PROFILE
人物プロフィール
映画『ケンとカズ』や『万引き家族』、連続テレビ小説『まんぷく』などで知られる毎熊克哉さんは、映画・ドラマ・舞台で活動してきた俳優です。
映像作品で強い印象を残してきましたが、子どものころから目指していたのは俳優ではなく、映画監督でした。
高校卒業後も映画を作る側になるため上京し、専門学校では撮影照明から監督専攻へ進んでいます。
ところが、監督として役者へ演技を伝えようとしたことがきっかけで、自分自身が演じる側へ回ることになりました。
すぐに俳優の仕事だけで生活できたわけではなく、20代の大半はアルバイトやオーディション、自主映画の制作を続けています。
今回は、そんな毎熊克哉さんの生い立ちや家族、高校時代のダンス、映画監督を目指した学生時代、俳優として活動を始めて『ケンとカズ』で転機を迎えるまでをご紹介します。
毎熊克哉の生い立ち|福山で映画監督を夢見た子ども時代
毎熊克哉さんは広島県福山市で生まれました。
2026年のインタビューでは下関にも4年ほど暮らした経験があると話しており、実家についても一つの場所に住み続ける家庭ではなかったことを明かしています。
3歳で『E.T.』に夢中、小学生から将来の夢は映画監督
映画との最初の強い出会いは、3歳で観た『E.T.』でした。
5歳で『ターミネーター2』を観るころには映画を作ることにも興味を持ち、同作は何度も繰り返し観る一本になったそうです。
子どものころは映画館へ行くだけでなく、レンタルビデオ店にも毎週のように通っていました。
一度借りた作品も繰り返し観るタイプで、『タイタニック』や『ターミネーター2』はとくに印象に残った映画として挙げています。
子どものころは小学生からサッカーを続けていましたが、本人いわく上手な選手ではなく、中学3年生でやめています。
勉強もスポーツも、取り柄のない子どもでした。
出典:田舎暮らしの本 Web「【毎熊克哉さんインタビュー】『〝世界の回転を変える〞ように、東京とは違う常識のところにまた住んでみたい』|映画『安楽死特区』」(2026年1月22日)
小学校時代から卒業アルバムに書く将来の夢は「映画監督」でした。
役者として人前に立つことより、カメラの向こう側で作品を作ることに関心を持ったまま高校へ進みます。
福山で育った学生時代|高校ではストリートダンスに熱中
高校生活で映画とは別に夢中になったのが、ストリートダンスでした。
始めたのは高校1年生の終わりごろで、友人たちと街中に集まって練習するようになります。
高校3年生では仲の良い友人と発表会にも出演し、踊るだけでなく、振り付けや構成、音楽、照明まで自分たちで考えました。
決められた振り付けをこなすだけではなく、自分たちが見せたいものに合わせて曲を選び、編集し、動きや見せ方まで組み立てていたそうです。
本人は後年、高校時代のダンスを、人に見せるために自分で形にした最初のものづくりとして振り返っています。
2015年に仕事で地元へ戻った際には、久しぶりに見た駅や昔通っていた店についてXへ投稿していました。
出身高校は「銀河学院高校」とする二次情報がありますが、本人インタビューで確認できるのは2005年に高校を卒業したことまでです。高校名については確定できる一次資料が見当たらず、断定できません。
高校卒業後に選んだ進路は大学ではなく、東京で映画制作を学べる専門学校でした。
2026年にRCC中国放送が行ったロングインタビューでは、故郷・広島について本人が映像で語る様子も公開されています。
毎熊克哉の家族|父親・母親・妹との関係
毎熊克哉さんの生育家族では、父親・母親・妹について本人の発言が残っています。
とくに母親のダンスと父親の俳優活動への反応は、それぞれ別の形で進路に関わりました。
元ダンサーの母親と妹の発表会からストリートダンスへ
母親はもともとダンサーで、子育てを経たあと、地元のカルチャースクールでジャズダンスやバレエを教えていました。
妹もバレエやジャズダンスを習っていたため、家族の中には以前からダンスがある環境でした。
ただ、毎熊さん自身は最初からダンス好きだったわけではありません。
母親がたまたま見ていたストリートダンスのレクチャービデオを目にし、それまで持っていたダンスへの印象が変わりました。
ビデオで踊っていたダンサーのEIJIさんの動きを何度も見て真似し、やがて母親が教えるカルチャースクールの発表会にも出るようになります。
もしダンスをやっていなかったら、俳優にはなっていなかったかもしれません。
出典:朝日新聞デジタルマガジン&「『恋はつづくよどこまでも』出演の毎熊克哉 演技の原点はダンスで磨いた『真似る能力』」(2020年2月25日)
高校卒業後に上京してからも、EIJIさんのレッスンへ通い、ダンスは10年近く続けました。
多い時期には週3回、1日6時間ほど踊ったこともあり、演技を始めたころには振り付けを覚える感覚が芝居の段取りにも役立ったと話しています。
妹との関係が見える投稿も残っており、2014年には妹の結婚式を翌日に控え、自分が映像を撮ることをXで伝えていました。
俳優の道に反対した父親と「克也」から「克哉」への改名
母親がダンスを始めるきっかけに関わった一方、父親は毎熊さんが役者をやってみたいと言った当初、俳優の道に否定的だったそうです。
20代には父親とけんかをすることもあり、関係が良くない時期が続きました。
そんな父親の一言が関わったのが、2015年の改名です。
父親が「也」より「哉」の方が画数が良いらしいと話していることを母親から聞き、名前の漢字を変えてみることにしたそうです。
2015年、「毎熊克也」から「毎熊克哉」へ表記を変更しました。
長編『ケンとカズ』が完成した時点では旧表記の「毎熊克也」でしたが、劇場公開用のエンドロールでは「毎熊克哉」に変わっています。
『ケンとカズ』で俳優として評価されるようになったあと、父親から一度だけ「俳優をやっていて良かった」という趣旨の言葉をかけられたことも本人が明かしています。
映画監督を目指して上京|専門学校で撮影照明から監督専攻へ
2005年に高校を卒業すると、映画監督を目指して東京へ向かいました。
進学したのは東京フィルムセンタースクールオブアート専門学校で、2008年に卒業しています。
映画を作るため撮影照明を学び、2年生で監督専攻へ変更
上京するときは夜行バスを使い、東京では学校まで自転車で通える場所に住みました。
生活費に余裕がある学生生活ではなく、学校近くの居酒屋でアルバイトもしながら3年間を過ごしています。
本人はこの3年間について、お金の面だけでなく人間関係でも難しさがあった時期だったと振り返っています。
一方で、学校では実際に機材を使って映画を撮り、卒業後まで続く制作仲間とも出会いました。
映画監督になるための学校を選んだものの、入学時の専攻は監督ではなく撮影照明でした。
本人は「映画を作るなら、まず撮影を知る必要がある」と考えていたそうです。
しかし授業を受けるうちに、自分が学びたいのは撮影技術そのものより、映画づくり全体を指揮することだと気づきます。
2年生から監督専攻へ変更し、実際に自分でも作品を撮りました。
専門学校には撮影機材を使って作品を作れる環境があり、同級生には後に『ケンとカズ』を監督する小路紘史さんもいました。
授業外でも機材を借りられ、何本も自主制作する学生がいた一方、毎熊さん自身が監督として撮ったのは在学中に2本ほどだったそうです。
機材を借りる申請を面倒に感じてしまったこともあり、後になって「もっと作っておけばよかった」と振り返るほどでした。
思い描く芝居を伝えられず「自分で演じる」ことを始める
監督として作品を撮ると、毎熊さんは役者への演技指示で壁にぶつかりました。
頭の中には「こう歩いてほしい」「こう演じてほしい」という映像があるのに、それを言葉で説明しても思った通りの芝居になりません。
「自分がお芝居を知らないからではないか」と考え、一度自分で演技を学んでみることにしました。
この時点でも、俳優になることが長年の夢だったわけではありません。
映画監督になるために分からなかったことを理解したいという気持ちから、演じる側へ足を踏み入れています。
在学中の自主制作では人手が足りないと学生同士で出演し合うこともあり、カメラの前に立つ経験自体は少しずつ増えていました。
高校時代からダンスで人前に立っていたため、体を使って表現することへの抵抗は比較的少なかった一方、初めてセリフを渡されたときには恥ずかしさもあったそうです。
演技を始めた当初はダンスの癖から姿勢や動きを決めすぎてしまい、「もっと普通に出てきて」と指摘されたこともありました。
俳優を始めた20代|アルバイトと自主映画を続けた下積み時代
専門学校を卒業した2008年以降、毎熊さんは演技を本格的に学び始めます。
ただし、演技を始めた瞬間から「俳優一本で生きる」と決めていたわけではなく、最初の数年間は試行錯誤が続きました。
卒業後に演技を学び、約2年かけて俳優を本気で目指す
卒業後はオーディションを受けながら芝居を続けましたが、役が次々に決まるようなスタートではありませんでした。
それでも演技を続けるうち、考え込まずに一瞬でできる感覚が自分の中にあることに気づき、真剣に取り組めば何かをつかめるかもしれないと思うようになります。
そこからが本当の意味で、俳優としてのスタートかもしれません。
出典:サイゾーオンライン「【毎熊克哉インタビュー】人の心の内側を探っていくヒューマンな映画『初級演技レッスン』」(2025年2月22日)
演技を始めてから約2年を経て、俳優をきちんと続けていく意識が固まっていきました。
21歳のころには高橋伴明監督の映画『禅 ZEN』で初めてプロの映画撮影現場を経験し、2009年には『学校裏サイト』『笑う警官』などへ出演しています。
つまり毎熊さんの場合、「演技を始めた時期」「プロの映画現場に入った時期」「俳優を本気で続けようと考えた時期」は完全に同じではありません。
『TIC-TAC』初主演と仲間との自主映画制作
2009年には仲間と映像制作集団を立ち上げ、自分たちで作品を作る活動も始めました。
商業作品のオーディションを待つだけではなく、同じように出演機会を求めていた仲間と自主映画を撮り、映像演技を試す場所を作っています。
舞台の稽古と映像の芝居には違いがありましたが、どちらも実際に演じなければ得られない経験として重ねていきました。
2010年には舞台『TIC-TAC』で初舞台を踏み、初主演も務めました。
同じころには短編映画『ケンとカズ』にもカズ役で出演し、作品は2011年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で奨励賞を受賞します。
ほかにも仲間と短編映画を制作し、『VOEL』はショートショート フィルムフェスティバルで上映されました。
俳優の仕事が少ない時期にも、撮影する側と演じる側を行き来しながら映画そのものを作り続けていました。
エキストラの仕事もなくなった20代半ば、それでも俳優を続けた理由
20代の大半は、アルバイトで生活費を稼ぎながらオーディションを受ける日々でした。
一時は芸能事務所に所属していましたが、約4年後、25歳のときに退所してフリーランスになります。
ところが、事務所を離れるとエキストラの仕事すら入らない時期があり、このまま俳優を続けるのか本気で考えることになりました。
辞めようと思うほどやれていない
出典:テレ朝POST「毎熊克哉、20代半ばでエキストラ仕事すらなくなった過去。俳優を続けた理由は『辞めようと思うほどやれていない』」(2023年3月31日)
まだ自分の実力を試せる場所にも立てていないのに辞めるのは違うと考え、俳優を続けます。
バイト先で正社員になる道も現実的な選択肢として考えましたが、作品を作る仲間との活動は途切れませんでした。
引っ越しのアルバイトをしながらオーディションへ行き、仕事がない時期には自主映画を撮る生活が続きます。
俳優として呼ばれる現場が少なくても、映画学校で知り合った仲間同士では、それぞれが監督や撮影、出演を担って作品を作ることができました。
俳優の仕事がなくても、自分たちで映画を作れる場所があったことが20代を支えていました。
『ケンとカズ』が転機|映画学校の同級生とつかんだ「遅咲きの新人賞」
仕事がほとんどない時期にも交流が続いていた一人が、専門学校時代の同級生小路紘史さんでした。
短編として一度作った『ケンとカズ』を長編映画にする話が持ち上がったのは、毎熊さんが俳優を始めて5年ほど経ったころです。
小路紘史と短編『ケンとカズ』から長編制作へ
毎熊さんは短編版でカズを演じていましたが、長編版でもその役が最初から保証されていたわけではありません。
長編の初稿ができたあとにリハーサルをすると、小路監督から「このままでは長編は撮れない」と告げられ、全キャストを改めて選ぶことになりました。
毎熊さん自身もカズ役の審査を兼ねながら、ほかの俳優をオーディションに呼び、読み合わせを手伝っています。
すべてのオーディションが終わったところで、ようやく長編版でもカズ役を任されました。
長編の制作時には、普通の商業映画のように短期間で撮り切れる予算はありませんでした。
俳優もスタッフもアルバイトなど別の仕事を抱えながら、数か月にわたって撮影を重ねています。
予算が少ないから短い日数で終わらせるのではなく、参加者の仕事の予定を合わせながら時間をかける方法が選ばれました。
撮影現場ではキャラクターについて何度も話し合い、毎熊さんも俳優の立場から作品づくりそのものへ深く関わりました。
学生時代からの友人である小路監督とは、役者と監督という立場になっても「このシーンは必要か」と編集にまで意見を言い合える関係でした。
毎熊さんにとって長編『ケンとカズ』は、それまで約5年間に映画や舞台で積んだものを、本気で試す初めての場所になりました。
後年、『ケンとカズ』が再上映された夜には、撮影当時を思い出すような写真をXへ投稿しています。
2年近い制作の末に東京国際映画祭で作品賞
長編『ケンとカズ』は撮影だけで終わらず、完成までに長い時間がかかりました。
毎熊さんは、長編版の撮影から編集を含めて2年近くかかったと振り返っています。
最初にラッシュに近い状態の映像を見たときには大きな手応えまではなく、映画祭へ出しても通らない時期が続きました。
出演者たちが意見を出し切ったあとも小路監督は編集を続け、さらに時間をかけて作品を仕上げています。
毎熊さんは最後に完成した版を見たとき、そこで初めてはっきりとした手応えを感じたと語っています。
完成を急ぐより、自分たちが納得できる映画にするために撮影と編集を重ね、その間も出演者やスタッフはそれぞれの生活を続けていました。
短編版『ケンとカズ』は2011年にSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で奨励賞を受賞。長編版は2015年の第28回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門で作品賞を受賞し、2016年に劇場公開されました。
長編版が東京国際映画祭で作品賞を受賞したことで、毎熊さんの俳優としての状況も変わります。
劇場公開後には、第71回毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞、おおさかシネマフェスティバル2017新人男優賞、第31回高崎映画祭最優秀新進男優賞を受賞しました。
30歳前後で新人賞を受けたことから「遅咲きの新人」と紹介されるようになり、それまでほとんどなかった俳優の仕事が増えていきます。
新人賞を機に『北の桜守』『万引き家族』『まんぷく』へ
『ケンとカズ』の評価後、2018年には吉永小百合さん主演の映画『北の桜守』に出演しました。
この出演は『ケンとカズ』を観た東映の岡田裕介さんが毎熊さんに目を留めたことからつながったもので、本人にとって自主映画から大きな商業作品へ移る出来事の一つになりました。
同年には是枝裕和監督の『万引き家族』にも参加し、NHK連続テレビ小説『まんぷく』では森本元役を演じています。
自主映画とアルバイトを中心に過ごした20代から、映画やテレビドラマの現場へ出演する機会が続くようになりました。
毎熊さん自身も、役者として仕事をもらえるようになったきっかけは『ケンとカズ』だったと振り返っています。
映画監督を目指して上京した毎熊さんは、学生時代の同級生と作った一本の長編映画によって、俳優として仕事の幅を広げる地点までたどり着きました。
その『ケンとカズ』は、映画学校で映画を作り始めた仲間たちが卒業後も制作を続け、時間をかけて完成させた作品でした。
















