンスを練習し、撮影期間も含めて部活動のような時間を過ごしています。

クライマックスの撮影ではアメリカへ渡り、富田さんにとって初めての海外渡航にもなりました。

同じ2017年の映画『あさひなぐ』では、大倉文乃役として薙刀へ挑戦しました。

こちらは実際に体育大学のなぎなた部へ通い、部員と一緒に毎日のように練習しています。

『ソロモンの偽証』では食事と体型、『チア☆ダン』ではダンス、『あさひなぐ』では薙刀と、役によって準備の方法は変わりました。

本人は、役が好きなものなら自分も好きになり、練習を重ねることで役と同じ感覚へ近づいていくという考えを語っています。

小学生時代からピアノや地域の和太鼓に親しみ、中学校では吹奏楽部へ入っていた経験もあり、音やリズムに慣れていたことはダンスにも生かされたと本人は振り返っています。

2018年には舞台『ハングマン-HANGMEN-』にも出演し、映画だけでなく舞台へ活動の場を広げました。

朝ドラ出演を経て、2025年『港に灯がともる』で映画主演へ

2019年にはNHK連続テレビ小説『なつぞら』で、広瀬すずさん演じる奥原なつの同級生・居村良子を演じました。

富田さんにとって朝ドラのオーディションはこのときが初めてで、デビューから数年を経てテレビドラマでも継続的に役を任されるようになります。

2023年には連続テレビ小説『ブギウギ』で小林小夜役を担当し、生まれ育った福島の言葉も役の中で生かしました。

そして2025年1月17日、自身初の映画主演作『港に灯がともる』が公開されました。

演じた金子灯は、阪神・淡路大震災の翌月に神戸で生まれ、震災後の家族や町の時間の中で生きる女性です。

富田さん自身にも東日本大震災の被災経験がありますが、この役では自分の体験をそのまま重ねることはしませんでした。

「物語を伝えるうえで、私自身の体験は関係ない。切り離して演じようと思いました」

出典:nippon.com「映画『港に灯がともる』:阪神・淡路大震災から30年、主演・富田望生&安達もじり監督が語る「心の復興」」(2025年1月17日)

オファーを受けたときもすぐには出演を決めず、約3週間考えたうえで、灯という人物と作品を残すことへの覚悟を整理してから引き受けたと語っています。

撮影では神戸に滞在し、土地を歩き、人と話し、灯が暮らしてきた町の感覚を自分の中へ積み重ねていきました。

『ソロモンの偽証』で外見を含めて浅井松子へ近づいた14歳ごろから約10年を経て、初主演作では自分の被災経験さえ役から切り離し、目の前の人物として生きる方法を選んでいます。

撮影開始時には、本人も公式Xで『港に灯がともる』のクランクインを報告しました。

ピアノの先生を思い描いていたいわきの少女が、震災後に週1回のレッスンへ通い始め、初めて芝居をした『ソロモンの偽証』から映画初主演まで仕事を重ねてきました。

その出発点にあったのは、最初から決まっていた女優への進路ではなく、失った日常の中で新しく見つけた「夢中になれる場所」でした。