大杉漣の生い立ち|徳島の家族と若い頃、転形劇場から俳優になるまで

大杉漣の生い立ちと徳島での若い頃、転形劇場から俳優になるまでを港町と舞台のモチーフで示した人物ビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
おおすぎれん
カテゴリー
男性俳優
出身地
徳島県
生年月日
1951年9月27日
芸能活動開始
1973年
俳優デビュー
1973年
デビューのきっかけ
舞台・演劇

映画やドラマで、穏やかな父親から刑事、ヤクザ、政治家まで幅広い役を演じてきた大杉漣さん。

1951年9月27日に徳島県小松島市で生まれ、長い舞台生活を経て映像の世界へ進み、数多くの作品に出演しました。

ただ、若い頃から映画俳優を目指して一直線に進んできたわけではありません。

高校時代はサッカーに打ち込み、上京後に前衛演劇と出会ったことから芝居の世界へ入っています。

その後は転形劇場で長く「沈黙劇」に取り組み、37歳で劇団が解散してから映像作品へ活動の軸を移しました。

舞台から始まった俳優としての仕事は、その後40年以上にわたって続きました。

今回は、そんな大杉漣さんの生い立ちや家族、学生時代、演劇との出会い、転形劇場での舞台生活、北野武監督の『ソナチネ』で大きな転機を迎えるまでをご紹介します。

大杉漣の生い立ち|徳島の港町で育ったサッカー少年

大杉漣さんの本名は大杉孝さんで、徳島県小松島市の出身です。

子ども時代を振り返った本人の言葉からは、港町・小松島で過ごした日々が伝わってきます。

4人兄弟の末っ子として小松島市で育つ

大杉さんは男ばかり4人兄弟の末っ子として育ちました。

故郷について本人は「徳島県の小さい港町」と話しています。

高度経済成長期のまだ物が豊富ではなかった時代に育ち、周囲の人たちが一生懸命に暮らしていた空気を覚えていると振り返っていました。

僕は、どこにでもいるやんちゃな少年でした。

出典:週刊女性PRIME「大杉漣、肉親秘話語る『“おまえが一番よかったわ”と必ず言ってくれる母でした』」(2017年3月31日)

後に多数の映画へ出演することになりますが、この頃の本人は自分を特別な映画少年として語ってはいません。

城北高校ではサッカーに打ち込んだ

高校は徳島県立城北高校へ進学しています。

高校時代に打ち込んだのがサッカーでした。

本人は後年、サッカーを「人生の一部」と表現するほど長く続け、1992年には仕事仲間らと「鰯クラブ」を結成して10番を背負っています。

故郷の徳島ヴォルティスも、クラブの前身である大塚製薬サッカー部の時代から応援していました。

2013年に徳島ヴォルティスがJ1昇格を決めたプレーオフ決勝では、東京・国立競技場の徳島サポーター席から声援を送っています。

2017年にはホームゲームへ足を運び、ピッチ上で両チームと主審へ花束を贈りました。

この日は仕事ではなくオフを使って来場し、「サポーターを代表して」参加したことをクラブ側が後に明かしています。

高校で始めたサッカーは、俳優になった後も途切れずに続いた趣味のひとつでした。

高校卒業後に徳島を離れ東京へ

1970年、城北高校を卒業した大杉さんは徳島を離れて東京へ向かいました。

上京後は明治大学へ進学しています。

この時点では、後に知られる映像俳優としての道が決まっていたわけではありません。

東京で目にした一つの舞台が、その後の進路を大きく変えることになります。

大杉漣の家族|寡黙な父と舞台を見続けた母、3人の兄

大杉さんが後年語った家族の思い出には、性格の違う父と母、そして3人の兄が登場します。

とくに、まだ映画やテレビで広く知られる前から舞台を見に来ていた母の話は、若い俳優時代の様子を伝えるエピソードとして残っています。

父は長年高校校長を務めた寡黙な人

父親は長年、高校の校長を務めた人物でした。

徳島新聞の過去の対談では、父が徳島県立城東高校の校長を務めていた時期もあったことが紹介されています。

学校で多くの生徒を率いる立場にあった父ですが、家庭では言葉数の少ない人だったようです。

酒と釣りが好きで、本人によれば「本当に寡黙な人」だったそうです。

大杉さんは、父と「会話らしい会話」をした記憶があまりないとも話しています。

それでも、父が亡くなった後のインタビューでは、自分の中に父親の存在がしっかり残っていると語っていました。

「おまえが一番よかった」と励まし続けた母

母親は京都の出身で、大杉さんがアンダーグラウンドの芝居を続けていた時期にも東京まで舞台を見に来ていました。

出演する役が小さくても、母は息子を必ず褒めていたといいます。

おまえが一番よかったわ

出典:週刊女性PRIME「大杉漣、肉親秘話語る『“おまえが一番よかったわ”と必ず言ってくれる母でした』」(2017年3月31日)

本人は、自分でも「そんなによくない」と分かっていたため照れくさかったと笑いながら、それでも励まし続けてくれたことがうれしかったと振り返っています。

映画やテレビの仕事が増える前から、母は東京へ足を運び、大杉さんの舞台を見続けていました。

母は、アンダーグラウンド演劇の時代から映画やテレビへ活動が広がった後まで、晩年に至るまで息子の仕事を見続けました。

男ばかり4人兄弟|家族で映画館へ通った子ども時代

大杉さんには3人の兄がいました。

末っ子だった本人の子ども時代の記憶には、兄たちと一緒に映画館へ出かけた場面が残っています。

本人によれば、当時の小さな港町には映画館が4館ほどあり、娯楽が少ない時代に家族や兄たちとよく足を運んでいました。

ただし、大杉さんはこの記憶を「俳優を志した原体験」とは語らず、幼い頃から映画俳優を目指していたとも話していません。

明治大学から転形劇場へ|大杉漣が演劇と出会った若い頃

高校を卒業して上京した大杉さんは、明治大学へ進学しました。

大学生活の途中で演劇に引き寄せられ、やがて大学を離れて劇団の世界へ入っていきます。

上京後に見た前衛劇が芝居への興味を変えた

上京後、大杉さんは演出家・蜷川幸雄さんが関わっていた現代人劇場の前衛劇を見ました。

1997年の徳島新聞のインタビューでは、地方から出てきた青年にとって、その舞台は強烈な体験だったと話しています。

そのとき、芝居がやりたいと強く思ったんです

出典:徳島新聞「大杉漣さんインタビュー 映画『HANA-BI』で準主役」(1997年10月25日)

サッカー中心だった高校時代を終え、東京で見た前衛劇によって「芝居がやりたい」という気持ちが生まれました。

ただし、この舞台を見た瞬間にすぐ劇団員になったわけではありません。

次に大杉さんを具体的な行動へ向かわせたのが、演出家・太田省吾さんとの出会いでした。

太田省吾の言葉に出会い、転形劇場の門を叩く

明治大学在学中の1973年、大杉さんは太田省吾さんが書いた文章に触れます。

映画資料では、雑誌『新劇』に掲載された太田さんの記事に感銘を受け、大学を中退して劇団員募集へ応募したと記録されています。

本人も後年、太田さんのエッセーを読んだことがきっかけで劇団の門を叩いたと振り返りました。

おそらく俳優になっていなかったと思います。

出典:Numéro TOKYO「追悼企画 大杉漣インタビュー『フラフラしているほうが僕らしい』」(2018年2月27日)

これは、太田さんの言葉や存在に出会わなければという問いに対する本人の答えでした。

研修生となった大杉さんは、1973年6月に別役実さん作の舞台『門』へ出演しています。

映画データベースのKINENOTEでは、この『門』を大杉さんの舞台俳優としてのデビュー作としています。

大学へ通いながら俳優を続けるのではなく、明治大学を中退して劇団の世界へ入りました。

1974年には太田省吾さん主宰の転形劇場へ入り、舞台俳優として本格的に活動するようになりました。

つまり、1973年に研修生として舞台へ立ち、翌1974年に転形劇場へ正式に入ったため、俳優活動そのものは正式入団より先に始まっています。

大杉さんの俳優としての出発点は、テレビドラマでも映画でもなく、転形劇場につながる舞台活動でした。

芸名「漣」は高田渡の息子・高田漣から

本名の大杉孝から「大杉漣」へ。

「漣」という芸名には、音楽家の高田渡さんと、その息子でミュージシャンの高田漣さんが関わっています。

高田漣さんは大杉さんの訃報を受けた2018年、若い頃の大杉さんが父・高田渡さんのもとを訪れ、息子の名前を芸名に使わせてほしいと直接頼んだと明かしました。

その後、大杉さんは高田親子と共演する機会も持つようになりました。

高田漣さんの投稿によれば、高田渡さんが亡くなった後も交流は続き、楽屋へ差し入れを届けることもあったそうです。

俳優として長く知られることになる「漣」という名前は、若い頃に自分から高田渡さんへ頼みに行って得た芸名でした。

沈黙劇から『ソナチネ』へ|大杉漣が映像俳優になるまで

転形劇場に入った大杉さんは、太田省吾さんのもとで「沈黙劇」に長く取り組みました。

その舞台経験を経て映画にも出演するようになりますが、映像の仕事を本格的な活動の場にするのは、劇団が解散してからでした。

転形劇場で磨いた「沈黙劇」が俳優としての出発点

転形劇場で大杉さんが取り組んだ沈黙劇は、台詞によって物語を説明する芝居とは大きく異なりました。

本人は後年、台詞のない芝居をしていたことで、黙っていることの怖さや難しさを知りながら舞台に存在する感覚を身につけたと話しています。

転形劇場の沈黙劇では、台詞で説明することよりも、俳優の身体や空間の中で「存在すること」が重視されました。大杉さんはこの経験を、自身の俳優としての出発点として振り返っています。

転形劇場での舞台活動は十数年にわたって続きました。

後年はこの長い下積み時代を「苦労」と呼ばれることもありましたが、大杉さん自身は、自分で選んだ道だから金銭的に厳しいことを苦労とは考えていなかったと話しています。

売れるための準備期間として舞台に立っていたのではなく、当時は沈黙劇そのものを続ける俳優として日々を過ごしていました。

ORICON NEWSのインタビューでは在籍期間を16年と振り返り、この時期に経験した特殊な演技方法を自分の俳優としての出発点として語っています。

大杉さんは20代から30代の大部分を、転形劇場の舞台で過ごしました。

映画出演を始め、37歳で劇団解散を迎える

舞台活動を続ける一方で、大杉さんは高橋伴明監督の『緊縛いけにえ』で映画へ出演しました。

ここは資料によって「映画デビュー年」の表記が分かれています。

徳島新聞の1997年インタビューやORICON NEWSのプロフィールには「1978年に映画デビュー」とあります。一方、KINENOTEなど作品単位の資料では『緊縛いけにえ』を1980年公開の映画初出演作としています。この記事では作品の公開年を基準に、1980年公開作として扱います。

本人は後年、この高橋伴明監督作品で初めて映画のギャラを受け取ったときのうれしさを覚えていると話しています。

また、「俳優で食う」ことにはこだわりを持っていたとも振り返っています。

舞台の沈黙劇を続けながら、映画では別の監督や俳優たちと出会い、映像の現場での経験も重ねていきました。

映画出演後はピンク映画にも数多く参加し、1981年には井筒和幸監督の『ガキ帝国』など一般映画にも出演しました。

1983年には滝田洋二郎監督の『連続暴姦』で主演男優賞を受賞し、1984年の周防正行監督『変態家族 兄貴の嫁さん』では33歳で老け役を演じています。

若い頃の大杉さんにとって、映画は舞台と並行して経験を積む場のひとつでした。

1988年には、それまで長く出演してきたピンク映画からも離れました。

1988年、37歳のとき、長く所属した転形劇場が解散します。

ここから、大杉さんは本格的に映像の世界へ活動の軸を移しました。

1989年には周防正行監督の『ファンシイダンス』へ出演し、1990年代にはVシネマを含む映像作品へ次々と参加しています。

本人はこの頃について、Vシネマ全盛期のなかで「日々ヤクザを演じていた」と振り返っています。

舞台で長く続けてきた演技と、撮影現場で求められる演技の間で、自分の方法を探していた時期でもありました。

仕事は増えていきましたが、本人の中には、舞台で身につけた演技方法が映像でも通じるのかという迷いがありました。

迷いがないなんてありえません。

出典:ORICON NEWS「大杉漣インタビュー『俳優人生40年、苦労という言葉はあてはまらない。今なお迷いっぱなし(笑)』」(2017年3月25日)

その迷いの最中に受けた映画のオーディションが、北野武監督の『ソナチネ』でした。

『ソナチネ』のオーディションに遅刻、それでも役をつかむ

1993年公開の『ソナチネ』は、大杉さんにとって大きな転機になった作品です。

公開時の大杉さんは41歳で、転形劇場の解散から約5年がたっていました。

本人によれば、北野武監督の映画は台詞が少なく、言葉以上のものを伝えるところに、自分が続けてきた沈黙劇と通じる感覚がありました。

そこで「ぜひ一緒に仕事がしたかった」とオーディションへ向かいます。

Numéro TOKYOのインタビューでは、これが大杉さんにとって初めて受けた映画のオーディションだったとも語られています。

すでに舞台や映画の現場を長く経験していた40代の俳優が、初めて映画のオーディションへ向かった先が北野作品でした。

ところが、大切なオーディション当日に遅刻してしまいました。

本人は落ちたと思っていたものの、主人公の右腕となるヤクザ・片桐役に起用されます。

北野監督が僕の方を見たのは2秒ほどだったんですが

出典:徳島新聞「大杉漣さんインタビュー 映画『HANA-BI』で準主役」(1997年10月25日)

大杉さんは、北野監督から「目」を気に入られたと聞いたことまで笑い話として語っていました。

北野武の「そこにいる」演出と沈黙劇がつながった

『ソナチネ』で大杉さんが受けた北野監督の演出は、それまでの映像現場とは違うものでした。

北野監督は、何かを演じて見せることより、そこにいることを求めたといいます。

まさに転形劇場でやってきたことと通じると感じたのです。

出典:ORICON NEWS「大杉漣インタビュー『俳優人生40年、苦労という言葉はあてはまらない。今なお迷いっぱなし(笑)』」(2017年3月25日)

太田省吾さんのもとで続けてきたのも、何かを過剰に演じるより、舞台の上に「存在する」ことを意識する芝居でした。

劇団解散後に映像で迷っていた大杉さんは、北野監督の現場で転形劇場時代と共通する感覚に出会いました。

『ソナチネ』以降も北野作品への出演が続き、『HANA-BI』では4度目の北野作品として主人公の同僚刑事を演じました。

『HANA-BI』や崔洋一監督の『犬、走る DOG RACE』などの演技では複数の映画賞を受賞し、40代後半には映画界で広く名前を知られる存在になりました。

1997年の徳島新聞インタビューでは、久しぶりに故郷へ戻った際、昔の友人から『HANA-BI』の仕事を祝福されたことをうれしそうに話しています。

20代で故郷を離れて舞台へ入り、長く続けた演劇の経験を持ったまま、40代になって映像作品で大きな役を得るようになった時期でした。

映画を中心に積み重ねてきた仕事はテレビドラマへも広がり、強面の人物から父親役まで多様な役を演じるようになります。

2001年には自著『現場者 300の顔をもつ男』を刊行し、その後「300の顔を持つ男」という呼び名でも知られるようになりました。

出演本数の多さだけでなく、映画、テレビドラマ、舞台、ナレーション、バラエティーまで仕事の場を広げていきます。

映像の世界で歩み続け、2018年に66歳で逝去

『ソナチネ』から25年後の2018年、大杉さんはテレビ東京系ドラマ『バイプレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~』の撮影に参加していました。

2月20日に行われた最終話の収録が、生前最後のドラマ撮影現場となりました。

ORICON NEWSがこの日の現場に密着しており、後に撮影時の映像を公開しています。

映像には、遠藤憲一さん、田口トモロヲさん、松重豊さん、光石研さんと談笑したり、小道具のギターを手にしたりする大杉さんの姿が収められています。

撮影後に宿泊先へ戻った大杉さんは体調を崩し、病院へ搬送されました。

2018年2月21日午前3時53分、急性心不全のため66歳で亡くなりました。

公表された死因は「急性心不全」です。「大動脈解離」など別の病名を死因とする根拠は、公表内容からは確認できません。

前日まで撮影に参加していた『バイプレイヤーズ』は、その後も大杉さんが出演した第5話まで放送され、3月7日に最終回を迎えました。

大杉さんが最後に立った撮影現場には、共演者やスタッフといつも通り仕事を続ける姿が映像として残されています。