木野花の生い立ち|若い頃と家族、美術教師から女優になるまで

木野花さんの肖像と、生い立ち・家族・美術教師から女優になるまでを示す人物誌風ビジュアル

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
きのはな
カテゴリー
女優
出身地
青森県
生年月日
1948年1月8日
芸能活動開始
1974年
女優デビュー
1975年
デビューのきっかけ
劇団・養成所

木野花さんは、舞台から映画・ドラマまで幅広く出演し、演出家としても作品を手がけてきた俳優です。

2018年公開の映画『愛しのアイリーン』では宍戸ツル役を演じ、第92回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞を受賞しました。

その一方、女優になる前は弘前大学で美術を学び、卒業後は中学校の美術教師として働いていました。

教職を1年で離れ、雑誌『美術手帖』で知ったアングラ演劇をきっかけに上京したという経歴を持っています。

今回は、そんな木野花さんの生い立ちや家族、青森での学生時代、美術教師を辞めて演劇へ進んだきっかけ、劇団青い鳥で女優として歩き始めた若い頃をご紹介します。

木野花の生い立ち|青森の自然の中で過ごした幼少期

木野花さんは1948年1月8日生まれで、5歳のときに生活環境が大きく変わりました。

その後の少女時代を過ごした青森には、家庭での寂しさとは対照的に、木野さんが夢中になれる海や山の自然がありました。

5歳で生活が一変し、母と青森へ

5歳のときに両親が離婚し、母に引き取られて青森県にある母の実家へ移りました。

それまでの暮らしから一転し、母が働きに出ているあいだを一人で待つ時間が増えたと、木野さんは後年のインタビューで振り返っています。

小学校へ入るころには母の実家に預けられることもあり、年下の甥や姪の世話をする場面もあったそうです。

厳しい母であっても離れて暮らすことは寂しく、幼い木野さんにとっては、家族に甘えたい気持ちと自分で過ごさなければならない時間が同時に存在していました。

本人は、父や祖父母に囲まれていたころの自分を自己肯定感の強い子どもだったと振り返る一方、青森へ移ってからは内向的になっていったとも話しています。

同じ「子ども時代」の中でも、5歳を境に人との距離や日々の過ごし方が大きく変わっていました。

いま思い出してもかなり不条理な幼少期だったと思います。

出典:anan「木野花『のちの演劇人生に大きく影響することに…』 不条理だった幼少期の体験」(2022年2月6日)

ただし、木野さんがその時代を語るとき、つらさだけで話が終わるわけではありません。

下北半島の自然の中で感じた「解放」の感覚

母の実家は、下北半島の海と山に囲まれた小さな村にありました。

町から来た木野さんにとって周囲の自然は新鮮で、木に登り、海へ潜って貝を取り、野原を走り回って遊んでいました。

雲を長く眺めているうちに、意識が体から流れていくような不思議な浮遊感を覚えることもあったといいます。

もちろん実際に体が浮いたわけではありませんが、自然へ身を委ねることで身体も意識もほどけていくような感覚として記憶に残りました。

大人になって演劇の世界で「解放」「集中」「感受性」という言葉に出会ったとき、木野さんは子ども時代の感覚を思い出したと話しています。

木野花の家族|父・母・祖父母との関係と少女時代

木野花さんの幼少期をたどると、父や祖父母から受けた愛情と、母との複雑な距離の両方が語られています。

とくに母との関係は、少女時代の生活だけでなく、読書を通じて新しい考え方に出会うきっかけにもなりました。

父と祖父母に可愛がられ、厳しい母のもとで育った

木野さんは一家の最初の子どもで、女の子だったこともあり、幼い頃は父と祖父母からとても可愛がられて育ったと話しています。

一方の母は、周囲が甘やかすことを心配するように厳しく接していました。

両親の離婚後はその母と青森へ移り、働く母を待つ生活になったため、母への気持ちは単純なものではありませんでした。

後年、母の死を振り返ったインタビューでは、厳しく育てられながらも、母への思いを率直に語っています。

誰よりも母が大好きで母に愛されたいと思っていた

出典:anan「木野花『誰よりも母が大好きで、愛されたいと思っていた…』 厳しかった母の死」(2022年2月26日)

幼い頃に感じた厳しさと、母に愛されたいという思いの両方を、木野さん自身が大人になってから言葉にしています。

母から贈られた文学全集が読書の習慣に

母から受け取ったものの中には、本との出会いもありました。

中学生のときには日本文学全集、高校生になると世界文学全集を母から与えられ、毎月届く本を読み続けるうちに読書が習慣になりました。

限られた人間関係の中では出会えない考え方や価値観を、本の中で知るようになったと木野さんは振り返っています。

ニーチェをはじめとするさまざまな言葉にも触れ、世の中には一つの答えだけがあるわけではないと感じる経験を重ねました。

母の厳しさだけを見ると距離のある親子にも見えますが、毎月届いた文学全集は、木野さんが自分の外にある世界へ触れる入り口になりました。

母を看取ったときのことについても、木野さんは後年、自分でも想像していたほど取り乱さず、静かに死を受け止められたと語っています。

少女時代に寂しさを感じた相手でありながら、大人になってからも「愛されたいと思っていた」と言葉にするほど大きな存在だったことが伝わるエピソードです。

木野花の学生時代|青森西高校から弘前大学、美術教師へ

木野花さんは、子どものころから成績優秀で一直線に大学へ進んだタイプではありませんでした。

高校2年生で出会った一人の教師によって、勉強への向き合い方が大きく変わっています。

高校2年の政治経済教師との出会いで勉強への姿勢が変わった

高校は青森県立青森西高等学校へ進みました。

当時の青森西高校は女子校で、木野さん自身は勉強が特別に好きでも得意でもなかったと話しています。

転機になったのは、高校2年生のときに赴任してきた男性の政治経済教師でした。

その教師は、女性だからという前提を置かず、生徒に対して政治経済を正面から教えていました。

女性は結婚して家庭に入ることが幸せだという考え方が強かった時代に、木野さんはその姿勢を新鮮に感じます。

木野さん自身、女子校に漂っていた古い女性観に違和感を抱いていたため、性別ではなく一人の生徒として向き合う教師の授業が強く印象に残りました。

政治経済で一番になりたいと思うほど授業へ熱中し、それまで苦手意識のあった勉強に自分から向かうようになります。

政治経済の授業をきっかけに勉強そのものが面白くなり、ほかの教科にも関心が広がっていきました。

本人によれば、成績の順位も50位、20位と上がり、最終的には国立大学へ進学できるところまで変化したそうです。

この教師から受けた「男女を分けずに向き合う」という経験は、その後に木野さんが演劇の場でぶつかる出来事とも重なっていきます。

弘前大学教育学部で美術を学び、中学校教師になった

高校卒業後は、弘前大学教育学部美術学科へ進学しました。

大学では美術を学び、卒業後はそのまま中学校の美術教師になります。

この時点では、俳優として芸能界へ入ることより、大学で学んだ美術と教育を生かす進路を選んでいました。

ところが、実際に学校で働き始めると、組織の中で過ごすことに強い窮屈さを感じるようになります。

教職1年目の秋には行き詰まりを感じ、自分自身を変える方法を探し始めました。

大学進学も就職も教育の道に沿った選択でしたが、社会人になって初めて、用意された進路から外れる決断を考えることになります。

木野花が女優になるまで|教師を辞め劇団青い鳥を結成

美術教師として働き始めた木野花さんは、学校の縦社会になじめず、最初の秋にはこのまま続けていけるのか悩むようになりました。

そこで目にした一冊の雑誌が、青森から東京へ向かうきっかけになります。

美術教師を1年で退職し『美術手帖』をきっかけに上京

自分を変えたいと模索するなかで出会ったのが、雑誌『美術手帖』のアングラ演劇特集でした。

1970年代の演劇は、美術や音楽などさまざまな表現が集まり、木野さんの目には男性も女性もなく自由に表現できる場所のように映りました。

大学で学んできた美術から完全に離れたというより、さまざまな表現が交差する演劇に目を向けたことで、新しい居場所を見つけた形でした。

青森で教師を続けながら趣味として芝居を見るのではなく、仕事を辞めて東京へ移るところまで一気に行動しています。

中学校の美術教師を1年で退職すると、迷わず上京して演劇の養成所へ入りました。

所属事務所のプロフィールでは、その養成所を東京演劇アンサンブル養成所としています。

教師から俳優へ進むための決まったコースを歩いたのではなく、学校で感じた窮屈さから抜け出し、自分を変えられる場所として演劇を選んだのが始まりでした。

男女混合の自主公演から女性だけの劇団へ

養成所へ入った木野さんは、やがて仲間と自主公演を企画しました。

最初は男女8人ほどが集まりましたが、女性側が出した提案を男性メンバーから「女の考えだから」という理由で否定されることが続いたといいます。

男女の区別を超えて自由に表現できると思って入った演劇の世界で、再び性別による価値観にぶつかることになりました。

そこで改めて参加者を募ったところ、集まったのは女性だけでした。

1974年、養成所で知り合った女性6人で「劇団青い鳥」を結成しました。

自分を開放し、自由に表現できること

出典:anan「木野花『荒海に舟を漕ぎ出す思いでした』 教職を経て“演劇”の道に進んだ理由」(『anan』2022年2月16日号)

劇団には専任の作家や演出家がおらず、創立当初は役者たち自身が劇作と演出にも関わりながら作品を作りました。

創立メンバーは木野さんのほか、葛西佐紀さん、芹川藍さん、天光眞弓さん、河合みなとさん、渡辺光枝さんの6人です。

作・演出では「市堂令」という共同名義も使われ、誰か一人の考えに作品を預けず、メンバー同士で創作するスタイルが形になっていきました。

劇団青い鳥では、メンバー全員で劇作・演出を担う独自の創作方法が後に「青い鳥方式」と呼ばれました。

女優として舞台に立つだけではなく、作品を作る側にも関わる環境が、結成時からすでにありました。

1975年『美しい雲のある幕の前』で舞台女優として出発

劇団青い鳥は1975年、『美しい雲のある幕の前』で旗揚げ公演を行いました。

木野さんには養成所での演技経験があるため、この舞台を人生で初めて芝居をした瞬間と断定することはできません。

一方で、劇団青い鳥の創立メンバーとして公演活動を始めた1974~1975年は、女優・演劇人として継続的に活動し始めた時期として確認できます。

旗揚げ時の6人は全員が役者志望で、誰か一人の作家や演出家に従うのではなく、話し合いながら舞台を作っていきました。

高校時代に出会った「男女で扱いを変えない教師」、上京後に経験した「女の考えだから」という否定、そして女性だけで始めた共同創作が、時間の順番に並んでいます。

木野さんはこの劇団で約12年間活動し、舞台に立ちながら演出にも関わる演劇人として経験を積みました。

「俳優として舞台に立つこと」と「作品を作ること」が早い時期から分かれていなかった点は、その後に木野さんが女優と演出家の両方で仕事を続ける経歴とも重なります。

木野花の若い頃の転機|劇団退団とCM、演出家への道

劇団青い鳥の創立から12年後の1986年、木野花さんは劇団を退団しました。

同じ1986年には、もたいまさこさんと共演した防虫剤「タンスにゴン」のCMも放送され、舞台の外でも印象を残す仕事が増えていきます。

1986年に劇団青い鳥を退団、もたいまさことCMで共演

1986年、木野さんは劇団青い鳥を退団し、一人の俳優・演出家として活動する時期へ入りました。

検索でも木野花さんと一緒に名前が挙がることの多いもたいまさこさんとは、この年の金鳥「タンスにゴン」のCMで共演しています。

町内会を舞台にしたCMでは、木野さんの「タンスにゴン」という掛け声から、もたいさんが「亭主元気で……」と続け、周囲の主婦たちが「留守がいい」と応じる構成でした。

二人は別々の俳優ですが、このCMで実際に同じ画面に登場しており、「木野花 もたいまさこ」という検索につながる代表的な接点の一つです。

退団後は舞台だけにとどまらず、テレビや映画へ出演する一方、演出家としてもさまざまな俳優と仕事をするようになりました。

劇団という一つの集団の中で共同創作していた時代から、作品ごとに異なる俳優やスタッフと組む働き方へ変わっていきます。

演劇を辞める迷いから、演出の仕事で新たな俳優たちと出会う

劇団を離れて一人になった40代には、演劇そのものを続けるべきか迷った時期もありました。

自分には演劇は向いていないんじゃないか

出典:anan「演劇と向き合い50年! 木野花『70代真っ只中。いよいよこれから! という気分』」(『anan』2022年2月23日号)

そんな時期にプロデュース公演の演出の話が入り、所属の異なる若い俳優たちと次々に出会いました。

演出する側として相手の表現を受け取り、自分も影響を受ける仕事を重ねるうちに、再び演劇へ深く関わるようになります。

劇団にいた30代には自分の考えを強く押し出すことも多かったと振り返っていますが、異なる劇団の若い俳優たちと向き合う演出の現場では、相手から受け取るものも増えていきました。

一人になったことが演劇から離れる理由になるのではなく、別の作り方で演劇へ戻る入口になりました。

俳優としても新しい現場が続き、1996年には劇団☆新感線の『花の紅天狗』で月影花之丞を演じました。

木野さんは後年、この初演時にはいのうえひでのりさんの細かな段取りを自分のものにできず、48歳であらためて演技の難しさに直面したと振り返っています。

『花の紅天狗』は2003年にも再演され、木野さんは再び月影花之丞を演じました。

若い頃に自由な表現を求めて演劇へ入った木野さんにとって、年齢を重ねてからも、決められた段取りの中で自由に演じることは新しい課題として残り続けました。

2007年放送のCBCテレビ『鶴瓶のスジナシ』では、台本も事前の打ち合わせもない即興芝居で笑福亭鶴瓶さんと共演しています。

劇団で共同創作を始めた若い頃から、演出と出演を行き来しながら、俳優としても異なる作り方の現場へ入り続けました。

そして2018年公開の映画『愛しのアイリーン』では、安田顕さん演じる宍戸岩男の母・宍戸ツル役を演じます。

息子への強い愛情とアイリーンへの激しい感情をむき出しにする役で、木野さんは2018年の第92回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞を受賞しました。

女優として個人賞を受けた後も演出の仕事は続き、2022年には向田邦子原作の舞台『阿修羅のごとく』を演出しました。

2023年には、第30回読売演劇大賞で『阿修羅のごとく』が作品賞、木野さんが演出家賞として、それぞれ優秀賞に選ばれました。

俳優としては映画で助演女優賞、演出家としては舞台で演出家賞と、二つの仕事で評価されたことも木野さんの長い演劇歴を示す固定された出来事です。

中学校の美術教師を辞めて演劇へ飛び込んだ木野花さんは、劇団での共同創作を出発点に、出演と演出の両方を続けてきました。