PROFILE
人物プロフィール
ドラマ『晩酌の流儀』の海野支店長役や『HERO』など、数多くの作品に出演してきた俳優・おかやまはじめさん。
1964年4月22日、宮城県に生まれたおかやまさんは、実家が営む料理店の跡取りになることを期待されていた長男でした。
ところが、大学進学をきっかけに人生は思いがけない方向へ進みます。
映画の撮影や制作に興味があり、人前に立つことはむしろ苦手だった青年が、学生劇団の照明係を頼まれ、やがて舞台で芝居をするようになったのです。
俳優として暮らしていく覚悟を決めたのは、さらに年月がたってからでした。
おかやまはじめさんは、どのような家庭で育ち、なぜ家業ではなく俳優の道を選んだのでしょうか。
生まれ育った宮城県での暮らしから、大学での演劇との出会い、劇団ラッパ屋での若い頃、家族に支えられた下積み時代まで、順番にたどっていきます。
おかやまはじめの生い立ち|宮城県栗原市築館で育った少年時代
おかやまはじめさんは、1964年4月22日、宮城県栗原市築館の出身です。
芸能一家に生まれたわけではなく、地元で料理店を営む家庭で育ちました。
栗原市築館の出身、子どもの頃の暮らし
栗原市築館は、宮城県北部に位置する地域です。
おかやまさんが生まれた1964年当時は栗原郡築館町で、2005年の市町村合併によって栗原市となりました。
地元とのつながりは、俳優になってからも続いています。
栗原市の魅力を発信する「栗原ドリームアンバサダー」を務め、2017年1月には劇団ラッパ屋の公演『ユー・アー・ミー?』で地元に凱旋しました。
この公演では同級生たちが実行委員会をつくり、観客の動員や歓迎会の準備に協力。栗原市教育委員会の記録には、832人が来場し、会場がほぼ満席になったことが残っています。
上京して演劇の道を歩み始めてから約30年。故郷の人々に舞台を届ける機会となりました。
小学生の頃に見た芝居と、映画への興味
俳優の中には幼い頃から演劇に夢中だった人もいますが、おかやまさんは少し違いました。
劇団ラッパ屋の公式プロフィールでは、初めて見た芝居について、小学生の頃に体育館で鑑賞した作品だったと振り返っています。
そのときは、教育的な内容がどこか作り物めいて感じられ、あまり面白いとは思わなかったそうです。
子どもの頃から芝居に憧れ、舞台に立つことを夢見ていたわけではありません。
一方で、映画を見ることは昔から好きでした。
大学時代に関するインタビューでは、俳優よりもカメラマンや撮影監督のような、映像をつくる側の仕事に関心があったと話しています。
劇団ラッパ屋の公式プロフィールで、趣味として挙げているのは「演劇」。子どもの頃には魅力を感じなかった芝居が、長く楽しみ続けるものになりました。
高校時代から東京の大学へ進むまで
おかやまさんの出身高校は、宮城県築館高等学校と紹介されています。
高校卒業後は一浪し、東京の大東文化大学経済学部へ進学しました。
2019年のSmart FLASHのインタビューでは、一浪して大学に入ったことが語られています。
大学進学の背景には、家業と深く関わる事情がありました。
実家が飲食店だったため、長男として経営について学びたいという考えがあったのです。
ただし、それだけではありませんでした。
2023年に大東文化大学の卒業生インタビューで進学理由を尋ねられると、少し照れくさそうに本心を明かしています。
本音は東京に行きたかっただけなのですが(笑)
出典:大東文化大学「活躍する大東人100周年記念スペシャル #11 おかやま はじめ さん」(2023年3月15日)
宮城県で育った青年にとって、東京で暮らし、さまざまな人と出会うことも大きな魅力だったのでしょう。
入学後に触れた文化や人間関係は、本人が想像していた以上に幅広いものになりました。
おかやまはじめの家族|料理店を営んだ両親と長男としての進路
おかやまさんの生い立ちを語るうえで欠かせないのが、実家の料理店と両親との関係です。
家業を継ぐことへの期待と、芝居を続けたいという気持ちは、若い頃のおかやまさんにとって簡単に切り離せるものではありませんでした。
実家の料亭と跡取りへの期待
2023年の大東文化大学のインタビューで、おかやまさんは実家が飲食店を営んでいたことを明かしています。
さらに2026年8月の大学座談会では、実家は料亭で、自分は跡取りとして期待されていたと語りました。
経営学科への進学には、家業を担う立場としての思いがあったのです。
生まれ育った家庭に飲食業の仕事があり、自分にもその後を継ぐ役割が期待されている。
その状況で、大学時代に演劇へ夢中になっていきました。
当初から家業を捨てて俳優になる計画があったわけではなく、大学での偶然の出会いによって、次第に別の道が開けていったのです。
家族の暮らしと俳優の道を選ぶまでの葛藤
家族の期待を知りながら演劇を続けることには、迷いもありました。
2026年の大東文化大学の座談会では、20代から30歳頃まで、自分が何者なのかを探し続けていたと振り返っています。
親が悲しむと分かっていても、芝居を辞める気持ちにはならなかったそうです。
家業を継ぐという家族の期待と、舞台に立ち続けたいという自分の思い。その間で悩む時間が長く続きました。
俳優になることだけでなく、俳優を続けてよいと思えるまでにも時間が必要だったのです。
両親にとっても、息子が舞台で活動しているだけでは、将来どのような仕事になるのか見通しにくかったのかもしれません。
やがて朝の連続テレビ小説に出演すると、両親はその姿を喜んでくれたといいます。
おかやまさんは、この出来事をきっかけに、それまで抱えていた家業への負い目がやわらいだと話しています。
家業を継がずに選んだ道で、両親に喜んでもらえたことは大きな出来事でした。
後年には、生活が苦しかった時期に母親から金銭的な支援を受けた経験も語っています。
その出来事は、30代で俳優として生きる覚悟を決めた頃の話です。
大東文化大学で演劇と出会い、照明係から役者へ
おかやまさんの俳優人生が動き始めたのは、大東文化大学経済学部経営学科に進学してからでした。
本人の説明によると、最初に関心を持っていたのは演じる仕事ではなく、映画をつくる仕事でした。
経営学を学びながら映画サークルに入る
大学では経営について学びながら、映画サークルに入りました。
地方から上京したおかやまさんにとって、大学生活そのものが新鮮だったようです。
2023年の大学インタビューでは、さまざまな地域から集まった学生と出会い、東京で過ごす日々を異文化に触れるような経験だったと振り返っています。
学科ではインドネシア語を専攻しました。
履修する学生はわずか4人だったといい、ヘルマワン先生や仲間たちと密接に関わりながら学んだそうです。
授業では言葉だけでなく、日本やインドネシアの文化についても話を聞く機会がありました。
東京で新しい人々と出会いながら、自分の知らなかった世界に触れていきました。
先輩に頼まれて劇団「虚構」の照明を担当
演劇に関わるようになったのは、映画サークルにいた先輩の誘いでした。
その先輩がサークルを離れ、学生劇団「虚構」を立ち上げたものの、人手が足りなかったそうです。
そこでおかやまさんは、照明の手伝いを頼まれました。
最初に劇団へ参加した仕事は、舞台に立つ役者ではなく照明係でした。
もともと映画の撮影や制作に興味があったため、裏方の仕事に関わること自体は、自分の関心とも重なる部分がありました。
ただ、当時は演劇を面白いものだとは感じていなかったそうです。
2026年の大東文化大学の座談会では、先輩から出演を勧められたことを振り返っています。
それまで舞台で演じた経験はありませんでしたが、冗談交じりに自信のある発言をしたことで、実際に舞台へ立つことになりました。
人前に出ることが苦手だった青年が、仲間とのやり取りをきっかけに初めて演技へ挑戦することになったのです。
大学の日本文学科も、劇団「虚構」のOBであるおかやまさんと現役学生による座談会を紹介しています。
大学2年で初舞台、演じたのはしゃべる猫
最初に舞台へ立ったのは、大学2年生の頃でした。
2019年のSmart FLASHのインタビューによると、初めて演じたのは「しゃべる猫」の役だったそうです。
本人にとっては、照明の手伝いから始まった演劇活動でした。
ところが、アトリエ公演に出演すると、周囲の仲間たちから面白いと褒められました。
2026年の大学座談会では、褒められることが好きだったため、その後も劇団で活動を続けるようになったと笑いながら振り返っています。
劇団「虚構」では、アトリエ公演や大学祭、池袋のシアターグリーンでの外部公演など、年に3回ほど舞台を上演していたそうです。
公演が終われば、また次の公演へ向けた準備と稽古が始まります。
学生時代の思い出として、おかやまさんが特に印象に残っていると語るのは、稽古を終えたあとの時間です。
劇団の仲間と飲みに行き、互いの芝居について率直に意見を交わしていました。
ときには厳しい言葉も飛び交いましたが、翌日の演技が大きく変わることもあったといいます。
みんなで意見を出し合い、一つの舞台をつくっていく。その時間を楽しむようになっていました。
大東文化大学で経営学を学びながら、学生劇団の活動にも熱中したおかやまさんは、1987年度に大学を卒業しています。
1987年に劇団ラッパ屋へ|若い頃の舞台経験
学生劇団で演技を始めたおかやまさんは、やがて大学の外にも活動の場を広げます。
参加したのは、鈴木聡さんが主宰する劇団ラッパ屋でした。
『小百合さんのビル・エバンス』との出会い
劇団ラッパ屋との出会いには、少し意外なきっかけがありました。
おかやまさんは2019年のSmart FLASHのインタビューで、劇団を知った理由として、舞台のチラシが格好よかったことを挙げています。
そこで観たのが、1987年の公演『小百合さんのビル・エバンス』でした。
作品の中で使われていたジャズも印象的だったようです。
2025年に小松台東が公開した対談では、同作を一度観ただけで入団したと振り返っています。
すでに有名になっている劇団よりも、これから伸びていきそうな劇団に魅力を感じたという、当時の率直な思いも語りました。
学生劇団で芝居を始めてから間もない青年が、一度観た舞台をきっかけに、別の劇団へ飛び込んだのです。
ラッパ屋の公式プロフィールにも、入団理由として『小百合さんのビル・エバンス』の名前が残っています。
本人が劇団に入った経緯を振り返った映像も、劇団ラッパ屋のYouTubeチャンネルで公開されました。
『星空のチャーリー・パーカー』から続く舞台活動
おかやまさんがラッパ屋で最初に出演した作品は、1987年8月23日から30日に上演された第6回公演『星空のチャーリー・パーカー』でした。
公演会場は、新宿のシアタートップスです。
劇団ラッパ屋の上演記録には、当時の出演者として「岡山一」という名前が掲載されており、留吉役を務めたことが確認できます。
この舞台への参加は、大学の学生劇団で演じ始めたこととは別の、活動上の節目になりました。
なお、当時の劇団名は「サラリーマン新劇喇叭屋」。1993年の第15回公演『サクラパパオー』から「ラッパ屋」という表記に改められています。
1980年代後半から1990年代にかけて、東京ではさまざまな小劇場の活動が盛り上がりを見せていました。
ラッパ屋もその時代に公演を重ねた劇団の一つです。
おかやまさんは大学卒業後も舞台活動を続け、劇団の仲間と作品をつくり続けました。
2025年の小松台東との対談では、かつてラッパ屋の舞台を深夜のテレビ番組で中継していたことにも触れています。
舞台を中心に活動しながら、少しずつ映像作品とも関わるようになっていきました。
『阿呆浪士』と小劇場での経験
ラッパ屋の作品の中でも、おかやまさんが思い出深い舞台として挙げるのが『阿呆浪士』です。
忠臣蔵を下敷きにした喜劇で、魚屋の八が思いがけず討ち入りに参加する物語です。
1994年に青山円形劇場で初演され、1998年には新宿シアタートップスで再演されました。
おかやまさんは、魚屋の八っつぁんを演じています。
1998年の再演では劇場を大きく改造し、客席が舞台を囲むような構成が採用されました。
提灯を飾り、江戸時代の芝居小屋を思わせる空間をつくったといいます。
演出を担当した鈴木聡さんも、当時の小劇場の熱気に触れながら、この公演を振り返っています。
おかやまさん自身も、劇団の公式プロフィールで『阿呆浪士』のシアタートップス公演を特別な一本として選んでいます。
若い頃のラッパ屋には、勢いがあり、大胆な企画へ挑戦する雰囲気があったそうです。
舞台での経験は、ただ役を演じるだけではありませんでした。
一つの作品をつくるために、脚本や演出、照明、音響、俳優の動きがどのように関わるのかを、長い時間をかけて経験していきました。
学生時代に照明係として演劇へ関わったことも、その後の舞台づくりの中で生きていました。
30代で俳優の道を選んだ決断と母親の支え
大学時代に演技を始め、ラッパ屋に参加したおかやまさんですが、若い頃から俳優の仕事だけで生活していたわけではありません。
本格的に俳優として生きることを決めたのは、30代になってからでした。
アルバイトを辞め、俳優として生きる決意
2023年の大東文化大学のインタビューで、おかやまさんは大学卒業後の歩みを振り返っています。
学生時代から芝居を続けてきたものの、30代になると、今から一般企業へ就職するのも難しいと感じるようになったそうです。
俳優として働くことを、本当の意味で自分の仕事として引き受ける必要がありました。
2019年のSmart FLASHのインタビューでは、34歳頃の出来事を詳しく話しています。
同じ芝居仲間が次々とテレビに出演するようになり、自分だけが取り残されていくような思いを抱いた時期があったそうです。
舞台を続けているだけでよいのか、それとも別の仕事へ進むべきなのか。
そんな状況で選んだのは、生活を支えていたアルバイトをすべて辞め、俳優の仕事に集中することでした。
ただし、アルバイトを辞めたからといって、すぐに俳優としての収入が十分になるわけではありません。
生活費にも困るようになり、実家を頼ることになりました。
母親から届いた5万円の仕送り
アルバイトを辞めたあと、おかやまさんは実家の母親へ電話をかけました。
生活を続けるために、お金を送ってほしいとお願いしたのです。
母親は理由を問い詰めることなく、5万円を振り込んでくれたといいます。
そのときのおかやまさんの気持ちは、2019年のインタビューで率直に語られています。
俺、何やってんだろう
出典:Smart FLASH「おかやまはじめ、緒形拳と大杉漣に『役者の道』を学ぶ」(2019年11月4日)
34歳という年齢で、実家の母親に生活費を頼むことになった自分に、落ち込む気持ちがあったそうです。
母親から届いた5万円は、経済的な助けであると同時に、俳優の道を続ける息子への支えでもありました。
大学での偶然の出会いから始まった演劇活動は、生活をかけて続ける仕事になっていました。
おかやまさんはこの時期も、芝居そのものが嫌になって辞めようと思ったわけではなかったと話しています。
好きな芝居を続けたいという気持ちと、現実の生活への不安。その両方を抱えながら、俳優の仕事を続けました。
朝ドラ出演を喜んだ両親との思い出
若い頃、おかやまさんには家業を継がなかったことへの負い目がありました。
しかし、俳優としての仕事が増え、テレビドラマにも出演するようになると、家族との関係にも変化が訪れます。
2026年の大東文化大学の座談会で、おかやまさんは朝の連続テレビ小説に出演したときのことを振り返りました。
その出演を両親が喜んでくれたことで、長く抱えていた迷いが解けたそうです。
家業を継がないことを申し訳なく思いながらも、辞めずに続けてきた芝居。
その仕事を通じて、両親の喜ぶ姿を見ることができました。
自分が選んだ俳優の道を、続けてよいと思えるようになったといいます。
NHKの連続テレビ小説では、2005年の『ファイト』、2008年の『瞳』、2010年の『てっぱん』などに出演しています。
本人が家族の記憶として語った朝ドラ出演が、どの作品を指しているのかまでは明らかではありません。
それでも、演劇の道へ進んだ息子を両親が喜んだという出来事は、おかやまさんの中に強く残りました。
学生時代の劇団で演じ始め、30代で仕事としての覚悟を決めるまでには、長い時間が流れていたのです。
『人間の証明』から広がった俳優としてのキャリア
劇団ラッパ屋で舞台に立ちながら、テレビドラマや映画へも活動の場を広げたおかやまさん。
映像作品への出演歴には、1990年代の映画や1999年の大河ドラマ『元禄繚乱』などがあり、その後も出演を重ねています。
本人が俳優としての転機に挙げている作品の一つが、2004年のテレビドラマ『人間の証明』です。
2004年『人間の証明』で緒形拳・大杉漣と共演
2004年にフジテレビ系で放送された『人間の証明』には、緒形拳さんや大杉漣さんが出演していました。
おかやまさんにとって、この作品の撮影現場は印象深い経験になったそうです。
2019年のSmart FLASHのインタビューでは、撮影の休憩中、緒形さんと大杉さんがベンチでたばこを吸っていた場面を思い出しています。
おかやまさんもその近くで過ごし、二人の姿を見ていたといいます。
その場では、芝居の技術について特別な講義を受けたわけではありませんでした。
何げない会話や一つひとつの仕草に触れることで、俳優としてのあり方を学んでいたそうです。
大杉さんは、撮影が終わったあとにおかやまさんを自宅へ誘い、一緒に飲むこともあったといいます。
後輩の俳優だけでなく、現場のスタッフにも気を配る大杉さんの姿から、芝居は多くの人が関わる共同作業であることを改めて感じました。
大学の学生劇団で感じた、仲間と一つの作品をつくり上げる楽しさ。その延長に、プロの撮影現場で出会った先輩たちの姿がありました。
撮影現場での失敗と、緒形拳の言葉
『人間の証明』の撮影では、大きな失敗をしてしまったこともありました。
撮影の出番を17時と伝えられていたのに、夜7時だと勘違いしてしまったのです。
待ち時間に一度帰宅していたところへ連絡が入り、慌てて撮影現場へ戻りました。
その場で緒形拳さんから、予定の時間にいなかったため別の場面を撮影していたと告げられました。
大勢のスタッフや共演者が関わる撮影現場で、時間を間違えてしまったことへの申し訳なさは大きかったようです。
おかやまさんは、この失敗によって仕事を失うのではないかと覚悟したといいます。
ところが緒形さんは、最後に笑顔を見せながら、大丈夫だと声をかけてくれました。
その言葉に救われたことを、おかやまさんは後年のインタビューでも語っています。
失敗した後輩に対する緒形さんの対応は、技術的な演技指導とは違った形で心に残りました。
『人間の証明』は、先輩俳優たちの仕事への向き合い方を間近で見た転機となった作品でした。
舞台を続けながら『晩酌の流儀』などへ出演
『人間の証明』の後も、おかやまさんは舞台と映像作品の両方で活動を重ねました。
『HERO』『救急病棟24時』といったテレビドラマや、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』など、さまざまな作品に出演しています。
2018年には『日経エンタテインメント!』が発表したドラマ出演数ランキングで9位に入ったことも報じられました。
病院の事務長、ホテルの総支配人、店主、秘書、町工場の経営者など、演じてきた職業も多岐にわたります。
2019年のSmart FLASHのインタビューでは、顔を知ってもらう機会は増えた一方、街で名前までは思い出してもらえないこともあると笑いながら語っていました。
テレビ東京系の『晩酌の流儀』シリーズでは、主人公・伊澤美幸の勤める不動産会社の支店長、海野二郎を演じています。
こうした映像作品への出演が増えても、長年続けてきたラッパ屋での活動が途切れたわけではありません。
2023年の大東文化大学のインタビューでは、役を演じるための準備についても話しています。
台詞を覚えるだけでなく、作品全体の構成や時代背景、方言、登場人物の造形などを考え、現場へ臨むのだそうです。
また2026年の大学座談会では、長年続けてきた演劇について、こんな言葉を残しています。
ある意味で未だに僕にとっては文化祭の延長にあります。
出典:大東文化大学「【特別座談会vol.4】卒業生×現役生 受け継がれる『舞台』のバトン(1/2)」(2026年8月3日)
大学で学生たちと意見を交わしながら舞台をつくっていた頃の楽しさが、その言葉に残っています。
2026年3月には、ラッパ屋のリーディング公演『阿呆浪士』でも、再び八役を務めました。
1994年の初演から30年以上がたち、若い頃に演じた役を、長年の舞台経験を重ねた俳優として再び演じる機会となりました。
大学の照明係として関わり始めた演劇は、舞台からテレビ、映画へと活動の場を広げながら、長く続く仕事になりました。
『阿呆浪士』の八っつぁんも、その歩みの中で何度も向き合ってきた役の一つです。
















