PROFILE
人物プロフィール
ドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』や大河ドラマ『八重の桜』などに出演し、俳優として活動してきた工藤阿須加さん。
父親が元プロ野球選手の工藤公康さんであることでも知られていますが、工藤阿須加さん自身が子どものころから目指していたのは、野球選手ではなくプロテニス選手でした。
ところが、高校時代に肩を故障し、長年追いかけてきた夢を諦めることになります。
その後、妹の一言や父との会話をきっかけに俳優を志し、2012年にドラマデビューを果たしました。
さらに2021年からは、本格的な農業にも取り組み始めています。
今回は、そんな工藤阿須加さんの生い立ちや家族、学生時代、テニスでの挫折、芸能界へ入ったきっかけ、俳優としてのデビュー、農業を始めるまでの経緯をご紹介します。
工藤阿須加の生い立ち|埼玉県出身、転居の多かった幼少期
工藤阿須加さんは、1991年8月1日生まれで、埼玉県出身です。
父親がプロ野球選手だったため、一般的な家庭とは少し違う環境で育ちました。
埼玉県に生まれ、プロ野球選手の父を持つ家庭で育つ
父親の工藤公康さんは、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツなどで活躍した投手です。
工藤阿須加さんが子どもだったころも現役で投げており、家族の生活は父親の試合やコンディションを中心に回っていました。
ただ、父親と同じ野球の道を進むように強制されていたわけではありません。
本人は幼いころから体を動かすことが好きで、さまざまなスポーツを経験しました。
その中で最も長く打ち込むことになったのが、小学5年生から始めたテニスでした。
一方、子どものころから農家の畑へ行き、農作業を手伝う経験もありました。
両親の知り合いに有機栽培を行う農家がいたため、野菜がどのように育てられているのかを身近に知る機会があったそうです。
スポーツだけでなく、自然や食べ物への関心も、幼少期から持っていました。
子どものころに経験した引っ越しと自然の中での遊び
工藤阿須加さんの子ども時代には、引っ越しが何度もありました。
2017年1月に出演した日本テレビ系『スッキリ!!』では、父親が現役選手だったころ、験担ぎのために転居を繰り返していたことを明かしています。
母親が方角や運気を気にかけており、父親の成績が振るわない時期には、生活する場所を変えることもあったといいます。
2026年1月の『トークィーンズ』でも、子どものころに15回ほど引っ越したというエピソードを振り返りました。
転居に伴って小学校が変わることもあり、幼い工藤さんにとっては負担のある生活だったようです。
引っ越しに慣れてしまい、新居へ移ってもすぐには荷物を出さなくなったという話もしています。
ただし、埼玉県出身という事実と、実際に小学校時代を過ごした地域は分けて考える必要があります。
複数回の転居を経験しているため、出身地だけから通っていた小学校を特定することはできません。
そうした転居の多い生活の中でも、5人のきょうだいは一緒に育ち、父親の試合を家族で支えていました。
工藤阿須加の家族|父・工藤公康、母と4人のきょうだい
工藤阿須加さんは、5人きょうだいの長男です。
父親がプロ野球選手として長く現役生活を続ける一方、母親と子どもたちも家庭の中でさまざまな役割を担っていました。
父・工藤公康の現役生活を支えた家庭のルール
父親の工藤公康さんは、プロ野球で通算224勝を挙げた左腕投手です。
29年間にわたって現役生活を続け、引退後には福岡ソフトバンクホークスの監督も務めました。
そんな父親を持つ工藤家には、子どもたちが自然に守るようになった独特の生活習慣がありました。
例えば、朝は玄関の外へ出てから靴を履くというルールです。
試合を終えて夜遅くに帰宅した父親は、翌朝ゆっくり休むことがあります。
小さな物音でも目を覚ましてしまうため、きょうだい全員が家の中では静かに行動していたそうです。
また、父親が登板する試合をテレビで観戦するときには、子どもたちは正座していました。
父親がマウンドで投げている間は、家族も姿勢を正して応援していたのです。
2020年の『婦人公論』のインタビューでは、子どものころの父親について次のように振り返っています。
子ども心に「お父さんは厳しい仕事をしているんだ」と思ったものです。
出典:婦人公論.jp「工藤阿須加 プロ野球選手の父のために開いていた《きょうだい会議》とは」(2020年11月18日)
父親が試合に負けて帰宅した日には、きょうだいで話し合うこともありました。
次の登板までに父親が気持ちよく過ごせるよう、テレビを一緒に観る人、お茶を運ぶ人、お風呂を準備する人など、役割を分担していたそうです。
その話し合いは、工藤さん自身が「きょうだい会議」と呼ぶ家族の習慣でした。
父親から指示されたわけではなく、子どもたちが自分たちで考えて行動していたといいます。
また、父親が通算200勝に近づいた時期には、きょうだいで好きなアイスを我慢したこともありました。
勝負の世界で戦う父親を、子どもたちなりの方法で応援していたのです。
母親が大切にした食生活と家族への関わり
父親の現役生活を食事面で支えていたのが、母親でした。
工藤阿須加さんによると、父親は20代のころに肝臓を悪くし、早期引退を考えた時期があったそうです。
そこで母親は栄養学を学び、食事による体調管理に取り組みました。
栄養士や大学教授など、各分野の専門家を訪ねることもあり、工藤さん自身も同行する機会があったといいます。
家庭の食卓でも、父親のコンディションを考えた献立が大切にされていました。
父親と子どもたちでは食事の内容が違うこともあり、2026年の『トークィーンズ』では、魚の種類や値段まで違っていたと話しています。
子どもたちのおやつも一般的なお菓子ばかりではなく、煮干しなどが出されていたそうです。
母親は家族の生活を整えながら、父親が長く競技を続けられるよう支えていました。
食事や健康に関する家庭での経験は、工藤さんが農業へ関心を持つ背景の一つにもなりました。
全農のインタビューでは、両親の知人である有機栽培農家の畑を子どものころから手伝っていたことを明かしています。
食材が育つ現場に触れる機会があったことも、工藤家の特徴でした。
5人きょうだいの長男として過ごした日々
工藤阿須加さんには、妹が3人、弟が1人います。
そのうち妹の一人は、プロゴルファーの工藤遥加さんです。
遥加さんは1992年11月18日生まれで、2011年にプロテストへ合格しました。
工藤阿須加さんと同じようにスポーツに取り組み、プロの世界へ進んだきょうだいの一人です。
ただ、工藤家の子どもたちが全員同じ競技を目指していたわけではありません。
工藤阿須加さんはテニス、遥加さんはゴルフと、それぞれ違う道を選びました。
5人きょうだいの長男だった工藤さんは、父親の試合後に行われる家族の話し合いでも中心的な役割を担っていたそうです。
2026年のテレビ出演では、父親のためにアイスを我慢していた時期、こっそり食べてしまった妹の様子に気づいたという思い出も披露しました。
厳しい生活習慣がある一方、子どもたち同士で相談したり、助け合ったりする日常もありました。
そして、このきょうだい関係は、工藤さんが俳優になるときにも関わってくることになります。
工藤阿須加の小中学校時代|学芸会とテニス、映画との出会い
工藤阿須加さんは、子どものころからスポーツに親しんでいました。
その一方で、小学校の学芸会を通じて人前に立つ楽しさを知り、中学生のときには一本の映画に強く心を動かされています。
小学校の学芸会で知った人前に立つ楽しさ
工藤阿須加さんが演技に興味を持った最初のきっかけは、小学校の学芸会でした。
2013年の『プラスアクト』のインタビューでは、幼いころから人に注目されることが好きだったと話しています。
人に見られるのが好きだったんです。
出典:プラスアクト「工藤阿須加 INTERVIEW」(2013年)
学芸会で大きな役を任されていたわけではなく、小さな役を演じることも多かったそうです。
それでも、人前で何かを表現すること自体が楽しかったと振り返っています。
2024年には、自身の農業番組の放送100回を記念して小学校時代の同級生と再会し、卒業アルバムを見ながら昔を振り返る場面も紹介されました。
当時は俳優になると決めていたわけではありません。
むしろ、スポーツの試合で自分のプレーを観客に見てもらうことにも、同じような楽しさを感じていたといいます。
本人にとっては、スポーツと学芸会の両方が、人前に立って表現する経験だったのでしょう。
小学5年生からテニスを始めプロ選手を目指す
小学5年生になると、工藤阿須加さんはテニスを始めました。
その後、競技へ本格的に打ち込み、プロテニス選手を目指すようになります。
父親はプロ野球の投手でしたが、本人が選んだのはテニスでした。
2018年のフジテレビのインタビューでは、テニスについて、子どものころから最も長く続けたスポーツだったと語っています。
小学校や中学校で通っていた学校の正式名称については、確実な一次資料で裏付けられる情報が限られています。
ただ、学生時代のテニス経験については、本人のインタビューや大会記録が残っています。
テニスへの熱中は中学生になっても続き、その後はプロを目指すために強豪校への進学を選びました。
中学生で観た『男たちの大和/YAMATO』に心を動かされる
中学生のころ、工藤阿須加さんは映画『男たちの大和/YAMATO』を観ました。
2005年に公開された、戦艦大和の乗組員たちを描いた作品です。
それまで学校の授業で戦争について学んでいたものの、映画を通して戦争の残酷さや平和の大切さを強く感じたといいます。
後年のインタビューでは、作品を観たことで自分自身の考え方が変わった経験として、この映画を挙げています。
ただし、この時点で俳優への進路を決めたわけではありません。
高校進学後も目標はプロテニス選手であり、映画の経験が進路選択に結びつくのは、もう少し先のことでした。
工藤阿須加の高校時代|テニスの故障で進路を見直す
工藤阿須加さんは、プロテニス選手になることを目指して高校へ進学しました。
しかし、高校1年生のときに肩を故障し、それまでの生活を大きく変えることになります。
プロを目指してテニスの強豪校へ進学
工藤阿須加さんは、小学生から続けてきたテニスでプロを目指し、強豪校に進学しました。
高校時代の学校については、2009年度の関東高校テニス大会の公式記録に、東京学館高校の3年生「工藤阿須加」という名前が掲載されています。
男子団体戦の1回戦では、林大智選手とダブルスを組み、宇都宮高校のペアに6対3で勝利したことも記録されています。
そのため、高校3年生の時点で東京学館高校のテニス部員として大会に出場していたことは、公式記録から確認できます。
ただし、最初に進学した高校と、肩の故障後に転校した先については、学校名を混同しないことが重要です。
本人は高校1年生で肩を故障し、その後別の高校へ転校したと明かしています。
一方、転校前の高校名については、本人や学校側が明確に裏付けた資料が限られるため、ここでは断定しません。
高校1年生で肩を故障し、父の言葉を経て転校を決断
高校1年生のとき、工藤阿須加さんはテニスで肩を故障しました。
医師からは、1年以上競技へ復帰できない可能性があると告げられたそうです。
プロになるために練習を続けてきた工藤さんにとって、簡単に受け入れられる診断ではありませんでした。
プロテニス選手になるという目標を、怪我によって諦めることになったのです。
2020年の『婦人公論』のインタビューでは、医師の診断を聞いたときに頭が真っ白になり、その後は何も手につかなくなったと振り返っています。
朝起きてテレビを眺めているうちに夜になってしまうような生活が、しばらく続きました。
母親はそんな息子を心配し、これからどうするのかと問いかけたそうです。
ところが、父親の工藤公康さんは違う反応を見せました。
普段は厳しい父親だったため、工藤さんは叱られると思っていたそうです。
しかし父親は、長い人生の中には立ち止まる時期があってもよいという趣旨の言葉をかけました。
2025年のインタビューでも、この出来事を振り返っています。
その言葉を聞いたときは、号泣しました。
出典:日本の資格・検定「『挫折』から学んだこと。工藤阿須加が語る、立ち止まる勇気」(2025年10月24日)
本人によると、父親に涙を見られないよう、背を向けて泣いたそうです。
そして翌日には、それまでの高校を離れ、別の高校へ移ることを決意しました。
ただし、プロを目指す道を諦めたことと、テニス自体を完全にやめたことは同じではありません。
2018年のフジテレビのインタビューでは、肩を故障したあともテニスへの思いを断ち切れず、大学まで競技を続けていたと話しています。
2009年度の高校大会の公式記録にも名前が残っていることから、故障後もテニスへ取り組んでいた時期があったことが分かります。
プロになるという目標は変わりましたが、競技そのものとの関係がすぐに終わったわけではありませんでした。
2022年2月には、映画『ドリームプラン』のスペシャルトークイベントで、父親との関係やテニスに取り組んでいたころの思い出を語っています。
工藤阿須加の大学時代|東京農業大学への進学と俳優への興味
高校時代にテニスで大きな挫折を経験した工藤阿須加さんは、東京農業大学へ進学しました。
そのころ、幼いころから持っていた農業への関心と、新しく芽生えた俳優への思いが、進路を考えるうえで重要になっていきます。
農業への関心から東京農業大学へ進学
工藤阿須加さんが進学した大学は、東京農業大学です。
農業に関心を持つようになった背景には、子どものころからの家庭環境がありました。
父親がプロスポーツ選手だったことから、家族は食事や健康管理を大切にしていました。
また、母親が専門家の話を聞くために各地を訪れる際には、工藤さんも同行していたといいます。
そうした経験の中で、農業に携わる人たちと接する機会があり、食べ物を生産する仕事への興味を持つようになりました。
全農のインタビューでは、大学進学の理由について、次のように話しています。
もっと日本の農業を知りたい!
出典:全農の情報誌Apron「工藤阿須加さんに聞く『農業への熱い思いと夢』」
農業への関心が大学進学につながったことは、本人が明確に語っている事実です。
一方、大学の学部や卒業・中退の経緯については、公開されている情報にばらつきがあります。
少なくとも本人の発言からは、東京農業大学へ進学したことと、大学時代までテニスを続けていたことが確認できます。
妹の一言で、俳優という新しい進路を考える
工藤阿須加さんが俳優になるきっかけを考えるうえで、欠かせないのが妹の存在です。
2020年の『婦人公論』のインタビューでは、妹から、本人がやりたいと思っていることは俳優の仕事でも実現できるのではないかと提案されたことを明かしています。
その言葉を聞いて思い出したのが、中学生のときに観た映画『男たちの大和/YAMATO』でした。
工藤さんは、その映画を通じて自分の考え方が変わった経験をしていました。
自分も誰かの心を動かすきっかけになる仕事ができるかもしれないと考え、演技という仕事に関心を持つようになったそうです。
妹の言葉が、それまで別の仕事として考えていた俳優という進路を、自分自身の選択肢に変えました。
幼いころに学芸会が楽しかったこともあり、人前で表現する仕事への興味は以前から持っていました。
ただ、実際に俳優として生活していけるのかは、まだ分からない状態でした。
親に内緒で受けたオーディションと両親の反対
工藤阿須加さんは、大学へ入る前に、親に内緒で俳優のオーディションを受けたことがありました。
2018年のフジテレビのインタビューで、その経験を明かしています。
その後、俳優を目指していることを両親に伝えると、最初は反対されました。
両親は、芸能界が本人の考えているほど簡単な世界ではなく、中途半端な覚悟では続けられないと伝えたそうです。
工藤さん自身も、テニスを続けるか、俳優という新しい道へ進むかで迷っていました。
プロスポーツの世界を経験してきた父親は、息子が本当にその道を選ぶ覚悟を持っているのか、時間をかけて考えさせたのかもしれません。
本人も後年、反対されたことで自分の将来について真剣に考える時間ができたと振り返っています。
こうして、俳優になりたいという気持ちは、単なる興味から具体的な進路へと変わっていきました。
工藤阿須加の芸能界入り|父の紹介で事務所社長と出会う
工藤阿須加さんが芸能界へ入る過程では、最初に俳優への道を反対していた父親が、大きな役割を果たしました。
俳優になりたいという本人の意思が固まったあと、父親が一つの出会いを用意したのです。
父から将来を問われ、俳優として生きる決意を伝える
工藤阿須加さんが20歳になる前、父親から将来について改めて尋ねられる機会がありました。
学生時代に続けていたテニスへ進むのか、それとも別の道を選ぶのか。
工藤さんは、それまで考えてきたことを踏まえ、俳優として生きていきたいと答えました。
2018年のフジテレビのインタビューでは、当時の決意を次のように振り返っています。
役者として生きていきたいです
出典:フジテレビ「『海月姫』童貞エリート熱演中!工藤阿須加なぜ俳優の道へ?」(2018年2月14日)
すると父親は、その選択を認めました。
工藤さん自身は、反対されていた時間があったからこそ、覚悟を持って答えを出せたと話しています。
父親は息子の決断を受け入れただけでなく、その後の芸能界入りにも協力することになりました。
父と訪れた飲食店でパパドゥの社長と出会う
工藤阿須加さんが19歳のころ、父親に連れられて、以前から家族で通っていた飲食店へ行きました。
その店は、工藤さん自身も子どものころから訪れていた場所でした。
そこで店長から、指定された日時に店へ来て座っているようにと言われたそうです。
ただし、誰からも声をかけられなければ諦めるようにとも伝えられました。
工藤さんは、何が起こるのか分からないまま、指定された日時に店を訪れました。
すると、店へやって来た一人の客に、店長が俳優志望の青年として工藤さんを紹介したのです。
その客は、芸能事務所の社長でした。
後日、社長から事務所で頑張ってみないかという連絡があり、工藤阿須加さんは芸能事務所パパドゥへ所属することになりました。
芸能界入りのために自ら事務所へ売り込み続けていたわけでも、街中で突然スカウトされたわけでもありません。
俳優になる決意を認めた父親が、知人とのつながりを通じて出会いの機会を作ってくれたのです。
2020年の『婦人公論』のインタビューでは、この出来事について、父親が芸能界入りのきっかけを作ってくれたことを意外に感じていたと振り返っています。
こうして工藤さんは、プロスポーツ選手とはまったく違う世界へ進みました。
工藤阿須加の俳優デビュー|『理想の息子』から『八重の桜』へ
芸能事務所へ所属した工藤阿須加さんは、2012年に俳優としてデビューしました。
デビュー直後からテレビドラマや映画に出演し、翌2013年にはNHK大河ドラマにも出演しています。
2012年『理想の息子』で俳優デビュー
工藤阿須加さんの俳優デビュー作品は、2012年の日本テレビ系ドラマ『理想の息子』です。
鈴木京香さんと山田涼介さんが母子を演じたドラマで、工藤さんも出演者の一人として演技活動を始めました。
それ以前にモデルや歌手として芸能活動を続けたあと、俳優へ転向したという経歴ではありません。
確認できる公式プロフィールでは、2012年の『理想の息子』が俳優デビューとして紹介されています。
同年には、日本テレビ系ドラマ『悪夢ちゃん』にも出演しました。
2013年の『プラスアクト』のインタビューでは、スポーツと芝居に共通する部分として、相手の動きに反応する瞬発力や判断力を挙げています。
テニスでは対戦相手の状況を見て瞬時に動きますが、演技でも相手の芝居を受けて返す必要があります。
本人は、そうした部分でスポーツ経験が役立っていると話していました。
2012年の映画出演と2013年『八重の桜』への抜擢
2012年には、三池崇史監督の映画『悪の教典』にも出演しました。
映画での仕事も経験した工藤さんは、翌2013年、NHK大河ドラマ『八重の桜』へ出演することになります。
演じたのは、主人公・山本八重の弟である山本三郎です。
2013年の『プラスアクト』のインタビューでは、初めての時代劇に驚いたことや、会津弁を覚える難しさを語っています。
役を理解するため、福島県を訪れたり、京都にある八重や三郎の墓へ足を運んだりしたそうです。
また、会津弁については先生から指導を受け、音源を聞きながら練習しました。
大河ドラマの現場では、綾瀬はるかさんや西島秀俊さんとも共演しています。
綾瀬さんからは役名にちなんで「さぶちゃん」と呼ばれ、本人も「姉ちゃん」と呼んでいたと話しています。
俳優になってまだ間もない時期に、歴史上の人物を演じるための調査や方言の習得など、多くの経験を積みました。
そして翌2014年には、父親が長く携わってきた野球と深く関わる役を演じることになります。
工藤阿須加の俳優としての転機|野球未経験から投手役へ
2014年、工藤阿須加さんはTBS系日曜劇場『ルーズヴェルト・ゲーム』に出演しました。
工藤さんが演じたのは、社会人野球チームで投手として活躍する沖原和也という人物です。
『ルーズヴェルト・ゲーム』のオーディションで沖原和也役をつかむ
『ルーズヴェルト・ゲーム』は、池井戸潤さんの小説を原作としたドラマです。
経営危機に直面する青島製作所と、廃部の危機にある社会人野球部の人々が描かれました。
工藤阿須加さんが演じた沖原和也は、野球部のエース投手となる重要な役です。
2014年4月の日刊ゲンダイの報道によると、工藤さんは約100人が参加したオーディションを勝ち抜き、この役に選ばれました。
父親はプロ野球で活躍した投手でしたが、工藤さん自身は野球経験がありませんでした。
それでも、投手としての動きやフォームを身につけ、役に取り組んでいます。
野球経験のない俳優が、社会人野球チームのエース投手を演じることになったのです。
父親と同じ投手という役柄もあり、この出演は大きな注目を集めました。
父から投球を教わり、ドラマでエース投手を演じる
『ルーズヴェルト・ゲーム』で投手役を演じるにあたり、工藤阿須加さんは父・工藤公康さんから投球について教わりました。
野球を専門に続けてきたわけではないため、フォームや動きなど、役を演じるために身につける必要があることは少なくありませんでした。
撮影では、野球経験のある共演者や関係者の協力も受けています。
2014年5月には、侍ジャパンの鹿取義隆テクニカルディレクターがドラマへ出演した際、工藤さんとキャッチボールを行って実技指導をしたことも公式に記録されています。
同年5月24日には、埼玉西武ライオンズと東京ヤクルトスワローズの試合で始球式を務めました。
工藤さんは、父親が西武時代に背負っていた背番号47のユニフォームでマウンドに立ちました。
野球未経験ながら114キロのストレートを投げ、球場から大きな歓声を浴びました。
さらに2014年7月には、第85回都市対抗野球大会でも始球式に登場しました。
このときはドラマで演じた沖原和也のユニフォームを着て投球し、119キロを記録しています。
2014年6月23日付のTBS公式サイトに掲載された本人のブログでは、撮影を終えた感想として次のように記しています。
野球を好きになることができました。
出典:TBS『ルーズヴェルト・ゲーム』野球部員ブログ「野球部練習記録」(2014年6月23日)
父親が長くプレーした野球の世界を、工藤さん自身は俳優という仕事を通して経験することになりました。
映画での新人賞受賞と『ちょっと今から仕事やめてくる』での経験
2014年には、映画『1/11 じゅういちぶんのいち』と『百瀬、こっちを向いて。』にも出演しました。
この2作品での演技が評価され、2015年に第24回日本映画批評家大賞の新人男優賞(南俊子賞)を受賞しています。
また、2016年公開の映画『夏美のホタル』では、廣木隆一監督の演出を受け、自分の演技について考え直す経験をしました。
ORICON NEWSのインタビューでは、役の気持ちを考えすぎ、自分がどう見えるかを意識していたと振り返っています。
その現場で監督から指摘を受け、相手の気持ちを感じながら演じることの大切さを考えるようになったそうです。
2017年には、映画『ちょっと今から仕事やめてくる』に出演しました。
工藤さんが演じたのは、過酷な労働環境に苦しむ会社員の青山隆です。
この作品の公開後、工藤さんのもとには、登場人物の生き方を観て希望を持てたという内容の手紙が届いたそうです。
2020年の『婦人公論』のインタビューでは、そうした手紙を読み、涙を流したことを明かしています。
中学生のときに観た映画で心を動かされた工藤さんは、俳優として出演した作品を通じて、観客から直接反応を受け取ることになりました。
2016年のORICON NEWSのインタビューでは、父親の知名度によって注目されることについても、自分の考えを語っています。
僕は七光りや二世と言われるのが嫌ではないんです。
出典:ORICON NEWS「工藤阿須加インタビュー『“七光り”でいい―今も響いている父・工藤公康の言葉』」(2016年6月9日公開)
父親を尊敬し、注目されるきっかけを作ってくれたことに感謝する一方、自分は俳優という仕事で結果を出したいと話していました。
工藤阿須加が農業を始めた理由|幼少期の食への関心から2021年の挑戦へ
俳優として経験を重ねてきた工藤阿須加さんは、2021年から本格的に農業へ取り組み始めました。
俳優の仕事をやめて農家へ転身したのではなく、2つの仕事に取り組む道を選んだのです。
子どものころに親しんだ農業を山梨県北杜市で始める
工藤阿須加さんが農業を始めた直接のきっかけは、2020年の新型コロナウイルス感染拡大に伴う生活の変化でした。
仕事や日常生活が大きく変わり、自分の将来について考える時間が増えたといいます。
その中で、以前からやりたいと思っていた農業を、いつ始めるべきなのか考えるようになりました。
お金や時間に余裕ができるのを待ち続けていたら、いつまでも始められないかもしれない。
そう考え、2021年から農業に取り組むことを決めました。
BS朝日の番組公式インタビューによると、同年3月から山梨県内の農場で研修生として学び始め、その後、畑の一角を任されるようになりました。
山梨県北杜市で農業を始めたのは2021年です。
最初から大規模な農園を経営していたわけではありません。
農家のもとで栽培技術を学び、少しずつ担当する畑を広げていきました。
全農のインタビューでは、最初は5アールほどの畑から始め、経験を重ねて40アール近くを管理するまでになったことを話しています。
ジャガイモやトウモロコシ、白菜など、さまざまな野菜の栽培にも取り組みました。
また、父親の工藤公康さんも農作業を手伝うようになりました。
2021年のBS朝日のインタビューでは、父親が農業をうらやましがり、畑の作業を手伝ってくれたことを明かしています。
その後、父親自身も北杜市で農業を始め、親子で畑について話す機会が増えました。
プロ野球選手だった父親が家庭の食生活を通じて農業への関心を育む一方、息子が始めた農業に父親も参加するようになったのです。
2022年には自身の冠番組で農業の魅力を伝える
2021年12月には、BS朝日で特別番組『工藤阿須加が行く 農業始めちゃいました』が放送されました。
工藤さんが実際に農業を始めた経験を踏まえ、ほかの農家を訪ね、就農するまでの経緯や仕事の実情を聞く内容です。
特別番組を経て、2022年10月5日からレギュラー番組として放送が始まりました。
工藤阿須加さんにとって、初めての冠レギュラー番組です。
番組では、新しく農業を始めた人たちのもとを訪ね、作業を手伝いながら話を聞いています。
2026年4月の山梨県のインタビューでは、農業を始めて5年間で30種類以上の野菜を栽培してきたことや、農作業と俳優業を両立する日々について話しています。
農業に取り組む中で、栽培だけでなく地域の人たちとの交流も増えていきました。
子どものころに農家の畑を手伝い、東京農業大学へ進学した工藤阿須加さんは、俳優として活動を続けながら、自分自身で野菜を育てる仕事にも取り組むようになりました。
2021年に始めた農業は、2022年の冠番組開始を経て、俳優業と並ぶもう一つの活動として続いています。
















