PROFILE
人物プロフィール
映画やドラマで数多くの役を演じてきた俳優の田口浩正さん。
若い頃には、芋洗坂係長こと小浦一優さんとお笑いコンビ「テンション」を組んで活動していました。
ただ、経歴を順番にたどると、単純に「芸人から俳優へ転身した」という歩みではありません。
高校卒業後に上京した田口浩正さんが最初に入ったのは、お笑いの世界ではなく劇団東京乾電池でした。
その後、六本木のショーパブで小浦さんと出会い、演劇とお笑いを経験する一方、1989年には周防正行監督の映画『ファンシイダンス』で映像の仕事も始まります。
今回は、そんな田口浩正さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界へ入ったきっかけ、テンション時代、俳優として最初の仕事などをご紹介します。
田口浩正の生い立ち|福岡で育った子ども時代
田口浩正さんは1967年10月8日生まれ、福岡県出身です。
後に東京で劇団へ入り、映画やドラマの世界へ進みますが、子ども時代からすでに映画や体を動かすことに親しんでいました。
映画好きになったきっかけと子どものころの暮らし
田口さんの幼少期については、後年の俳優活動ほど詳しい記録が残されているわけではありません。
それでも、過去に紹介された人物エピソードでは、父親の影響を受けて映画を好きになったとされています。
映画は大人になってから仕事として出会ったものではなく、福岡で暮らしていた頃から身近な存在だったようです。
子どもの頃には団地で暮らしていたとされ、向かいの棟に住む友人との間に糸を渡して連絡を取ったり、お菓子をやり取りしたりしたというエピソードも伝えられています。
団地で友人と工夫しながら遊んでいたという子ども時代の話は、後の芸歴とは直接関係しないものの、福岡で過ごした当時の暮らしが伝わるエピソードです。
俳優として知られるようになった後の姿から離れると、友人と遊び、映画に親しむ普通の少年時代がありました。
中学時代はバスケットボールに打ち込む
学生時代の田口さんは、映画だけでなくバスケットボールにも熱中していました。
田口さんの特技としてバスケットボールはプロフィール資料にも残っており、中学・高校時代に続けていたと紹介されています。
出身中学校については福岡市立長丘中学校とする人物資料がありますが、学校名そのものを本人や所属事務所が詳しく公表した資料は多くありません。
一方、高校については東福岡高校を卒業したことが複数の人物資料で確認できます。
中学から高校へ進んだ頃も、まだテレビや映画の現場で芸能活動をしていたわけではありません。
ただ、高校時代になると、見る側だった映画へ自分から近づいていく出来事が出てきます。
田口浩正の家族|両親・きょうだいと育った家庭
田口さんの家族については、芸能活動や作品についてのインタビューに比べ、本人が詳しく語っている情報は限られています。
そのため、家族の職業や生活環境を推測で補わず、確認できる範囲から子ども時代との関係を見ていきます。
父親・母親との関係と家庭環境
田口さんの幼少期を考えるうえで目を引くのが、父親を通じて映画に親しんだとされるエピソードです。
後に自分自身が映画俳優になる田口さんですが、子どもの頃から家庭の中で映画へ触れる機会があったと紹介されています。
父親や母親の氏名、職業などについては公に詳しく語られていません。
芸能一家だったとする確かな資料もなく、田口さんが高校卒業後に選んだ進路は、自ら福岡を離れて演技の世界へ入るものでした。
家族と進路についてどのような会話を交わしたのかまでは明らかではありませんが、卒業後は大学ではなく東京へ向かっています。
きょうだいとの関係と家族のエピソード
きょうだいについては、姉がいるとする過去の人物資料があります。
一方で、姉との具体的な思い出や現在の関係などを田口さん自身が継続的に公表しているわけではありません。
家族について確認できる情報を必要以上に広げるより、田口さん自身の進路が具体的に動き始める高校時代を見ると、その後の経歴がはっきりしてきます。
東福岡高校時代|8ミリ映画を撮り俳優を目指すまで
田口さんは東福岡高校へ進学しました。
高校時代もバスケットボールを続ける一方、映画や表現へ自分から関わるようになったエピソードが残っています。
バスケットボールと文化祭に熱中した高校生活
高校でもバスケットボールに取り組み、レギュラーとしてプレーしていたと紹介されています。
俳優を目指す前から芝居だけに集中していたわけではなく、スポーツにも時間を使う高校生活でした。
文化祭ではロックンロールダンスを披露したというエピソードもあり、人前で何かを演じたり見せたりすることを楽しんでいた様子もうかがえます。
高校時代にはバスケットボールだけでなく、文化祭でのダンスや8ミリの自主映画など、後の仕事を思わせる活動にも関わっていたと伝えられています。
ただし、この時期の活動を後の俳優人生へ無理に意味づけする必要はありません。
重要なのは、高校卒業後に田口さん自身が実際に演技を学ぶ道を選んだことです。
自主映画づくりから俳優の道を考え始める
高校時代には、8ミリカメラを使って自主映画を制作していたというエピソードも紹介されています。
映画を見るだけではなく、自分たちで一本の作品を作る側にも回っていました。
この自主映画が俳優志望の直接的なきっかけだったとまでは断定できませんが、卒業後の行動は明確でした。
東福岡高校を卒業すると福岡を離れて上京し、1986年に劇団東京乾電池の第1期研究生となります。
大学へ進学してから芸能界を考えたのではなく、高校卒業後の進路として演技の世界へ入りました。
ここから田口さんの経歴は、学校生活から実際の舞台へ移っていきます。
高校卒業後に上京|劇団東京乾電池の研究生へ
田口さんが俳優として知られる以前の経歴で、特に重要なのが劇団東京乾電池で過ごした時期です。
芸能活動の最初の入口を「テンション」と考えると時系列がずれ、実際にはその前に演劇を学んでいました。
大学へ進まず1986年に演技の世界へ入る
東福岡高校卒業後、田口さんは東京へ移り、1986年に劇団東京乾電池の第1期研究生として入団しました。
日本タレント名鑑でも、田口さんのデビューのきっかけとして劇団東京乾電池第1期研究生への入団が挙げられています。
東京乾電池は柄本明さんらが立ち上げた劇団で、田口さんはここで舞台の芝居を経験しました。
後に『ファンシイダンス』を振り返った本人のインタビューでも、映画出演以前に劇団で芝居をしていたことを話しています。
つまり、初めて映画へ出演した1989年より前から、田口さんは人前で役を演じる経験を積んでいました。
ただし、舞台とカメラの前の芝居は同じではなく、その違いに直面するのはもう少し後です。
上京生活のなかで小浦一優と出会う
劇団での経験を経た田口さんは、六本木のショーパブでも仕事をするようになります。
そこで出会ったのが、後に芋洗坂係長として知られる小浦一優さんでした。
小浦さん自身も後年のインタビューで、上京後に働き始めた六本木のショーパブで田口さんと出会ったと振り返っています。
二人は同じ福岡県出身で年齢も近く、ショーパブの仕事だけでなく演劇にも関わっていました。
小浦さんによれば、当時は田口さんから芝居を教わることもあったといいます。
田口さんが先に劇団で芝居を学んでいたことが、二人の関係にも表れていました。
そして1988年、二人で新しい活動を始めます。
芋洗坂係長と「テンション」結成|演劇からお笑いの舞台へ
田口さんと小浦さんは、出会ってすぐに現在知られる形のお笑いコンビを作ったわけではありません。
まず演劇活動を行い、その翌年にホリプロへ所属してお笑いの世界へ進みました。
六本木のショーパブからPROJECT TENSIONが始まる
1988年、田口さんと小浦さんは「PROJECT TENSION」を結成しました。
小浦さんの回想では、二人はショーパブで働きながら演劇の舞台にも精力的に取り組んでいました。
田口さんには東京乾電池での経験があり、小浦さんにはダンスやパフォーマンスの経験がありました。
それぞれ異なる得意分野を持った二人が、まず演劇を一緒に始めています。
そのため、「田口浩正さんは若い頃に芸人だった」という検索結果だけを見ると、その前にあった劇団と演劇の時期が抜けてしまいます。
PROJECT TENSIONとして活動した翌年、二人の進む場所が演劇の舞台からお笑いのライブへ広がりました。
1989年にホリプロ所属、お笑いコンビとして活動
1989年5月、二人はホリプロ所属のお笑いコンビ「テンション」として活動を始めました。
ホリプロの公式プロフィールには、同年に日本テレビの「新人視聴会」で最優秀グランプリを2回獲得した経歴も残っています。
テンションはショートコントにダンスやパントマイムを取り入れ、小浦さんの身体能力と田口さんの芝居を組み合わせたネタを披露していました。
1990年にはテレビ番組『LIVE 笑 ME!!』などにも出演し、コンビとしてテレビの仕事も経験していきます。
田口さんが俳優として定着した後しか知らない人にとっては別のキャリアに見えますが、この時点で劇団時代に身につけた芝居を捨てたわけではありません。
約30年後にテンションが復活した際には、二人の公式YouTubeでもショートコントが公開されました。
そしてテンションを結成した1989年、田口さんには俳優としても大きな仕事が決まります。
『ファンシイダンス』で俳優デビュー|周防正行との出会い
テンションとしてお笑いの活動を始めた同じ1989年、田口さんは周防正行監督の映画『ファンシイダンス』へ出演しました。
芸人としての活動を終えてから俳優になったのではなく、お笑いと映像の仕事がほぼ同じ時期に始まっています。
信田珍来役で初めて映像の芝居を経験する
『ファンシイダンス』で田口さんが演じたのは、寺で修行する信田珍来という若い僧侶です。
KADOKAWAの作品情報にも出演者として名前が残っており、田口さんの公式プロフィールでは同作が映画デビュー作とされています。
1989年の『ファンシイダンス』が、田口浩正さんにとって初めての映像作品でした。
舞台ではすでに芝居を経験していましたが、映画のカメラに向かって演じるのは初めてでした。
田口さんは後年、初めての映像作品だったため、どう演じればいいのか分からなかったと振り返っています。
舞台で身につけていた芝居をそのままカメラの前へ持ち込むのではなく、映画では別の感覚を求められました。
そのとき田口さんに一つの考え方を示したのが、周防正行監督でした。
周防監督から「ナチュラルでいてくれ」と言われた新人時代
田口さんは『ファンシイダンス』の撮影時、周防監督から、役に選んだ本人の素材を生かすため余計な芝居を足さず自然体でいるよう助言されたと振り返っています。
初めてカメラの前に立った作品で受けたこの言葉は、その後も田口さんの中に残りました。
2023年のインタビューでは、役を演じる際に台本へ書かれていない人物の生活まで考えていることを明かしています。
「出てないシーンでどんな行動を取ったか、どういう環境で育ったかを心のどこかで考えている。」
出典:スポニチアネックス「田口浩正は七色の表現者 お笑い芸人から硬軟自在の役者、バンドマン…『触覚張り巡らせて楽しみたい』」(2023年4月30日)
最初の映画では自然体でいることを求められ、その後は役の画面外の生活まで想像するようになっていました。
『ファンシイダンス』への出演だけでお笑いを離れたわけではなく、田口さんはしばらく二つの活動を並行します。
お笑いと俳優を並行した若い頃|テンション活動休止から俳優業へ
『ファンシイダンス』以降、田口さんの俳優仕事は一作で終わりませんでした。
テンションとしてライブやテレビに出演しながら、映画やドラマの現場へも入る時期が続きます。
『シコふんじゃった。』などで俳優の仕事が増えていく
1992年には、再び周防正行監督の映画『シコふんじゃった。』へ出演しました。
同じ時期にはテレビドラマへの出演も増え、テンションの活動と俳優の仕事が並行していました。
田口さんの場合、俳優として本格的に活動するまでの境目を一つの年だけで区切るのは難しい経歴です。
高校卒業後には劇団へ入り、1989年にはテンションを結成し、その年に映画デビューもしています。
その後もお笑いを続けながら映像作品へ出演しているため、「芸人を辞めた翌日から俳優になった」という転身ではありません。
俳優としての出演が積み重なるなかで、二人の進みたい方向にも少しずつ違いが出てきました。
1993年にテンションが活動休止し俳優へ軸足を移す
テンションは1993年9月のライブを最後に活動を休止しました。
ホリプロの後年の発表では、不仲による解散ではなく、それぞれが本来やりたかった道へ進むための活動休止だったと説明されています。
田口さんは俳優の仕事が増え、小浦さんもダンスや舞台など自分の表現を続けていきました。
ここから田口さんは俳優業へ軸足を移し、映画、テレビドラマ、舞台で出演を重ねていきます。
一方、テンションそのものが二人の間から消えたわけではありませんでした。
2024年には結成35周年を機に約30年ぶりとなるテンションの活動が本格的に再始動しました。
2025年1月に復活ライブを迎えた際、田口さんは久しぶりに二人で稽古しても、当時と変わらない感覚があったことを話しています。
「我々テンションとしては時間の経過は無かった気がします。」
出典:ホリプロ「【田口浩正・芋洗坂係長】結成35周年『テンションライブ VOL.7 ワルアガキ』ついに開幕!」(2025年1月17日)
1993年の活動休止後、田口さんは俳優として映画やドラマ、舞台へ仕事を広げました。
そして約30年後には小浦さんと再びコントの稽古を始め、若い頃に作った「テンション」をもう一度舞台へ戻しています。
















