PROFILE
人物プロフィール
『ごくせん』『野ブタ。をプロデュース』などのドラマで知られ、KAT-TUNのメンバーとしても長く活動してきた亀梨和也さん。
1986年2月23日に東京都で生まれ、江戸川区で育った男4人兄弟の三男です。
幼い頃から芸能界に憧れていたわけではなく、少年時代に夢中になっていたのは野球でした。
小学6年生では軟式野球の世界大会に出場し、将来はプロ野球選手になって両親に大きな家を建てたいと考えていたそうです。
ところが、親戚が送った履歴書をきっかけに、12歳で思いがけず芸能界へ入ることになりました。
今回は、そんな亀梨和也さんの生い立ちや家族、学生時代、芸能界入りのきっかけ、俳優としてデビューするまでの道のりをご紹介します。
亀梨和也の生い立ち|東京都江戸川区で育った少年時代
亀梨和也さんは、1986年2月23日に東京都で生まれました。
育ったのは東京都江戸川区で、近所の人たちとの交流が多い下町の環境でした。
幼少期の思い出には、兄弟や近所の人たちとの出来事が数多く残っています。
1986年生まれ、下町で過ごした幼少期
2013年に集英社が公開した『東京バンドワゴン』原作者・小路幸也さんとの対談では、自分の育った地域について詳しく語っています。
当時主演していたドラマ『東京バンドワゴン~下町大家族物語』は、東京の下町にある古本屋を舞台に、大家族の暮らしを描いた作品です。
亀梨さんは、作品に登場する人々の距離感が、子どもの頃の生活によく似ていると感じたそうです。
実際に育った地域では、近所同士で醤油を貸し借りするような付き合いがありました。
家族だけでなく、地域の大人たちとも日常的に接しながら成長したのです。
仕事をするようになってからも、年上の人たちに昔ながらの考え方や言葉遣いを指摘されることがあったと振り返っています。
また、「和也」という名前には、母親の願いと野球漫画『タッチ』が関係しています。
母親は、家庭が平和であってほしいという思いから、名前に「和」の字を入れることを希望していました。
そこで親戚の女性が、当時人気だった『タッチ』の登場人物・上杉和也の名前を提案したそうです。
亀梨さん自身も、2023年に公開したYouTubeの人生年表動画などで、この名前の由来を明かしています。
幼稚園のお遊戯会で見せたこだわり
幼稚園時代は、とても活発な子どもだったそうです。
2023年10月28日に公開した公式YouTube動画では、先生の膝の上に座って紙芝居を見た思い出や、お遊戯会のことを振り返っています。
お遊戯会では主役や準主役のような役を務めることが多く、当時から人前に出る機会がありました。
ただ、単に目立ちたがりだったというだけではありません。
大人になってから実家の荷物を整理していた際、幼稚園の先生が書いた記録が出てきました。
そこには、踊りや台詞の言い方について、自分なりの意見を出す子どもだったことが記されていたそうです。
その一方で、気が乗らないことにはなかなか取り組まない面もあったといいます。
本人は、大人になってからも、納得できることには思い切り取り組み、理解できないことには簡単に気持ちを切り替えられない部分があると話しています。
また、幼稚園時代は周囲の大人たちからもかわいがられ、バレンタインには持ち帰ったチョコレートが冷蔵庫の野菜室に置かれていたという思い出も披露しました。
本人が昔の写真を見ながら幼少期を振り返った動画では、家族の思い出や野球との出会いについても詳しく語っています。
亀梨和也の家族|父親・母親と男4人兄弟の暮らし
亀梨和也さんの生まれ育った家族は、父親・母親と男4人兄弟の6人家族です。
兄が2人、弟が1人いて、亀梨さんは三男として育ちました。
兄弟が多い家庭では、食事の時間もにぎやかだったそうです。
4人兄弟の三男として育った家庭
集英社の『東京バンドワゴン』対談で、亀梨さんは兄弟について次のように話しています。
四つ上と二つ上の兄貴と、四つ年下の弟の男四人兄弟です。
出典:集英社「小路幸也さん×亀梨和也さん 対談」
長男と次男は短い髪型で育てられましたが、亀梨さんだけは幼い頃に髪を長く伸ばしていた時期があったといいます。
両親は女の子が生まれることも期待していたそうで、昔の写真には女の子のお下がりのような服を着た姿も残っていると本人が語っています。
兄弟との年齢差もあり、同級生だけでなく兄たちの友人と遊ぶことも多かったそうです。
家族との関係は、実家を離れたあとも続いていました。
2013年の対談では、19歳のときに一人暮らしを始めたことや、正月になると兄弟の家族や親戚が集まり、20人近くになることもあったと話しています。
地元の友人たちが加わることもあり、家族の集まりは大変なにぎわいだったそうです。
母親の大鍋料理とにぎやかな食卓
男の子が4人いる家庭では、毎日の食事にも特徴がありました。
母親は大きな鍋を使って料理を作り、それぞれの皿に取り分けるのではなく、兄弟が一つの鍋から好きな分を取って食べていたそうです。
早く食べないと料理がなくなってしまうため、亀梨さんも頬いっぱいに食べ物を詰め込んでいたことを覚えているといいます。
同じ対談では、母親が見ていたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』を一緒に見た思い出も語っています。
家族で食事をし、テレビを見ながら過ごす時間が、子どもの頃の生活の一部になっていました。
2013年のドラマ『東京バンドワゴン』で大家族の一員を演じた際には、こうした実家での経験が作品の世界観に親しみを感じる理由になっていたそうです。
母親との交流は、独立後の2025年にも本人のX投稿に登場しています。
6月28日には、母親から届いた写真に癒やされたことを明かし、野球中継の仕事へ向かう前の様子を投稿しました。
父親との野球と最初のグローブの約束
父親は野球が好きで、自宅ではプロ野球中継をよく見ていました。
亀梨さんが幼い頃から野球を身近に感じていたのも、父親の影響があったそうです。
2023年9月15日公開の『週刊ベースボールONLINE』インタビューでは、父親との時間を次のように振り返っています。
父も仕事の合間を縫ってキャッチボールに付き合ってくれました。
出典:週刊ベースボールONLINE「亀梨和也(KAT-TUN)インタビュー 夢と憧れと――野球への変わらぬ想い」(2023年9月15日)
野球を始めたばかりの頃、両親が最初に買ってくれたのは、バットや柔らかいボールとセットになった比較的手頃なグローブでした。
しかし、初めて参加した練習では、思うようにボールを捕ることも打つこともできません。
亀梨さんは、うまく捕れないのはグローブのせいだと両親に訴えたそうです。
すると両親は、まずはそのグローブで練習し、上達したら新しいものを買うと約束しました。
本人は、この約束が練習に打ち込む励みになったと振り返っています。
当時は野球用品を気軽に買い替えられる家庭環境ではなく、両親が最初の道具を用意してくれたことにも、大人になってから感謝の思いを語っています。
亀梨和也の小学校時代|野球に夢中になった日々
小学校時代の亀梨和也さんは、地元の少年野球チームで練習を重ね、小学6年生では軟式野球の世界大会に出場するまでになりました。
学校が終わると野球の道具を手に取り、テレビでも野球を見る毎日だったそうです。
小学1年生で始めた野球
野球を始めたのは小学1年生のときでした。
近所のお兄さんたちがキャッチボールをしている姿を見て、自分もやってみたいと思ったことがきっかけです。
2023年の人生年表動画では、野球が、初めて自分から両親にやりたいとお願いした習い事だったと語っています。
チームに入ってからは、学校から帰るとすぐに素振りを始める生活になりました。
夜にはプロ野球中継を見て、選手の動きをまねしながら、シャドーピッチングにも取り組んでいたそうです。
好きだった選手には、オリックス時代のイチローさんや巨人の松井秀喜さんがいました。
野球漫画も好きで、『がんばれ!クワタくん』や『かっとばせ!キヨハラくん』などを読んでいたと話しています。
朝はテレビアニメを最後まで見たくなり、登校班に間に合わず、学校まで走ることもあったそうです。
また、小学校の6年間はリレーの選手にも選ばれていたと本人が振り返っています。
小学6年生で江戸川区選抜として世界大会へ
練習を続けた亀梨さんは、小学6年生で軟式野球の世界大会に出場しました。
大会は地元の江戸川区で開催され、開催地枠の江戸川区選抜チームの一員として選ばれたのです。
普段はセカンドやショートを守っていましたが、世界大会では主にセカンドを担当しました。
2023年の野球インタビューでは、メキシコ代表との試合でサヨナラ負けしたことを、長い年月がたっても覚えていると語っています。
当時の夢はプロ野球選手になることでしたが、小学生の頃にはオリンピックの日本代表に入りたいという目標も持っていたそうです。
1996年のアトランタオリンピックを見て、日本代表のユニフォームを着て戦う選手たちにも憧れていました。
中国代表選手との出会いと交流
世界大会では、試合以外にも忘れられない出会いがありました。
海外から参加した選手たちが日本の家庭にホームステイする仕組みがあり、亀梨家では中国代表の少年を受け入れたのです。
夏休みの間に一緒に生活し、言葉や文化が異なる相手と交流しました。
その少年は、後に中国代表として国際大会にも出場した王超(ワン・チャオ)選手でした。
亀梨さんは、家族でワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の中継を見ていたとき、画面に映る王選手に気づいたそうです。
かつて自宅に泊まっていた少年が、中国代表の選手として日本と対戦していることに驚いたと、2023年のYouTube動画で振り返っています。
テレビ番組の企画で再会を目指した時期もありましたが、新型コロナウイルスの影響で実現しなかったとも明かしました。
小学生時代に出会った少年の名前を、25年ほどたってから再び口にすることになったのです。
亀梨和也の学歴・学生時代|中学校と高校、野球への夢
中学校に進学してからも、亀梨和也さんは野球を続けていました。
その一方で、芸能界での活動が始まったことにより、高校進学後の生活や将来の進路には大きな変化が訪れます。
中学時代も目指していたプロ野球選手
中学生になった亀梨さんが将来の仕事として考えていたのは、俳優や歌手ではなく、プロ野球選手でした。
野球が好きだったことに加えて、家族の暮らしも夢を持つ理由になっていたそうです。
2023年の人生年表動画では、当時の家は決して裕福というわけではなく、自分専用の部屋もなかったと話しています。
本人は、その生活自体に不満があったわけではないものの、好きな女の子に自宅を知られることには抵抗があったと振り返りました。
新聞に折り込まれている住宅の広告を見るのも好きで、間取りを眺めながら、将来どこに自分の部屋を作るか想像していたそうです。
大きな家に住みたいという願いは、自分だけのものではありませんでした。
プロ野球選手になって有名になり、両親に大きな家を建ててあげたい。
そんな目標が、野球を続ける励みになっていたと語っています。
小学生の頃に見ていた住宅広告は、芸能界へ入る前の亀梨さんにとって、将来の暮らしを具体的に思い描くためのものでもありました。
高校進学と芸能活動の間で考えた進路
中学時代に芸能活動を始めた亀梨さんは、高校進学をめぐって進路を考えることになります。
2023年11月1日に公開した公式YouTube動画では、高校に進学したあと、最終的に中退することになった経緯を初めて詳しく語りました。
高校受験に向けて勉強に取り組み、芸能活動に特化した学校ではなく、一般の高校へ進学したそうです。
しかし、学校では芸能活動をしていることを理由に絡まれることもあり、仕事に支障が出るようになりました。
事務所側からは、芸能活動を続けやすい学校へ編入することも提案されました。
一方、受験に向けて家庭教師にも費用をかけていたため、経済的な事情や途中から別の学校に移ることへの抵抗もあったといいます。
事務所と相談を重ねるなかで、仕事をする環境そのものを学びの場として考えるようになり、高校を中退する決断をしました。
亀梨さんの最終学歴は高校中退で、大学へ進学した経歴は確認されていません。
高校を辞めてからは、先輩の代役としてリハーサルに参加するなど、芸能活動の現場で経験を重ねる時間が増えたそうです。
本人は、後になって振り返ると、そうした時間が仕事に必要な技術を身につける機会にもなっていたと話しています。
亀梨和也の芸能界入り|親戚の応募から始まった1998年
亀梨和也さんが芸能界へ入ったのは、1998年のことです。
当時12歳だった亀梨さんは、自分から芸能事務所を探したのではなく、親戚が履歴書を送ったことをきっかけにオーディションを受けました。
本人は、オーディションへ行くことを直前まで知らされていなかったそうです。
知らないうちに応募されていたオーディション
履歴書を送ることを提案したのは、親戚の年上の女性でした。
その女性が両親に応募してもよいか相談したところ、両親は野球に夢中な息子が合格するとは考えておらず、履歴書を送ることを了承したそうです。
ところが、事務所からオーディションの案内が届きました。
当日も、亀梨さんはいつもどおり野球の練習をしていました。
すると、練習していた場所に父親が迎えに来て、その日の練習を途中で切り上げることになったのです。
行き先を詳しく知らされないまま連れて行かれたのは、芸能事務所のオーディション会場でした。
会場に着いてから事情を説明された際、父親からは、参加するかどうかは自分で決めてよいと伝えられたそうです。
当時の亀梨さんもSMAPやKinKi Kidsなどの存在は知っていましたが、自分が同じ世界に入りたいと考えていたわけではありませんでした。
こうして、野球の練習に出かけた一日が、芸能界と出会う日になりました。
野球の練習を優先したジャニーズJr.時代
事務所に入ってからも、亀梨さんの気持ちはすぐに芸能活動へ向かったわけではありません。
ジャニーズJr.のレッスンは土日に行われることがあり、野球の練習日と重なっていました。
亀梨さんは野球を優先し、レッスンを休むことも多かったそうです。
2020年4月4日放送の日本テレビ『嵐にしやがれ』では、当時のエピソードが紹介されています。
その番組によると、野球ばかりしていた亀梨さんに、ジャニー喜多川さんが事務所で野球チームを作ってあげると声をかけたことがあったそうです。
その後、事務所の野球イベントがあると呼ばれるようになり、少しずつ芸能活動の機会が増えていきました。
また、1999年頃には山下智久さんとも親しくなり、先輩の相葉雅紀さんや二宮和也さん、風間俊介さんらと電車で帰宅することもあったといいます。
当時の亀梨さんにとって、先輩たちが使っていたオレンジカードや、乗り換えに慣れた様子は、大人びて見えたそうです。
野球中心だった日々の中に、先輩や仲間と過ごす芸能活動の時間が加わっていきました。
亀梨和也の俳優デビュー|1999年『3年B組金八先生』
旧ジャニーズ事務所へ入った翌年、亀梨和也さんはテレビドラマに出演する機会を得ました。
1999年に放送が始まったTBSドラマ『3年B組金八先生』第5シリーズです。
亀梨さんの俳優デビューは、KAT-TUNがCDデビューする2006年よりも7年ほど前でした。
13歳で深川明彦役を演じた初めてのドラマ
『3年B組金八先生』第5シリーズで、亀梨さんが演じたのは深川明彦という生徒役でした。
当時13歳で、中学生役の一人として連続ドラマに参加しました。
『金八先生』は、武田鉄矢さん演じる教師・坂本金八と生徒たちの学校生活を描く学園ドラマです。
亀梨さんは、事務所へ入ってから間もない時期に、このシリーズへの出演機会を得たことになります。
2020年の『嵐にしやがれ』でも、同作への出演をきっかけに知名度が上がり、仕事が少しずつ増えていったと紹介されています。
この時点ではまだKAT-TUNは結成されておらず、グループとしてのCDも発売していませんでした。
最初に芸能事務所へ入ったことと、俳優としてドラマへ出演したことは、別の出来事だったのです。
芸能活動開始と俳優デビューの違い
1998年:旧ジャニーズ事務所へ入所
1999年:『3年B組金八先生』で俳優デビュー
2001年:KAT-TUN結成
2006年:KAT-TUNとしてCDデビュー
2001年のKAT-TUN結成と一度は考えた退所
『金八先生』への出演後も活動を続けていましたが、順調なことばかりではありませんでした。
2001年頃には、事務所を辞めようと考えたことがあったそうです。
きっかけは、進路に悩んでいた時期に、事務所のスタッフからかけられた厳しい言葉でした。
2020年の『嵐にしやがれ』では、ほうきで掃けばいなくなってしまうようなジュニアだと言われ、退所を決意した出来事が紹介されています。
亀梨さんがジャニー喜多川さんに辞める意思を伝えたところ、引き止められたといいます。
その後、2001年にKAT-TUNが結成されました。
結成時のメンバーは、亀梨和也さん、赤西仁さん、田口淳之介さん、田中聖さん、上田竜也さん、中丸雄一さんの6人でした。
グループ名は、メンバーの名字の頭文字を組み合わせたものです。
CDデビュー前からコンサートや舞台などで活動を重ね、2002年には大規模なコンサートも開催しました。
高校の進路にも迷い、芸能界を離れることまで考えた時期を経て、グループでの活動が始まったのです。
亀梨和也の転機|『ごくせん』と『野ブタ。をプロデュース』
2005年は、亀梨和也さんの俳優としての知名度が大きく広がった年でした。
日本テレビの連続ドラマ『ごくせん』第2シリーズに出演し、同じ年には『野ブタ。をプロデュース』で主演を務めました。
俳優として注目を集めた2005年には、KAT-TUNはまだCDデビューしていませんでした。
2005年『ごくせん』の小田切竜役
『ごくせん』第2シリーズで演じたのは、黒銀学院高校の生徒・小田切竜でした。
主演の仲間由紀恵さんが演じる教師・山口久美子と、問題を抱えた生徒たちの交流を描いた作品です。
亀梨さんは赤西仁さんらとともに主要な生徒役を務め、連続ドラマの中で大きな役柄を任されました。
作品では、亀梨さんが歌い、自ら作詞した楽曲『絆』も使用されました。
この曲は、ドラマのために作られた楽曲として、後に亀梨さんのソロ活動でも大切に歌い継がれることになります。
2009年には映画『ごくせん THE MOVIE』にも出演し、小田切竜役を再び演じました。
一度演じた生徒役で、数年後の劇場版にも戻ってきたことになります。
『野ブタ。をプロデュース』主演と修二と彰
『ごくせん』に続いて、2005年10月には日本テレビのドラマ『野ブタ。をプロデュース』で主演を務めました。
亀梨さんが演じたのは、クラスの人気者として振る舞う高校生・桐谷修二です。
山下智久さんが演じる草野彰とともに、堀北真希さん演じる転校生・小谷信子を人気者にしようとする物語でした。
ドラマでは、修二が周囲からどう見られるかを気にしながら生活していることも描かれます。
亀梨さんは、山下さんと期間限定ユニット「修二と彰」を結成し、主題歌『青春アミーゴ』を発売しました。
楽曲は大ヒットを記録し、2005年の年間シングル売上ランキングで1位となりました。
2020年4月4日放送の『嵐にしやがれ』でも、修二と彰の結成当時が振り返られ、KAT-TUNのデビュー前に山下さんとのユニットでCDを発売していたことが紹介されています。
アイドルグループとしてのCDデビューより先に、俳優として連続ドラマの主演を務め、別ユニットでヒット曲を生み出していたのです。
2006年、KAT-TUNのCDデビュー
2006年3月22日、KAT-TUNはシングル『Real Face』でCDデビューしました。
グループ結成から約5年を経てのデビューでした。
それまでにコンサートや舞台、テレビ出演を積み重ねていたため、CD発売前から多くのファンを集めていました。
『Real Face』の発売後は音楽活動もさらに広がり、グループとしてのコンサートや楽曲制作が続いていきます。
一方、亀梨さんは俳優としての活動も続け、2006年には日本テレビのドラマ『たったひとつの恋』で神崎弘人役を演じました。
同作では、北川悦吏子さんの脚本による恋愛ドラマで主演を務めています。
『金八先生』で生徒役を演じてから7年ほどがたち、グループ活動と並行しながら主演作を重ねるようになりました。
亀梨和也が俳優として重ねた経験|主演作と演技への向き合い方
2005年のブレイク後も、亀梨和也さんはさまざまな役柄に挑戦しました。
主演を重ねるなかで、芝居の準備や役づくりに対する考え方も変わっていったそうです。
『妖怪人間ベム』などで広がった役柄
2009年には『神の雫』で主演を務め、ワインをテーマにした物語で神咲雫役を演じました。
2011年には、日本テレビのドラマ『妖怪人間ベム』で主人公のベム役に抜擢されます。
原作は1968年に放送されたテレビアニメで、人間になりたいと願う妖怪人間たちを描いた作品です。
ドラマでは、杏さん、鈴木福さんとともに主要キャストを務めました。
2012年には劇場版『映画 妖怪人間ベム』も公開され、連続ドラマから映画へと作品が広がりました。
2013年には『俺俺』で映画単独初主演を果たし、同じ顔を持つ人物が次々と増えていく物語に挑戦しました。
2015年の『ジョーカー・ゲーム』ではスパイを演じ、2017年の『PとJK』では警察官役で主演しました。
こうした作品を経て、2020年には中田秀夫監督の映画『事故物件 恐い間取り』に主演します。
同作で演じたのは、売れない芸人・山野ヤマメでした。
華やかなアイドルとしてのイメージとは異なる人物を演じるため、亀梨さんは若手芸人のライブを見学したり、芸人が利用する飲食店へ足を運んだりしたといいます。
関西弁の練習も含め、役の生活を実際に体験することを重視したそうです。
経験を重ねて変わった作品づくりへの考え方
2020年8月26日に公開されたPINTSCOPEのインタビューでは、2005年の『野ブタ。をプロデュース』出演当時と、映画『事故物件 恐い間取り』の撮影時を比較しています。
15年ほど前は仕事が忙しく、役づくりのために十分な時間を取れないこともあったそうです。
それでも当時は、準備時間の少なさをあまり怖いと感じなかったと振り返っています。
「準備する時間」でいえば、大きく変わりましたね。
出典:PINTSCOPE「『経験を重ねて、見えてきたものがある』亀梨和也が培ってきた“ものづくり”への向き合い方とは?」(2020年8月26日)
同じインタビューでは、連続ドラマと映画で、俳優が役づくりに関わる方法の違いについても語っています。
連続ドラマでは複数の監督が担当することもあるため、俳優自身が役の一貫性を保ちながら演じる責任が大きいと考えているそうです。
一方、映画では監督との関係を重視し、作品全体の方向性を理解することに時間をかけるといいます。
『事故物件 恐い間取り』では、決定稿になる前の脚本にも目を通し、気に入った場面や台詞について監督側と意見を交わしました。
また、2005年頃の自分について、勢いや怖いもの知らずの感覚で仕事に向かっていたと振り返っています。
30代になってからは、作品が完成したあとに観客へどう届くかまで意識するようになったそうです。
10代で主演を務めていた頃と、経験を重ねたあとの仕事への向き合い方には、本人もはっきりとした違いを感じていました。
2020年以降も『正義の天秤』『正体』『怪物の木こり』などで主演を務め、異なる背景や職業を持つ人物を演じています。
2010年からは日本テレビ『Going! Sports&News』にも出演し、少年時代から続く野球への関心を、スポーツ取材の仕事にも生かしてきました。
亀梨和也の独立|2025年のKAT-TUN解散と新たな活動
2001年の結成から長く活動したKAT-TUNは、2025年3月31日をもって解散しました。
同じ日、亀梨和也さんもSTARTO ENTERTAINMENTとの契約満了により退所しています。
12歳で入った事務所での約26年間の活動に区切りをつけ、個人として新しい道を選びました。
KAT-TUN解散とSTARTO ENTERTAINMENT退所
2025年2月12日、STARTO ENTERTAINMENTはKAT-TUNの解散と亀梨さんの退所を正式に発表しました。
公式発表では、約1年間にわたりメンバーと協議を重ねた結果、グループとしての活動を終え、それぞれの道を選ぶことになったと説明されています。
亀梨さんは同年3月30日に公開した公式YouTube動画でも、解散や退所を決めた心境を語りました。
その中では、グループを離れる決断について、次のように話しています。
これはもう俺の覚悟
出典:亀梨和也公式YouTube(2025年3月30日公開、KAI-YOU 2025年3月31日付記事でも発言を紹介)
グループの解散については、自分の中で非常に大きな出来事だと語り、事務所を離れて別の方法で活動していく必要があると考えたことを明かしています。
一方で、長年ともに活動したメンバーや、仕事を通じて出会った後輩たちとの関係がなくなるわけではありませんでした。
2025年3月に公開したYouTube動画では、退所発表後にSnow ManやKis-My-Ft2、A.B.C-Zのメンバーたちから連絡があったことも話しています。
舞台で長い期間をともに過ごした後輩たちとの交流も、芸能活動の中で築かれてきたものでした。
グループ活動を経て選んだソロの道
亀梨さんは、独立前から個人での活動を少しずつ広げていました。
2017年には初めてのソロコンサートツアーを開催し、2019年にはシングル『Rain』でソロとしてCDデビューしました。
2023年10月には個人の公式YouTubeチャンネルを開設し、自分の人生や仕事への考え方を直接発信するようになります。
同年にはソロプロジェクト「Inside 23」も立ち上げ、音楽やイベントを通じて新しい表現に取り組みました。
2025年4月には本人名義の公式サイトを開設し、Xでもそのことを報告しています。
同年にはデジタルアルバム『Kame Best』も発表し、KAT-TUN時代から歌ってきた『離さないで愛』『絆』などを含むソロ楽曲の歩みを一つの作品にまとめました。
2026年7月には、自身のオフィスを紹介するYouTube動画で、独立後は衣装やライブに関わる物品の管理も自分で行うようになったと話しています。
また、これまでスタジオに置いてきたレコーディング時のメモなども、制作資料として保管するようになったと明かしました。
小学生の頃は、野球選手になって両親に大きな家を建てることを夢見ていた亀梨さん。
親戚からの応募で始まった芸能生活は、俳優デビュー、KAT-TUNでの活動、数々の主演作を経て、2025年に独立という節目を迎えました。















