戸塚純貴の生い立ち|実家の母・父・兄と整備士志望から俳優への道

戸塚純貴の生い立ちと実家の母・父・兄、整備士志望から俳優への道を紹介する、肖像イラストと車・舞台のモチーフ

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
とづかじゅんき
カテゴリー
男性俳優
出身地
岩手県
生年月日
1992年7月22日
芸能活動開始
2010年
俳優デビュー
2011年
デビューのきっかけ
コンテスト・公募

NHK連続テレビ小説『虎に翼』の轟太一役や、ドラマ『だが、情熱はある』のオードリー・春日俊彰役などで知られる俳優・戸塚純貴さん。

1992年7月22日に岩手県盛岡市で生まれ、2011年に俳優としての活動を始めました。

実は、高校時代は自動車整備士を目指しており、芸能界に入るつもりはほとんどありませんでした。

進路が変わったきっかけには、スナックを営みながら兄弟を育てた母親の存在と、2011年に経験した東日本大震災がありました。

また、離れて暮らしていた父親から贈られたバイクや、自分の会社を立ち上げた兄との関係など、家族についても興味深いエピソードを語っています。

今回は、そんな戸塚純貴さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界入りのきっかけ、俳優として歩み始めた頃の出来事をご紹介します。

戸塚純貴の生い立ち|岩手県盛岡市で育った子ども時代

戸塚純貴さんは、1992年7月22日に岩手県盛岡市で生まれました。

子どもの頃は野球に取り組んでいましたが、成長するにつれて車やバイクへの興味が強くなっていきました。

小学生では野球選手を夢見ていた

小学生の頃の夢は、プロ野球選手になることでした。

地元のリトルリーグに入り、中学校でも軟式野球部に所属していました。

2020年3月27日公開のCREAのインタビューでは、幼い頃の夢を尋ねられ、最初に野球選手を挙げています。

俳優として知られるようになった戸塚さんですが、最初から人前で演じる仕事に憧れていたわけではありません。

一方で、子どもの頃から映画を見ることは好きだったそうです。

後年のインタビューでは、ハリウッド映画に登場するアメリカ車の格好よさに惹かれたことも振り返っています。

少年時代の興味は、野球から次第に自動車の世界へと広がっていきました。

中学生になると車やバイクに夢中になった

車への興味が強まったのは、中学生の頃でした。

きっかけの一つは、ヒップホップが好きだった兄の影響で見た、アメリカの自動車改造番組『Pimp My Ride〜車改造大作戦!〜』です。

古くなった車を大胆に改造し、見違えるような姿に変えていく番組に夢中になりました。

車に乗ることだけでなく、自分の手で整備や改造をすることにも魅力を感じていたそうです。

改造、カスタムする人になりたいと思ったんです。

出典:CREA「母が応募! ジュノンボーイ戸塚純貴が 福田雄一監督に出会うまで」(2020年3月27日)

2023年7月のGetNavi webのインタビューでは、小学生の頃から通り過ぎる車の車種を当てて遊んでいたことも話しています。

エンジン音からメーカーを当てたり、免許を取得できる年齢を調べたりするほど、乗り物への関心は深まっていました。

やがて車やバイクに関わる仕事をしたいと考えるようになり、自動車整備士を将来の目標に選びました。

戸塚純貴の家族|スナックを営んだ母と父、起業した兄

戸塚純貴さんには兄が1人おり、幼少期は母親と兄とともに暮らしていました。

2025年2月18日放送の『徹子の部屋』では、両親の離婚や母親の仕事、芸能界に入るまでの家族のエピソードを明かしています。

5歳の頃に両親が離婚し、母が兄弟を育てた

戸塚さんが5歳の頃、両親は離婚しました。

その後は母親が兄弟を育て、盛岡で生活していました。

『徹子の部屋』で当時の家庭について語った際には、母親をパワフルでエネルギッシュな人だと紹介しています。

番組では母親からの手紙が読み上げられ、離婚後の生活で息子の笑顔に支えられていたという思いも伝えられました。

母親がそう感じていたことは、戸塚さん自身にとっても初めて聞く話だったそうです。

子どもの頃には分からなかった母親の思いを、俳優として活動するようになってから知る機会になりました。

兄弟を育てるために働いていた母親には、仕事中の姿からも伝わる独特の明るさがありました。

スナックを営んだ母は芸能界入りを後押しした

母親は盛岡でスナックを経営していました。

店の客が母親を「ママ」と呼んでいたため、戸塚さん自身も母親を同じように呼んでいたそうです。

母親の明るさを表すエピソードとして、東日本大震災が発生した日の出来事も語られています。

震災による停電で店内が混乱するなか、母親が客に伝えたのは、まず会計を済ませてほしいという言葉でした。

2025年の『徹子の部屋』でも紹介されたこの出来事は、母親らしいユーモアのある思い出として残っています。

また、母親は戸塚さんが幼い頃から、息子を芸能界に入れたいと考えていました。

赤ちゃんモデルやアイドル事務所などへ応募していたことも、後年の本人インタビューで明らかになっています。

ただし、本人は当時、芸能界への進出を希望していたわけではありませんでした。

母親が繰り返し応募していたことを、本人が後になって知ったケースもあったそうです。

母親が長年抱いていた願いは、高校3年生のときに応募したジュノン・スーパーボーイ・コンテストで現実へと近づきました。

兄は2014年に起業、仕事について語り合う関係

戸塚純貴さんには年上の兄が1人います。

兄はヒップホップが好きで、戸塚さんが車の改造番組を見るようになった背景にも兄の影響がありました。

幼い頃だけでなく、俳優になってからも兄とは仕事や人生について話すことがあったそうです。

2014年の公式ブログ「刺激物。」では、兄が自分で会社を立ち上げたことを明かしています。

起業した兄が懸命に仕事へ取り組む姿を見て、格好いいと感じていました。

当時21歳だった戸塚さんは、尊敬する俳優たちが出演する舞台『万獣こわい』を観劇し、仕事や将来について考えていました。

その日のブログには、兄から受けた刺激とともに、俳優という仕事への思いも残しています。

俺は今、役者やらせてもらってよかったって思うんですよね。

出典:戸塚純貴オフィシャルブログ「刺激物。」(2014年)

兄が会社を立ち上げた一方で、戸塚さんは舞台や映像の仕事を続けていました。

それぞれ異なる仕事に取り組みながら、お互いの姿から刺激を受けていたことが分かるエピソードです。

なお、兄が起業したことは本人の公式ブログで確認できますが、会社名や業種、現在の経営状況までは明らかになっていません。

離れて暮らす父から贈られた初めてのバイク

両親の離婚後、父親とは離れて暮らしていましたが、共通の趣味である車やバイクにまつわる思い出があります。

2024年9月27日公開の文春オンラインのインタビューでは、父親も車やバイクが好きだったことを明かしています。

久しぶりに父親と会ったとき、戸塚さんは自分もバイクが好きになったことを伝えました。

すると父親は、ホンダの「JAZZ」というバイクをプレゼントしてくれたそうです。

母に内緒で買ってくれたんです

出典:文春オンライン「戸塚純貴『初めてのホンダJAZZは離れて暮らしていた父親から』」(2024年9月27日)

父親からもらったバイクは、自分で乗るだけでなく、友人たちと整備や改造を楽しむ存在にもなりました。

放課後には仲間と集まり、バイク雑誌を見ながら、ああでもない、こうでもないと話し合っていたそうです。

高校生の頃から続くバイクへの興味は、俳優になった後も変わりませんでした。

2024年のインタビューにも愛車のハーレーダビッドソンで登場し、ツーリングを楽しむ姿を見せています。

戸塚純貴の学歴|高校では自動車整備士を目指した

戸塚純貴さんは、地元の盛岡中央高等学校で自動車について専門的に学びました。

進学時点で考えていた将来の仕事は、俳優ではなく自動車整備士でした。

盛岡中央高校の自動車工学科で学んだ

進学したのは、岩手県盛岡市にある盛岡中央高校の自動車工学科です。

中学生の頃には整備士になることを考えており、自動車について学べる高校を選びました。

2020年のCREAのインタビューでは、学校の先生から自動車科のある高校を勧められ、専門的な知識を学んだと話しています。

授業で学んだ知識は、放課後に友人たちと車やバイクをいじるときにも役立ちました。

16歳になると普通二輪免許を取得し、実際にバイクへ乗る楽しさも知りました。

友人とバイクの部品や改造について話し合う時間は、本人が後年「青春だった」と振り返るほど楽しいものでした。

芸能界で活躍するようになってからも、自動車への関心は趣味として続いています。

資格を取得し、地元での就職を考えていた

自動車整備士になるため、高校時代には資格取得にも取り組みました。

所属事務所のプロフィールには、三級自動車シャシ整備士をはじめ、整備や機械に関わる資格・講習修了歴が掲載されています。

2025年2月の『徹子の部屋』では、高校時代に10もの資格を取得したことも紹介されました。

自動車関係の知識を身につけた後は、地元の岩手で働くことを希望していました。

東京へ出て芸能活動をするという進路は、本人にとって身近な選択肢ではなかったそうです。

しかし、希望していた仕事への就職活動は思うように進みませんでした。

ちょうどその頃、母親が応募していたコンテストの書類選考を通過したという知らせが届きます。

整備士として地元で働く道と、芸能界へ進む可能性が、同じ時期に現れることになりました。

なお、大学へ進学したと確認できる経歴はなく、高校卒業後の進路は就職と芸能活動の間で揺れていた時期として語られています。

2026年には、地元の岩手で撮影された仕事で、母校に通う後輩と偶然出会う機会もありました。

高校で自動車を学んでいた戸塚さんが、俳優となって故郷の人々と共演したときの出来事です。

芸能界入りのきっかけ|母が応募したジュノンボーイ

芸能界へ進む入口となったのは、2010年の第23回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストでした。

応募したのは本人ではなく、幼い頃から芸能界入りを願っていた母親です。

本人に内緒で続いていた母の応募

母親は、戸塚さんが幼い頃から芸能事務所への応募を重ねていました。

赤ちゃんモデルや小学生の頃のアイドル事務所など、本人が知らないうちに応募していたこともあったそうです。

高校3年生になり、就職活動をしていた頃にも、母親はジュノン・スーパーボーイ・コンテストへ応募しました。

応募書類の審査を通過したものの、本人は芸能界に進むことへ積極的ではありませんでした。

2024年9月7日放送の『人生最高レストラン』では、コンテストへ参加した際の思いがけない出来事を明かしています。

高校時代、体調不良によって修学旅行に参加できなかった戸塚さんに、母親が東京旅行を提案したそうです。

ところが、東京へ行った先で待っていたのはオーディション会場でした。

その場では乗り気ではなかったものの、そこまでして芸能界に進ませたいという母親の思いを感じ、審査を受けることにしました。

本人が整備士を目指していた一方で、母親はまったく別の将来を思い描いていたのです。

2010年のコンテストで理想の恋人賞を受賞

2010年11月、戸塚さんは第23回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで「理想の恋人賞」を受賞しました。

本人が強く希望して応募したわけではありませんでしたが、コンテストでの受賞によって芸能界へ進む機会を得ました。

それまで学校で自動車について学んできた青年にとって、俳優という仕事は未知の世界でした。

2020年のCREAのインタビューでは、もともと映画を見ることは好きでも、高校時代に芸能界への強い興味はなかったと振り返っています。

受賞後には芸能活動へ進む道が開けましたが、すぐに迷いなく東京へ向かったわけではありません。

地元で働こうとしていた戸塚さんにとって、慣れない東京で俳優の仕事を始めることは、大きな進路変更でした。

そんな時期に起きたのが、2011年3月11日の東日本大震災です。

東日本大震災を経て俳優の道へ|上京と2011年のデビュー

2010年にジュノン・スーパーボーイ・コンテストで受賞した戸塚さんは、翌2011年、東日本大震災を経験しました。

その経験と母親の言葉を受け、地元での就職ではなく、東京で芸能活動を始める決断をしました。

岩手で経験した震災と進路の変化

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

当時18歳だった戸塚さんは、地元の岩手県で震災を経験しています。

盛岡は内陸部に位置するため、本人のいた場所は津波の直接的な被害を受けませんでしたが、停電などによって普段の生活は一変しました。

2025年の『徹子の部屋』では、停電によって暖を取ることが難しくなり、車の中で過ごしたことも語っています。

震災の被害を伝えるニュースや、変わってしまった街の様子を目にしたことは、本人の生き方への考えにも影響しました。

2026年10月16日放送のTOKYO FM『KANEKA Good Chemistry』でも、当時の経験を振り返っています。

今まで考えていなかったことや知らなかったことに飛び込むのは、今がすごく大事なときなんじゃないかって思ったんですよね

出典:マイナビニュース「戸塚純貴『チャンスに飛び込むのは大事だと思った』俳優の道が拓けた転機を語る」(2026年10月22日)

それまで戸塚さんにとって、芸能界は自分から積極的に目指していた場所ではありませんでした。

しかし震災を経験したことで、まだ知らない世界へ挑戦するという選択を考えるようになりました。

自動車整備士を目指していた戸塚さんが、俳優として生きる道を選んだ大きなきっかけが、2011年の東日本大震災でした。

東京へ送り出した母の言葉

震災の影響で、すぐに東京へ向かえる状況ではありませんでした。

2024年の『人生最高レストラン』では、上京する予定だった日の4日前に震災が起こり、東京へ行けなくなった期間があったと説明しています。

そんな時期に、戸塚さんの背中を押したのが母親でした。

2025年の『徹子の部屋』で振り返った母親の言葉には、震災で大変な状況だからこそ立ち止まらず、自分なりの方法で地元を盛り上げてほしいという思いが込められていました。

2026年のTOKYO FMのインタビューでも、母親から、こういうときだからこそ東京へ行くべきではないかと背中を押されたことを明かしています。

母親は、幼い頃から息子の芸能界入りを願っていた人物です。

けれども、実際に進路を決める場面では、震災を経験した息子が新しい世界へ踏み出せるように言葉をかけました。

2010年のコンテスト受賞で開いた芸能界への道を、2011年の震災と母親の言葉を経て、自分の進路として選ぶことになりました。

劇男JBの舞台から『花ざかりの君たちへ』へ

2011年、戸塚さんは俳優としての活動を始めました。

同年5月には、ジュノン・スーパーボーイ・コンテストのファイナリストたちで結成された「劇男JB」の旗揚げ公演に出演しています。

そして2011年7月、フジテレビ系ドラマ『花ざかりの君たちへ〜イケメン☆パラダイス〜2011』に出演しました。

この作品がテレビドラマデビュー作として紹介されています。

舞台とテレビドラマという異なる現場で、俳優としての仕事を経験することになりました。

ただし、この時点で演技の技術や仕事の進め方を十分に身につけていたわけではありません。

自動車整備士を目指していた頃には想像していなかった生活が始まり、撮影現場で経験を積んでいくことになります。

『仮面ライダーウィザード』からコメディへ|俳優としての転機

テレビドラマへの出演を経験した戸塚さんは、2012年に『仮面ライダーウィザード』へ出演しました。

その後、映画主演や福田雄一監督との出会いを通して、俳優として取り組む役の幅を広げていきます。

2012年に奈良瞬平役を演じた

2012年9月から放送された特撮ドラマ『仮面ライダーウィザード』では、奈良瞬平役を演じました。

奈良瞬平は、主人公の操真晴人と行動をともにする、明るくコミカルな人物です。

作品を通して、戸塚さんの顔を知った視聴者も増えていきました。

一方で、撮影現場は楽しいことばかりではありませんでした。

2020年のCREAのインタビューでは、『仮面ライダーウィザード』の現場で何度も撮り直しを重ね、監督から厳しく指導を受けたことを明かしています。

まだ10代だったため、悔しさから泣いてしまう日もあったそうです。

また、朝から撮影現場へ行くことや、時間を守ることの大切さも学びました。

一人の俳優だけでなく、多くのスタッフや共演者によって作品が作られることを、実際の現場で知るようになったのです。

それまで俳優としての経験が少なかった戸塚さんにとって、『仮面ライダーウィザード』は演技と撮影現場の基本を学ぶ機会になりました。

2013年の『風切羽』で映画主演

2013年には、映画『風切羽〜かざきりば〜』で秋月三佳さんとともに主演を務めました。

戸塚さんが演じたのはケンタという青年です。

同作は2013年6月22日に公開されました。

テレビシリーズでの経験に続いて、映画でも主要な役を任されるようになった時期です。

さらに2013年には『上京ものがたり』などの映画にも出演し、映像作品への出演経験を重ねていきました。

ただ、本人は最初から俳優として明確な目標を持っていたわけではなく、目の前の仕事を続けながら経験を積んでいたと振り返っています。

2024年の『週刊文春WOMAN』のインタビューでも、俳優になってから30歳頃までは、先の見えない道を必死に進んできた感覚だったと話していました。

その中で、もともと好きだったコメディの世界に関わる機会が訪れます。

福田雄一監督との仕事と喜劇への思い

戸塚さんが転機として挙げているのが、2014年のドラマ『アオイホノオ』で福田雄一監督と出会ったことです。

以前から福田監督の作品『THE3名様』が好きで、コメディに強い興味を持っていました。

『アオイホノオ』では当初1シーンの出演でしたが、最終的にもう1シーン追加されたそうです。

その後、福田監督が演出した『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』の木南晴夏さん主演回にも出演しました。

2020年のCREAのインタビューでは、この時期の仕事について、自身の俳優人生にとって大きな変化だったと振り返っています。

福田監督は面白いと感じた演技を評価する一方、面白くないものにははっきりと意見を伝える人だったそうです。

戸塚さんは、与えられた役をどう面白く演じるか考えていた自分の姿勢を、監督に受け止めてもらえたと感じていました。

また、2014年の公式ブログには、古田新太さんや生瀬勝久さんらが出演する舞台『万獣こわい』を観劇し、いつか自分も年齢を重ねてから仲間と面白い作品を作りたいという思いを記しています。

こうした経験を重ねる中で、コメディ作品への出演機会が増えていきました。

バラエティー番組『痛快TV スカッとジャパン』の再現ドラマや、福田監督が関わる映像作品などでも、さまざまな人物を演じています。

2014年の福田雄一監督との出会いは、本人が後年、俳優としての大きな転機に挙げた出来事でした。

『だが、情熱はある』から『虎に翼』へ|役の幅が広がった転機

初期のドラマ出演やコメディ作品で経験を重ねた戸塚さんは、2023年に実在するお笑い芸人を演じ、2024年にはNHK連続テレビ小説へ出演しました。

どちらも、それまでの経験とは異なる難しさを持つ役でした。

2023年にオードリー春日俊彰を演じた

2023年の日本テレビ系ドラマ『だが、情熱はある』では、お笑いコンビ・オードリーの春日俊彰さん役を演じました。

実在する人物、それも多くの視聴者が話し方や動きを知っている芸人を演じる仕事でした。

戸塚さん自身もオードリーのラジオを聴いていたため、春日さんへの思い入れがありました。

今まで演じた中で一番難しいなと思いました。

出典:TV LIFE web「戸塚純貴、春日俊彰を熱演で『“春日化”してきている自分がいて…』」(2023年5月28日)

役作りでは、春日さんが出演するテレビ番組や漫才のDVDを見て研究しました。

さらにラジオで独特の言い回しを聞き、気になった言葉をノートに書き留めていたそうです。

声の高さや話すときのリズム、感情を大きく表に出さない振る舞いまで、細かい部分を意識して演じました。

監督やプロデューサーとの読み合わせでは、春日さんらしさを100%出した演技と30%に抑えた演技を試すなど、表現の加減も探っていました。

若林正恭さん役を演じた髙橋海人さんとは、実際のコンビのような空気感を作るため、撮影を通して関係を深めていきました。

当時のインタビューでは、髙橋さんとの共演や、春日さんを演じる際に意識したことについても語っています。

Real Sound Movieが2023年5月28日に公開したインタビュー映像では、戸塚さん本人が髙橋さんとの共演や撮影現場の出来事を振り返っています。

『仮面ライダーウィザード』で演技の基本を学び、コメディ作品で経験を積んできた戸塚さんが、実在人物の言葉や仕草を細かく研究して役を作った作品となりました。

2024年の『虎に翼』で轟太一役が話題に

2024年には、NHK連続テレビ小説『虎に翼』で轟太一役を演じました。

轟は、主人公の猪爪寅子が法律を学ぶなかで出会う学生の一人です。

当初は男らしさに強くこだわる人物として登場しますが、物語が進むにつれて、それまでとは異なる面も描かれるようになりました。

視聴者の間では「俺たちの轟」という呼び方も広まり、作品を代表する登場人物の一人として親しまれました。

戸塚さんは轟を演じるにあたり、三島由紀夫の『仮面の告白』や漫画『魁!!男塾』を参考にしたことを、2024年9月の週刊文春のインタビューで明かしています。

監督から『仮面の告白』を紹介され、登場人物が内面に秘めている思いや、言葉に込める熱量を考えながら役に向き合いました。

外見の強さを感じさせるためには『魁!!男塾』の劇画的な表現も参考にしていたそうです。

それまでのコミカルな役とは違い、言葉の裏側にある複雑な気持ちも表現する仕事になりました。

2024年8月の『女性自身』のインタビューでは、轟の衣装である下駄を履くことで、役に入り込む感覚があるとも話しています。

また、轟と法律事務所でともに働く山田よね役の土居志央梨さんとは、撮影現場でも意見を交わしながら演技に取り組みました。

土居さんは2024年8月のTVガイドWebのインタビューで、戸塚さんがリハーサルから思い切って演じる様子や、現場を和ませてくれたことを振り返っています。

『虎に翼』の轟太一役は、それまでの出演作とは異なる人物像を多くの視聴者へ届ける機会になりました。

2026年の『山田轟法律事務所』で同じ役を再び演じた

2026年3月20日には、NHKで『虎に翼』のスピンオフドラマ『山田轟法律事務所』が放送されました。

戸塚さんは再び轟太一を演じ、土居志央梨さん演じる山田よねとともに物語の中心を担いました。

スピンオフでは、戦後の社会で法と向き合うよねの姿が描かれ、轟との再会や法律事務所での活動にも焦点が当てられています。

2024年の朝ドラ本編から続く役を、2026年に改めて演じることになりました。

NHKドラマの公式Xでは、スピンオフの撮影を終えた際の戸塚さんの様子も紹介されています。

2024年から2026年にかけて同じ役を演じた経験も、俳優としての経歴に加わりました。

自動車整備士になるために盛岡中央高校で学び、母親の応募によってジュノン・スーパーボーイ・コンテストへ参加した戸塚さん。

2011年の東日本大震災を経て俳優の道を選び、最初のドラマ出演から『仮面ライダーウィザード』、福田雄一監督との仕事、春日俊彰役、そして轟太一役へと出演経験を重ねてきました。

自動車整備士を目指していた岩手の青年は、母親の後押しと人生の大きな出来事を経て俳優となり、さまざまな役を演じるようになりました。