山田真歩の生い立ち|教師の両親と学生時代、出版社から女優になるまで

山田真歩の生い立ちを紹介するイラスト。書物と舞台の光を背景に、教師の両親や学生時代、出版社から女優になるまでの歩みを表現

PROFILE

人物プロフィール

ふりがな
やまだまほ
カテゴリー
女優
出身地
東京都
生年月日
1981年9月29日
芸能活動開始
2009年
女優デビュー
2009年
デビューのきっかけ
紹介・推薦

NHK連続テレビ小説『花子とアン』の宇田川満代役や、映画『アレノ』などで知られる女優・山田真歩さん。

1981年9月29日生まれ、東京都出身で、映画やテレビドラマ、舞台を中心に活動してきました。

そんな山田さんは、子どもの頃からお芝居が好きだったものの、最初から女優として活動していたわけではありません。

大学では教師になることを考えながら演劇に夢中になり、卒業後には劇団の養成所を経験したあと、出版社で編集者として働いていました。

その後、20代後半になって再び芝居の道を選び、小さな自主映画への出演をきっかけに女優としての活動が始まります。

今回は、そんな山田真歩さんの生い立ちや家族、学生時代、出版社勤務を経て女優になるまでの経緯、デビュー後の転機についてご紹介します。

山田真歩の生い立ち|本と芝居に親しんだ子ども時代

山田真歩さんは1981年9月29日、東京都に生まれました。

子どもの頃は本を読んだり、友達と劇を作ったり、絵を描いたりすることが好きだったといいます。

山田さん自身が執筆したエッセイには、当時の部屋の様子や学校からの帰り道、夢中になっていた遊びなどが具体的に残されています。

東京都で育ち、四畳半の書斎を自分の部屋に

小学生の頃、山田さんが子ども部屋として使っていたのは、もともと両親の書斎だった四畳半の部屋でした。

北向きの部屋の両側には、天井まで本が詰まった本棚があり、窓からは大きなモミの木の枝が見えていたそうです。

ベッド、小さな机と椅子、洋服だんすを置くと、自由に動ける場所はほとんど残りませんでした。

それでも山田さんは、この部屋をとても気に入っていました。

私はその四畳半の部屋を愛した。

出典:PINTSCOPE「子どもはどうでもいいことばかり覚えている」(2018年10月4日)

本棚には『赤毛のアン』『秘密の花園』『ハイジ』などの児童文学のほか、手塚治虫や石ノ森章太郎の漫画、歴史の本や画集まで並んでいました。

山田さんは、寝る前に本を選び、ベッドに入って眠くなるまで読み続ける時間が好きだったそうです。

特に覚えているのが『ハイジ』に登場する山小屋での食事でした。

パンとチーズ、ヤギのミルクという簡素な食事が子どもの山田さんには魅力的に映り、自分の小さな部屋をハイジの山小屋に重ねていたといいます。

家庭ではテレビを見る時間が限られていましたが、両親が録画してくれた映画を繰り返し楽しむこともありました。

本や映画を楽しむ時間とは別に、家の外にもお気に入りの遊び場がありました。

小学校から自宅までは歩いて10分もかからない距離で、通学路の周囲には田畑や栗畑、雑木林、川などが残っていたそうです。

川辺に秘密基地を作り、色のついたビービー弾を瓶に集めて埋めたり、空の雲を眺めていたために遅刻したりしたこともありました。

子どもの頃の空想や遊びについては、2022年の本人エッセイ「『のぐそ部』のころ」でも詳しく振り返っています。

友達との即興劇と、絵や踊りが好きだった幼少期

山田さんが演じることに親しんだのは、芸能界を意識するよりもずっと前のことでした。

小学生になると、放課後に友達と集まって即興劇を作り、学芸会で演じることも楽しんでいました。

両親が買ってくれた映画『魔女の宅急便』のサウンドトラックを聴き、その音楽に合わせて物語を考えることもあったそうです。

2019年のCinemarcheのインタビューでは、当時のお芝居について、次のように振り返っています。

遊びの延長に劇がありました。

出典:Cinemarche「映画『夕陽のあと』役者という終わりなき自由研究を歩み続ける」(2019年11月25日)

絵を描くことも好きで、手作りの漫画をクラスメイトに読んでもらっていました。

自作の漫画を牛乳瓶のキャップ2枚と交換していたという、子どもらしいエピソードも残っています。

また、母親の話では、小さい頃から音楽に合わせて踊ることも好きだったそうです。

兄が通っていたピアノ教室で、先生の演奏に合わせて歌う兄の後ろを、幼い山田さんが踊り回っていたといいます。

小学生になると近所のバレエ教室や新体操教室にも通いました。

物語を考えること、絵を描くこと、体を動かして表現することが、幼い山田さんにとって身近な遊びでした。

一方、小学校生活が楽しいことばかりだったわけではありません。

2022年のエッセイでは、クラスで仲間外れが流行り、学校の雰囲気が悪くなった時期があったことも明かしています。

その頃、母親に勧められて始めたのが「ポジティブノート」という日記のようなものでした。

学校で起きたことを書き出し、嫌だった出来事についても、どうすれば楽しく過ごせるか考えるようにしていたそうです。

山田さんは後年、このノートを書くことが、物事を客観的に考える初めての経験だったかもしれないと振り返っています。

山田真歩の家族|教師の両親と兄・妹との暮らし

山田真歩さんは、小学校教師だった父親と母親、3歳上の兄、7歳下の妹がいる家庭で育ちました。

両親の職業だけでなく、子どもを人と比較しないことや、食事、テレビの視聴など、家庭独自の習慣についても本人が語っています。

小学校教師だった父と母、人と比べない家庭環境

父親と母親はともに小学校の教師をしていました。

山田さんが両親の考え方として繰り返し紹介しているのが、人と人を比較しないことです。

学校の成績や頑張り方を誰かと比べ、ほかの子どもを引き合いに出して叱るようなことはなかったそうです。

2019年に本人が執筆したPINTSCOPEのエッセイでも、兄妹との関係を振り返りながら、こう記しています。

私は「比較をする」という感覚なく育った。

出典:PINTSCOPE「となりの山田くん、出番です」(2019年8月2日)

家庭のルールには、当時の同級生から珍しがられるものもありました。

それでも山田さん自身は、周囲の家庭との違いを特に恥ずかしいとは感じていなかったといいます。

父親とは、成長してから進路について意見がぶつかることもありました。

大学でソフトボール部を辞めようとした際には、辞めることで影響を受ける仲間の気持ちも考えるように言われたそうです。

ただ、山田さんは父親の言葉を受け止めて考え直したうえで、自分が進みたいと感じた演劇を選びました。

3歳上の兄と7歳下の妹、玄米や粗塩のある食卓

山田さんは3人きょうだいの真ん中で、兄とは3歳、妹とは7歳離れています。

幼少期の家庭には、食事や歯磨き、テレビを見る時間などに独自の習慣がありました。

その一つが、白米ではなく玄米を食べることでした。

中学生の頃、学校へ持っていったお弁当の茶色いご飯を見た同級生から、驚かれたことがあったそうです。

また、幼い頃は歯磨き粉の代わりに粗塩を使っていました。

保育園でほかの子どもが使っていた甘い香りの歯磨き粉を試したときは、お菓子のような味に驚いたといいます。

テレビも自由に見られたわけではなく、見てもよい番組は限られていました。

そのため、学校で流行していた番組の話や物まねが、山田さんには分からないこともありました。

一方、こうした暮らしのなかでも、両親は子どもたちそれぞれの違いを受け入れていたそうです。

山田さんは2018年のエッセイで、37歳の誕生日を両親が祝ってくれた出来事も記しています。

その頃には兄と妹もそれぞれ家庭を持ち、実家を離れて暮らしていました。

誕生日の夜には、母親から人生を楽しむように言われ、父親からも仕事を続ける山田さんへの言葉が贈られたそうです。

教師の両親がいる家庭で育った山田さんは、自身も学生時代には学校の先生になることを考えていました。

山田真歩の学生時代|ソフトボールから大学演劇へ

山田真歩さんは、中学・高校ではソフトボールに取り組み、大学では演劇に熱中しました。

進学先は明星大学教育学部で、教員を目指すことも考えていたそうです。

しかし、大学に入って演劇サークルへ参加したことで、学生生活の中心が大きく変わっていきました。

中学・高校で続けたソフトボール

山田さんは中学・高校を通して、6年間ソフトボールを続けていました。

子どもの頃は芝居や絵を描くことが好きでしたが、学校生活ではスポーツにも取り組んでいたのです。

高校時代の友人については、本人のエッセイにも思い出が残されています。

幼い頃から親しく、高校でも同じクラスになった友人との関係を振り返っているほか、学生時代の友人たちが後年の活動にも登場しています。

出身高校については、東京都立日野台高校という情報が紹介されることがあります。

ただし、出身校を特定するうえで確かな資料となる本人の明確な証言や学校の公式記録は限られており、高校名については断定できません。

卒業後に進学した明星大学でも、最初はソフトボールを続けようとしました。

しかし、大学のソフトボール部に入って数か月ほどで、活動を続けることに違和感を覚えるようになったそうです。

その頃、別の活動として山田さんの関心を強く引いていたのがお芝居でした。

明星大学教育学部へ進学、演劇サークルで舞台に立つ

山田さんが進学したのは、東京都にある明星大学教育学部でした。

両親と同じ教師の仕事を目指すことも考えていましたが、大学生活のなかで演劇に夢中になっていきました。

参加したのは、明星大学の隣にある中央大学の「中央大学第二演劇研究会」です。

学生演劇の仲間にはさまざまな人がいて、舞台を作る時間が楽しかったと、後年のインタビューで振り返っています。

当時の活動を裏付ける記録も残っています。

2001年2月24日から26日に王子小劇場で上演された、中央大学第二演劇研究会の卒業公演『ダダ』です。

公演記録には、山田さんがトモコ役で出演し、宣伝美術も担当していたことが記されています。

俳優としての映画デビューよりもずっと前に、舞台で演じる仕事と、作品の見せ方を考える制作の仕事の両方に関わっていました。

大学生活を楽しむ一方、卒業後の進路を考える時期が近づくと、将来について迷うこともありました。

大学在学中には一人でドイツへ出かけ、自分が本当にやりたいことについて考えた経験もあったそうです。

旅先で何かが劇的に変わったわけではありませんでしたが、自分にとって一番好きなことは何かを考えると、思い浮かんだのはやはり演劇でした。

大学時代には、教師を目指す進路から、芝居を続けたいという気持ちへと関心が移っていました。

しかし、大学を卒業してすぐに職業俳優として活動を始めたわけではありません。

出版社勤務を経て27歳で再び俳優の道へ

大学を卒業した山田真歩さんは、一度は本格的に演劇の道を目指しました。

ただ、その後には出版社への就職を経験し、20代の大半を自分の進路について考えながら過ごしています。

東京乾電池の養成所から出版社の編集者に

大学卒業後、山田さんは劇団東京乾電池の養成所に研究生として入りました。

学生演劇で感じた楽しさを、卒業後も続けたいと考えていたためです。

ところが、大学のサークルと職業として演劇を学ぶ環境は同じではありませんでした。

学生時代には仲間と芝居を作ること自体が楽しかったものの、養成所では将来の仕事や生活に対する不安も生まれてきました。

アルバイトをしながら俳優を目指す生活を続けることに迷い、養成所を離れて出版社に就職する道を選びました。

就職したのは小さな出版社で、編集者としてさまざまな本の制作に関わったそうです。

本を作る仕事にもやりがいを感じていましたが、演劇サークルにいた頃のように、すべてを忘れて夢中になる感覚とは違っていたといいます。

また、20代には千葉の里山に住み、農業に関わりながら出版社へ通勤していた時期もありました。

この頃の山田さんは、編集の仕事を続けながら、俳優以外の生き方も模索していました。

演劇のサークルを離れてからは、文章を書くことにも取り組んでいます。

一人でも始められる創作として文章を書き、絵を描く活動も続けていました。

学生時代に親しんだ表現活動そのものを、すべてやめたわけではなかったのです。

演劇から離れた20代、芝居の道へ戻る決断

山田さんが、自分は芝居をしているときに最も生き生きしていると改めて気づいたのは、27歳の頃でした。

2021年1月30日の文春オンラインのインタビューでは、20代の自分について次のように語っています。

自分が何のために生きているのか。

出典:文春オンライン「出版社への就職に里山暮らし、でも“満たされなかった”…異色の女優・山田真歩『20代の反省』」(2021年1月30日)

大学時代の海外旅行、出版社での仕事、里山での暮らしなどを経験しながら、自分が何をしたいのかを考え続けていたそうです。

そうした時間を経て、27歳で、もう一度俳優を目指そうと決めました。

10代から芸能活動を始めていたわけでもなく、養成所を離れてからは演技の仕事を継続していたわけでもありません。

しかし、一度離れた芝居への気持ちは残っていました。

山田さんにとって俳優を目指すという決断は、大学時代の演劇をそのまま続けるというよりも、別の仕事や暮らしを経験してから選び直した進路でした。

この時点で、すぐに俳優として安定した仕事が得られる保証があったわけではありません。

それでも、再び芝居をしたいと考えるようになった山田さんに、大学時代の知り合いから思いがけない話が舞い込みます。

自主映画から主演へ|山田真歩の女優デビューと転機

山田真歩さんが映画に出演するきっかけとなったのは、大学時代の演劇サークルの仲間からの誘いでした。

所属事務所の大規模なオーディションから始まったのではなく、学生時代につながりのあった人物が制作する自主映画への参加が出発点でした。

大学時代の仲間に誘われ、2009年制作の映画に出演

山田さんに声をかけたのは、大学の演劇サークルで同級生だった加藤行宏監督でした。

自主映画を撮ることになり、その作品に出演してほしいという依頼だったそうです。

こうして山田さんが出演したのが、2009年制作の映画『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』でした。

山田さんは自分と同じ名前を持つ売れない舞台女優を演じています。

作品は、主人公が自分の主演するネットドラマを制作しようとするなかで、周囲の人々を振り回していくブラックコメディーです。

一般的な劇場公開は2011年4月9日ですが、作品そのものは2009年に制作されています。

山田さんの俳優としての活動開始時期を考えるときには、この制作年と劇場公開年を分けておく必要があります。

当初は大規模な公開作品ではなく、池袋シネマ・ロサで観客120人ほどを前に上映された小さな映画でした。

その上映会に、のちに山田さんの仕事へ大きく関わる映画監督が来ていました。

初期の山田さんの出演姿は、映画『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』の映像でも見ることができます。

入江悠監督との出会いから『SR サイタマノラッパー2』主演へ

『人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女』の上映を観に来ていたのが、映画監督の入江悠さんでした。

入江監督は、山田さんに『SR サイタマノラッパー』シリーズのオーディションを受ける機会を与えます。

その後、山田さんは2010年公開の映画『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』で主演を務めることになりました。

演じたのは、かつて女子ラップグループで活動していたアユムという女性です。

物語では、群馬県の実家で暮らすアユムが、学生時代の仲間と再びラップのステージに立とうとします。

山田さんはこの作品で安藤サクラさんらと共演しました。

小さな自主映画への出演が入江悠監督との出会いを生み、次の映画で主演を務めることになったのです。

山田さんは2019年のインタビューで、俳優になろうと再出発した頃の心境も語っています。

まさに見切り発車でした。

出典:Cinemarche「映画『夕陽のあと』役者という終わりなき自由研究を歩み続ける」(2019年11月25日)

当時は28歳になっており、先の見通しが立っていたわけではありませんでした。

それでも、自分の人生は俳優の仕事に向けて進めたいという気持ちで、新しい活動を始めていました。

こうして山田さんは2009年の自主映画出演を経て、2010年には商業映画の主演を務め、映画やドラマなどへ活動を広げていきました。

『花子とアン』出演と『アレノ』での主演女優賞

2014年、山田真歩さんはNHK連続テレビ小説『花子とアン』に出演しました。

演じたのは、吉高由里子さん演じるヒロイン・安東はなと同じ時代を生きる女性作家、宇田川満代です。

宇田川は、物事をはっきりと口にする人物として描かれ、山田さんの出演する場面も視聴者に印象を残しました。

映画の主演からテレビドラマへと活動が広がるなか、さらに大きな節目となったのが2015年公開の映画『アレノ』でした。

越川道夫監督によるこの作品で、山田さんは複雑な男女関係のなかで揺れる女性を演じています。

その演技が評価され、2016年、第30回高崎映画祭の最優秀主演女優賞を受賞しました。

高崎映画祭の公式受賞記録にも、作品名『アレノ』と山田さんの名前が残されています。

この頃には、映画だけでなくテレビドラマや舞台でも活動するようになっていました。

一方で、幼い頃から続けていた文章や絵への興味も、俳優活動と並行して持ち続けています。

2018年には映画と暮らしをテーマにした連載「山田真歩のやっほー!シネマ」が始まり、自身の幼少期や家族についても文章とイラストで紹介するようになりました。

小学生の頃、友達と即興劇を作り、漫画を描いていた山田さんは、大学で演劇に取り組み、出版社勤務を経て、28歳頃に映画の世界へ進みました。

その後も俳優としてさまざまな人物を演じながら、自分の言葉で文章を書き、絵を描く活動を続けています。